2013年8月15日木曜日

正義と平和

エジプトでまた沢山の血が流れるかもしれない。欧米のニュースはエジプトにかかりきりだ。「正しいこと」を求めては血が流される。正しくないことを求める邪悪な人間たちの血だけが流れるのであれば、まだ救いようがある。

ニューヨークの自然史博物館には、T.ルーズベルトの「正義か平和かのいずれかを選べと問われれば、私は正義を選ぶ」という言葉が入り口に刻まれている。なぜ自然史博物館にルーズベルトのそんな言葉が?というごもっとも問にはここでは触れぬ。

正義があるのか、就中(なかんずく)ある政治的共同体の全員が同意できる正義が存在するのかということさえ、大いに議論できる論点だろうが、これも今日は触れないでおこう。

疑いもなく、正義と平和の問題は数千年に亘り政治指導者を悩ませてきた問題だ。なぜなら、この問題は究極的に解決することが絶対不可能な状況において問われるからだ。

沖縄の一部の人は、「基地があるから戦争になれば最初に攻撃される」と言う。しかし、それでは基地のない沖縄にある国が侵略攻撃をかけてきて、無血で占領に成功した時、その犠牲となった、「攻撃されていないにもかかわらず、他国を軍事力で以て威嚇、攻撃、または他国領土を占領しないこと」という最低限の「正義」は誰も気にもしないのか?

さりとて、河井継之介の北越戦争のように、自らが信じる正義のために戦い、結果その土地の民に塗炭の苦しみを与えてしまうことに対しても、指導者は当然に結果責任(マックス・ウェーバーの責任倫理)を負う。

究極論として「他国の侵略を受けようが、支配されようが、民主主義も自由も日本語も何もかも奪われようが、戦って死ぬよりはいい」という絶対平和主義もあり得るだろう(ガンジーの平和主義はこれとは違う)。
ここまで言わずとも、北越戦争の結果を知っている我々は、河井継之介は北越戦争など戦わずにさっさと官軍に靡いていればよかったのだと考えることがないではない。この考えを現在に敷衍すれば、「侵略の歴史を否定して再軍備を計る日本などという国と政府はなくなり、中国共産党政府かアメリカ合衆国政府の統治を受ければいい」という理屈もあり得る。

平和主義は、正義を志向しないという意味で、非・正義論なのではなく、「生存と安全以上の価値はない」という異常なまでの「生存と安全」の重視とその他の価値に対する軽蔑を含んでいるという意味で、無・正義論なのだ。非・正義主義なら「これは正義に非ず」と言いうるが、「生存と安全以上の価値はない」という社会において正義はその存在そのものが「無い」。

日本の平和主義憲法は、常に正義ではあり得ない。なぜなら平和と正義は多くの場合、一致することはないからだ。
もし仮に、「自分たちはあまりに馬鹿なので正義などと言いながらまた侵略戦争を始めてしまうんです」と言う人がいるならば、もう日本に民主主義はいらないし、誰か他の民族の独裁権力に支配されればよかろうと思う。