意思的に生きようとしないことは、ニーチェの運命愛とは全然関係がない。ニーチェは、無気力な敗北主義者を畜群の一匹としか見ない。
だが、意思的に生きるということは、自分に与えられた環境を破壊すること、或いはそこから離れ去ることを必ず要求するわけでもない。
そうであるから、我々の存在にとって問題はこうだ。
"形而上学的には永劫に回帰し続ける終わりなきこの世界で、他方で形而下的には絶対的な虚無=死を存在の前提として孕んだ我々は、この運命を如何に「愛し」ながら、同時に意思的に生きることができるのか"
これである。
意思的なる運命愛。
ニーチェが描いた超人が必要とするものはこれであり、これだけだ。
だが分からん。そんな存在の在り方があり得るのか?運命愛というとき、運命は容易に現状追認・肯定するだけの正当化の道具に貶められはしないか?意思は、運命を破壊しようとするから意思たり得るのではないか?
人間の人生観を分ける大きな心構えとして、次の二つがあげられる。
ひとつ、「どうせ人は死ぬ。そうであれば、毎日を面白可笑しく楽しく暮らせられればよい」
ひとつ、「どうせ人は死ぬ。そうであれば、必死に生きてこの世界に生きた痕跡を残したい」
このあまりにありふれた人生観のうち、ひとつめは運命愛が堕落し腐敗したもので、ふたつめは意思によって人生を切り拓かんとする主体である。
勘違いしてほしくないのだが、俺は後者が前者に優越せる生き方であるなどと言いたいのではない。そうではなくて、この二つは二卵性双生児にすぎぬと言いたいのだ。
つまり、命の無意味を前者は忘れようとしており、後者は同じ前提から意味を自ら作り出そうとしている。
大した違いであるはずがない。ともに自らの無意味に自縄自縛されている。
だが、人間はかくも退屈で窮屈な存在なのか?
命は、意味を与えられる対象などではなくそれそのものが意味ではありえないか?
ふぅ。
最初の問いに戻ろう。
我々は、運命を愛しつつ意思的に生きねばならない。
それは、たぶん、生死一如ともいうべき自分の命の意味など考える暇が全然ない瞬間を生きることだ。獲物を追う狼、昼寝をする狼の生きる瞬間である。
本当の意味で真摯に考えることを覚えたら、つまり趣味としての「教養」以上の思想に触れるようになると、あまりもう生き方の選択肢は多くない。
思想は、考える暇のない所には生まれない。
だが、真の思想は、常に考える暇などあり得ぬ厳しい環境においてその人を追い詰めることによってしか体得されない。
あぁ、なんと無駄な思索か。10年前からなんか進歩したんかい。
進歩だって?なんだいそれは。
渋谷発の田園都市線にて記す
明日からカザフスタン。
なぜかイスタンブール経由。