2012年12月25日火曜日

友への回答

イエスという人は、十字架にはり付けられて処刑される時でさえ、ほとんどの同時代人から理解されず、権力からは民衆を扇動していると罵られ、さらには信頼していた弟子達には裏切られた。こういう言い方をするとキリスト者に叱られそうだが、悲しかっただろう。堪らなく辛かっただろう。普通だったら、「なんで俺だけ死なないかんの?なんで???」と思うだろう。もしイエスが神ではなく人であったのならば(これについて人間は2000年も論争をし続けてきた)。
その事実だけを考えると、陽気に「メリークリスマス!」という気にならんのは、俺の性格が陰鬱過ぎるんだろうか。
少なくとも「クリスマスだし彼女のためにプレゼントを買ってちょっといいホテルを予約して」という思考回路にならんことだけは確かだ。
冗談は兎も角(ウサギもツノどういう意味なんだろう?)

イエス、法然、日蓮、ルター、ニーチェ、吉田松陰、マーチン・ルター・キング・ジュニア。その他の皆さん。

誰もが偉大過ぎる人間だが、その偉大さは彼ら個人の、我々が通常用いる言葉の意味での「幸福」とは全然関係がない。殺されたり、全く理解されなかったり、発狂したり、島流しにあったり。しかも凄まじいことに、彼らの多くは「かくすればかくなるものと知りながら」生きていた節が大いにある。
偉大さは、幸福を求めない。世界史は「最も幸福に生きた人間」ではなく「最も苦しい道をへこたれずに歩んだ人間」を尊敬し続けてきた。ここに人間が救われる可能性があるのではないかと思う。

「他の誰よりも苦しいとしか思えない道を歩いている」と思える人は幸運かもしれない(単なる被害妄想は措くとして)。苦しい道を歩めという天の意思は、あなたを試す。それは全く無意味にあなたを指名する。俺に明日降りかかってくるかもしれない。
突然に重い病と余命一年を宣告された30歳の父親は、その理由を知らされることは終にない。無意味に、理由もなく、なのに他の誰でもなく、あなたなのだ。畢竟、人生の厳しさとは、この無意味さにあるのではないかと思う。「余命一年」というのは、人生の厳しさの本質ではないだろう。
あなたが指名されたことの無意味さは、翻ってあなた自身を凡百の他者から整然と区別し、大衆産業社会のなかでぼやけていたあなたの輪郭は際立ったものとなる。ことここに至って、あなたは他の人間のように振る舞うことはもはや出来ない。あなたは、あなたの人生を初めて自身のものとして、自分だけのものとしてまじまじと見つめ、これを獲得する。あなたは、そこでこの苦しい道にへこたれるものかとたった独り奮闘する。天に「こんちくしょう」と言いながら。ここであなたが生きる時間は、過去から流れ来て未来に向かう直線的な時間のなかの「他にいくらでもある、重要ではないある一点」ではもはやなく、「その瞬間」そのものだ。過去もなく未来もない、ただあるがままのその刹那。その瞬間それ自体のなかにあなたの全ての意味が内在化される。というより、意味という言葉が失効する。それは十年後の投資のリターンのためにあるわけではない。
マーク・ローランヅの言う、「あなたが大切なもの全てを失った時(失おうとしている時)、あなたは最高である」というときのあなたは、この時に誕生するだろう。

別に今余命一年を宣告されずとも、我々は余命X年を宣告されている。母の子宮に宿ったあの瞬間に。
Xが一年であるか、五十年であるか、それは大きな宇宙の時間では一億年前と十億年前の違いのようなものなのだ(宇宙物理学者は「ずいぶん違うぞ!」と言いそうだな...)。
やがて「その時」は来る。誰もが、自分自身に対してたった独りで向き合わねばならないその時は来る。
その時になって初めて自分を発見するというのは、なんとも勿体ない生き方だと俺は思う。
あなたはあなたなのだ。あなたが死ぬまで最も長く付き合っていくのは、あなたの夫でも親でもなくあなたなのだ。
だから、ニーチェは、何よりも己を愛せよと、そこらのナルシストには想像もできない次元の自己愛を叫んだのだ。

2012年12月23日日曜日

「和気富士」


今俺の手元に「歌集 和気富士」という小著がある。著者は三宅白光。本名を三宅筆野という。明治二十一年、かつて道鏡の皇位簒奪を防いだ陛下の忠臣・和気清麻呂生誕の地、岡山県和気郡の生まれである。岡山高等女学校(現在の岡山県立操山高校)を経て小学校教諭として身を起こし、文学殊に和歌に熱心であり、与謝野鉄幹に師事した片尾(白眼)章乃丞先生に師事して俳句・短歌の指導を受け、膨大な数の和歌を残し雑誌「スバル」などにも投稿している。
またそれのみならず、地区の民生委員や国防婦人会幹部などとして戦時中には東奔西走の忙しさであったらしい。
社会正義に対する感覚すこぶる強く、世相批判も女性とは思えないほどに鋭い。この歌集は単に日々の生活の悲喜交交(こもごも)を和歌にしたという、現代にいうブログのようなものではない。
ある歌には「ケネディ」あり、ある歌には「クーデター」あり、また終戦間際に詠んだと思われる歌ではこうも詠われる。


愚かさを知りつつ君と国おもふ心一つに執りし竹槍


今の俺の気分の歌をこの歌集から抜粋して読者御一同様の御高見に供したく存奉候


思わじとすれど浮世の塵あくた吹きよせかかる人生街道


愚かしきこの身この魂打ち砕き神よたまわれめぐし生命を


いささかのこだわりもなく咲く花の真紅美し碧空のもと


山峡の家居はたのし露草のしげみに立ちて鴬をきく


2012年12月22日土曜日

全米ライフル協会が会見 「全学校に武装警官を」

日経Web版12月22日付より
 
---引用---
 
NRAのラピエール副会長は「銃を持った悪者を止めることができるのは、銃を持った善人だけだ」と強調。
武装した警備員がいれば子供たちの命は救えたかもしれないと主張した。 
会見は厳重な警備の中で行われ、NRAを非難する活動家の抗議で2度中断した。副会長は記者団の質問を一切受け付けなかった。銃規制強化の法案を提出しているローテンバーグ上院議員(民主党)はNRAの会見について「悲劇の後、さらに銃を増やし、より多くの米国民を武装させようとは信じがたい」と批判する声明を発表した。
 
---引用終---
 
「一部の教師に銃撃の訓練を受けさせて常に学校で銃を携帯させる」と言うかと思っていたが、それよりはマイルドだが、やはりこれ。
呆れるしかない。
 
「銃を持った悪者を止めることができるのは、銃を持った善人だけだ」というのは、すなわち、
「核を持った悪者(イラン、その他)を止めることができるのは、核を持った善人(アメリカ)だけだ」ということでもある。
 
建国以前から銃を持った人々がネイティブ・アメリカンと戦い(虐殺し)、やがて宗主国のイギリスと戦った。
人によってはアメリカ憲法は革命権を人民の権利として認めているとも言う。
 
日本人は信長さんの兵農分離と秀吉さんの刀狩りに感謝せずにはいられんだろう。
 

2012年12月19日水曜日

日本は“働くママ”を冷遇?男女間給与格差が最大

テレビ朝日系(ANN) 12月18日(火)13時26分配信
 
 
「日本で子育てをしながら働く女性の給与と男性の給与との格差が、先進国のなかで最悪であることが分かりました。
OECD=経済協力開発機構によりますと、25歳から44歳の子どもがいる女性の給与が、同世代の男性よりも61%低かったということです。格差は欧米各国や韓国を含む30カ国のなかで最悪で、平均値も大きく下回りました。子どもの有無を問わない男女の給与格差でも29%と、韓国に次ぐワースト2位でした。原因については、「産後に職場復帰しても低賃金だったり、男性が育児休暇の取得に消極的なこと」などと指摘しています。」
 
何を今更、という向きもあろうが。

 

高まる沖縄の独立熱(新・帝国主義の時代)=佐藤優(中央公論)

佐藤優氏の警告。
 (その1)
(その2)

「差別が構造化されている場合、差別をする側は自らが差別者であるということを自覚しないのが通例だ。ソ連共産党中央委員会に勤務する民族問題を担当する幹部も、自らがリトアニア人、ラトビア人、エストニア人を差別しているなどという意識はまったく持っていなかった。民族紛争において、中央政府の政治エリートと異議申し立てをする民族の認識の非対称性は、よくあることだ。」
(その2より)

一般的に日本人は、日本という国家を所与のものとして思考する癖が他の国民より強いように思う。
一般的に日本人は、、ひとたび結婚すれば夫婦という単位は永続するものと思っている節がる(だから婚前契約を結ばない)
沖縄が「完全な」日本の施政下に入ってからまだ2世紀も経っていないのだ。しかもそのうちの一部の期間は他国の支配を受けた。

2012年12月18日火曜日

雑記

「長渕剛のファンです」とデブが言ってはいけない。
ハゲは言ってもよい。
もちろんデブが「AKB48のファンです」というのは非常に分かりやすい。
長渕剛のライブにデブは似つかわしくない。
長渕剛の言葉と曲を聴くのならば、まずトレーニングをせよ。
走れ。ダッシュせよ。心拍数を180まで上げろ。
ニーチェにとってのワーグナーが、俺にとっての長渕剛なのだ。
石原莞爾にとっての日蓮ではないとしてもね。
おぉ、ワーグネリアンなどというとすぐにナチス!という人がいるんだよな。あぁ怖い怖い。

Parisのフドウさんが良いこと言うた。
いみじくも台北のダイキも同じことを言うた。
なにかというと、仕事以外のことも夢中になって必死にやらないかんと。
フドウにとってはボクシングでありダイキにとってはラグビーだと。
それは、フロマートカが神学者でありながら俗世から絶対に離れずに現実のなかで神学を究明していったことや、チェコ共和国建国の父であるトマシュ・ガリック・マサリクが、卓越した哲学者であり思想家でありながら同時に平衡感覚に優れた大統領であったことと重なって見える。
ということは、だ。
俺がニーチェを読めるようになったのは、変な会社で仕事をしているからーというのはあり得そうなことだ。
であるならば、恐ろしいまでにザッハリッヒな世界にどっぷり身を浸しながら、そのなかで人間のあり方を見つめながら勉強を続けていくことが、やがて偉大な何かにつながるだろう。
行動はそこから自然に生まれ出ずるであろう。

2012年12月17日月曜日

そして再び自民党

田中角栄流の中央=東京から地方への富の分配によって、「社会主義的資本主義」を成功させ世界にもまれな平等で豊かな日本を築いた80年代までの自民党は、バブル崩壊以後もはや意味のない公共事業によって経済を刺激することしかできなかった。そして失敗した。
この自民党の長きにわたった経済政策は、「経済成長」を大前提としていたからだ。

21世紀になって首相となった小泉純一郎氏は、過去の自民党の経済政策から大転換を図り、経済成長を意図した改革を行った。そこでは緊縮財政が敷かれ、労働市場の規制は大幅に緩和され、その結果、日本の経済的格差は拡大した(90年代にすでに拡大していたという議論もあるが)。小泉氏があれだけの人気を博したのは、その政策が明らかにひとつのこれまでとは異なる方向への転進であったからだ。もちろんそれを政治ショーにする術に長けていたのは疑いないにせよ。
これに反対するために2009年に政権を奪取したのが鳩山-菅-野田の民主党政権であった。
民主党政権は、子供手当ての拡充などの政策によって経済成長ではなく分配を重視する政策に舵を切った。
この政党のなかには多くの元社会党員が含まれていることなどと考えれば当然のことであった。

そして、今、国民は、この民主党にも背を向けて消去法(だろう)によって再び自民党を政権に就けた。
安陪自民党政権は、二つの道しか原則的に手持ちのカードがない。
ひとつは安陪総裁が選挙前から主張したインフレ・ターゲットを導入し公共事業を全国規模で推し進めることであり、これは古い自民党への回帰といえよう。このインフレ政策は、世界経済のマクロ要因によってデフレ経済が恒常化しているいま、物価は年率5%上昇したが給料は2%しか上昇しないということになりはしないか。国民は、経済の見通しを楽観し金を使うようになるだろうか?
いまひとつは、小泉流の経済成長路線への回帰であるが、これはインフレ政策を採ることはない。この場合にはおそらく労働法の改革や法人税減税が政策課題として議論の遡上に乗ってくると思われる。

これまでの安陪総裁の発言を見聞する限り、安陪第二次政権の経済政策は、インフレ・ターゲットを導入し、無制限な金融緩和・量的緩和と公共事業の組み合わせによってデフレを脱却、税収増を目指すものとなる。
小泉政権の経済政策によって、経済が成長したにもかかわらず格差が拡大し民主党に政権を奪われたという経験を持つ自民党としては、再び同じことはできないのだろう。

だが、これは大いにギャンブルである。
日本の長期金利がひとたび急騰し始めれば、これを押しとどめるために日銀は国債を買いまくるという危険な状況に追い込まれる。
すでに世界最大規模の日本の財政赤字の上にさらに建設国債まで発行し、それを日銀が買い取る(ということも検討されるだろう)ことまでやってデフレ脱却を目指すということは、短期的には財政収支をとりあえず無視して目の前の経済を浮揚させようというものであり、国民に聞こえはよいが、永続するものではありえない。

にもかかわらず、民主政治においては、政治家は国会に登るためには国民に痛みを押し付けることを可能な限り回避しようとする。
上記の意味でいえば、この選挙は非常に成熟した民主主義国家での選挙というにふさわしいものだ。それはもちろん良い意味ではなく、どの政治家も国民に阿ることをまず第一として長期的戦略を説明し、目の前の痛みを引き受けさせることに失敗しているのである。
それは言うまでもなく有権者たる国民の責任でもあるのだが。
とは言え、俺はどちらが正しいのか未だによく分からない。その知識と知恵がない。
イギリスのキャメロン首相の思い切った財政改革をたたえる人がいるが、他方でボロクソに言う人も少ないない。
山田法谷先生であれば、どうせよと仰るだろうか。


NYに向かうAmtrackから東海岸の寂しい冬の街並を眺めつつ記す

2012年12月16日日曜日

女は家庭を守るべき??

という人が増えとるそうな。

ちょっと理解を越えているので思うことを少し。

日本人の被雇用者の平均年収が約430万円。上昇する見込みなし。二十代男性のそれは平均だと300万円に届かないだろう。東京や東京近郊に住めば、家賃だけで100万円はかかるから、シングルインカムで二人の男女が暮らす場合、多くの若い夫婦の生活水準は一気に下がる。親から仕送りをもらいつつバイトで月10万を稼ぎ遊んでいた大学生の頃のほうがはるかに金持ちだったという冗談のような事態が起こる。

そんな時代に「女は家庭を守るべき」というのは、結局「女は家庭を守るために仕事をするべきではない。が、それでは経済的にやっていけないので結婚はしない、あるいはまだしない。結婚しても子供は作らない」ということにならないだろうか???
結婚は、一部の高所得の男性とその彼女だけができるものであるべきだと考える人はいないだろう。結婚はディズニーランドで巨大ネズミと戯れるようなものではないし、たまにドブねずみに足をガリガリ齧られるようなものでもありえるから、結婚=メリットだというのは嘘だとしても。

俺がこの「女は家庭を守るべき」を嫌うのは、この古色蒼然たるドグマ(教義)は、多くの若者が子を生み育てることを不可能に、或いは困難にしているとしか思えないからだ。
27歳の独身女性が「結婚したいんです。相手の年収は最低800万円。年は30まで。」というとき、彼女はシングルインカムで生活していくことを想定しているわけだが(おそらく彼女が育った家庭のように)、現実としてこの言明は「私はとても運が良ければ結婚しますが、たぶんできないでしょうね」と言っているに等しい。
男は、「自分の稼ぎでは妻子を養えないから」と萎縮する。女は母と同じ暮らしを夢見て高所得の男を探す結婚活動すなわちコンカツに精を出す。
だがその母が若いころというのは、トウショウヘイがようやく改革開放を宣言した頃だったり、韓国が軍事独裁政権であったりしたころの話なのだ。サムスンの携帯電話もユニクロのセーターもハイアールの冷蔵庫もまだこの世になかったころの太古の昔の思い出を妄想していては、もはや生き残れない。

上のURLの読売新聞の記事にもあるのだが、「妻が家庭にいること」=「家族を大事にすること」というのは一体全体どういうことだ?俺はそんなことを全然聞いたことがない。
誰がどう考えても、ある夫婦が「これからの時代は最高の教育を受けた者だけが生き残れる。そのために妻も家の外で稼いで子供に最高の教育を与える」と考えることは、とても「家族を大事にしている」といえないだろうか。「家族みんな収入が少なくとも小さな家で仲良くこじんまりと幸せに暮らしていけたらいいね」という人生観・家族間は、もはやこの世界では通用しない。日本という国がなくなって会社がなくなっても家族を守って生きていくことができるか?
世界中で貧しい人たちが少しでも豊かになろうと頑張っているのだから。シャープやパナソニックやソニーの経営がここまで傾き、日本の自動車メーカーがその東南アジアで車を作り始めた時代に、夫だけの給料に生活の全てを依存することのリスクは計り知れない。

もちろん、政治と企業の責任は重い。
俺が勤める会社の女性の総合職も、たぶんいろいろなことを我慢しながら、例えばベルギーやノルウェーの女性よりもはるかにしんどい思いをしながら、この男社会・男会社で働いていることだろう。彼女たちが、「結婚したらやめようかな」と思うのはさもありなんというところだ。だが、それでは駄目だろう。人材は資源なのだ。資源を使い尽くして戦わねばならん。出し惜しみをしている余裕は今の日本にはない。
アメリカ軍の戦闘艦の艦長になった女性もいれば、爆弾を吊り下げてテロリストへの攻撃に向かうF15パイロットの女性もいるだろう。そんな時代に、「女性は家で家庭を守れ」などというのは、長期的には民族消滅につながるものと考えるべきだ。

俺はここに自分が愛国的・保守主義的フェミニストであることを宣言する。
女性は、「肉食系男子がいない」と嘆くのではなく、自身が肉食のプレデターになってか弱い男を打倒し、蹴散らし、蹂躙し、殲滅していかねばならない。

なんだか10年前の姉貴の言っていたようなことを言っとるなぁ。
その姉貴と言えば、今は専業主婦で幸せに暮らしているのだから、まぁ世の中そんなもんだよ。

2012年12月15日土曜日

「断固として日本と闘争する」 by中国外相

ある英雄の、小説のなかの一場面。
 
「継之助は、この戦争の意味について考え続けた。ーーー美にはなる。
と いうことであった。人間、成敗(成功不成功)の計算をかさね
つづけてついに行き詰ったとき、残された唯一の道として美へ昇華しなけ
ればならない。「美を済す」それが人間が神に迫りうる道である、と継之
助は思っている。
ー考えてもみよ。と継之助は思う。
いまこの大変動期にあたり、人間なるものがことごとく薩長の勝利者にお
もねり、打算に走り、あらそって新時代の側につき、旧恩を忘れ、男子の
道を忘れ、言うべきを言わなかったならば、後世はどうなるのであろう。
ーそれが日本男児か。
と、思うにちがいない。その程度のものが日本人かと思うであろう。知己
を後世に求めようとする継之助は、いまから行動はすべて「後世」という
観客の前で振る舞う行動でなければならないと思った。」
 
「おれの日々の目的は、日々いつでも犬死できる人間たろうとしている。
死を飾り、死を意義あらしめようとする人間は、単に虚栄の徒であり、い
ざとなれば死ねぬ。人間は朝に夕に犬死の覚悟を新たにしつつ、生きる意
義のみを考える者がえらい。」
 
-司馬「峠」より
 

2012年12月11日火曜日

[FT]日本の再軍備を支持するフィリピン、中国との均衡探る

 

http://www.nikkei.com/article/DGXNZO49419940R11C12A2FF1000/

 
 
Quoting...

フィリピンは軍事的な自己主張を強める中国と対抗させるために、平和憲法で武力を放棄している日本の再軍備を強く支持するかもしれない。
フィナンシャル・タイムズとのインタビューでデルロサリオ比外相は「我々は日本の再軍備を大いに歓迎するだろう。地域でのバランス要因を求めており、日本は重要な役割を果たすことができる」と語った。
 中国を刺激する危険を冒す際だった発言は、南シナ海の実質的な領有権主張という中国の挑発に対するフィリピンの警戒心を映し出している。外相の発言はまた、平和憲法の改正と軍備の強化を主張する安倍晋三元首相の返り咲きが有力視される日本の総選挙直前のタイミングで飛び出した。
 日本の自衛隊を一人前の軍隊に格上げする憲法改正は日本に作戦行動上の多大な自由を許し、アジアの軍事バランスを変える可能性がある。
 公式の平和主義にもかかわらず、大型水上艦の保有は中国海軍の70隻あまりに対し、海上自衛隊は約50隻を擁する。アジア諸国からの日本の再軍備への支持は、憲法改正に向けて安倍氏を勇気づけるだろう。
 中国は日本の軍国主義の復活に対する不安を長く提起してきた。日本に植民地化された過去がありながら、日本の再軍備を容認するフィリピンの態度は海洋進出に積極的な中国に対する恐怖が、過去の侵略被害の記憶を打ち消す始まりになるかもしれない。
 今月、フィリピンは中国海南省の公安当局が、中国領とみなす海域に入った船舶を取り締まるとの発表に反対を表明した。また、中国政府は、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、台湾、インドネシアがそれぞれ部分的に領有権を主張する南シナ海のほぼ全域を自国領とみなす地図を掲載したパスポートの発行を開始。フィリピン政府は抗議のためにスタンプを拒否。デルロサリオ外相は「度を越した主張は国際法に違反している」と語る。
 東南アジア諸国は中国の「平和的な台頭」外交の突然の変更を懸念しており、米国の関与の復活を歓迎している。デルロサリオ外相は比米は米艦船の寄港や共同訓練を増やすことで合意していると、語った。各国はまた日本が実効支配する尖閣諸島(中国名・釣魚島)を巡る、中日のにらみ合いを注意深く見守っている。7月、日比政府は今後5年間、防衛協力を強化する合意を取り交わした。

2012年12月10日月曜日

制度としての結婚


時差ボケの週末。独房のようなマンションの一室で一人結婚について考えた。

自由奔放な(自由奔放でなくとも)婚前のセックスの結果女が子を孕むことが問題とされてきた理由は、その父が確定されないということだ。
もちろん今は、確定できる(女がセックス依存症でもなければ)。しかし、人類の歴史でそんなことが科学的に可能になったのはほんの数十年前のことで、つい最近のことに過ぎない。

一人の子が、誰を母として生まれたのかは明らかに分かる。3000年前でも現在でもそれは変わらない。看護師が名札を間違えでもしない限りは。
しかし、その子供が誰を父として生まれたのかということは、自明のことではなかった(男の支配欲というのはたぶんここに淵源を持つ)。古いキリスト教文化やイスラム教文化や儒教文化のいずれにおいても、女の貞節が極めて重視されたのは、恐らくこれが故である。日本の地方では大昔、かなり自由奔放な性行動が見られたというが、その場合には生まれた子をムラの責任として育てるか、さもなくば間引くということが行われた。つまり、父を確定する科学技術が存在しない時代においては、強烈なまでの閉鎖的社会(村八分の社会、さもなくば「村の責任」なんぞない)か、人権意識のかけらもない社会でのみ可能であったのが、自由セックスである。

頭の固い保守主義オヤジは、そもそもセックスそのものが悪であるかのように言いつのることがあるが、子を生み育てる大本になるのが男女のセックスなのであってみれば、それ自体が悪であろうはずがない。飯を食うのが悪だとでも言う気か。もしセックスを本質的に悪であると断定する文明があるとしたら、それは生殖を否定し民族の自殺を希求する文明であるから、そんな文明はとうの昔に息絶えているだろう。民族を殺すような文明が、道徳的であるはずがない。
そうであってみれば、婚前の自由恋愛=自由セックスが数多の文明において禁忌とされてきたのは、男女に対する道徳的戒律としてではなく、むしろ子の命を守るためであったと理解するのが適当だろう。もちろん、それが時代を経てやがて道徳的戒律となったということは言えるにせよ。

上記の意味で、結婚とは、ある男女が性的関係に入ることを宣明することであり、かつこれを公的な第三者に確認されることである。タキシードとドレスを着て米粒を頭に投げつけられることが結婚なのではない。役所に結婚届けを出して夫婦として登録されることが、結婚の本質である。
不倫が不貞行為として民法上の不法行為に該当するのは、まさに結婚という制度が意図していることに対して真っ向から反逆するものが不倫だからだろう。一昔前の姦通罪などはそのあからさまな現われである。
こう考えると、結婚とは、男女の間の関係を規定するものという外見を持ちながら(少なくともこれまでの俺にはそう見えた)、その本質はその二人の間に生まれていく子の命が守られ、育てられることを社会的に保証しようとする制度であるということが分かる。そのために、男女二人(あるいは最近では男と男、女と女を)を特別な法的関係にある二人として認めるわけだ。
結婚とは、夫婦のものではなく、子供のものなのだ。
そうであればこそ、いつくかの文明では一夫多妻もあり得た(明治天皇も側室を持っていた)。子供の命が守られる限りにおいて、一人の男が妻を何人持つかということはさして重要なことではない。繰り返しだが、子が「誰を父とし、母として生まれたか」が公証されることが重要であったわけだ(念のため言っておくが、俺は一夫多妻を支持しているのではない)。

法=国家は、子を守ろうとしてきた。なぜなら、子を生み育てることが、国家・社会の最大の関心事項であり、国防も外交も教育も社会保障も全て究極的には「その国家・社会において人々が子を生み育てられることを保証すること」にこそ政治の目的があるから(だからと言って「国民の生活が第一」と叫んで短絡的に原発は廃止だーなどと叫ぶ人たちと混同しないで頂きたい。)。

忘れたころにいつもこんな記事を読んでは落胆する。「女子高生、駅のトイレで男児を分娩し、直後に絞殺、死体遺棄」。
この殺された子の命を守るのは、誰か。
この子は母親の所有物、「モノ」ではないと宣言し、独自の法的人格を与え、守られるべき一人の人間として存在せしめるものは、なんなのか。それが現在、国家であろうことはいうまでもない。昔は、教会であり、ムラだったのかもしれない。それは国際連合ではないし、NPO団体でもないし、マスメディアでも隣のおばちゃんでもない。

人は生まれながらに侵すべからざる人権を持つ、そう法学部での最初の憲法の授業でそう教えられた気がするが、そんなものは民法を実効的に施行することができる有能な主権が存在しないところでは、なんの意味もない言葉だ。それは、子が生まれても、届け出る役所が存在せず、その子が殺されても「ある赤ちゃんがある男に殺された」としか報道されない社会であり、そこでは、殺人の対象も主体も常に匿名である。
主権のない社会では、「私は誰なのかよく分からない」、つまり自分が誰であり、誰を父とし、母として生まれたのかを証明することができない子供が多く存在するだろう。そういう状態であっても、権力(=暴力機関)が存在せぬほうがいいというような無政府主義者は、単なる無責任者なのであって、そんな人とは俺は口を聞く気にもならんのである。

結婚という制度は、いくらでも変わってもいい。生まれてくる命を守ることができる制度であるならば、その形態はどんなものでもいいはずだ。硬直的な制度に固執し、若者が子を生み育てられないような社会こそが、真っ先に変革されなければいけない。保守主義者は、憲法改正や国防軍保有や靖国神社について論じるのもいいが、本当に保守すべきもの、すなわち子の命についてもっと考え論じるべきなのだと思う。俺も含めて。彼らが崇める「伝統」といい「歴史」といい、それは命をつなぎ子供たちが自分たちは何者なのかを知り彼らの力で未来を切り拓いていくために必要なものだろう。

勉強不足!

2012年12月4日火曜日

終わらない内燃機関の進化

MazdaのCX-5が2012 Japan Car of the Yearに選ばれた。順当な結果だと思う。

商売で一番愉快なのは、新しい市場を自ら作り出すことだと思う。スティーブ・ジョブスが、iPhoneを作る時に「市場調査をしましょう」と言ったあるApple社員に対して、「ベルが電話を発明したときに"電話が欲しいですか?"と市場調査をしたか?!」と言ったらしいが、全く新しい、これまでにない商品やサービスを生み出した企業は、当たり前だがいつも新しい市場を自ら作り出し急成長を実現してきた。
ジョブスが復帰してからのIpod以降のApple、アフターサービスに注力してパソコン通販のイメージを一新して価格破壊を起こしたDELL、「終わった」と思われていたアパレル業界で「機能的で手頃な値段の日常着」たるフリースやヒートテックを生み出したユニクロ、エトセトラ、エトセトラ。

いま日本国内で小売業を中心に血を流すような低価格競争が繰り広げられているのは、端的に人口減少時代に入り需要が飽和しているために、あらゆる企業が同じものを他社よりも安く販売しようとするからだ。
それは、100円で商品Aを売っている会社の顧客を、90円のほとんど同じ商品Bで奪うということであって、市場原理の最も分かりやすい現れではあるがけして新たな市場を作り出すものではない。
小さくなり続ける見込みのパイを奪い合う血みどろの戦いである。

この視点でMazdaのCX-5を眺めてみる。すると、この商品は、日本のミドルクラス乗用車市場に新しい価値、新しい選択肢を与えたものであることが分かる。

それは、「ディーゼルエンジンなのに環境負荷がガソリン車並みに低く、パワーは4LのV6エンジン車並みで、街中でもリッター当たり10kmを確実に走り、住宅ローンを持つサラリーマンでも手が届く価格帯のSUV」というものだ。

少なくとも日本市場にこれは競合がいなかった。
42kgものトルクのSUVといえば、まぁ誰もが街中での燃費は5~7km/Lで我慢していたんじゃなかろうか。むしろ大排気量と大パワーを誇るかのように「まったく燃費が悪くてねぇ」と言うような人にも会ったことがある。おまけにこういう過去のディーゼル車の出す排気と煤ときたら、今ではもはや信じられないほどだ。

5パーセントに全然足りぬ日本の乗用車市場でのディーゼル車の割合は、CX-5の登場が起点となって上昇していくに違いない。おそらく他の日本車メーカーも参入するだろうし、クリーンディーゼル技術では日本車より一世代先を走るドイツなどの自動車メーカーもこれから日本でのディーゼル車のラインアップを増やしていくだろう。最近、BMW Japanが基幹車種の3 Seriesに最新のディーゼルエンジンを積んだ320d Blue Efficientを追加したのはその一例である。

これから日本のドライバーは、燃費効率が良く、財布と環境への負荷が相対的に低い車を選ぶ際には、ハイブリッドと軽四自動車に加えて、より広い選択肢からディーゼルを選ぶことができるようになる。
それによって未だに高いハイブリッド車の価格が下がってくることも十分考えられるし、石炭を燃やして作った電気で走る電気自動車(どこがエコなんだろう?)のさらなる技術革新を生むかもしれない。

ディーゼル車の強力なトルクと高燃費=長大な航続距離は、明らかに長距離の高速巡行に最適だと思う。今はまだハイオク=高級車というイメージがあるが、将来にはディーゼル=高級車というイメージにとって代わられるかもしれない。
都会に暮らし都会で働くが、週末は数百kmを走って野山を子供と駆け回るという若い家族やカップルには、強力なパワーと高燃費のディーゼルSUVは最適解になるだろう。

が、一つ不満も言っておこう。
昨日義兄のCX-5 2.2L XDに乗ったが、やはりBMWにはまだまだ敵わない。CX-5は速く快適だが、それは馬車の速さであり快適さであって、馬の背に自ら跨がって野を疾駆する時の、生きた馬の鼓動を右の足の裏にピリリと感じるような「駆け抜ける喜び」は、やはりBMWのものだ。
広島のエンジニアさんは、「BMWとは競合しないから」などとは断じて言わないはずだ。競合するまでになって欲しい。会社の規模はフルラインアップメーカーはるかに小さく後輪駆動の高級車は作らぬが、しかしステアリングを握りアクセルを踏めば走ることそれだけに夢中になってしまうような車を作って欲しい。しかもそれを誰もが手にいれられる価格で。
Mazdaの株価もCX-5の好調な販売と円安もあって150円を目指そうかというところまできた。新たに登場した新型アテンザと来年登場する新型アクセラに期待をかけるなら、まだMazda株は買い時かもしれない。しかし、アクセラにも2.2LのTurbo?べらぼうに俊足のハッチバックになりそうだが。

腹が膨らめばさえすればいいというなら吉野家やファミレスに行けば良い。目的地までただ移動できればいいというならミニバンを買えばいい。燃費効率だけを求めるならシロモノ家電にタイヤをくっつけたようなハイブリッド車を買えばいい。
だが、これだけの巨大自動車生産大国となった日本に、「車は移動のために手段以上のものなんだ!」と主張するメーカーがなければ、やがて日本車メーカーは、今のシロモノ家電メーカーと同じ末路を辿るような気がしてならぬ。

だから、このCX-5が広島から生まれたことは、画期的なのだ。

トンネル崩落事故と国土強靭化

中央道のトンネルの天井落下事故。
経年劣化のせいだともいわれている。
戦後日本では初のこういう形式の事故だという。
 
折りしも衆議院総選挙が告示される2日前。
15年間で200兆円を土建に費やそうという国土強靭化法案をこの6月に提出した田中角栄の亡霊に違う理由でしがみつくかのような自民党は、選挙戦で「インフラの更新、強化が必要です!あんな事故はいやでしょう!」と言いまくるだろうな。建設国債をどかどか刷ってか。
京大の藤井さんという教授の「国土強靭化」なんちゃらという本を夏に読んだが、俺にはいまいちピンとこなかった。
国の借金で土建屋さんに200兆円を落として、それで経済が回転し初めてデフレを脱却できるということなのか?
自民党の一大票田たる地方の旧地主階層が地価の下落で困窮している今、これほどの手を打たねば地方に金は回っていかぬということの証左だな。
それってモルヒネでは痛みを消せぬ患者に純粋な麻薬を打っているように思えるのだが。
200兆円。一年13兆円である。税収が40兆円そこらの国で。
 
さっそく警察がネクスコ中日本に業務上過失致死容疑で捜索に入ったらしい。
この国では、警察が「犯人」をしばき上げるときほど、怪しい。
たとえば5000万人の年金納付記録が消えたあの大犯罪の責任は誰かとったか?
 
なんだかねぇ。
 

2012年12月2日日曜日

岡山フルーツ農園

城東野球部12期同期の高原の会社、「岡山フルーツ農園」。
岡山にお住まいのパパさんママさん、ちびちゃんをつれてイチゴ狩りに是非どうぞ!

高原曰く、

「ディズニーランドより楽しませるで」

http://www.okafuru.com/


平凡ね

平凡でいいと人はいう。

偉大なる平凡に対して、保守主義は常に敬意を払ってきた。
どんな出来事にも浮き足立つことなく着実に毎日を仕事を積み重ねていく、常識と伝統を備えた偉大なる平凡こそが、翻って非凡なる何かを蔵するのであると。
俺もそれはそうだと思う。
そういう地に足のついた人間たちが俺らの命をここまでつないできたのだと思う。

だがね。

頭から平凡に生きろと言われては腹が立つ。俺が夢見がちな糞餓鬼だからか。
平凡な人生をこれまで生きてきた俺が、残りの人生でいきなり平凡を脱していくことは考えにくい。
そりゃそうだろう。

それでもね。

歴史はけっして「自分は平凡な幸せだけが得られればいい」と考える人間だけによっては動いてこなかっただろう。

ふぅ。

何が自慢の息子だ。
笑止千万だ。
俺が何を成したというのか?
通信簿にオール5をとってきてママに褒められる優等生のようだな、貴様。
命を喰い散らかしてただ好き勝手に30年を生きた。それだけのことだ。
何のために???

頼むから俺を恥じてください。
この自堕落で人間嫌いで風呂で読書するつもりがいつも居眠りして本を水浸しにするばかりしているこの意志薄弱な糞野郎を。

昔俺は狼ではなくとも野犬ではあった。少なくとも野良犬ではあった。
それがいまやぬくぬくと、臭い人間どもに飼いならされたラブラドールレトリバーになってしまったように感じる。
ドッグフードを噛み砕くためだけの牙ならそんなものは捨ててしまえ。

何に苛苛しているのか分からんが。
まぁ、平凡に生きることも大変なのだというのだろう。
平凡に生きようとして平凡に生きられるほど安楽な世界はもはや俺の眼前にはない。
俺は俺を嫌う。その精神も肉体も木っ端微塵に切り刻んで産業廃棄物に混ぜて捨ててしまいたいほどだ。

「おめでとう」という言葉は、「おめでたいねぇ、あなたの頭の中は」というふうに理解するのが正解である。

東京八重洲の富士屋ホテルのロビーの100円PCにて記す