名前の由来はよう分からんが、親父によると「基本が大事じゃあろうが」らしい。
俺の名前について話したいのではなくて、今日は時代錯誤者らしく昨今の子供の名前について若年ジジイ代表として一言もの申したい。
今日の読売新聞朝刊によると、2010年生まれの男の赤ちゃんの名前ランキングは次の通り。
一位から順に。
大翔(ひろと)
なんと申しますか、そんなに最近の親は息子に空を飛んでもらいたいのか風になって欲しいのだろうか。だから「千の風になって〜」という歌が流行ったのか知らん。あるいは親父の「風に乗って飛び去って現実から逃避したい!」という潜在意識が息子に風だの翔ぶだのの名前を与えていると言うのは皮肉だろうか。歩夢(夢が歩く、or夢と歩け?)クンにいたっては、70歳になったときどう考えても恥ずかしいだろうと思うのだが...
大翔(ひろと)
悠真(ゆうま)
翔(しょう)
颯太(そうた)
歩夢(あゆむ)
颯真(そうま)
蒼空(そら)
優斗(ゆうと)
大雅(たいが)
颯(はやて)
なんと申しますか、そんなに最近の親は息子に空を飛んでもらいたいのか風になって欲しいのだろうか。だから「千の風になって〜」という歌が流行ったのか知らん。あるいは親父の「風に乗って飛び去って現実から逃避したい!」という潜在意識が息子に風だの翔ぶだのの名前を与えていると言うのは皮肉だろうか。歩夢(夢が歩く、or夢と歩け?)クンにいたっては、70歳になったときどう考えても恥ずかしいだろうと思うのだが...
全国の歩夢さんごめんなさい。
名前は個人的なものではないと言ったら、首を傾げる人がいると思うが、俺は俺の名前は俺だけのものではないと思う。
まず、我々には姓がある。それは過去に俺と同じ姓を持ち生きた人がいたという歴史を証明している。
姓に続く名は、連綿と続く一族のなかで、俺という人間を個人として確立せしめるものだ。それがなければ、俺は独立した個人たり得ない。
親が子に名を与えるとき、親個人の思いは当然強く働く。それは当たり前のことだ。だから、名は好き勝手に決めていいもので、人様の子の名に文句を言う意味が全然ないかというとそうでもない。
俺は、上記のように名前は俺のものであり、家族のものであり、広く一族のものだと考える。だから、俺は自分の子に名を与える際には二つの点を考慮するだろう。
まずは、俺の感覚からして美しく壮健な響きがあり、かつ表意文字である漢字の名を与えるだろうから、俺の「我が子よかく生きるべし」という思いが伝わるものがよい。二つめに、俺は、その名が200年前においても、また200年後においても通用する時代普遍性を持つものかどうかを検討する。つまり、歴史を背負える名かどうかを考慮する。
我が義兄の国オランダは、おもしろい国で、大麻もマリファナも合法なくせに名前の付け方については相当頑固で保守的だ。
兄貴の名はArendというのだが、この名前は彼の父方のお爺さんの名前なのだ。男の子には、父方の祖父、女の子には母方の祖母の名前を与えることがオランダの慣習であるらしい(「最近はだいぶ変わってきたけどね」by Arend)。これは個人に名付けの自由を与えない制度だが、他方で、先祖と自身を同じ名前で繋ぐという非常に有意義な制度だと思う。Arendのお爺さんがArendならば、当然Arendのお
爺ちゃんのお爺ちゃんもArendだったわけで、ご先祖様がいきなり身近に感じられる。
人間の柱は、彼が身体的に宿した歴史の縦軸と、現在を生きる同世代(今を生きる人々)との横軸によって形成される。縦軸は尊敬、横軸は連帯。
以上からお分かりのように、俺は最近の名前というのはどうも歴史から乖離し過ぎじゃないかなぁと思っている。多少お茶目をするのはよいのだろうが。程度の問題なんだが。ひいお爺ちゃんあたりにきかせたら、びっくりするような名前ってかっこいい名前ではないだろう。
俺自身は、上で言った二つの規準に、”大地性”を賦与した名を息子には与えたい。息子には空を飛んでもらう必要はない。自分が生まれた土地にまずしっかり根を生って、そこから世界を平らげる、そういう男になって欲しい。田んぼに力と書いて"男"なのである。
名前は個人的なものではないと言ったら、首を傾げる人がいると思うが、俺は俺の名前は俺だけのものではないと思う。
まず、我々には姓がある。それは過去に俺と同じ姓を持ち生きた人がいたという歴史を証明している。
姓に続く名は、連綿と続く一族のなかで、俺という人間を個人として確立せしめるものだ。それがなければ、俺は独立した個人たり得ない。
親が子に名を与えるとき、親個人の思いは当然強く働く。それは当たり前のことだ。だから、名は好き勝手に決めていいもので、人様の子の名に文句を言う意味が全然ないかというとそうでもない。
俺は、上記のように名前は俺のものであり、家族のものであり、広く一族のものだと考える。だから、俺は自分の子に名を与える際には二つの点を考慮するだろう。
まずは、俺の感覚からして美しく壮健な響きがあり、かつ表意文字である漢字の名を与えるだろうから、俺の「我が子よかく生きるべし」という思いが伝わるものがよい。二つめに、俺は、その名が200年前においても、また200年後においても通用する時代普遍性を持つものかどうかを検討する。つまり、歴史を背負える名かどうかを考慮する。
我が義兄の国オランダは、おもしろい国で、大麻もマリファナも合法なくせに名前の付け方については相当頑固で保守的だ。
兄貴の名はArendというのだが、この名前は彼の父方のお爺さんの名前なのだ。男の子には、父方の祖父、女の子には母方の祖母の名前を与えることがオランダの慣習であるらしい(「最近はだいぶ変わってきたけどね」by Arend)。これは個人に名付けの自由を与えない制度だが、他方で、先祖と自身を同じ名前で繋ぐという非常に有意義な制度だと思う。Arendのお爺さんがArendならば、当然Arendのお
爺ちゃんのお爺ちゃんもArendだったわけで、ご先祖様がいきなり身近に感じられる。
支配の正統性を相続する必要があった鎌倉時代以降の将軍や武将が、ほとんどの場合親から一字を貰っていることは、時代を繋ぐために必要な制度だったのだ。
人間の柱は、彼が身体的に宿した歴史の縦軸と、現在を生きる同世代(今を生きる人々)との横軸によって形成される。縦軸は尊敬、横軸は連帯。
以上からお分かりのように、俺は最近の名前というのはどうも歴史から乖離し過ぎじゃないかなぁと思っている。多少お茶目をするのはよいのだろうが。程度の問題なんだが。ひいお爺ちゃんあたりにきかせたら、びっくりするような名前ってかっこいい名前ではないだろう。
俺自身は、上で言った二つの規準に、”大地性”を賦与した名を息子には与えたい。息子には空を飛んでもらう必要はない。自分が生まれた土地にまずしっかり根を生って、そこから世界を平らげる、そういう男になって欲しい。田んぼに力と書いて"男"なのである。
その点、基という漢字は、どっしりと”土”が一番下でで構えている感じがするし、何より基=Foundation, Basementである。
ついでに友人の御爺様からいただいた有り難い歌を開陳せんとすー
三谷原丈夫備前和気爽やか皇国の基御先祖護らん
(みたにはら ますらおびぜん わけさやか みくにのもとい みおやまもらん)
Bon weekend!