2010年12月19日日曜日

女性の色気の本質

胸だ!お尻だ!などという安居酒屋の阿呆のおしゃべりをしようというのではないから御心配なく。

俺は、大きな胸や大きなお尻の女性が最も色っぽいのではないと思う。最も、と注意深く言ったのは、「それが全然色っぽくない」というほどに俺は不正直な男ではないからだ。それは確かに男にとっては、女性”性”としての魅力であろう。

だが、肉体的な色気というものは、残念ながら、没個性的なのだ。なぜなら、粗っぽく言えば、それは”モノ”だからだ。
例えばある女性の胸が大きくて、唇がぽってりしているからセクシーだねというのは、ある男がフェラーリに乗っているからセクシーだねというぐらい、実は論理的におかしな話だと思う。
フェラーリがセクシーだということは言えるだろうし、その持ち主がたまたまセクシーだということもあり得るのだが、「フェラーリに乗っている=セクシーである」という方程式が成立するはずがない。
この場合、セクシーなのは、彼女の胸や唇であって、”彼女自身ではない”。
つまり、その胸や唇は、誰のものであってもいいわけだ。別に”その彼女”自身のものであることが重要なわけでは全くない。付け変えることができるわけで(だから豊胸手術なるものがあるわけだ)、彼女の人格とは無関係なのだ。
そうであるから、俺は肉体的な色気というのは没個性的だと思う。
没個性的なものに惚れるのは、非常に難しい。ほとんど不可能だ。だってありふれているのだから。我々は、砂浜の一粒の砂に惚れることができない。
どれだけ色っぽく見える女性も、肉体の表現においては、あくまでその一般性を打破することができないということだ。しかも、恐ろしいことに、それは年を重ねるごとに”モノ”としての魅力を失う運命にある。

本当に男を惚れされる女がいるとしたら、それは肉体的で一般的な彼女の特徴と無関係な、彼女の人格に色気を漂わせる女性だろうと思う。
こう言うと、「なんだ、優しくて気立てのいい女の子とでもいうのだろう」と言われそうだがそうではない。
彼女は彼女自身であり、ほかの誰でもないということ、そのことに男は惚れるのだ。どうやっても彼女を他と同一視できない特別ななにか。彼女からそれをひっぺがして他人に付け替えることができないもの、そんなことをしたら彼女という人格が完全に消滅してしまうというほどの、精神的存在としての完全性、独立性。それに由来する純粋性。純粋なものは、一滴の異物にさえ汚れる。男が守るべきは、この女性の純粋性以外にない。
逆に言えば、これ以外に男が女に惚れることなぞ出来はしない。男にとって最も大切なことは恋愛ではないのだから。

ここ数十年の日本(というより世界というべきか)の女性の洋服が、どんどん肌の露出を大きくしてきたことの背景には、人格の没個性化があるように思えてならない。
つまり、個性個性!という教育が、却って皆がフランス製のバッグを抱えて似たような洋服を着ているという極めて没個性的な人格なき人格の大群(畜群と言ってよかろう)を産み出した。
人格において色っぽさも艶っぽさも持たぬ彼女らは、男を引き付けようとするにはもはやミニスカートを穿いて胸を強調した洋服を着るしかないではないか。そしてその「モノ」への注目を彼女という「人格」への注目と誤解することなしには、おぼろげな個人はアイデンティティを持ち得ないのだ。
男は男で、女性以上に畜生道をまっしぐらに地獄へ向かって走る輩が多いのだがね。
悲しいお話だ。