2013年8月7日水曜日

もうすぐ帰国

○オバマ大統領の演説の真似もできるしチャーチルさんの真似もできるが、チャーチルさんの言葉をオバマ大統領のあの抑揚のついた元気なトーンで話すのはかなり難しい。チャーチルの演説はイギリスの天気のように陰鬱なんだが、恐ろしく気合が入る。

○"In my country, as in yours, public men are proud to be the servants of the State and would be ashamed to be its masters."

ーチャーチル
1941年12月26日、米国議会での演説で

○石原莞爾に欠点があったとすれば、それは彼が自分の行動の他への影響をよく考えられなかったことかもしれない。満州事変を主導した石原は、明らかに中央無視、下克上、独断先行の昭和の日本陸軍の悪しき風習を作った。その最大の理由は、満州事変が全体としてあまりによく計画され、関東軍の電光石火の攻撃で中国東北部の重要拠点を瞬時に占領し満州国の建設にまで至ったからだ。この事変の大成功を受け、石原はこの後中央の要職である陸軍作戦課長、作戦部長へと出世していく。石原が満州を離れて東京にいた時、中国本土と東北部を分離しようとする工作がうまく行かず、挙句に1936年には国共合作によって反日の統一戦線が中国にできた。この問題の解決のために、石原より若い、より過激な陸軍将校が、5、6年前の石原と板垣による満州事変を思い出し、1937年の柳条湖事件の後は一気に戦線を拡大していったであろうことは容易に想像できる。だが、彼らには、石原のごとき透徹した戦略眼はなく、中国との戦争はただちに全面戦争へといたりやがて泥沼化していくことまでは予見できなかった。柳条湖事件の直後に石原本人が、事件の不拡大方針を伝えにわざわざ東京から新京の関東軍司令部を訪ねたことは歴史の皮肉である。石原自身が、たった6年前には中央の以降を全く無視して満州を我が物としたのである。仮に石原が1931年に満州でなしたことが、指揮命令系統を逸脱した暴挙であっても、結果がよければすべてよしとすることもあり得ただろう。しかし、その後に彼を中央で出世させたことは、後の帝国陸軍に遺恨を残したように思う。人事と論功行賞の難しさである。

○フェイスブックは2ヶ月で終了。食わず嫌いが正しいこともあるという典型である。ブログは、誰にも読まれないだろうが、フェイスブックはほとんど強制的に「友達」に俺の記事を読ませるところがある。だから皆「楽しかったー」「美味しかったー」などを載せるわけだが、寂しがりや以外には、純粋に徒労である。