2018年4月9日月曜日

雨の日曜日の随想

◯豊田穣「革命家 北一輝」読了。飲み会が続くと読む速度が落ちる。これから北一輝の代表的な著作の二つを読むところ。すなわち、「支那革命外史」、「日本改造法案大綱」。正月以降の日本の戦前のアジア主義周辺の勉強の一環で、竹内好、葦津珍彦、橋川文三という面々の本をちらほら読んできた流れだが、少し脱線しているような気もする。

◯サルもゴリラもチンパンジーも物事をいくらか学ぶが教育はしない。チンパンジーの長老がボルネオのジャングルに10頭程度の若いチンパンジーが群れの運営について学ぶ学校を作るというのはいかにも考えにくい。他方、人間ときたら教育が大好きだ。自身の子供のことになると夢中になる親は少なくない。あれをさせよう、これもさせよう、あの中学に入れよう、はてはあの海外の大学院ーと、こうなる。僕はチビどもにはほったらかしで臨む。僕と妻が家で勉強をしている限り子供が勉強をしないというのは、ちょっと考えられぬ。肥満のトレーナーについて肉体改造に励むオッサンがいないように、スマートフォンとやらでひたすら遊ぶ親父と同じ屋根の下で勉強に精出す子供もあり得ない。

◯家族での会話が討議=ディベートにならない。チビたちが幾つになったら移民政策や日本企業の人材政策やエネルギーの問題について話が出来るようになるだろう。家族だからこそ、こういう公的な議論をしないといけないと僕は思う。家族でこういう議論をしていなくて、いきなり中高生あたりで「自分の意見を言え」と言われてもそりゃ無茶な話。

◯子育てをすると、というよりそれにわずかばかり関与すると、ヒトの乳幼児がいかに他の動物、特に高等な哺乳類に近い動物であるかを実感する。それはつまり生まれたばかりのヒトが如何に成熟したヒトから程遠いところにいるかを物語ってもいる。乳を飲んで泣いてウンチをして寝るしかしないヒトの赤ちゃんが、15年もすれば多言語を操りヘーゲルを読みピアノを弾き、あるいは人を騙すのだ。この15年間の脳の成長というのは単純に驚異的だ。犬の赤ちゃんと成犬の知能レベルにおける差を考えてみるとこのことは決定的だろう。とはいえ、恐ろしい話でもある。これだけ凄まじい機構を頭部に詰め込み、それが人生の最初期に一気呵成に成長するのだから、良いものも悪いものも全部丸めて柔らかな脳は吸収してしまうだろう。親の夫婦喧嘩、親父の仕事の愚痴、テレビの馬鹿話、etc。我が家にはこの三つは少なくとも絶無也。

◯今後2050年に向かって日本の外交政策の最大の課題はなに?と訊かれたら、僕はアメリカを東アジアのパワーとしてここに残すことだと言うだろう。と、思いつつ、ふと棚からボリス ジョンソンさんの「Churchill Factor」を取り出して読むと、チャーチルが如何にルーズベルトのアメリカを大西洋を超えて欧州戦線に参戦させるかに苦心したかについて丁寧に描かれていた。タイムリーなり。21世紀の今の時点から見ると、米英が手を携えてD-Dayにノルマンディに上陸したことは、さも当たり前のことのように思えるが、そうではない。1935年には米議会は中立法を制定し、米国からのいかなる国への武器輸出と船舶による武器輸送を禁止していたのだから。真珠湾攻撃のあの日、チャーチルが嬉々として「今夜はぐっすり眠れる」と言ったというのはそりゃそうだろう。バトルオブブリテンで如何に優秀なスピットファイヤのパイロットが勇猛果敢に独空軍の爆撃機を叩こうが、米国の第二次世界大戦参戦無くしてチャーチルはヒトラーに勝てなかったであろうことはほぼ疑いがない。チャーチルは、大英帝国と自身に流れる血に凄まじいまでの誇りを持ちながらも、同時に英国から独立した若いアメリカという国の漲る力を的確に見通していた。日本の政治家は、「日本とアメリカは価値観を共有する太平洋の同盟国だ」ということ以上のなにをワシントンに向かって語るか。ちなみに、チャーチルはルーズベルトにけっしてこうは言っていない。「イギリスは戦えない、だから助けてくれ」。そうではなく、こう言ったのだ。「共に自由のために戦おう、血を流してでも」、と。

2018年4月2日月曜日

「ありがとう」とカネ

『ありがとう』では生きていけない。カネがあれば生きていける
だけど、
カネがあっても死ねない。『ありがとう』があれば死ねる。

2018年4月1日日曜日

常時接続

僕はいまこの記事をあiPhoneという機器を使って書いているのだけど。

この携帯電話というにもスマートフォンというにももはや適切でない、とてつもない機器を作る会社を作った人(Steve Jobs)は、果たして天から地球の人々を見下ろして、いまどういう感慨を持っているだろう?とよく思う。

ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルにも同じことが言えるのかもしれないが、iPhoneやその他のスマートフォンが、数多の「スマホ中毒」を生み出していることは、街中で電車やバスに乗れば瞬時にわかる。
天才Steve Jobsは、世界最大の企業を作り出し途方も無い富を生み出したが、天才の生み出したこの製品が麻薬のように人々を中毒に陥れるという可能性を想像しただろうか?

Steve Jobsは2004年のスタンフォード大学の卒業式の卓抜なるスピーチを、"Stay hungry, stay foolish"と締めくくったのだが、iPhoneを四六時中触ってあらゆるメディアを眺めたり人と常にチャットしていながらにして、hungryでfoolishでいる術(すべ)が、僕は馬鹿だからか、全く想像できない。なぜといって、我思うに、hungryでいることもfoolishでいることも、少なからぬ孤独を必要とするからだ。

今年1月にアップル株を保有する機関投資家が、「アップルは子供達の依存症に対するアクションをとるべきだ」という書簡を公開したのは、この意味でとてもタイムリーであり示唆的なことだ。
ロンドンのレストランで夕食をとる家族のなかで、子供二人が親と全く会話をすることなくそれぞれiPhoneとiPadにかじりついている異様な光景を見れば、CITYの投資家も中長期的なアップル株の保有について「はて?」と思うだろう。

そもそもの話、人間という動物は、「常時電子機器によって他者と繋がっているという状況」に耐えられるのか。四足歩行から二足歩行への移り変わりと同じくらい、重大な変化だと言ったら大袈裟か。

イースターの休み

3/30(金)、欧州と英国はBank Holiday。
朝は好天なるも昼前からロンドンにしては矢鱈重たい雨。Showerではない。
優子と京子は留守番。
とはいえ雨散歩は好きなので気にせず手帳と西田幾多郎「善の研究」とペンと赤鉛筆を持ってPrimrose Hill Parkへ。
懸垂65回、四股・摺り足等のトレーニングをした後、南に隣接するRegent ParkにあるCaféへ。
四連休の初日というのに雨のせいか人気はなく、インド系のおじさんが電話をもたずに遠くを眺めているのと英国人らしい女性二人の子供連れがいるばかり。

雨は、よい。
スーツと革靴を濡らさない雨を、僕は好む。
フードが付いたスポーツジャケットの肩と背をパチパチと叩く控えめな雨音が、僕がいまこの瞬間確かにここに在って、自身を形成するたんぱく質とかカルシウムとかの物質はそれを取り巻く大気とは異なる存在であることを実感させる。
日本の真夏の夜、オフィスを出て湿気た30度の外気に当たることをことのほか嫌うのは、それが不快であること以上に、自分自身と世界との境界がぼやけてどこまでが自分であるやらよく分からんという雑多な苛立たしさにある。
太りたくないのも実はこの理由が大きい。随意筋は意思によって稼動させられるが、脂肪はそうではないからだ。何処までが自身の身体かを完全に把握したいし、その身体を出来る限り自身の思うがままに動かしたい。

さて、とはいえロンドンも春。
3月末の朝の冷たい雨も、準備万端完了して後は芽吹くのを待つばかりの可愛らしい新芽を振るい落とすことはできない。
灰色の朝。しかし春の、新たな命の予感に満ちた、冷たい雨の朝。
止んでくれとは思わない。降り続けてくれとも思わない。
あるがまま。そのままでよろしい。

2017年7月1日土曜日

本と娘

久しぶりにこのブログを再開することにした。
正直に言えば、ある同い年の著名人の早世は一つの契機であった。
彼女と同い年位の二人の子を持つ父として、妻と彼女らのための文章という意味も込めてもう一度ここで徒然の想いを綴ることにしたいと思う。

昨晩、金曜日の夜。ごく当たり前の、平和で静かな夜。
娘どもが向こうで騒いでおるなーと思いつつ居間でトレーニングをしていると、気がついたら騒ぎ声が止んだ。
ふと寝室を覗くと、母と両隣に二歳と五歳の娘が仰向けに寝っころがって夢中になって絵本を読んでもらっている。
夜が空けて、寝坊助の父が居間に起き出してくると、今度はソファに座った母の両隣で娘がこれまた絵本を読んでもらっている。
「まぁしかし本が好きなもんだなぁ」と思うが、テレビがない我が家では、彼女らの娯楽は父とトレーニングをすることと本を読むことと歌うことぐらいなのだ。
本というものに対して、僕がある種の信仰にも似た思い入れを抱くようになってから、久しい。
本という即物的な「紙が折り合わさったモノ」という物質自体にではなく、重々しいハードカバーの何百というページのなかに織り込まれた文字の一つ一つに、
命懸けでそれを書いた人間の凄まじい気迫と書かれた時代がゆらとが立ち昇ってくるような文章に触れることこそが読書である限り、我が家において本というものは娯楽や趣味のうちのたんなる一つではあり得ない。
娘達には栄達して欲しいという気がないでもない。
ただし、その為に本を読めというような思いはさらさらない。
本を読んだ結果、革命家となって20歳で死のうとも、それも奴らの人生だ。美しく生きることが大切なのであって、長く生きることは二次的な問題である。
娘がこれから彼女らの人生で出会うであろう苦難な孤独に立ち向かうなかで、図書館と本屋と我が家の書棚にある幾千幾万の本たちのなかのひとつの文章が、
彼女らを勇気付け励まし、時には羅針盤となってくれることは願う。
そして数多の本のなかから人生のなかで繰り返し読み返す本と出合い、自身が生きるについての原理原則を見い出してくれさえすれば、大学の学位も大企業の名刺も必要ない。
父としては、彼女らが将来どんな男と出会い結婚するかということ以上に、彼女らがこれからどんな本と付き合っていくのか、興味は尽きない。

2016年1月31日日曜日

勝つための歴史

戦争の悲惨さをひたすら叫んできた平和教育は、死んだ兵士の名を東条英機と山本五十六以外に誰も知らぬというガキの大群を生み出した。この二人さえ知らぬとニホンジンという珍種の動物もその辺に棲息していよう。兵士の遺書を読み、日記を読み、彼らの日常に触れることによって、彼らにとって戦争がいかなるものであったかを追体験し、のみならず自身をその立場に置いて考えるという機会を持たずして「命の尊さ」なんぞあったものではあるまいに。
日本人は、本当にあの戦争を顧みて反省してきたのか。ただ無視しただけということではないのか。そして、無視した事さえ今や忘れつつあるのではないか。
平成を生きる日本人は、人種としてはいまだに戦中戦前と繋がっているが、歴史的社会的存在としては全く別の生き物になった。
それが良いことか悪いことかは知らぬが、ただ歴史を知らぬということが将来において我々に馬鹿げた判断をせしめないことを祈るばかりだ。
いま世界と自国の歴史を誰よりも勉強しているのは、間違いなく中国だ。それは趣味としてではなく、生き残るため、勝ち残るためなのだ。

2016年1月2日土曜日

「子供」はいつ「大人」になるのだろう

と、いう問いを自分に問うてみても、正確なことはわかりはしない。

だが、人類の約40万年の生存史のなかで、年少の子供たちが純粋に「子供」として、つまり生産人口として見なされなくなったのはつい最近のことであるに違いない。

 

別にそれが悪いとは言わない。なんせ僕にしてからが、この20世紀末の物質文明の恩恵に被ってきた。生産活動から完全に隔離されて、父と母がそれを担当して飯を食わせ学費とグローブを買う金を与えてくれたからこそ、朝から晩まで16歳の大金持ちでもない家の息子が野球という「遊戯」に時間を費やせたのだ。これは瞠目すべき近代資本主義に起因する史上例を見ない生産性の発展、20世紀後半の膨大なる富の蓄積、そして国民国家による普遍的な教育制度の確立なしにはあり得なかったと思う。人生の初期に十分な基礎学力や問題を発見する力、他者と議論して論理的に意見を述べる力などを習得することは、社会で何事かをなそうとする人にとっては数千年の昔から洋の東西を問わず必要欠くべからざるものだ。人類と地球を裨益するところ大なる基礎科学の驚異的な発展も、人類がみな10歳で鍬や鋤をかついで昼に夜に働かねばならぬ社会では、到底あり得なかった。もちろんこういうからといって僕を近代をただ礼賛するものだとは勘違いして欲しくはないのだが。

 

が、この年末にふと疑問に思うことがあった。義兄の家で小学用の餅をつきながら、たくさんのチビたちが足下に遊ぶのをみて、「この子らはいつ"大人"になるんだろう?」と漠然と考えた。

 

たとえば、かつて武家の男子であれば、元服という単純明快な基準があり、ここを過ぎれば戦にも行くし、いっぱしの男として扱われた。そうであったならば、少年たちは自然と父や兄から彼らの元服の時の話や初陣の話を聞いて、10歳の頃から切歯扼腕来るべき闘争の時代に向けて心身を引き締めていたであろう(江戸時代には初陣などないが、それでも武士の論理が2世紀半生きつづけたことは幕末の武士達の言行録からも明らかだ)。

その意味では、彼ら武家の年少の少年にとっては、幼児期でさえやがて来るべき当主・領主・武将としての大責任を肌身に予見しながらの予行演習的な時間とも言える。つまり、純粋な意味での「子供」ではなかったと言える。

 

この点、21世紀初頭の日本に生きる幼児・小児らは、純粋に「子供」であるような気がする。あるいは、より穏健に言えば、そういう子供たちが相当多数を占めているように感じる。

もっともこのことは、上に述べた通り僕の成長過程においてもそうだったわけで、視野を過去50年に限定するならば特段新しいことでもなんでもないし、子供が子供らしく生きられる社会が素晴らしいものだということには僕も完全に賛成する。

ところで、ここで僕が「純粋に子供」であるという時、それが意味するのは、大人とは異なる行動規範、人間関係などのルールが彼らに適用される子供のことをいっている。

つまり、年少であるという事実のみによって、大人たちの人間関係とは異なるルールが適用されうるとき、僕はその子供を「純粋な子供」と呼ぶ。

 

僕の問題意識はここにある。

大人たちの人間相互の関係を規定するルール(もっとも原理的なものとして、挨拶、礼儀などに関するルール)が未だ自身には適用されず、それに従うことが期待されない子供たちは、いつからこのルールに服するのだろうか。

何時、誰が、彼らにそのルールの存在を伝えるのだろうか。

自分の母のことを「クソババァ」と罵っても「もうそんなこと言わないの」としか言われない小学生の恐るべき幼稚性は、いつ誰がこれをあらゆる意味において誤りであると伝えるのだろうか。


僕自身のことを顧みると、父は僕のことを子供扱いしようとはしなかったように思う(祖母と母は別)。それは、彼が、僕が毎週楽しみにしていたドラゴンボールZを観ることを断然拒否して「7時にはNHKのニュースを観るのが常識じゃろうが」と言い、テレビのチャンネルをなんの戸惑いもなく換えたあの態度に象徴されている。もちろんこれを「単なる我儘な親父だ」とは言いうるし、そう考える人がいまは多数派かもしれない。しかし、僕は、我が家にこんな、今となっては偏屈親父ともいうべき父が家に在ったことが有難いことであったと今更思うのである(祖母がいたことはもっと有難かった)。あそこですんなりとドラゴンボールZを観ることを許す優しい親父であったならば、僕は今の僕の在り方とは、精神的にも肉体的にも恐ろしく異なる人間となっていたものと確信していて、それは僕の喜ぶところでは全然ない。

さらに、中島少年野球の秋葉監督と城東高校野球部の山崎監督も、僕たちを子供扱いしなかった。何故といって、「勝つこと」が最重要の目的だったからだ。

この二人の監督たる人間の「情熱」こそが、教育者たるべきものが持つ最重要の要素を体現し尽くしている。彼らは「子供」たる僕たちに対して優しくはなかったし、そんな必要を露ほども認めていないようだった。だから、そういう人たちに自分を認めさせるのだと躍起になって僕たちは努力しようとした。思えば、「人間はただ在るだけで意味なんぞないだろうが」と、天賦人権論を大学で学んだ時に精神的蕁麻疹が出たのは、これらの経験と無縁ではない。

 

こういう疑問など不要と一笑に断じる人も多い事と思う。人間は段階的に成長し、やがてみな凸凹の道を通ってそれなりに大人になっていくものだからである。

しかしながら、自身も人の親となった僕は、我々の子らがどうやって大人になっていくのか、どのような大人になっていくのかについて重大な関心を持たずにいられない。それは、ただ我が子可愛さの故のみならず、教育こそが国家100年の計であるためだ。その意味では、「子供」がいつ「大人」になっていくのかという問いは、まったく無駄なものでもなかろうと思う。なぜといって、彼らはたまたま2016年のま幼少期を生きているだけであって、彼ら彼女らの人生の大部分は「大人」として過ごすのであり、また青壮年時代こそが社会と国家に個人が貢献する最大の可能性を持つ時機だからである。

 

論点から脱線するが、教育者について僕はこう思う。

人間を教育できる人間がいるとしたら(いるのだが)、それは自身の人間を徹底的に高めるために絶えざる努力を積み重ねる者だ。そして、教育のプロでもなんでもない一個の親たる僕は、自分の「生き様」を娘に見せることによってでしか、彼女らに何かを伝えることはできはしない。いや、伝えられるというのは妄想であるやもしれない。それでもいいのだ。

我が家の子らは、社会に奉仕することを以って自らの喜びとする人間に育って欲しい。そのためには、親たる僕がそのような人間たるべく日々努力を積み重ねることしかできることはない。

「子供の事を論じても最後はやっぱり自分語りに終着するのか」という批判は甘受しようと思う。もっとも、人間の世の中、完全にコントロールできるのは僕という一人の人間のことだけである(それさえ俺はできていない)。3歳の我が子でさえもはや完全に人格を備えた他人である。だから、子や教育を論ぜんとせば、自然、自分の在り方に撞着するのは自然な成り行きではなかろうか。

 

この正月の小論の最後に菅子のこの言葉を引くのは無駄ではなかろうと思う。

 

「一年の計は穀を樹うるに如くは莫く、十年の計は木を樹うるに如くは莫く、終身の計は人を樹うるに如くは莫し。

 一樹一穫なる者は穀なり、一樹十穫なるものは木なり、一樹百穫なるものは人なり。」

 

2015年8月6日木曜日

人間と核兵器

70年前の今日、広島の街に原爆が落ちてきて炸裂したという事実よりも、一人の人間が明白な大量殺戮の意図を持ってあの作戦を実行するよう命令したという事実のほうがはるかに怖い。核兵器は怖くないが、人間は心底怖いと思う。
「核兵器は恐ろしい」という言説は、実のところ、「人間は悪しきものだ」「人間は恐ろしく残酷なものだ」という事実から目を背け、モノに大量虐殺の責任をなすりつけようとするものでしかない。


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幸せな結婚

幸せな結婚とはいいものだ。しかし幸せな結婚だけで満足するような男は、幸せな結婚などけっして手に入れられない。




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2015年7月28日火曜日

死者との邂逅

たまに、横浜の閑静な住宅地の兎小屋に暮らす二人の娘を不憫に思うことがある。それは、俺の所得の故の兎小屋住まいについてではなくて、その閑静な住宅地の非歴史性と死者の不在のことである。

俺がガキの頃ーはや30年も前のことになるわけだがー、姉貴や近所のにいちゃんねえちゃんたちと、小さな祠に控えめな鳥居を備えただけの狛犬様と呼ばれる、それはそれは小さな社でよく遊んだ記憶がある。全国どこでも同じだったろうが、小さいとは言っても自分たちの背よりはうんと高い鳥居の上に小石を乗せることを競って遊んでいた。石が乗せられたら良いことがあると信じていたかどうかははっきりと覚えていないが。
近所の墓も集落の所々に点在していて、そのそばを少年野球の練習の帰りや釣りの帰りにいつも通っていた。民家の隣に墓が並んでいることは当たり前のことだった。祖母は何よりも自分の家の墓参りを大切にしていて、野球の練習の合間に雑草の駆除に、少し離れた墓まで俺がついて行くと、「おじいさん、基君がお墓をきれいにしてくれましたよ」といつも優しく語りかけた。俺としては草むしりをしただけなのに、一度も会ったことがないじいちゃんやいつも怖い顔をしていた曽祖母の顔がありありと思い出され、クソガキなりに姿勢を正したものだ。
家の離れの北側にも、高さと幅と奥行きを合計してと1.5メートルはないと思われる小さな祠があって、祖母はいつもこれの水を替えていたと記憶している。この祠は今もある。
家のなかには曽祖母の額入りの写真やじいちゃんの額入りの写真もあって、もちろんそれらが掲げられている御座敷には恐ろしく古ぼけてはいるが重厚な仏壇と、今にも千切れて破れてしまいそうな「天照大御神」の掛け軸があった。犬養木堂翁や三島中洲先生(山田方谷先生の一番弟子で大正天皇の侍講、河井継乃助先生の兄弟子)の書などがもぽつねんと掛けられていた。
とはいえ、これらは岡山県倉敷市の少し古い家なら当たり前のことで、似たような家の誂えを近所のどこでも見た記憶がある。言わば、田舎ものにとっての1980年代の通常の生活風景と言えよう。

時は流れて四年前の春、俺が妻を両親に会わせるため連れて帰った時、頭のなかでは別に親への挨拶なんてどうでもいいことで、それより「ご先祖さんにはよ報告とありがとうを言いにいかんと」という思いばかりだった。初めての実家への挨拶の時にお墓参り?なんて言われたら、これは世界観と家族観と歴史観についての大いなる齟齬としかいいようないから、その時は結婚はなしだろうな〜残念だな〜とも思っていた。もっとも、自分が選んだ女がそんなしょうもない女であるはずがない、とも思っていた節も確かにある。

で、5月の連休のある日の夕方。何故か北を向いた低い山の斜面にある我が家の墓を二人でざっと掃除し、俺は缶コーヒーのBOSSのブラックを2缶、先祖墓に置いた後、墓に向かって正対、最敬礼をした。「さて、帰ろうかね、ありがとうね」、と妻に言うと、彼女はこう言ったのだ。
「うん、おじいちゃんたち、喜んでくれたかな」と。
それはぶりっ子することが世界トップクラスに苦手な我が妻の、深い真心からふっと漏れ出た感情が言葉になったものであるということぐらいは若い俺にも容易に察せられた。「この人間は、俺よりもさらに強いご先祖さんとの紐帯のなかに生きている、この時代錯誤女...!」、そう確信した瞬間だった。

多少惚気ているようだが、それが目的ではない。実際、妻の両親の実家の鹿児島は大隈半島南部においては、墓はほぼ必ず家屋の側にあって、日参が基本である。毎朝顔を洗うように墓に参る。南国だからか、数日おきに替えられる豪華な赤や黄色やオレンジ色の花がすべての墓を飾っていて、集落のなかで最も華やかなのは実はお墓であるという面白い風景が現在も残る。

翻って俺が現在暮らす横浜市のある私鉄沿線の住宅街には、墓も神社も地蔵さんも何もない。どれだけの家に仏壇があるだろうかとも思う。街には、駅の周辺に幼稚園や保育園、スーパーやクリーニング屋やフィットネスクラブ、本屋や居酒屋があり、まぁ生活するには便利なことこの上ない。そんな街で子供達が遊ぶのは、横浜市がその潤沢な財源で維持している、ありがたいほどに手入れが行き届いた緑の多い公園である。

普通に考えれば、なにも不満の言いようがない子育ての環境に思える。安全で、歩道は広く、暴走族のような輩もおらず、夜は森に彷徨い入ったのかというぐらい静かである。近辺には私立の進学校やインターナショナルスクールとやらも複数あって、先立つ物さえあれば教育についても心配はない。

だが、何かが欠けているーーー俺はそう胸中でずっと感じていたのだ。
それは、自分を生んだ父や母の両親やその親たちが、確かにこの地に生まれ育ち、子をなし、そして死んでいったのだという明白な実感と、クソガキの俺が祖母とともに体験したご先祖さんとの邂逅の場所である。
ここには、死者の居場所はない。いま生きている人間にしか存在しないものとされている社会において、死者たちは居場所を与えられず、遠い空で星にでもなってキラキラ悲しく輝いているんだろう。

自分は何者なのかと20年間問うてきた。未だに答えはありはしない。だが、少なくとも、俺はご先祖さんが必死に命をつないできてくれたことの結果として、この平成の御代に暮ら1人の男であるとはっきり言える。そのご先祖さんか、どこで生まれ、どんな暮らしをしてきたか、わずかばかりだが聞かされてきた。
結局のところ、俺はそれ以上の存在ではありはしないのかもしれない、とも思う。だが、それ以上ではないかもしれないが、それ以下ではけっしてないのだという自負と自信も確かにある。たくさんの人たちが命を繋いできた結果として、たまたま自分という存在があり、その事実にいくばくかの感動を覚えるのあれば、自分とは異なる他者として、死者を分け隔てることはもはやできはしない。

歴史とは、所詮我々が恣意的に解釈した過去の出来事の総体であるかもしれない。だが、教科書の歴史とは別に、手で触れられる自分自身の歴史が存在するのだ。多くの人がそれをまじまじと見ようとしないだけで、死者たちはすぐそばにいるのだ。

上に述べたような祖母との墓参りでの経験を、人によってはなんじゃそれはと笑うことたろう。
だが、大学院時代の京都の夏の夜半、賀茂川の芝生に寝転がって、満月に照らされた北山連峰の稜線を見はるかし、涼しげな虫の声と嫋やかな川のせせらぎに耳を休ませるとき、確かに俺は自分がこの世にやってくる前にも同じように流れ続けてきた膨大な時間を強く自覚したのだ。それは、俺の親父がクソガキだった時間であり、俺の祖父がオシメを曽祖母に替えてもらっていた時間である。
あれは、宇宙的でありながら、これ以上ないほど刹那的な瞬間でもあった。あの賀茂川での体験は、祖母とのあの墓参りと俺という人間の地中深くで時空を超えて深く強く繋がっているのだ。







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