2010年8月7日土曜日

坂本竜馬、あるいは国家の不安

坂の上の雲、坂本竜馬、新撰組。
特に坂本竜馬は、四国電力のある人もいっていたが、「高知のもんは金もないくせに竜馬竜馬とえらいうるさい」というぐらい、NHKの大河ドラマに採用されたこともありえらい流行り様だ。
5月に会津に行った時は、竜馬とは立場からして敵であるはずの会津百虎隊記念会のそばでも、坂本竜馬のティシャツなどが売られているのだが、まぁ商魂逞しいというかなんというか。

俺は、今のこの「近代日本成立の物語」が茶の間で人々に訴えるものがある、その理由はなんだろうかとふと考えた。竜馬や新撰組はそのまま明治維新へとつながる激動の時代の物語の主役であるし、小国日本が大国ロシアを破った日露戦争は日本人の小さな誇りに未だに微力ながら支えている。
ありきたりな言い方であるが、この国の民は「日本とはどういう国であるのか」という国家アイデンティティーに自覚的、無自覚的に不安を抱き始めているのだと思う。
我々は、「どこそこの家に生まれ、どこどこの学校を卒業し、どこどの会社に勤め、こういう家族と暮らしている、日本人の男である三谷原基」というような形で自己を認識している。そのいずれもが、自己を他者とは異なる存在たるものとして把握するために必要不可欠なものだ。こう書けばわかるように、我々のアイデンティティーというものは、ほとんどの凡人の場合、「自分が所属する組織・共同体」によって規定されている。であればこそ、自己紹介が「自分が所属した過去の組織の紹介」になりがちなのだ。
しかるに国家というものは、所属すべきものがない。「宇宙船地球号」といってしまえば聞こえはいいのかもしれぬが、そこにはなんらの歴史的実体がない。つまり、国家とは、我々個人よりもはるかに自己を規定しにくい環境のなかで生きることを余儀なくされた、政治的な共同体なのだ。そうであればこそ、自国の輪郭を明確にするために、外部に敵を求めることが歴史において通常の権力者の戦術であったのだ。

戦後日本の背骨となってきたアイデンティティーとはなにか。
それは、「アジア唯一の近代国家、世界第二位の経済大国」のほかにあるはずがない。
我々は、それを失おうとしている。日本製と同様と電機製品や自動車がアジアのほかの国で造られ、一部の市場では日本製の製品を押しのけて市場を制覇している。日本の企業は、世界のいずれも分野においても一位を占めるものが少なくなり、世界経済における日本の経済規模は15%もあったものが数年もすればその半分にまでなるだろう。

そういう時に、近代日本の黎明期に活躍した竜馬や、近代日本の最大の危機であった日露戦争の血が沸くような物語は、今の日本人が求めるものではあるだろう。汗をかいた後のビールがうまい(らしい)のと同じように、体は求めてはいないが飲んだら(観たら)一瞬幸せになって、国家の「大きな物語」が目の前にあるかのように思えてくるのだ。

だが、空しい。
大河ドラマ「竜馬」の放送のあとに我々が聞くニュースで、政治家は国家のグランド・デザインを語るのではなく(有権者もそんなことは聞きもせぬ)、事業仕訳で数億円を捻出することの意義について喋るのだ。日曜日の銀座の歩行者天国でテレビカメラに捕まえられた主婦は、何もわからないからとりあえず「管さんには経済をよくして日本を元気にしてほしいですね」というのだ。こういう発言は、「宝くじがあたったらいいのにねぇ」とおばさんが井戸端会議でしているレベルと全く変わらない。つまり、そんな期待なぞ誰もしていない。
嗚呼、どうするべきか。この国を覆う無力感と脱力感を。
日本という国を支える細胞、その一個一個が我々だ。
我々個人が圧倒的な生命力を持たぬならば、日本国家も衰弱しやがて死にゆくだろう。
俺は、最近本当に日本は既得権益者に牛耳られたつまらん国になり果てていると感じることがある。
それは平和の恩恵でもあるのだが、戦闘者は消滅し、悪しき保守主義というウィルスが社会に蔓延している。このウィルスの症状は無気力と倦怠感ときている。
誰も決断をせず、誰もが喜ぶことを言い合い誰かに媚び諂っている。

鷺沼の深夜のマクドナルドで一人チキンナゲットをいらつきながら口に運ぶ女性と連れられた幼子。表参道に人を呼ぶ高級ブランドの数々、そこに笑えるほどの御洒落全開で乗り込むお金持の卑猥な自己顕示欲。襟足の髪の毛を触りまくる渋谷の馬鹿男の、水牛の群れのような集団。。。
そういうものの一切が、この腐りきった日本と言う国の現状を最も薄汚い形で表象しているように思える。

我々は、幸福を求めて不幸になった豚だ。
俺は、“Difiant Conservatist"として生きていくほかあるまい。


独り言:
行方不明の老人。資本主義が分節化してしまった人間同士の関係。たとえば家族8人で家で食事をするよりも、8人のうち5人が外で食事をするほうが消費される食糧(残飯含む)や水や金銭は大きい。
つまり、経済成長とは、そういう一面を持っている。
それにしても、自分の親の行方(生き死に)さえ知らずに普通に生活をしているとは、日本人は畜生になり果てたのだろう。俺はどれだけ馬鹿でも人間として生きて死にたい。

ついに円ードルのレートは85円にきた。
日本の富は奪われた。誰も責任を取りはしない。当たり前のように。まるで、前が降ってきたかのように『円が買われています』というニュースが日経に載って終わりだ。
俺は深夜残業が美徳とされる会社で働いている。それは、「日本人の勤労の美徳」でもなんでもないのだ。
宗主国アメリカにせっせと稼いだ金(ドル)を渡すことが国是となり、そのための過労は美徳であると戦後日本は教えてきた。
日本が戦争に負けたということの意味を、俺は会社で働くようになってから学んだ。