2010年7月18日日曜日

大学生活事始

全ての戦略が、また戦術、作戦が、究極的な国家の大戦略(グランド・ストラテジー)に合致していなければならぬのと同様に、俺が
過ごす時間の分節も、それぞれが俺の大戦略に資するものであらねばならぬ。
普通教育以後、つまり高校に進学する際に、俺がそれからの三年という時間に与えた意味は、野球。チャーチル風に言えば、野球における勝利。他の全てのものを失ってでも獲得する勝利。そういうものに価値があると思い、取り敢えずそれ以外は無価値だと断じた。桑田の「全ては野球のために」という言葉に感銘を受け、食事、休養、その他野球以外の全ての生活の場面は野球におけるパフォーマンス向上に指向された。言わば、20世紀の国家総力戦を戦う国家の如く私生活の態勢を為したわけである。であるから、当時の俺に「勉強しなさい」ということは、昭和17年初頭の"イケイケ"の帝国陸海軍に、「平和が大事だから戦争はやめましょう!」と言うようなものだった。やがて、高校の先生達は、俺の昼食後の"仮眠"を許した。
当時の日本が悪しき従属の平和を求めなかったのと同じように、俺は野球
以外にはなにも必要ではなかった(たまに彼女がいもしたが。)

大学への進学は、単なる無駄と思われた。なにせ、ろくに勉強したことが
なかった。他者に教えられたものを制限時間内に正確に再現することを他人と競い合うことにも、様々な科目の内容にも、何ひとつ興味を持てなかった。だから、当然ながら、「大学にいったらまた勉強させられる、行きたくない。ましてもう十分体躯も成長し独立して生計を立てられるから、親に学費を出してもらってさらに四年間を過ごす必要は全然ない。大
学はいつでもいける」と考えていた。少なくとも高校二年生まではそう
だった。

ところが、ふとしたことで、俺は世界が俺が理解していたものとはひどく異なることを、歴史においてこれ以上ないであろうほどに暴力的なかたちで痛感させられた。そして、無知を恥じ、知らぬ世界を知りたいと思った。人によっては、そう思えばバックパックを背負って世界放浪に出るのだろうが、俺は大学の講義と図書館を目指した。

実際に、その場所に着いてみると、事情は随分違っていた。それまでそれなりに周囲から勉強しろというプレッシャーを受けて来た学生達は、全て
から解放されたかのような優しい表情をしていた。キャンパスはピンクと黄色であった。精神と肉体が「常に振り絞られた弓のように緊張し」(三島由紀夫)ている男は絶滅したのかと思われた。灰色の坊主、しかも、あろうことか、「大学に勉強をしに来てしまった」大錯誤者の坊主頭に、占めるべき場所は絶無であった。
俺が、積極的引篭と後に呼ばれる生活形式に、極めて積極的に突入したのは、自己の外部とのこの気持ちいいほどの断絶の故であった。周りには、日本人であることと同世代であること以上のことを俺と共有する者はいなかった。言葉は通じたが、意思の疎通は常に困難だった。彼等は、意思を保持しなかった。彼等は俺を煙たがり、俺は彼等を恐れた。金持ちたちのセスナの集団遊覧飛行に、一機、目を血走らせたパイロットが操る時代遅れの零戦が紛れ込んでいた。
俺は、無駄な付き合いと俺が独断したものを全て生活から排除した。

俺の愉快な学生生活は、こうして始まった。

山桜