2010年7月8日木曜日

独り言

W杯の最中の日本のメディアの「BBCはこう言った!」「スペインのこの雑誌のある記者はこう言った!」という類の他国の評判を異常なまでに気にし、ほめられれば舞い上がらんほどに喜色満面になるあの様相はなんなのだろう。違和感を感じた人も多いのではないだろうか。
なるほど日本はサッカー後進国だ。二連覇を達成したWBC(World Baseball Clasic)ではないから、“先進国”の日本評を気にかけるのは当然なのかもしれぬ。
だが、それにしてもあれは少し俺には異常に映った。それはおそらく、日本人全般の内心に潜在的に存在する確信の不在だろう。抽象的な言い方だが。何かを評価するには物差しが必要だが、この国には物差しがないのだ。だれかに借りるしかない。
そして、自分の独自の物差しを持たぬことが、サッカーのような日本がいまだ遅れていると自覚される競技についてはあからさまに出てしまうのだろう。

就職活動という変なものがあるのだが、そのなかでもさらに変なものがある。OB訪問というやつだ。この変なもののなかのさらに変なものを実行する学生は少なからずいて、そのうちの変な学生は、決まって変な質問をする。
「山桜さんの御社への志望動機はなんですか???」というのがそれだ。
最初の三人は真面目に答えた。しかしそれが限界だった。四人目の学生さんが同じ質問をしたとき、俺は「僕の志望動機があなたの就職活動、人生についてどういう意味があるんでしょうか?教えてください。」と言った。彼はだまってしまって、少し考えてから、「いや、やっぱり御社に入社する人はどういう考えて入社するのかなぁと思いまして」
全くもって理解不能な言葉である。日本語の文法としては正しいのだが、この発言の裏にある論理を僕は全く想像できないから、この問いへの的確な回答を準備することができない。
それと、会社を選ぶ際に、あるいは面接で「決め手は人でした」という人。そりゃないだろう。
入社して、「人」がやくざかごろつきみたいな人しかいなかったらどうするのだろう。「決め手は人でした」は、実は「御社は人以外にさしたる長所はないですね」と言っているように俺には聞こえる。
俺は、マキャベリズムに徹し、目指すべき目標のためには隣でゴジラが火を吹いていようがそれをやる!という覚悟で仕事をすることが、人間の幸福だと思う。

選挙カーに犬の着ぐるみを乗せて拡声器で騒音をまき散らすこの国の選挙に、永遠の幼稚園国家の真髄を見た。

廣末渉「『近代の超克』論」を読了した。
廣末の本をこれまでに数冊読んだが、最も興味深い本である。
「近代の超克」という言葉が人口に膾炙したのは、昭和17年10月号の「文学会」に掲載された「文化総合会議シンポジウム」をきっかけとする。
廣末は、「戦時下における近代の超克論は、決して京都学派の末流が偶々時流に阿って思いつき的に漏らした迷論といったものではない」という。それは、竹内好に従えば、「いわば、日本近代史のアポリアの凝縮であった。復古と維新、尊王と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、総力戦の段階で、永久洗脳の理念の解釈をせまられる思想課題を前にして、一挙に問題として爆発したのが『近代の超克』論であった」のだ。
いや、ここでは深入りはすまい。ただ、三木清をはじめとする「昭和研究会」(近衛のブレーン集団)に参加した転向左翼の”右翼っぷり”と、大川周明など右の右と見られているものの”左翼っぷり”を目にするとき、昭和のこの時代にあっては、左右どちらの翼のインテリ層にとっても、資本主義の問題(世界恐慌、世界経済のブロック化、通貨切り下げ競争。。。)、東亜の統一という課題(西欧列強に蹂躙されていた東亜諸国)は、支那事変から大東亜戦争への続くこの一連の大騒動と日本の最終的な勝利によってしか克服されえぬものであり、それこそがこの戦争の世界史的意義であると認識されたのであろう。
三木清は、「1927年に上京して後、教壇に立ちながらマルクス主義の論文著作を矢継ぎ早やに発表し、、、昭和5年には共産党に資金をカンパした廉で投獄されるにおよんだ」ほど熱心なマルクス主義者だった。
彼は転向後、こう述べている。
「支那が近代化されると同時に、近代資本主義の弊害を脱却した新しい文化に進むことが必要である。東亜の統一は、欧米の帝国主義の羈絆(きはん)から支那が解放されることによって可能になるのであって、日本は今次の事変を通じてかかる支那の解放のために尽くさねばならぬ(つまりは「戦争支持」である)」
これを読めば、左翼だとか右翼だとかの色分けがもはや無駄であることは一目瞭然と思う。「巨大財閥と軍閥が推し進めた帝国日本の侵略戦争」というのは、戦後に力を得た左の翼の人士が言い触らした嘘である。これに我々は洗脳されてきた。アメリカの洗脳プログラムであった。
それにしても圧倒されるのは、京都学派の一人高坂正あきの次の発言だ。
「今できつつある新しい世界に対して、日本はどういう意味を持たせられているか、どういう意味を実現しなければならないか、すなわち世界歴史の上における日本の使命はなにかという点になると、西洋のどようやうな思想家からも無論教えられるわけにはいかない。そのためには日本人が日本人の頭で考えなければならない。それが現在日本で、世界史の哲学が特に要求されている所以だと思う」
過去の日本人(の一部といってもよいが!)は、かくの偉大であった。世界史に対して日本人は、我々はいかに貢献できるのかを問う。そんな暇人はそうそうおらんだろう。「自分の頭で考える」こと。これほど困難な挑戦はない。誰にも「教えられるわけにはいかない」!!!

山桜