2010年7月9日金曜日

自動車のこと

最近日産マーチやVWのポロなどの通常のガソリンエンジン車の燃費がHybrid並みになっている。VWが得意とする小型エンジンをターボで過給して十分なトルクを得るーという方式は、広がっていくだろう。ターボ=スポーツカー=燃費悪というイメージはまもなく消えるかもしれない。
ひたすら大きく・重くなるばかり(そのほうが産業資本主義の成長には適していた。環境を無視できた時代には。裾野が広がりますから)だった自動車は、これから小さく軽くなる。一部の高級スポーツカーだけに使用されてきた超軽量の炭素繊維素材などもこれからどんどん使用されるようになるだろう。だから、諸君、自動車を自分の部屋のように使うのはやめよう。恐竜じゃないんだから。それがどうも地方に行くと、4Lのセダンやトヨタのランド・クルーザーに乗っていると女性にもてるからか、僕の故郷の巨大ショッピングモールの駐車場にもそういう類の車がいつもわんさと停まっている。若い男たちの車である。
車をでかくするよりも、自分の筋肉をでかくするほうがいい。
想像してほしい。真黒の小さなデミオから、180cm・80kgの筋骨隆々のスキンヘッドが、サングラスにタンクトップの黒尽くめのいで立ちで「資本論」を片手に降りてきたら、これはもう革命的なかっこよさである(デミオでは7時間で700kmを走るのは大変なので僕の車はデミオではない)。これは、「”かっこいい自動車”に乗ってかっこよくなる”俺”」ではなく、真逆の発想だ。「”かっこいい俺”が乗るから格好よくなる”車”」である。あくまで「俺」が主人公なのだ。これも、「天上天下唯我独尊」の精神の発露である。
ホンダのCR-Zが売れまくっているのは、必ずしもHybridのスポーツタイプだからではないように思う。それにしてもホンダは宣伝がうまい。主力はミニバンなのにいまだに「ホンダ=スポーティ」のイメージがある。F1もやめたのに。
「手ごろなサイズで燃費がよく、一人でもドライブに出かけたくなる車」というものが長くなかった。1990年代のパジェロなどのRV全盛の時代。その後の、RVの快適性をさらに高めたミニバンの時代。はっきりいって、俺からすると自動車不毛の時代とさえいいたくなる。
都心では若い男は33歳まで結婚しない。さすがに一人でミニバンはいらないし、アテンザ・アコードくらすのセダンでも大きすぎる。だから誰も車を買わない。都心部及び周辺でもひたすら渋滞でありますし。
はっきり言えば、「自動車が生まれたときから側にあった若者世代は、車にもはや憧れはない」というのは、魅力的な製品を作れない自動車メーカーの開発者の言い訳ではないのかと思う。
小さくて軽く、走って楽しい車。そういう車はまだまだ売れる。
そもそも、高燃費のために巨大なモーターを積んで車重を重たくしたり、製造過程での消費エネルギーが増大したのでは、そりゃもはやエコカーではない。三菱零式艦上戦闘機ではないが、軽いことは美徳である。人間だって、重たいより軽いほうがいいのだ。高く飛べるから。
我が意思のままに移動することは、動物としての人類の根源的な欲求だと思う。
自動車を自分で操って、遠くを目指すということは、それほど愉快だ。電車にはない歓びがある。
新幹線は大好きだが、電車のレールがどうしても好きになれない。だってあの上しか走れないのだから。電車は。しかも、電車には時刻表というものがあって、俺の好きな時間に走ってくれない。なんと不便な。
向かう方向が決まっている安心感、それが故の計画性。乗っていれば目的地まで運んでくれる快適性。そういうものを、「今の若者」は好むのだろう。だから、好きでもないことを真面目に受験勉強のために勉強するなんて芸当ができるのだ。
新潟の長岡まで走って行って、「さて、松本城を見に行こうか、それとも金沢まで足を伸ばそうか。それとも初めての山形に行ってきりたんぽ?」と考える時、俺の脳は麻薬を与えられたジャンキーのようになる。どういう状態なのか、科学的な言い方は知らんが、愉快なのだ。腹の底から。目的を持たぬドライブこそが、最も精神を自由にしてくれる気がする。

移動するためだけではなくて、乗る人に「喜び」「幸福」を与えられる車。今だってそういう車はあってしかるべきだ。と言うよりも、あれかし!といいたい。

金曜日の渋谷でのひどい戯言でした。
しかし金曜日の夜の東京の浮かれ方は凄い(=恐ろしい)。
みんな平日はいろいろ大変なんだろう。

山桜