2010年12月15日水曜日

農地争奪戦争、「ランドラッシュ」新潮社

戦争をしてまで人間は何を守ろうとするのだろう?
これが、俺が戦争について考えることをやめられなくなった原因の一つだ。
郷土愛だったり家族愛だったりするのだろうが、今夜は人間をもっと唯物論的に眺めて、最近あまり騒がれないあることについて考えてみたい。

あることとは、食糧のことだ。

人間は、自分でエネルギーを作り出せないから、他の生物・植物を食らって生きている。
金があれば買って食べるだろうし、なければ飢え死にしたり強盗したりもするだろう。

2050年の日本の独立と繁栄という目標に対する障害物は多々あるのだが(そりゃもうありすぎるほどだ)、その中でも世界的に最も重要な変数は、やはり人口であると俺は思う。
英語のPopulationという単語に同じ含意があるのか知らぬが、人の数を意味する時に我々が「人の数」ではなく「人の口=人口」という言葉を使っているのは何か示唆的である。
恐らく、有史以来、人間にとって最大の課題とは、「どうやって米を(パンを、ジャガイモを)食べるか」ということだったのだと思う。だからこそ、穀物を蓄え始めると同時に政治権力が誕生したのだ。

さて、人の口、人口。
現在68億の世界人口は、2050年には90億にまで達する可能性がある。
世界の”口”を満たすための穀物需要は、これに比例して爆発的に増加し、同21億トンから30億トンになる。人口の増加のみならず、”肉食”の段階にますます多くの人々の暮らしが入りつつあることも穀物需給を逼迫させる。中国人13億が、一人当たりアメリカ人と同じ量の牛肉を食べる時、世界は武器を手に取り食料争奪戦争を戦うのだろう。

世界の国のなかには、将来の穀物の不足、つまり「食べられない」という事態を回避するために積極的に「食糧安全保障」政策を推し進めている国がある。また、当然ながら、私企業も将来の膨大な需要に目を付けて世界の農地に手を伸ばしている。

タイトルに書いた本は、世界の国や企業が、外国の農地(ランド)を求めて走り回っている(ラッシュ)している現状をドキュメンタリー風に記したものである。土地が走り回っているわけではなく、人間たちが「ランドにラッシュしている=ランドラッシュ」である。
この本の16-17ページで紹介されている、国際NGO「グレイン(本部はスペイン)」が発表した「2008年食料・金融安全保障のための土地争奪」というレポートによると、ランドラッシュの最近の現状はこんな具合だ。

”食糧危機と金融危機が同時に発生することによって、新しいグローバルな土地争奪が始まった。食料を輸入に頼る国の政府が、食料生産のために海外の広大な土地を手に入れようとしているのだ。他方では、深刻化する金融危機のなかで、企業や投資家が海外農地への投資を重要な収益源とみている。その結果として、肥沃な農地の私有化と集約化が進んでいる。このグローバルな土地争奪によって、世界各地で小規模農業と農村の暮らしが姿を消してしまうかもしれない”

国際食糧政策研究所(IFPRI、http://www.ifpri.org/)は、2009年4月のレポートで、

”土地や水が不足し、しかも資金が豊富な食料輸入国、例えば湾岸諸国は海外農地への投資に最も積極的である。また、多くの人口を抱え、食料安全保障の面で懸念を抱える国々も、海外での食料生産のチャンスを欲しがっている”

と述べている。同レポートによれば、サウジアラビア・カタール・リビア・中国・韓国・インドなど、20カ国が食料確保のために広大な農地を海外で既に入手したという。これらの海外農地は、主にスーダン・エチオピア・パキスタン・フィリピン・カンボジア・トルコ・ウクライナなどの、生産コストが安く、かつ土地と水が豊富な途上国に向けられている。

覚えている人もいると思うが、最近ニュースで「食糧危機」という言葉が使われたのは2008年である。豪州での干ばつなどが原因で、大豆の価格は2006年9月から2008年5月頃までに3倍に、小麦の価格は同時期に2.7倍に、トウモロコシの価格は3.5倍にまで急騰した。
2012年の春ごろに、ラーメン一杯が2700円になって、プリウスが800万円くらいになっている感じだ。
この時に世界を戦かせ(おののかせ)、ある国や企業をランドにラッシュせしめたものが、世界の穀物市場の崩壊だった。穀物市場の崩壊というのは、穀物生産の国の輸出規制である。中国・インド・ロシア・ブラジル・アルゼンチンなどが、輸出規制を行い、国内市場へ穀物を届けることを優先した。この時、食糧はいつでも市場で買えるという自明のルールが崩れ去った。そして、国々は、自分自身で食糧を確保せねばならんと海外農地の拡大に走り始めた。

これが、この本が最初に説明してくれるランドラッシュの発端である。

例によって食糧安全保障にもさしたる国家戦略を持たぬ我が国の隣には、長期的な戦略を立てて海外農地の獲得に邁進する国がある。

大韓民国。

李明博大統領は、就任間もない2008年4月15日、こう述べたそうな。

”穀物の75%を輸入に依存している我が国は、このままでは深刻な危機に陥るかもしれない。根本的な対策を立てないといけない。”
「南北統一後」を視野に入れ、わが民族7000万が生きるための対策が必要なのだ

一回でもいいから日本の首相からこんな言葉を聞いてみたいものだ。
2009年6月3日に開催された、「海外農業開発事業団会議」の総括として、韓国政府は次のように記している。

”2030年までに穀物消費量の50%に対して安定した供給網を確保する。国内自給率25%に加え、自主開発率(海外農場)25%を目標とする。”

国内で生産するのと同量を海外で生産するつもりだそうだ。現在ロシア沿海地方には、韓国の農業企業7社が進出している。2008年12月30日に発表された韓国政府の海外へ進出する韓国企業の支援策は強力である。支援額は、各社事業費の最大70%、金利は1.5%である。特徴的なのは、「韓国政府は、企業が開発した農作物を適正で合理的な条件で国内に搬入することを命じることができる」とされている点だ。食糧危機の際には、これらの企業は韓国政府に「適正な価格で」穀物を販売することが義務付けられたのだ。

韓国がここまで食糧安全保障に懸念を抱いているのは、好調な自動車・IT・電機などの輸出産業の栄達と表裏一体の関係にある。
1998年のアジア金融危機で、韓国政府はIMFの管理下に置かれるという屈辱を味わった。その後の韓国政府は、程度の差こそあれ、各財閥に大胆な事業再編を課して選択と集中を加速させた。少数の巨大メーカー(現代自動車、サムスン電子など)の寡占市場を国内に作りだし、それらが海外市場で外貨を稼ぐという貿易立国として生き残る道を選び、国内市場を広く開放することを選択したために、海外からの安い農作物によって国内農業が壊滅的な打撃を受けたのだ。
だが、ここで手をこまねいていなかったのが李大統領だ。輸出によって稼いだ外貨で以て海外農地を獲得すれば、食糧危機にも耐えられるというのが韓国の食糧安全保障における大戦略である。

不思議な時代が到来しようとしている。
飢餓に苦しむアフリカの貧しい国の広大な農地を経営するのは中国人で、そこで働くのもはるか東からやってきた中国人。そこで作られた膨大な量の大豆は港から巨大な船に乗って波濤を越えて中国へ送られる。農地の近くでは、きれいな水も食糧もない...地元の民は餓えている...
ランドラッシュという、資本の原理がむき出しになった大資本家による農業経営と国家政策としての海外農地取得というものが惹起しかねないのは、新しい植民地支配に他ならない。

ここまで長く書いてきたのは、自分の備忘録のためというのが第一だが、皆に将来の日本人の胃をどうやって満たすのか?という根本的な問いについて考えるきっかけを与えたかったというのもある。僭越ながら。
この本の中で、商社への言及がやはりある。日本への穀物輸入の最大なるものは総合商社という一群の会社である。だがそれは、残念ながら、目先の利益に囚われざるを得ない営利団体の限界を痛々しいほどに鋭く描写している。詳しくは、是非この本を手にとってみて欲しい。

この本は、小説を読んでいるようにも読める。ハードカバーで250ページほどだが、3時間もあれば読み終えるだろう。この時代に生きる人間が常識として知っておくべき情報や驚くべき事実が沢山盛り込まれている。必読の文献である。

飯を食べるためには、稼がないといけない。
だが、金があっても食べるものがないと生きてはいけない。
食糧だけではない。これからは水をめぐる戦争がやがて起こり始めるだろう。
昔ある友人に、「日本の農業を壊滅させたのは商社だ」と言われたことがある。
「日本の小麦の何%はうちが持ってきている」などという呆けた東京の商社マンの言葉なぞ聞こえもしないはるか遠くの田舎では、恐らく数十年の昔、海外からの安い農産物に敗北し、伝統的な小規模農業を継続できなかった人々が沢山いるのだ。このことが日本の地方の景観を壊滅させた一つの要因であったことは紛れもない事実であろう。

この本でも大きくとりあげあれている、青森県津軽の農家・木村愼一氏が登場する映像がYoutubeにあった。
この人は、「欧州のパンかご」と言われる(言われた?)ウクライナで大豆の栽培に挑戦している気宇壮大な日本人だ。ウクライナで米を作ることまで考えているそうな。

独り言:

最近よく思うのだが、ある職務に対する誠実さや真面目さと、それが世界や日本のために真に正義に適っているかという問題は全く別次元のことだ。
例えば、料理人が「お客さんが『おいしい』と言ってくれるのが嬉しい」と感じることは、真っ当なことで、正義に適っている。だが、覚せい剤の常習者に覚せい剤を届けて「お客さんが『これがなかったらどうにも始まらんよ、有難う』と言ってくれるのが嬉しい」というのは、当たり前だがふざけた話だ。
(これは一つの俺の価値判断である。覚せい剤=悪というものはね)
一人の商売人の端くれとして思うのは、本当に正義に適ったものやサービスでしか、莫大な利益は上がらないし、そこで働く者も真に幸福ではありえない。そこで得る収入の多寡など関係ない。 
正義と言ったが、いつの時代だろうが、世界のすべての人を幸福にしてしまう仕事などないのかもしれない。Ipadができれば失職する人がいるだろう、新たな仕事が生まれる影でね。
必要なことは、自分の仕事、自分の売っている商品やサービスが、どの範囲の人々をどれだけ幸福していして、あるいは誰にとって不可欠のもので、またそれがどの人たちに害を与えているのかを、特殊な時代性や地域性をできるだけ捨てて、十分に考えることだ。現在=流行に沿うのは誰もがする。そうではなくて、過去の数百年と未来の数百年の真ん中に自分をぽつんと寂しく置いて、そこであるべき将来を見通す者のみが、偉大な経営者と呼ばれるのだろう。
それがなければ、国家や企業の大戦略というものは形成されるはずがない。
指導者に歴史観が必要である所以である。

それにしても、李明博大統領はすごいことを言う。
戦争しようかという北と統一して、その後に「わが民族7000万が生きるため」の施策を断行する。これが政治家だろう。指導者だろう。
来年皆さんに月何円御配りします!と言っているどこかのくたびれた首相、頑張れ、いや、頑張ろう。国民のレベル以上の政治家は絶対に生まれないのだから。
もっとすごいのは、韓国の上に書いたような政策が、沢山の批判にさらされていながらも、それを甘受して意思するところを貫こうとしているところだ。意思なのだ、人間は。意思こそが、華なのだ。意思なき人間は猿以下なのだ、無駄に知恵だけあるという意味で。詳しくは「哲学者と狼」をご参照下さい。

これからは、いやこれまでも、国家は政治的共同体でありながら、同時に経済的共同体であったのだ。
そうであれば、経営の能力がなくば一国の宰相なんぞ務まりはせん。河井継乃介の”米のトレード”で大もうけをした金で日本に当時日本に3機しかなかったガトリング銃を買ったのであるし。
そう思って会計学の本をちらちら読んでいるのだが、あまりに面白くないので、表紙に大きく「日本を経営する」と縦書きした。すると、少し読むのに気合が入るようになるから人間なんて単純なものだ。