虎の子はジャングルに、熊の子は森に、土竜(もぐら)の子は土中に生きることを宿命付けられている。
我々人間は、いや人間の子は、何を宿命として生まれてきたのだろうか。
生産の効率化と利潤の最大化によって特徴付けられる資本主義経済社会だろうか。
国家という団体が政府を持ち、ほぼ強制的にこの団体への帰属を要求される政治システムだろうか。
地球を支配する万物の霊長としての責任だろうか。
もし旅という道楽に我々の思想にもたらす何かしらの意義があるとすれば、それは自分の現在の環境=世界は、けっして虎の子にとってのジャングルではないということを体験できる可能性だろう。東京からNYCに行くのはインドネシアのジャングルからボルネオのジャングルに行くのとさして変わるところがないが、世界には我々がいかに「現在とは違う仕方で存在し得るのか」を示してくれる文明が山ほどある。近代主義的な人類学者のように電話を使ったり車に乗ったりしたことがない人を見て面白がればよいというのではない。
自分の現在の環境=世界が、唯一絶対の世界であり、従って自分はその世界とそのメカニズムに従う他ない存在であるという諦めは、我々の精神を毒する。俺は内心において常にこれを拒否し続けるだろう。
世界を隈なく旅しても、遺跡や都市を、動物園のライオンや猿を見るように自分の「外」にあるものとしてしか見物できないのでは、旅から得られるものは日本より安く買えたポーランド製のルイ・ヴィトンぐらいだろう。
世界は広く、我々は多様である。
だからこそ、俺は日本に拘るのだ。
「わが命月明に燃ゆ」を旅路で読む。
自分がいかに愚劣な人間であるかを痛感する。
Boston のPubにて酔っ払いが記す