2013年8月18日日曜日

アメリカと宗教

アメリカの根本を支える宗教を、「宗教からよむ『アメリカ』」の著者・森孝一は、「アメリカの見えざる国教」と呼ぶ。プロテスタントを最大勢力としながら、これにユダヤ教、カトリックを信仰する者を含めた国民の大多数の「見えざる国教」が、WASP、黒人、富裕層、貧困層などを束ねる役割を果たしてきたという。アメリカは、イギリスに対して反旗を翻しはしたが、けっして神に対してはそうしなかった。

アメリカの大統領就任式をみれば明らかなように、戦後、政教分離を間違えて理解した日本と違い、アメリカのConstitutionは、宗教の存在を前提として成っている。ここでConstitutionとは憲法でなく、アメリカの国体、或いは国柄(Nationhood)と言ってもよい。自由と民主主義という御題目は、単なる世俗的な政治信条である以上に、神がかりの崇高さを付与されて論じられていることを否定する人はいないだろう。
ワシントンが「見えざる国教」の開祖であるならば、リンカーンはこれを解釈し直し、連邦を守り、そして凶弾に斃れた殉教者である。その系譜に黒人として初めて大統領になったオバマ氏は連なっていくのかもしれない。
そう考えれば、オバマ大統領の、教会で牧師が行う説教のような演説にもなんとなく合点がいく。森が言うように、アメリカ国民は元首たる大統領に、精神的指導者たることを期待している。その大統領のイメージは、かなり牧師のそれに近いはずだ。

数年来考えてきたことであるが、アメリカではこれからこの「見えざる国教」というものの立場が劇的に変わってくる。多数派であった「白人・プロテスタント」は徐々に少数派になっていく。真の坩堝になっていく。
それに加えて、プロテスタント内部でも、聖書をどう解釈するかという問題は極めて重大だろう。
同性婚の権利を人間の不可欠の権利だと信じる西海岸の若者と、結婚は異性間のみでしか許されないと信じるテキサスの初老の夫婦の意見の相違は、「多様性を重んじよう」という気楽な言葉で片付けられるものでは全くない。多様性のなかに何を含めるべきかという議論なのであって、多様性という言葉はどんな主義主張の牙を抜いて放り込んでおける四次元ポケットではない。自由の国アメリカが、あれほど国旗にこだわるのは、たまに異様に思えるほどこだわるのは、プロテスタント国家という出自にも原因するのだろう。

"Christianity's Dangerous Idea"の著者・Alister McGrathは、マルティン・ルターの宗教改革の時代から、プロテスタンティズムの歴史的起源と知的基盤は、聖書の解釈権を権威(=ローマ法皇)から奪って個人にこれを与えたことに由来しており、従ってそもそも多様性と摩擦を内在的に孕むものだという。

世界最強国アメリカは、世俗国家ではない。そして宗教がこの国の外交と内政に及ぼす影響は、日本人には容易に理解し難いほど深いものであるようだ。
であるならば、これからアメリカの「見えざる国教」がどう変わっていくのか。そもそも存在し続けるのか。支配階級の宗派であったプロテスタントがこれから如何に変わっていくのか、如何に分裂するのか、はたまた統合されるのか。
これらは単なる学術的な問題である以上に、政治外交に関わる者には大切な問いであるように思う。

ご覧の通り、これから勉強しますという宣言です。
レベル低いなぁ。もう30年も生きてこれだよ。何してたんでしょうか。