2013年12月29日日曜日

富士山を見る俺と俺を見る富士山


富士山は孤独だ。

東西南北にこの山に連なる山脈は全くなく、ただ一人広大な裾野を占めて座っている。近隣のみならず世界を見渡しても、似たような高さ、形状の山は一つとしてない。

冬には富士山の"異常さ"はさらに際立つ。冬のよく晴れた日には東京からも望める冠雪白頭の富士山は、御殿場や箱根辺りから見上げると、その風景全体に富士山がもたらす圧倒的な不調和で俺をいつも驚かせる。
伊豆の山路を車で駆けているとき、コーナーの旋回を終えてアクセルを開き後輪に荷重を感じて気持ちよく加速していると、突如、文字通り富士山は、ズコーンッ!!と真っ白な頭を出す。あまりに巨大で、距離感もはっきりしない。それは、他の風景からの予想において本来そこにあるはずのないものなのだ。だが見惚れるほどに美しいその山体に、目と心を奪われる。自分が見ているというより、富士山のほうが俺を睨んでいるようにさえ思える。
誰にも媚びることのない天然の美女に惚れた男の心中とは、多分こんな具合だろう。

日本人一般が「山」という言葉から想起するものやことから(里山だったり、裏山だったり)、これほど隔たった山が他にあるだろうか。
他との形式的調和をこれほど敢然と無視した存在がー山以外でもー、古今この日本に存在しただろうか。
いずれにも俺は否と答える。
富士山という存在は、山という言葉が示すものの範疇を越え出たところにあるように思う。

富士山が日本の象徴であることの理由は、それが日本的だからではない。それは極めて非日本的であり、その存在のなかに安っぽい日本的なるものを見出すことは不可能だ。むしろ予定調和と均質性ばかりが是とされる文明に断固たる挑戦を突き付けている。それは、他に混じり、他と意思を同じうすることに堕落して安穏としている我々への強烈なまでのアンチテーゼである。
この意味で、富士山は、俺が登るまでもなく既に俺に対して厳しい。だから、美しい富士山を拝むことはいつも試練なのだ。
新幹線から望むあの巨大な勇姿は、俺にいつもこう訴えてくる。

"わしは富士だ。貴様は誰だ。貴様は誰ではなくて、誰なのだ。何故貴様は貴様なのだ?"

人間は皆弱い。
誰もが誰かとつながろうとし、孤独を避けようとする。
我々日本人が富士山を崇拝してきたのは、それが我々人間一般のそのような弱さを持たず、断固としてここにあり続けるという、時代を超越した意思と深い神性を具有しているからだ。

富士山は孤独だ。
だがけっして寂しくはない。
富士山はただ一人でいるから富士山なのであって、双子の富士山はもはや「二つの富士山」とは呼べぬ。
富士山の如き賑やかな孤独を、俺は愛する。
富士山に対する嫉妬。この嫉妬だけは、一万回生きても消えぬような気がしている。