”初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった”
新約聖書、ヨハネによる福音書第一章第一節の言葉である。
俺はほんのわずかに陽明学をかじっている。であるから、「知行合一」という言葉の重さを重々認識している。尊敬する山田方谷先生も、河井継乃介も、もちろん佐藤一斉を敬愛していた大西郷も、皆行動の人であった。
こう言明した上で、それでも俺は”言葉は神”であると思う。
我々は、言葉によって世界を認識し、理解し、解釈し、説明し、それにたまに満足し、不平を言い、毎日の平凡な暮らしを生きている。言葉によって他者とつながり、他者を傷つけ、他者へ愛を伝える。
言葉以上のものが我々の精神においてありうること、そのことを俺は否定はしない。親の我が子への愛は、言葉を遥かに超越したものであるだろう。
だが、そうであっても、世代を超えて俺と遠い将来をつなぐ唯一のものは、言葉以外にはないのだ。
この意味で、俺の言葉はーーーもちろん神ではないとしてもーーー俺の全人格である。この一年間、ろくに仕事もせずに、土日にBMWで箱根の温泉に浸かることを目的として生きたこの愚劣な男の全人格を表象するものは言葉なのだ。俺は言葉以外に賭けるものを持たない。そうであれば、俺は言葉以外によって俺を表現することを得ない。
だが、これは俺にとって制約であろうはずがない。
言葉の可能性は無限だ。言葉は、どこまでも通じる。いつまでも記録され、記憶されうる。魂の言葉は、現在と将来を生きる他者へ大きな影響を与える可能性を断固として握り続けている。
このブログを開設してから7ヶ月が経った。
俺は、ここで、様々なことについてそれらしく論じたり説明したりすることを目的としたのではなかった。経済や政治について論じることは、俺などよりはるかに上手くそれをなす者が社会にはいくらでもいて、そういう情報や意見というものは雑誌やテレビ、あるいは彼らのブログに氾濫している。
俺にしかできないこと、俺のブログでのみ皆が見つけられるもの。それは、なんだろうか。いや、そんなものはあり得るのか。
ないのかもしれない。あるとかないとか、そんなことは俺が決められる事柄ではない。
だが、”あるかもしれない”。何かを俺は皆に伝えられる”かもしれない”。俺の馬鹿げた言の葉の数々の一文に、一行に、何かを感じ取ってくれる人がいる”かもしれない”。
俺の精神は、この可能性を論理的に完全に否定できないという気概の上にかろうじて成立している、ひ弱で小さな石ころなのだ。
これまでの131個の投稿の全てを読んでくれた人がいると思う。
俺は皆が俺の言葉に共感してくれることを期待してはいない。
全ての人に無視される覚悟を持って、それでも見えない誰かへ宛てて、俺は書き続けるのだ。
これは絶対に自己満足ではない。もちろんそんなものではない。俺は全然満足していないのだから。
俺が満足する時俺は倉敷の墓の下に眠っているのだから。
”無邪気さがあるのはいかなる処にであるか?-すなわち、生産への意志の存する処にである。自己を超えて創造せんと欲する者、此者こそ至純の意志を有する。美があるのはいかなる処にであるか?-すなわち、われが一切の意志を挙げて意欲せざるべからざる処にである。”
ニーチェ、「ツゥラトゥストラかく語りき、上巻」新潮社、P.289