・石原慎太郎「真の指導者とは」幻冬舎新書
チャーチルは、子供のころこんなことを言ったそうな。
「人間はみな虫だよ。だが、僕だけは、蛍だと思うんだ」
ここまでの自負を持って生きる動物を俺は愛する。チャーチルは批判されることも少ないない。
例えば、「制限戦争指導論」で有名な英国の戦略家J・F・C・フラーも、チャーチルの敵の殲滅(ヒトラー、ナチス)を求める無遠慮過ぎる戦略を大いに批判している。
それでも俺は、公的な事柄に自らを投じようとする男の勇気は、何よりも尊いものだと思う。チャーチルのように、危機の時代に、危機の時代にのみ役立つ男になりたい。「平和だって?それじゃ俺はおよびじゃねぇな」と紅の豚のように渋く言いたいわけである。
福沢は「痩せ我慢の説」で、「立国とは私なり、公にあらざるなり」と述べた。国のための生きることは、公のためではない、俺のためである。
「楽天主義は意志の所産だが、厭世主義は人間が自己を放棄した際の状態である」
石原氏のエッセイ集のようなものだ。あまりお勧めはしません。ただ、さすがにところどころ面白い引用がありますので、そこは意義あり。
・神立尚紀「祖父たちの零戦」講談社
この本の249ページをぜひ読んでみてほしい。
昭和19年8月から第一航空艦隊参謀長を務めた小田原俊彦大佐の、なぜ特攻を命じるのかについて問われた際の言である。
「それは、一度でよいから敵をレイテから追い落とし、講和の機会を作りたいからだ。日本本土に敵を迎え撃つことにならないようにするためには、フィリピンを最後の戦場にしなければならない。だが、いま東京で講和などと口に出そうものなら、たちまち憲兵に捕まり、あるいは国賊として暗殺されるだろう。そうなれば、陸海軍の抗争を起こし、強敵を前に内乱も起こりかねない。きわめて難しいことだが、これは天皇陛下自らがお決めになるべきことである。
これ(特攻)は九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西(瀧治朗、海兵40期、最終階級は海軍中将、「特攻の生みの親」と呼ばれることがある)は馬鹿ではない。
だが、ここに信じていいことが二つある。天皇陛下はこのことを聞かれたならば、戦争をやめろ、と仰せられるであろうこと、もうひとつは、その結果が仮に、いかなる講和の形になろうとも、日本民族がまさに滅びんとするときに、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという事実と、これをお聞きになって陛下自らの御心で戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するだろう、ということである。」
新藤三郎という海軍の零戦乗りは、戦前戦中は子供たちのヒーローだったのが、戦争が終わって数カ月もすれば、「あいつは戦犯じゃ!」子供たちが彼に石を投げつけるという体験をした。そして、戦争が終わってから数十年後、亡くなる直前に、「一生懸命やってきたことが戦後馬鹿なことみたいに言われて、つまらん人生でした」と言っていたそうな。
みなさん、これ、どう思いますか。
間もなく敗戦の日だ。
俺は静かに靖国に眠る247万柱の英霊に対して敬礼する。
ところで、三菱零式艦上戦闘機が中島飛行機(富士重工業=スバル)のエンジンを積んでいたというのを皆さんご承知だろうか。
ランエボの心臓にスバルの水平対向エンジンを積んでいるようなものか。
・ドラッカー「経済人の終わり」ダイヤモンド社
まえがきが、「本書は政治の書である」から始まる。
この本を買ったのは、先日「現代思想(雑誌)」がドラッカーの特集をしていたからだ。
そのなかで、なんちゃらという米国の学者が「大転換」のカール・ポランニーとドラッカーの思想の類似点を強調していた。ドラッカーは、国家を完全には信頼できぬがゆえに、彼は企業に社会的価値の実現を期待した。ナチスが欧州を席捲していた(日本はそれに酔いしれて「バスに乗り遅れるな」と三国同盟を結び、ソ連を含めた四カ国同盟を夢想した。。。)1939年に、29歳のドラッカーはこの処女作を世に問うた。目的は、ファシズム全体主義を批判し、新たな社会(共産主義はファシズム以前に崩壊していた)を構想することだ。
最近の俺の問題意識から、特にこの一文が目にとまった。
「人間を経済的動物(エコノミック・アニマル)とする概念は、完全に自由な経済活動を、あらゆる目的を実現するための手段としてみるブルジョア資本主義社会およびマルクス社会主義社会の基盤である。経済的満足だけが社会的に重要であり、意味があるとされる。経済的地位、経済的報酬、経済的権利は、すべて人間が働く目的である。これらのもののために人間は戦争をし、死んでもよいと思う。そして、ほかのことはすべて偽善であり、衒いであり、虚構のナンセンスであるとされる。この「経済人」の概念は、アダム・スミスとその学派により、「ホモ・エコノミカス」として初めて示された。「経済人」とは、常に自らの経済的利益に従って行動するだけでなく、常にそのための方法を知っているという概念上の人間である。この抽象的な存在は、たとえ教科書のなかでは有効であっても、現実に人間の本質を定義するものとしてはあまりにも素朴でえあり、戯画的である」
アリストテレスの時代、最も高等な人間は「ホモ・ポリティクス」とされた。近代資本主義が成長するにつれて、「ホモ・エコノミカス」が幅を利かせた。ドラッカーが「経済人の終わり」を宣告してから71年が経った。そろそろ我々は、新しい、最も高等な人間のあるべき姿をみつけてもいい頃だ。
ドラッカーは、思想家である。まず第一に、思想家である。