2011年12月31日土曜日

29歳の顔

べべすけ、君の両親の平成23年12月30日の顔です。
父の髭面の理由は、この数週間「坂の上の雲」のドラマをテレビで観ていたからです。だから、最近の口癖は、

"ゼット!!!掲げぇぇっっっ!!!"

母の色白の理由は、パス牛乳をよく飲んでいるからです。

伊豆、大室山に登るロープウェイにて。

2011年12月28日水曜日

年の瀬に

いつの時代も、自意識過剰な我々は、自分たちが生きている時代は特別だと思いたがるものです。
自分という個人が社会のなかで特別な存在でありたいと思う感情と脈通じるところがあるものでしょう。
自分が生きている時代で世界が終わるとか、自分は世界の大転換の時代に生きているとか。
自分の死が世界の終末や現在の世界のあり方の終わりであると信じたい人は、確かに一定数存在します。

東北での大震災後、こういう言説は強化されました。
そりゃそうです。
映画「ディープ・インパクト」のような世紀末的映画でしか観られそうもない巨大津波が文字通り町そのものを飲み込んでいくところを目撃した我々は、原子力発電所の破滅的な危機も相俟って、世界はもはやこれまでと同じではありえないとか、世界は変わらなければならないとかいう多くの声を聞かされています。
もちろん、それは、多くの利益団体や既得権益者にとって、自分に望ましい方向に社会を変えるための最大の機会であるという大きな理由もありますが、最初に書いた理由からも、恐らくそれだけでは説明できぬものでしょう。

同じ年に、近代国民国家を真っ先に作り上げた欧州はといえば、終わりそうもない金融危機にのたうち回り始めました。
そして、民主主義が必然的に招導する財政における社会民主主義が、論理的帰結として財政危機に至るという現実を我々は目の当たりにしています。
そして、それが破裂したとき世界がどうなるのか、誰しもが固唾を飲んで見守っている、なんてことはありませんね。

大袈裟に言えば、産業革命以降の世界を形作ってきた技術主義と、資本主義と国家主義のアマルガムとしての大いなるシステムが終わろうとしているという時代認識がかつてないほど強烈に意識された年が終わり、新しい年がやってくるわけです。
だけど、新幹線は去年と同じように今年も年末年始の帰省客をいそいそと大量かつ正確に運ぶし、阿呆な芸能人はハワイに出かけ、大衆はその映像を居間のコタツで観させられるのです。

東北が、日本が、どれだけの損害をこうむったとしても、それは日本人1.28億人全員の生活を変えたわけではないし、まして世界をひっくり返したわけではないのです。

我々はひたすらに終わりなき毎日を生きて行かねば、生き抜いていかねばならぬということです。
年の瀬で区切りがつくものなんて、実際のところ何かひとつでもあるでしょうか。
恋愛、夫婦関係、仕事、戦争、外交交渉。
北朝鮮のミサイル、拉致問題。中国の海洋進出。欧米と日本の債務危機。
すべて、今日のこの日にも大いなる問題であるし、来年の元旦にもそうであるし、恐らく来年の年末にはさらに悪化しているのでしょう。

だから、年の瀬だ年賀だといって、ひたすらに流れていく自分の人生や歴史に、なにか決定的なものが生まれるわけではないし、新しいものが始まるわけでもないのです。

むしろ、これだけの危機の年の後であっても、こんなにも普通に正月がやってくることの異常さに注意したい。
そして、そう思うとき、我々の人生はどこまでも、ひたすらに平凡なものだと思い知らされます。
これだけ破滅的と思われ、実際そう言いふらされる地震や危機の只中にあっても、我々が生きているのは平凡なる日常でしかないのです。

人生に意味などない。そうかもしれません。
確かにあるとは言えない。少なくとも、「俺の人生には意味がある」ということを証明することは絶対にできないのです。
肉親を失った多くの同胞に、そう強く言いたいとも思わないし、それが正しいことだとも思えません。

だけど、そうやって平凡な毎日のなかに一度沈み込んでから、泥にまみれて這い上がってくるところに、我々の命が輝く場所が漸く存在するのだと思います。

人生を、「どうせ終わるものだから」と思って享楽的に生きて快楽主義に堕していくことも、あるいは阿呆な宗教者のように人生に大前提的に意味があると考えて熱狂することも、はたまた自分が他の時代とは異なる特殊な時代を生きていると妄想することも、畢竟、格好悪いのです。

格好良く生きよう。
断固たる決意を持って。

俺のために生きてくれたすべての人のために。俺の後に続くすべての人のために。

すべてを受け入れながら、しかしすべてに反抗しながら。

三谷原基拝

2011年12月23日金曜日

CDGにて

面白い本を読んだ。
小倉恵美子「オオカミの護符」新潮社、2011年。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%81%AE%E8%AD%B7%E7%AC%A6-%E5%B0%8F%E5%80%89-%E7%BE%8E%E6%83%A0%E5%AD%90/dp/4103316918
「社会にとって大切で必要であるけれど、まだ仕事になっていない多くのことがある」という言葉に強い印象を受けた。
その通りなのだ。
どれだけ優秀であっても、誰かが作った仕事をしている限り、どれだけの成果をあげても単なる秀才の域を出ない。
親になる身としては、我が子には「将来どんな仕事をするか?」などと訊くのは絶対しないことにしよう。ばかげている。
ただ、こう伝えるのだ。
「お前は日本を背負うために生まれてきたのだ。しっかりやれ」
こう言っておけば、まさか「職業の名前」で仕事を選ぶような阿呆にはならんだろう。そんな輩ばかり見えるのだが。
ところで、このオオカミ系の新しい本だが、抜群である。
俺が暮らす横浜市青葉区から程近い川崎氏宮前区土橋に昔からある”百姓”(なんで”百”なんでしょうね)の家に生まれた著者は、東急電鉄の大掛かりな開発によって田畑しかなかったこの土地がどんどん見目麗しい先進的な郊外都市になっていくのに戸惑っているとき、ふとオオカミの護符が彼女に目に入ってきたという。
そして、物語は青梅の御岳山のオイヌ様信仰を謎解きに至る。
青梅のオイヌ様といえば、その昔神武天皇東征の折に、このあたりに到着したとき、この地の神が怒って巨大な鹿を神武天皇の前に遣わし道をふさいだときに、二頭のオオカミが現われて神武天皇を導いたという伝説がある。
俺が、去年「狼=大神」というタイトルでこのブログにひとつ記事を書いたのはこの伝説に因る。
こういうふうに歴史を学ぶべきなのでしょうな。
織田信長が毛利ヤノスケに桶狭間で一番の褒賞を与えたとか、真珠湾攻撃のときに山口多聞は第二次攻撃をやる気満々だったとかいうも歴史なのだが、そうではなくて、自分の先祖が何を信じて何を思って生きてきたかということを知ることが、一番大切ではないのか。
そして、そういうことを物語ることが大人の仕事ではないのか。
あぁ、日本昔話を観たい。

TPP。
TPP反対というと、過去数ヶ月の間に何人かの人に「農協守って日本滅ぼすの?」と言われた。
前原さんの洗脳にどっぷりか?
このTPPは、明らかに覇権国家を諦めて帝国主義国家へと舵を切ったアメリカの東アジア・西太平洋政策の根幹を成している。
アメリカは、増大し続ける戦費をまかなえずにイラクとアフガンから撤退し、リビアにはトマホークを控えめに打ち込んだだけで大規模な作戦には参加せず、ムバラクに至ってはだんまりを決め込んでなるにまかせて失脚させた。
金融緩和と量的緩和を史上かつてないほどのレベルで行うことでドルを減価させ、輸出を増やそうと躍起である。
国内で豊富に産出されるシェールガスのために、アメリカはガスを中東から輸入する必要がなくなり、逆にガス輸出国になることすら考えられる。つまり、中東に巨大な軍隊を貼り付けておく必要はもはやない。もっとも、サウード家のアラビアが崩壊して油価が暴騰するところまでは許さないだろうが。
アメリカは、これから、世界全体のことになんでも空母を覇権する超大国・覇権国家であることをやめて、それよりも安上がりで効果的な19世紀的な帝国主義国家になることを戦略として選んだのだ。
この視点でTPPを考えるべきだ。
日本は戦後60年間、ひたすらアメリカに貢ぎ続けた。TPPはその最終装置である。もちろん国内にこのアメリカ勢力と利益を一にしている者(大手製造業、大手商社など)は存在する。その声を代表する新聞(日経)もある。
問題はイランだ。
もしイランが俺と同じように考えているとイスラエルが考えたら、イスラエルはますますイスラエルへの先制攻撃の誘惑に強く駆られるだろう。最近テヘランはホルムズ海峡封鎖作戦を実施するとかしないとか言っていたが、これなどはこういうブラフを言い、行いながら、ワシントンの反応を注意深く探っているのだろう。
アメリカが世界帝国をやめるとき、もっとも危険なのは中東である。東アジアは、将軍様が死んだといってもいまだにアメリカの強大な戦力がグアム・日本に維持されており、すぐに危機にいたるとは考えにくい。
地政学的に言えば、巨大な帝国主義国家は海洋覇権を巡って対立する運命にある。その意味で、大日本帝国とアメリカが戦ったのもマクロの視点から言えば、石原莞爾が言ったように歴史の必然であったし、これから中国とアメリカが対決をしていくのも当然のことだ。サンフランシスコの近海に中国の空母が遊弋することをワシントンが絶対に受け入れられないように、北京も台湾海峡に米空母がスィーと入ってくるのを許すことができない。
で、わが国はどうするのか。

橋下大阪市長と堺屋太一氏の共著(文芸春秋新書だったはず)を読んだ。
すべての組織は、自己の存在意義を肯定することを前提とする、激しく同感である。
だから、行政の側によって既存の行政組織(それがすでに機能していない場合)を改革してどうするこうするなど、できるはずがない。それは、大阪市役所だけの話ではなくて、つまりは日本国家のことでもある。
平松前大阪市長は、橋下氏の「大阪都構想」について、「大阪都?できるわけありまへん!」と見得を切っていた。
喧嘩慣れしていないまじめクンの発想である。
過去たった500年を振り返っても、世界でどれだけの帝国が崩壊し、王様が国を追われてきたことか。俺がいまこれを書いているフランスなどは、王様の首をギロチンでチョッキンと切ってしまった国だ。それが、自由・平等・博愛の国というのだからねぇ。
そういう歴史感覚で大阪や今の日本を眺めれば、「大阪都?できるわけありまへん!」なんて言葉は絶対に出てこないのだ。
「なぜ大阪都構想はだめなのか?」について平松氏は一生懸命語ればよかったのだ。
「これは戦です」と言う橋下氏は、政治の本質を誰よりもよく理解していると思う。
すでに利益を握っているものから奪い取りに行こうというゲリラまがいの戦い方は、すべての革命家が行ってきたことだ。多勢に無勢での戦いを始めたからこそ、革命家は革命家なのだ。
これから橋下人気に中央の怠け者政治家がすり寄って行くだろう。数年後に、橋下総理大臣ということもあながち無茶な想像ではなくなってきた。
時代を維持するのは常識人で、時代を作るのは変人奇人である。
今の日本に必要なのは、破壊である。

チェ・ゲバラの名言。殺されるその瞬間に射手に対して、
「落ち着け、よく狙え。お前をこれから一人の男を殺すのだ」
すごい。
なにがすごいのか。
彼は、別のところでこうも言っている。
「世界の別の場所での不正を自分のことのように思える人になりなさい。それこそが革命家としてのもっとも美しい資質なのだから」
彼は、自分の命を絶とうして狙いを定める射手に対して、自分のことを考えずに、射手のことを考えている。
命が奪われるその瞬間にさえ、「あ、こいつ俺を殺すのに緊張してやがる」と思える男というのは常軌を逸しているのだが、ゲバラはそのレベルの人間だったのだろうと思う。

少し前にスターバックスを設立したハワード・シュルツ氏の本を読んだ。「スターバックス成功物語」。
株主対策という面もあるから、8割りがけで読む必要はあるが、スターバックスがどういう会社になりたいのは気持ちいいいほど伝わった。
世の中、正しいことなどない。いや、あるんだけど。誰もが好き勝手を言ってえらそうにしていやがる。

子供の名前は、女の子なら「三谷原優子」、男の子なら「三谷原国義」とすることに決めた。
ぜんぜん優しくないサッチャーのような女や国の義なんてどうでもいいと叫ぶ新時代の共産主義者になるかもしれぬが、まぁそれはそれでよかろう。
なんせ俺の名前は、「基本が大事じゃろうが」ですから。
ちびすけを抱っこしてショルダープレスをしたりスクワットをしたりするのが今から待ち遠しい。

2011年12月17日土曜日

呆け頭の独り言

こんにちは。

よい天気です。
冬だというのに、南を向いた窓の傍の僕の書斎は、右舷45度からの真冬の温かい陽光が黒のアンダーアーマーをぽかぽかに温めてくれて、ついつい読書をしていると睡魔ーなぜこれは睡”魔”なのでしょうねーに襲われてしまいます。
まったく、こういう休日の昼下がりに、妻が淹れてくれたスマトラの珈琲を飲んでいると、ドイツが南欧のひとたちの生活を破綻させてでもハイパーインフレの悪夢を絶対に避けようとしていることや、アメリカが世界帝国たる目標を捨てて)、代わりに確固たる帝国主義国家としての勢力圏をTPPによって東アジア・西太平洋に作り上げようとしていることや、大王製紙の元会長のかつての香港での豪遊や、東電福島第一原子力発電所の怪しい「冷温停止」や、東北の被災地に訪れた厳しい冬のことなどを、完全に違う世界のことのように思いがちなのは、一体全体僕の想像力の欠如の故なのか、それとも一見したところ明らかな幸福の悪しき結論なのか、よく分かりません。
実のところ、最近の仕事における忙しさによって、頭が多少呆けているようです。暖房のせいでしょうかね。

僕の妻のお腹に僕らの子供が生まれたことが判ってからようやく1か月半が経ちました。
もうすぐ妻の妊娠も五か月目になります。
自分が父になる準備が完全にできたと思って父になる男がいないということは、死が眼前に訪れたその瞬間に、なんの後悔もなく健やかに死ねる確言できる男がいないということと同じように思います。
だけど、それでもみなたまに苦悩呻吟しつつ、たまに悦びに泣きながら、父となり、親父となり、爺ちゃんになり、死んでいくのでしょう。
死に向かう道程に数多ある一里塚の一つが、我が子を生み育てることであるとすれば、確かに僕はこの小さな世界のなかを走る自分の一本道の宿場のうちで、疑いもなく最大のものの一つにようやく到達しようとしているようです。だからといって、そのことが意味するものは僕の個人としての偉大さへの接近でも後退でもないことは明らかですから、僕は自分の子供だけを生きがいとして生きるようではいけないわけです。これは、絶対に正しいことです。
というよりも、生きがいがなければ生きられないという弱い男では生きる価値はないし、さっさと死ねばいい。生きがいなんぞあろうがなかろうが、ライオンはシマウマを襲うし、人間は戦争に向かうのです。

なんと言えばいいのでしょうかね。
僕は、足りぬ頭で自分の子供が生まれるということの意味を、論理的に記したいという欲求を抑えることができないのだろうと思います。
だけど、歌い踊ることが常に論理を超え出て行くように、この世界には確かに論理と科学では捉えきれないものがあって、自分の子が妻の子宮に宿っているという事実そのものが、記述の対象ではないように思います。
別に、それを感動的なことだ!と決めてかかっているわけではないのです。
なぜといって、どれだけ個人にとっては感動的で衝撃的な自分の子供の誕生も、統計的に見れば一つの数字でしかないし、産婦人科の看護婦さんからしたら、僕の子供の誕生は、僕がオフィスからお客さんに電話をして話をすることとさして変わらぬことでしょう。

子供が出来ると、死がそれまでよりも身近に感じられるという体験をした人が必ずいるはずです。
新たな命の誕生の予感はーしかも自分の命を引き継ぐ自分の子供ーは、その反対側にあるもの、つまり自分の死を、とても優しい女性的な方法で僕に突き付けざるを得ません。
新しい世代が生まれ、成長していくことは、必然的に、自分が老い朽ちて骨となっていくことと完全に生物学的に連動しているわけですから。

結局のところ、孤独と死こそが我々にとって最も大切な友人なのです。彼らは、常に僕の側にいて、僕を詰り、中傷し、励ましてくれるのです。
妻と子を、人生における救済者としてしまうところに我々男の最大の過ちがあるのです。そうすることによって、男は男であることをやめてしまうのです。いや、それが幸福であるという選択もあるのでしょうが、それは僕が認める「男」としての生きざまではないのです。
むしろ、彼らは、われわれに生きがいを与えてくれる人たちではなくて、家族という最も近い存在でありながらも依然として渾然一体とはなれぬという現実を我々に明証することによって、我々を叱咤激励してくれる、そういう存在なのだと思います。男は、無意味な人生という当たり前の現実から逃げることなく、その荒漠たる砂漠にビルを建てるように自らの意味を打ち建てる場合にのみ、男たりえるのです。
もし、自分の家族が存在しなくなったときに、打ちひしがれてすべての活力を失い末人のような風貌を曝す弱い男を、どうして妻も子も尊敬して憧れてくれるでしょうか。僕は、弱さの故につながりあう二人の関係を唾棄したい。強さと強さーそれは、互いの死を別個のものとして断固として受け入れて、個人としてこの世界に立ち上がった男女の精神の姿勢ですーで結びついた男と女でなければ、世界に「否!」と喧嘩を売ることができる個人は育てられません。

そう理解するからこそ、われわれは、「他人」である家族を愛してやまないのです。

妻が後でぼそっと言うのですが、「誠実であることは孤独だ」そうです。
ふーむ。

ではまた。
最近ノートに書きためていることを書き連ねようと思います。



2011年11月7日月曜日

合理性の陥穽

自分の将来について考えるときに、ロードマップを描いて段階的に課題をクリアしていくことはよいことだが、ここには一つの問題があるように思う。

現在から将来を見通す自分は、当然ながら現在の自分だ。20年後のあるべき自分というのは、10年後の自分がさらに10年を生きた後の自分なのだが、この10年後の自分がどうあるかついて判断するための基準は、いまこの瞬間の自分だ。

だから、この目標設定は、それまでの人生での自分の生き方や実績を考慮した上で作られる、合理的な目標になりがちだ。だからこそ、現在の自分からみて実現可能(と思われる、合理的な)小さな課題を順に積み上げて行く。

中卒の人が一部上場の会社をつくるというような"夢"は、この思考からはどうしでも辿り着けない。

将来の俺は今の自分からは想像もできないほど大きな人間になっているだろうし(というよりも、今の俺の人間が小さ過ぎる)、またそうでなければ俺は俺自身に退屈してしまうだろう。誰よりも永く付き合うのは俺自身なのだから、俺は自分をわくわくさせるような自分自身であらねばならん。そこへ至る道をいまの俺は想像できないが、もしできるならば俺はすでにそんな人間になっているはずだ。だから、諦める必要は全然ない。

つまり、可能性は上にも下にも無限だ。 俺自身が勝手に縛り付けない限りにおいて。

中庸の暮らしが保証されていない代わりに、俺は何物にでもなれる。

もうすぐ人生の半分の30歳だがこの確信は揺るがない。

中卒だった本田宗一郎は、ホンダがただの部品工場だったころから、朝礼でみかん箱に立って「世界のホンダになる!」と叫び続けたそうな。そして、この非合理的な目標を達成するために合理を超越した努力をひたすら続けた。その結果が、いまのホンダなのだ。

必死即生也。


2011年9月26日月曜日

「関東=関の東」


土光敏夫さんの書棚にあったという本を10冊ほど買ったのだが、そのうちの一冊がこれ。
高橋富雄「東北の歴史と開発」。

読書メモです。一章だけだけど。

我々はいつも何も気にすることなく「東北」とか「関東」とか「関西」と言うのだが、例えば「東北」というのは、どこか特定の場所から見た場合にのみ、「東北」と呼ぶことができるだろう。つまり、「東北」という地域が存在するためには、その反対(つまり東北からみた南西方向)に、「特定の場所」が存在しているということだ。世界システム論風に言えば、「中心‐周辺」が存在しているということになる。

東北という地方は、3月の東日本大震災が起こる遥か遥か昔から、日本という国において特殊な場所である(北海道、沖縄の特殊性と質的には同じだ)。日本という国は、神話時代から奈良時代の頃まで、今の日本国家の領土的範囲を持つものではなかった。

例えば岡山県が含まれる「中国地方」は、かつて「なかつくに」と呼ばれていたのだが、これは明らかに三備(備前・備中・備後)を中心とする地方は、かつて近畿の大和朝廷と九州に所在した地方豪族との間に所在する有力地方政権の本拠地であったことを示している。今の日本地図を眺めて、岡山・鳥取・広島・島根・山口の5県を「中国地方」と考えるものはいないはずだ。俺なら「西国地方」と呼ぶだろう。そして、群馬・長野・岐阜の辺りを「中国地方」と命名するはずだ。


つまり、著者が言うように、古代日本とは、つまりは「環瀬戸内海国家」に過ぎなかったのだ。
その真ん中にあったから、中国地方は「なかつくに」だったのだ。そして、「外・環瀬戸内海地域」は「外」であったのだろう。その証拠として著者が挙げるのが、奈良時代までに設置された「三関」である。

「三関」とは、「都の安全を外敵の侵入から守るための防護施設として最も重視された関所」である。
すなわち、伊勢の鈴鹿関、美濃の不破関、そして越前の愛発(あらち)関だ。
鈴鹿関は東海道(現在の東名と考えればよい)、不破関は東山道(中央道)、そして越前国は北陸道(北陸道)の始まりとなっている。
ところが、このような関所は近畿の東側にしか存在しなかった。例えば播磨や丹後にあってもよさそうなものだが、なかったのである。どういうことか。

古代日本は、外敵は東から来るという想定のもとに都を防備を固めたのだ。「環瀬戸内海国家」は、東の端を三関において封鎖し、そこからの外敵=東国の侵入を防ぐべく備えたのである。
「関東」は、この「関の東」だから、「関東」なのだ。
なにもなしに「関東地方」なのではない。福島の白河関から見れば、「関東」は「関西」なのだから。
「関西」というものは、「関東」の出現(それは、著者によれば頼朝による鎌倉幕府樹立によって実現された)によって、それまで常に中央であったこの地域が、相対化されたために新たに「関西」という呼称を得たに過ぎない。

さて、現在の関東が中央たる都に対する辺境であるのだから、そのさらに東、さらに北の地方は、「道(=国)の奥」として「みちのおく」=「みちのく」と呼ばれ、この「みちのく」の端は「陸の奥」として、「陸奥」とされた訳である。そして、「東」は、中央=「西」からみれば、征服し植民地化し管理運営する対象だったのだ。そして、その陸奥には今は使用済み核燃用が置かれているのだ。賊藩として一藩流刑というとんでもない罰を与えられた会津藩は陸奥の斗南藩に無理矢理おしこめられたのである。

我々は、戊辰戦争を、「西」による「東」の征服というイメージ抜きに見ることができないが、この戦争も近代における明らかな「西」対「東」の大抗争というべきであろう。
明治の前の江戸時代を決定づけた西軍と東軍による関ヶ原の戦いが、古代より「西」と「東」を隔ててきた「関ヶ原(不破関は岐阜県不破郡関ヶ原町)」で戦われたということも、歴史の偶然というにはあまりに出来過ぎだ。そして、この戦い(と大阪冬・夏の陣)で「西」を粉砕した家康は、ようやく「東」の「西」に対する圧倒的優位ーそれは現在まで続くものだがーを確立した。
さらに面白いことに、江戸幕府の将軍=征夷大将軍とは、「東北を征服し号令する東国の王者」の意である。

我々は、東北を特別視する必要などないし、東北は明らかに日本国家の枢要な一部を構成する。
だが、それは、例えば岡山がそうであるのと同じような在り方ではないのだと思う。勘違いしないでほしいのだが、これは「岡山のほうが東北地方より重要だ」などと言うのではない。
ただ、神話時代以降の歴史において、東北という地方が歩んできた歴史は、あまりに違う。
明治以来日本人は、環瀬戸内海国家でしかなかった古代日本国家を2000年前から現在の日本国家に存在し続けた国であるかのように前提してしまってはいないか。
「西と東の対抗の吹きだまり」としての東北という辺境性とその歴史を眺めるときの主体の位置性には、どれだけ注意を払っても払い過ぎることはない。

「東北」という言葉が意味するところは、3.11以後の「東北」「福島」が持つ意味以上のものを既に持っていたというべきだ。そして、それに対する無関心は、日本国家を内側から弱体化せしめていくだろう。

俺は著者が最初に言う、次の言葉に共鳴するところ大である。

「わたくしは、日本がほんとうにひっくりかえるような革命的なできごとがあるといたしますと、当面の論点からする限り、それは、日本のなかで『西』と『東』の比重が入れ替わり、支配・被支配の関係が逆転することでなければならぬーそんなふうに思うのです。」

東北の復興は、「西」からの独立であるべきだ。
それは、何を伴うものであるべきか?
よう分からんから、考えよう。時間はない。


2011年9月25日日曜日

宮台真司「宮台教授の就活原論」太田出版




「就活原論」と書かれ、就活関連の書棚に置かれてはいるものの、これは就活中の学生だけに読ませるにはもったいない、しっかりとした社会論だと思う。そこらへんの新書などよりはるかに読み応えがある。
以下は読書メモです。
関心がある労働者(not 就活生)は、2~4章だけを読めば大体枢要な箇所は押さえられる。


著者は、何度も我々が会社だけに依存することなく、会社以外の場所に「帰還場所=出撃基地」を作るべきだという。平時を前提とした市場・国家への過剰な依存は、市場のグローバル化(賃金への下落圧力、雇用の不安定化、国内産業の空洞化)と国家(日本)の抱える巨額の財政赤字によって、ますますリスキーなものになりつつある。
そこにおいて我々今求めるべきは、市場・国家とは別の位相において個人の感情的安全を担保するところの「相互扶助的な共同体自治」であるべきと主張される。


余談だが、戦後日本においては、企業戦士は家庭をほとんど無視するかのように企業に忠誠を誓ってすべてを捧げ、代わりに企業は従業員に終身雇用と定期昇給を約束した。そして、より大きな産業全体は、通産省(経産省)や大蔵省(財務省)という国家の機関により統合的かつ傾斜的に配分された資源を用いて異常な速度で成長・拡大していったのだった。
つまり、戦前の国家への忠誠は、戦後は企業に移し替えられたのみなのだ。天皇陛下万歳と叫んで突撃する兵士と、働き過ぎて過労死するサラリーマンは、本質において全然違わない。


興味深いのは、というより今の俺にとって極めて興味深かったのは、「仕事での自己実現(「仕事は命です」というような労働倫理)」が、現在非常に難しくなっているという著者の指摘だ。
なるほど労働において自己実現を達成できることは素晴らしいことだ。
だが、人間の公的・私的両面の生活において、「自己実現」が必ずしも決定的に重要だとは言えないし、「今日のような日が明日もまたやってくる」という、著者がかつて唱えた「終わりなき日常」を生きるという個人があってもよい。


市場や国家に個人が依存し過ぎることの危険とは何か。
それは、リスクが顕在化した際に個人がとれる選択肢が少なくなるということだろう。結局、英国の4倍にもなる日本の自殺率はこれによって説明される部分大である。


著者が言うように、今でも田舎には現存する地域共同体のような場所での「絆コスト」(寄合への参加、川さらい、固定的で流動性のない近所付き合いなどなど)を我々は高く見積もり、それを避けるために田舎を飛び出し街へ出た。その街=東京では、企業戦士は同じ企業に勤めているという事実と深夜までの飲み会により連帯できるが、それ以外の共同体はー地域であろうが学校であろうが宗教であろうがーほとんどすべてが破壊されてしまっている。
だから、共同体としての企業(あるいはそれに準ずる者)に所属しない者にとっては、現在の都市は途方もなく厳しい場所だろう。フリーターは、一体全体どういう「帰還場所=出撃基地」を持っているのだろうか?
「いいとこどりはできない」と著者はいう。感情的紐帯を担保する地域共同体を欲するならば、その分の「絆コスト」は不可避であるということだ。それは実にその通り。自由も安全も一緒に欲しいというのは無理筋の話だ。


著者が言うように、われわれにはあまり選択肢は多くない。どのような方法によるかは兎も角、グローバル化し不安定化する市場と、それが個人に与える負の影響を福祉国家化による財政赤字のために完全には補填できぬ国家から、一定程度独立した、市場の論理と国家の論理とは異なる論理で動く自律的な共同体が必要なのだ。
そして、その根本は、家族だ。
それとともに、地方だ。大都市文化圏に包摂されず、直接に大都市文化圏・世界と繋がる地方。日本を踏み越えて世界という視座で、世界の歴史のなかにおいてその地方を歩みを見つめていくという作業が必要になる。


明日も俺は20時に帰宅しようと思う。
”高度経済成長期風豪傑先輩”が何を言おうと、俺が戦いに向けて出撃していく基地は、妻が待つこの家なのだから。

秋の信州へ②

鹿教湯温泉に一泊し、深夜と早朝の温泉を満喫した後、24日朝10時に長野市善光寺を目指して出発。
道すがら見つけた道の駅にふらりと立ち寄ると、ミョウガ・リンゴ・ゴーヤ・トマト・ネギなどなど野菜がべらぼうにお値打ち価格でおいしそう。というわけで、ごそっと買ってしまった。
薩摩芋のツルが人参の隣にあるのだが、俺も都会育ちだとは全く思わんのじゃが、これ食べられるんね。知りませんでした。
田舎に出掛けたら現地調達するのが一番賢い。少額だけど地方にお金も落ちていくしね。


それにしてもご老人たちが楽しそうに仕事をしていた。
あと田舎の軽トラ比率ってすごいね。軽トラというぐらいなんだから、虎模様の縦縞の軽トラがあってもいいと思うが、みーんな白。あれはなぜなんでしょうか。もう少し遊んでもよいと思うのだが。
蜂蜜はウェールズのもののほうが残念ながらおいしかった。

国道143号線を東へ進むと、千曲川が流れる上田市へ出る。そこで、北へ針路を取り、国道18号線を一路長野へ向かった。こういう美しい山村のなかをドライブするのに高速道路を使うのはもったいない。上田市から千曲市に向かう18号線の左手には千曲川が滔々と流れていて、こんな古めかしく美しい橋もある。その名も昭和橋。九つのアーチが連なる橋で、土木学会選奨土木遺産にもなっているそうな。
ちなみに、ここまで北上してくると分水嶺をとうに超えているので川は北に向かって流れる。高梁川、武庫川、鴨川のそばに暮らしてきた俺にはしっくり来ないがそんな俺の違和感とは無関係に水は北へ向かって流れていた。


さてさて、善光寺に尽きました。いやー大きなお寺ですな。

一か月ほど前に、あるお客さんとこういう会話のありけり。

「長野出身なんです。えぇ、善光寺の長野です。」
(長野はそりゃ分かるんじゃが...ゼンコウジの長野ってなんじゃい???)
「すみません、ゼンコウジというのはお寺ですよね?どちらにあるんですか?」
「あれ、三谷原さんご存知ないですか?あれれ。長野は有名な門前町ですよ。そりゃもう立派なお寺ですよ。」

というわけで、年内に行かずばなるまいと考えていたものだから、温泉で距離を調べるとたった60kmしか離れていないので、ほんなら行ってみようじゃないかいと、こう相成り申した訳で御座候。

善光寺は長野市元善町にある無宗派の単一寺院。山内にある天台宗の「大勧進」と浄土宗の「大本願」と14坊(?)によって護持・運営されている。大本願は、尼寺。女人禁制が主であった旧来の日本仏教のなかでは、例外的に「女性の救済」が謳われる。
欽明天皇の御世の552年に、百済の聖明王から献呈されたとされる「善光寺式阿弥陀三尊」を本尊として祭るが、これは鎌倉時代以来絶対秘仏とされ、ここ数百年の間見たものはいないとされている。






賢明な読者は「あれ?」と思っただろう。
なにって、上の写真の菊の御紋である。神社にあっては、祭神が過去の天皇陛下であるとか(例えば明治天皇・皇后を祭る明治神宮)、いずれかの皇子であるとかいう場合には、十六八十表菊、所謂”菊の御紋”を掲げる事が許される。これとは別に、官弊社などでも菊の御紋を使用することがある。明治時代に建立され、別格官弊社としての待遇を受けた靖國神社はこれに該当する。

ところが、善光寺は寺なのに菊の御紋を力強く本堂に掲げている。もちろん大門にも掲げている。
それについて物知り顔のおばさんに尋ねると、だいたいこういう背景である。

善光寺の住職は、「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務めるのだが、「大本願上人」は、「善光寺上人」とも呼ばれる。この「善光寺上人」という称号は、かつて宮中から上人号と紫衣着用の勅許を賜ったものであるそうな。住職就任のときには、跡目御礼として宮中へ参内する慣例にもなっているという。
元はと言えば、大本願は尊光上人(聖徳太子妃、皇極天皇の命により曽我馬子の娘が出家し尊光上人と称した)を開山上人とし、代々尼光上人により継承され爾来1400年の長きに亘り善光寺如来に奉仕してこられた(善光寺大本願HPhttp://www.daihongan.or.jp/より)。
突っ込まれたら説明に窮してしまうのだが、つまりは大昔から皇室と大本願上人は密接な関係にあって、現在でも大本願上人はかつての公家から迎えられている、とまぁこれは間違いなかろう。


この坊主さんは「大勧進貫主」。「ありがたやありがたや」と言ってみんな頭を撫でてもらっているのだが、俺は自分が犬みたいに思えてしまうからこういうのはいやです。

近代日本国家と仏教の関係なんぞ全く勉強したことがない。
明治期の廃仏毀釈運動のなかで、大日本帝国は仏教とは袂を分かち(神武天皇が天照大御神の直系の子孫であるという日本書紀の神話にもかかわらず、例えば聖武天皇・桓武天皇のように、歴史において神道よりも仏教を厚く保護した時代も多かった)、実質的に天皇陛下を、神道と深く繋がる国生みの神話時代からの歴史と連結することで、国家としての正統性と担保しようとしたぐらいにしか理解していなかった。
だが、それでは一面的かつ浅薄に過ぎる。仏教は、巨大な宗教であり、我が国の成り立ち(Nationhood)を理解するうえでどうしてもこれを避けられない。明治の時代までの千年以上に亘り、日本国家と仏教は密接な関係を維持し続けたのだから。
これを理解していくために、善光寺と皇室の明治期以降の関係について勉強することは非常に有益だろう。誰かいい本を知っていたら教えて下さい。
こんな本(「近代皇室と仏教」、http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4562041773/naagita-22/)があるのだが、15000円はちぃと高いね。

善光寺をじっくり見学した後、敷地の東隣になる東山魁夷館へ。
横浜に生まれ、神戸に育ち、ドイツに学んでドイツに憧れたこの画伯は、ドイツの人たちが都市の景観と自然の景観を一体のものとしてとらえ、大切に維持していることに強く感銘を受けたようだ。ドイツ国内での「窓」をモチーフにした作品を多く残しているのは彼が窓から眺めたドイツの街並みが信じられないほどに美しく、戦後の荒廃していく祖国の都市や田舎の景観との対比をなしていたからなのだろう。

公園で”喫茶 山桜”開店。
夕方にもなるとセーター一枚では肌寒い。


長野市を望む。京都も山に東西北の三方を囲まれているが、聳える山の高さと雄大さは長野の圧勝だな。



長野よ、さらば!
また勉強してやって来るぞ。


そういえば、「牛に引かれて~」を書いとらんですな。


2011年9月24日土曜日

秋の信州へ①



「いっちゃん、おはよ。これから長野に行くで」
「おはよ~。わぉ長野、行きましょ行きましょムニャムニャ。バモ~ス!(スペイン語で”Let's Go")」

という会話が23日朝5時。

それから光の速さでおむすびとサンドイッチと果物と重武装のピクニックセットを”びぃと”(愛機BMW)に載せて、家族を乗せた父ちゃんたちの車で大渋滞の中央道に乗ったのは朝7時過ぎ。
渋滞も相模湖を超えた辺りで峠を越し、以後は林間を縫って走る中央道の追い越し車線を、覆面鳩見張を厳にしつつ一路北西へ向けて巡航。長野県は諏訪湖の北の岡谷で高速を降り、ひたすら山坂道を登って辿り着いたのは標高2000m超の美ヶ原(http://www.mcci.or.jp/Utukushi/)。

植物の植生が針葉樹林から灌木になり、やがて英国の草原のような場所になる。
開けた場所に建てられた掘立小屋のような展望台からは、360度、雲を眼下に見下ろし天を見上げる雄大な光景が迫る。
CanonのEOS Kiss X5のダブルズームキットが前夜に届いたばかりで、嬉しいもんだからなんでもかんでも写真を撮りまくる。



展望台で妻と写真をとってキャッキャッと子供の様に騒いだ後、美ヶ原の天辺に。
気温は8.5度。吐く息は白くなる。霧のような雲が体を包む。バイカーはなぜかでぶっちょが多い(In Good Shapeのバイク乗りの皆さん、ごめんなさい)。


「いやぁ、いい景色やねぇ」と話をしながら高原の草原のなかの道をバイカーに挟まれながら走っていると、「美ヶ原牧場」の文字がナビに。
ここに食らいつく牛さん大好きな妻。
綺麗なトレイルコースが牧場の中を走っているので、二人してブーツとバレエ・シューズをトレッキング・シューズに履き替えていざ出発進行~~~


牛は、「モ~」と、全く鳴いていなかった。
酪農の屋外講座を拝聴しつつ、馬と牛が今となく今を暮らす牧場のなかを散歩。それにしても一眼レフって皆持ってるんですね。
全く俺の不勉強なんだが、お乳を出すのは当然ながら妊娠・出産した雌牛だけ(なんぼなんでもこれは知ってましたよ)。でも、これまた当然ながら、生き物だから雄も産まれる。50%の確率で。
雄たちは、肥育されて肉牛になる。お店で「国産牛」として売られているもののほとんどは、この少しだけ可哀想な雄牛たちだそうな。人間の雄でよかった、かな。
もう一つ。
この日本では、放牧されている”幸せ”な乳牛は、ほとんどいないらしい。その割合、実に13%(全飼養頭数に占める放牧成牛の割合)。北海道だけは22%だが、北海道を除くと2%!
「だからなに?」と言う人もいるだろうな。だって、俺らは鶏舎に詰め込まれて昼夜人工の光を浴びて眠ることなく食べ続け太っていくブロイラーの肉をそこら中で食べているのだから。






久しぶりの田舎、大好きな牧場に来て、楽しくなってしまった人。


こんな場所で、葦毛の馬と狼3匹と一緒に晴耕雨読の暮らしをするというのは、一つの捨てることができない夢だなぁと二人で話した。人の声も車の音もしない草原に寝っころがって、地上より2000m高いところから空を睨む。いろんなことを考えたね。
夜は温泉宿へ。深夜に高橋富雄「東北の歴史と開発」を読む。
きわめて重厚、きわめて興味深い著作だ。これについては明日以降にじっくりと書こう。

明日は長野の善光寺!「牛にひかれて善光寺~」の善光寺。
「轢かれて」?「引かれて」?それとも「惹かれて」???

最後に今日のベストショットをどうぞ!



2011年9月21日水曜日

土光敏夫という男


「一瞬一瞬にすべてを賭けるという生き方の迫力。それが80年も積もると、極上の天然記念物を見る思いがする」

城山三郎が土光敏夫を評した言葉である。

土光敏夫は、1896年岡山県生まれ。関西高校(今夏の甲子園でベスト4)から東京高
等工業学校(現・東京工業大学)へ進み、卒業後に東京石川島造船所(現・IHI、石
川島播磨重工業)に入社。第四代経団連会長を務め、晩年には長年の政財界での大活躍が認められ、勲一等旭日桐花賞を陛下から賜った。
繰り返すが、勲一等旭日桐花賞!!

昨日、出町譲「復興と清貧 土光敏夫100の言葉」」という本を読んだ。
大変よく売れているらしい。どこの本屋でも平積みされている。
この人について同郷ながら全く知らなかったのが恥ずかしい。岡山県が名誉県民賞を与えたのも納得できる、とても立派な「人物」だ。

「清貧」という言葉が著書のタイトルに使われている通り、この人は大変質素な暮らしをしていたそうな。
横浜は鶴見の自宅はなんの変哲もない一戸建てで、小さな書斎のみ建て増してそこで本ばかり読んでいたそうな。
この本の最初のページに土光さんが暮らしていた家(廃墟だが)の写真が掲載されているが、「ここに経団連会長が暮らしていたのか」と誰もが思うだろう。
東芝の社長に就任した際には、社長室にあったシャワーを「なんでこんなもんがある
んじゃ」と言ってなくし、社長用の外車(メルセデス?)も小さな国産車に買い換えさせたという。「こんな大きな車いらんじゃろ」とでも言ったのだろうか。挙句には、大手家電メーカーのトップでありながら、テレビを持たず。東芝が出荷累計100万台目のテレビを社長の土光さんに贈ったらしい。
以下はWikipediaより。
"経団連会長就任後、それまで会長出張の慣例だった「前泊し2泊3日の日程」を全て
日帰り出張に変更、地方側からの接待を一切断った。経団連会館のエレベーターも来客用の1基だけを稼動させ残りは停止。高齢ながらも自ら階段を利用して経費削減に努めた。また、夜の会合を廃止する代わりに朝食会を頻繁に開いたため朝に弱い財界首脳は困り果てたという。"

土光さんの言葉やエピソードなどなかなか面白いのだが、一番面白いのは、最終章で城山三郎が土光さんを鶴見の自宅に訪ねたときのインタビューだ
城山が「84歳というのに御元気ですね」というと、土光さんはこう言った。
「毎日木刀を振っとる。振るだけじゃだめだから振り回しながら庭を飛びまわる。それをかれこれ60年続けとる
考えてみると、面白すぎる。
80歳の経団連会長だとか臨時行政調査会会長というビジネスマンとして最高位ともいうべき地位にあった人が、小さな家の軒先で木刀を振り回して飛び跳ねている。知らぬ人が見れば単なる変人だろう。
そういえば、漫画バカボンドでも幼年の武蔵は山中でひたすら木刀を振っていた。そして、そのとき自分は「理(ことわり)とともにあった」と回想する場面がある。

もう一つ、この人は猛烈な読書家だった。ドイツ語や英語のエンジニアリングの書物だけではなく、宗教や世界史などの分野も大量に読んでいたようだ(文芸春秋最新刊を見よ)。
息子さん曰く、「親父は帰宅したらすぐに飯を食べ、そのあとは書斎にこもって本を読んでいた」そうな。
どうもこうね、俺が会ったことがない俺のおじいさんはこんな人だったんかな?と思わせる、そんな雰囲気の人なんである。

金を持ったら高級車に乗って大きな家に住んで贅沢な食事をするというのは、人生における唯物史観に冒されたご仁のなせる業だ。躾られるのは得意だか自分で自分を律することができぬ人だ。自分の欲求さえ社会的に規定されてしまうというのでは、精神の奴隷だ。

勘違いしないで欲しいのだが、高級車に乗ることが悪なのではない。
「金がたっぷり手に入ったからフェラーリでも買おうか」と言ってフェラーリを買う男が格好悪いのだ。そして格好悪いことは男にとって悪なのだ。
俺は、5年前からAston Martinを手に入れることを意思し、3年前から42歳でDBSを買うと公言(?)している。
金を得たから買うのではなく、どうにもこうにも俺が乗りたいから手に入れる、ただそれだけのことだ。33百万円のあのスーパーカーが似合う男であるためには、俺は誰よりもストイックでなければならん。

俺は質素を旨としよう。プラスチックを拒否しながら暮らそうと思う。プラスチックは、大量生産大量消費文明の象徴である。そして、金儲けのためだけにこしらえられた不味い居酒屋の食べ物と堕落した商売用の笑顔を拒絶する。

ちなみに、土光さんの母親は60歳を過ぎてから、国のために女子教育を!と言って今の橘学苑(http://www.tachibana.ac.jp/oldindex.html)を設立した。なかなかものすごい"思い込み"ではないか。

帰って楽天で木刀を買います。

台風の風は、生命力を感じさせる。
和歌山や奈良の被災された方の生活が早く元に戻りますように。

これからは林業が栄えないといけないのでは?と考えている。というより、東京から離れて山に暮らしたいだけなんだけどね。
東京生まれの人にはすまんが、田舎者が本当に東京を馬鹿にしない限り、日本の復興はない。

今日一日を誰よりも熱く生きたか。
あぁ、全然自信ないぞ。世界には自由のために死んだ男が今日も一人はいるだろう。

毎晩点検するべし。

二子玉川を通過〜


2011年9月19日月曜日

橘玲「大震災の後で人生について語るということ」



先日読了。

金融、投資等についての著作が多い橘玲氏の最新のものである。

「国家神話」「不動産神話」「円神話」「会社神話」が、もう終わった”神話”だと喝破し、危機が訪れた際の選択肢を広げておくことが個人のリスク耐性を上げることだと説く。

非常に、面白く説得的だ。

荒っぽく要約すれば、戦後日本におけるサラリーマンの人生戦略は、

”国を頼んで老後の年金を期待し、円を頼んで現金資産を円預金で持ち、会社を頼んで終身雇用を疑わず、不動産(の資産としての価値)を頼んで35年ローンを背負う”というものだった。

極度に偏ったリスク配分(資産のほとんどをマイホームが占め、それを入手するための資金の手当ては借入金)のために、会社から40代で投げ出されると再就職も厳しく、ローン返済のための首が回らなくなり、挙句に消費者金融の高利に辛苦して、最後には生命保険の契約条件を熟読する...

日本人の3万人が自殺をすることの一つの重大な原因だろう。

今、上の四つのうちいずれが信頼に足るだろうか?

国は財政赤字に汲々とし、円は「異常な円高」と言われるものの日本国債リスクが意識されれば突如として金利上昇に伴って売られる可能性もある。終身雇用はさらに少なくなっていくだろうし、日本の不動産が今後上昇することは、人口動態から判断して、あり得ない。



ローストビーフと分業社会

先日、自分でスツールを作った。
下に張り付けた通り可也頑丈で、100㎏程度の荷重なら耐えられそうだ。我が家で踏み台や来客時の椅子、ベッドサイドのテーブルとしてすでに大活躍している。

ところで、資本主義社会とは、一つの重要な面として、分業社会である。
アダム・スミスやデヴィッド・リカードなどの自由貿易論者は、それぞれの国が「比較優位」を持つ分野・産業に特化することで、全体としての効用が増大するといった。これを個人に敷衍して言えば、一人の人間は一つの特殊な事に特化しそれに専念したほうが、その個人としても社会全体にとっても最適であるといえるだろう。
コンサルタント、会計士、弁護士、医師、ビジネスマン。これだけの分類が実社会の実情とは全くかけ離れていることは論を俟たない。一つの企業のなかであってさえ、特殊な技能や知識を武器にこの社会を生き抜いている者は多い。極めて高度な金融工学を駆使して数億円のボーナスを得る証券会社の社員などはこの典型だ。

俺は、昔からこういう「専門家」にいくらかの憧れを抱きながらも、どこかでその脆弱性を恐れてもいた。

つまり、こういうことだ。
例えばあなたが金融工学の修士をロンドンのウェストミンスター大学で修めていて、ロンドンはシティの銀行で10年間の投資銀行業務における経験があるとする。この場合、あなたはシンガポールであっても、東京であっても、ニューヨークであってもフランクフルトであっても、ある程度の高収入を期待できる(リーマン・ショック前ほどではないにしても)。つまり、あなたの専門的な知識や経験は、明らかに他者とあなたを区別しあなたを有利な場所に置く武器である。

だが、その武器は、”常に有効なわけではない”。
すなわち、金融工学を駆使して稼ごうと思えば、電気がなければならない。コンピューターが動かないからだ。金融業界で稼ごうと思えば、異常に乱高下する債券・株式市場であってはならない。算術的に利益やリスクを測定できないからだ。さらに言えば、「警察力と軍事力により担保された秩序が維持されていて、生活必需品が適正な価格で安全に入手でき、かつライフライン(水道電気瓦斯)が維持されていること」が必要だ。

何を言うのか?と思われるかもしれない。
だが、特定の組織を除いて、社会における全ての組織は、上の前提(斜字)の上に成り立っている。
”特定の組織”とは、軍隊である。
東日本大震災が発生した直後の被災地で、最も頼りになったのが自衛隊であったことの根本的な理由は、巷によく言われた「自己完結性」ということなのだが、ではその自己完結性が自衛隊=軍隊(特に陸軍)に求められる最大の理由とは、そもそも軍隊とは、上記の前提が成立せぬ場所で活動(=戦闘)することを第一義的な目的として存在しているということに求められる。

遠回りをしたのだが、言いたいことはこうだ。

俺は、現在の社会から逃避しようとは思わない。その限りで、俺自身が特定の能力なり知識なりを求めて獲得し、それによって生計を立てていくということは、欠くことべからざることだと思う(なんの専門もないけど)。

資本主義社会なんぞ、せいぜいが200年と少しの歴史を持つものに過ぎない。
人類(ネアンデルタール人)が生まれてから20万年。そのうちの、たった200年なのだ。近代資本主義以前にも分業はある程度あったと考えて100歩譲ったとしても、せいぜい1000年だろう。20万年のうちの19万9000年は、人類は、ほとんどの場合自分でなんでもかんでもやってきたのだ。
家の屋根が台風で飛べば自分で屋根に登って直し、食糧を自分で保存して冬の備えとし、獣の毛皮を乾して衣類とし、その牙で武器を作った。で、そのか弱い武器で獣を追う。
現在の社会が自分が死ぬまでずっと続くと考えて、ひたすら専門を磨くというのも一つの手だ。だが、東日本大震災を見たとき、俺は自分が自分の手一つでは火を起こすことすらできぬなんともひ弱な生き物であることを痛感させられた。水の供給でさえ、そこら辺のコンビニ・スーパー・水道会社に頼りっきりなのだ。これは、危険なことである。有事への備えという意味で、俺は全くなにも準備できていないのだ。

こんなことを考えたのは、さっき家でローストビーフを作ったからだ。
昨日、ユニフレームの一番大きなダッチオーブンを購入した(http://www.uniflame.co.jp/products/DutchOven/products_list.htm#products01)。こいつで、500gの牛肉をローストしたのだが、たいそう旨いのだ。レストランでローストビーフはもう食べぬ。自分で作ると矢鱈と楽しいし(問題は1㎏の肉塊があまり売っていないことだ)。
妻は、結婚披露宴のドレスを自分で縫うと言う。家のジャムはすべて手作りだ。味噌も、梅酒も、たぶんそのうちヨーグルトも。

思えば、GDPとは変なものだ。
俺が、家で家具を作ったり料理をしたりするよりも、家具屋で家具を買ったり外食したりするほうがGDPは拡大する。で、現在の日経新聞的な文脈でいえば、それが善なのだ。だが、それは本当か?
俺の妻が家でするどんな仕事も(ドレスを縫うことも!)、GDPにはカウントされない。
個性なきありふれた使い捨て商品だらけの大量生産大量消費を必要とするスーパー分業社会は、これからもずっと続くのだろうか。俺には疑問である。
消費することではなく、生産すること(働くこと)を生きがいとしてきた団塊の世代とそれに続く世代がこれから一気に定年を迎える。ここには、大きなビジネスのチャンスがあるように思うが、それは彼らを「消費者」としてみる限り成功しないだろう(我が父は「消費者」にはなりえない)。

新しく来るべき社会は、さらに高度な分業社会ではないのではないかと思う。
人間の幸福が、「消費」にあるとは俺にはどうしても思えないのだ。
イノシシの肉を食べるのはそりゃおいしいのだが、それよりもイノシシを捕まえることのほうが明らかに血沸き肉躍る体験でしょうに。





2011年9月11日日曜日

スツール、のようなものを作ってみると...?

存外に良いものができてしまった!


読書の時のオットマンにもなり、



67kgが乗っても大丈夫!

これからは本棚も自分の好みに合わせて作ろうっと。

使った材料・道具:
・幅20㎝、厚さ2㎝の板135㎝
・強化用の角材93㎝
・ネジ数十本
・プラスドライバー1本
・木工用ボンド
・紙やすり



2011年9月7日水曜日

なぜ我々は人について話をするのがかくも好きなのか

ある時、田園都市線の急行電車に乗っていると、にぎやかなタブロイド雑誌の釣り広告がぶら下がっていた。それを見た妻がつぶやいた。
「人のことばっかりやな」と。
たしかに。
誰が不倫した、誰が逮捕された、誰と誰が熱愛(なぜこの「熱愛」という言葉は芸能人の色恋沙汰についてのみ使用されるのか?)した、云々。よくもまぁそこまで人についての情報を漁ってきて、これまた人についてのみに週刊誌なり月刊誌を作れるものだと、二人で感心した。

人、他人への関心...というものは、恐らく俺に最も欠落しているものだと思う。
関心がないというよりも、どうでもいいというのが一番だ。
誤解を避けるために言っておきたいのは、「一般的な他人」への関心を俺が持っていないということだ。俺は俺が関心を持った対象に対しては、人であろうが物であろうがかなり執拗である。獲物を60kmでも群れで追いかける灰色狼のような具合だ。

そういう俺が、3年前に会社に入ってすぐに先輩に言われたのは、「お前は人に関心がない」ということだった。
「『人』って誰ですか???(西郷隆盛も人ですが)
と尋ねると、「会社の同僚や、お客さんや、自分以外の人ってこと」という回答が返って来た。
無理(理が無い)を言う人だと思った。
匿名の、一般的存在である「自分以外の誰か」全体に対して関心を持つなど、できる訳がない。「人が好きです」というのはまぁいいとして(世の中の誰でも好きです、という奴は信じないが)、世界のどんな他者に対しても「関心を持っています」などと言う人間を信じることはできない。

なんとなく、なんとなくだが、分かる気はしている。
組織のなかで生きていて、その組織のなかできちんと立ち回ることが生存の可否に直接的に関係しているような場合、人はその組織内の人間に関心を持たざるを得ない。上司はどういう人間であるのか、組織全体としてどういう風土であるのか。組織内の政治権力はどのように分布しており、どのように行使されているのか、云々。
だから、組織のなかに生きる社会的存在にとって、周囲の人間について知ることは、多くの場合生存という最重要の目的に対して非常に重要な要件である。
だからこそ、サラリーマンの居酒屋での会話は①同僚の悪口を含めた批評か、②社内人事の噂、のいずれかに終始することがあまりにも多いのだ。そういう飲み会に行きたくないというと、「お前は人に関心がない」と批判される。
これは、会社に入らなければ絶対に体験できなかった面白い人間たちの生き様であり、とても興味深い。
もっとも、こうは言っても俺は次のことをよく理解している。すなわち、年を重ねれば25歳の頃のように酒を飲みながら理念を語る友が少なくなり、せわしなく忙しい毎日を嘆きあうことが低き者の慰め合いにはなるということを。そして、人生において、少なからずそういう時間を必要とする人がいるということも。

世界全人類を「愛する」ことができないように、我々は「人」に関心を持つことはできない。
愛といい、関心といい、それらは一般的ではない特殊的な対象にこそ向けられるものであるからだ。
俺は、人になんの関心を持たず、そのことを不安に思っているような人にそんなことは全然問題ではないと言いたい。
俺は、そういう群れのなかに入ってタブロイドのネタに盛り上がることを拒否「せざるを得ない」人にこそ、強い関心を持つ。

いい加減に、「友達百人できるかな」というあの人間観から抜け出そう(他の人はどうか知らんが、俺は友達が100人もいたらやりたいことができなくて困る)。友達がいることが善で、友達がいないことが悪なのではないし、またその逆でもないだろう。
我々は、他者との関係性、或いはその密度によって自己の全てが規定されてしまうほど小さな存在たるために生まれてきたのではないのだ。
大人の世界では、人脈がものをいうこともよく分かる。そりゃ人間が作る社会なんだからそうだろう。
だが、それでも俺は、断固として独立国でありたいと思う。戦争をしてでも俺の独立を守りたいと強く願う。

F・ルーズベルト米国第32代大統領の夫人であり、文筆家としても名高かったエレノア・ルーズベルトの有名な言葉を銘記しよう。

”Great minds discuss ideas.
Average minds discuss events.
Small minds discuss people."
(偉大なる知性は理念を論じ、平凡な知性は出来事を論じ、下等な知性は他人についてお喋りしている。)


2011年9月5日月曜日

倉敷味工房、塩ぽんず & 独り言

妻が京都は一乗寺の「HELP(http://www.wakkakka.com/)」(東大路を百万編を越えてずっと北に上り、高野の交差点からもう少し北)という自然食品ばかりをたくさんおいているスーパーで見つけた塩ぽんず。
さっき夕食を食べながら、「これ倉敷の物じゃし宣伝せんとおえんな」と話したら、「じゃ、一緒にHELPの宣伝もしてちょーだい」というからこれを書いていた。今さっき書斎にやってきて、「ちゃんと書いてくれてる?」だって。
書いてますよ。倉敷パトリオットなんだから。



独り言:

・Arnorl J. Toynbee, "A study of History”を入手した。腰を据えて、じっくりと読んでいく。
高山「世界史の哲学」も同時に再読しつつページをめくるべきだ。俺は、俺自身の歴史哲学の確固たる視座を作り上げたいと思う。

・アダム・ファーガソン「ハイパー・インフレの悪夢」を半ばまで読了。われわれは株を持っていたら、「値下がりしたらどうしよう」と不安に思うのだが、財布のなかの1万円が「値下がりしたらどうしよう」とはふつう考えない。それが間違いでありえることを、痛々しいほどの事実の列挙により教えてくれるのがこの本だ。
たぶん、子供のころ、誰もがこう考えたことがあるだろう。「お金がないならお金を作れば(つまり刷れば)いいのになぁ」と。すべての権力者にとって、"Easy Credit!"はもっとも政治的葛藤の少ない安易な道なのだ。だが、それはやがて最も恐ろしい、経済社会の崩壊さえも惹起しうる。
東日本大震災からの復興のための資金を増税によって賄うのか。それとも赤字国債増発を行うのか。
一つだけ確からしいことは、日銀による赤字国債の買い取りだけはしてはいけないということだ。「国民の皆様」に媚びて将来に借金も使用済み核燃料もなにもかも譲り渡してはいけない。

・仕事における個人の熱中とそれが故の幸福感は、社会に対するその仕事の意義や貢献の度合いとは直接的な関係がない。もちろん、すべての個人は社会的存在であるという意味では、その個人が日々やりがいを感じて生きていくことには少ならぬ社会的意味が認められる。
だが、だからといって、「熱中したもん勝ち」ではないのだ。

・他者がどう在るかということは、自己がどう在るべきかという俺にとって最重要の問題に対して全然意味を持たぬ。俺は、自らの生の意味を問い続けるという絶望的な戦いへ挑む小さな英雄たちに敬礼する。

・ルター「キリスト者の自由」を読みたい。
ルターは、Lutherといったが、20世紀のルターは、Martin Luther King Jr.である。
父親が、Martin Lutherから取った名前である。まさに、Lutherの名に恥じぬ革命家であり、演説家だった。
どうぞ!


俺に意識はあるか

読書が我が生活において極めて重要な-それなしの生活は俺自身の生活ではないと断言できるほどに重要な-ものになったのは9年前のことだが、読書という体験が自分に与えたことについて一般的に考えてみたい。
といいながら、話は酔払いがドライブする雨天のF1のようにフラフラの蛇行を免れないことを先に断っておこう。

端的に言えば、読書や日記の効用のうちで-害悪も当然あるのだが-、最大のものは自己の意識の幅と深さを拡大していくことに尽きると思う。
読書によって、我々は2000年前の著者の思索や行いを間近に体感し、それを思い遣り、自らの言動と比較する。そして多くの場合、自己の矮小なることを痛感しては恥じ、精一杯背筋を伸ばす(そりゃそうだ。2000年間読まれ続ける本を書いた人というのは、どう控えめに評価してもほとんどの読者よりはるかに偉大だろう)。
また、読書のうちで最大の快楽は、自己の脳裏にぼんやりと去来し、ゆっくりと醸成されつつある思索が、著者の言葉により見事に言語化されることだ。
千年王城の北を流れる賀茂川で「そう、それだ!俺はそれを言いたかったんじゃっ!!!」と、西部邁氏や佐伯啓思氏の著作を読みつつ思ったことは数限りない。自己の精神が共鳴し、震える。これは、苦しみも伴う読書という体験のうちで、最大の快楽であり、褒美だと思う。これは、麻薬的である。俺がこのブログで綴っている言葉たちも、所詮はそういう他者の言葉を俺なりに腹のなかに溶かしこんで練り上げてなんとか俺の言葉にしようという努力の数少ない結果なのだろうと思う。

意識というものを我々は持っている。
あるいは、これを理性と言ってもよいだろう。外部に生起する物事に対して、理性的主観を備えた自己が、物事に対して客観的に対峙するという前提がここにはある。だが、我々の日々あわただしく流れていく暮らしの中で、理性といい意識といい、一体どういうふうに作用しているのだろうか。いや、そもそも、作用しているのか。
情報洪水時代を生きる我々は、情報に神経を麻痺させ、その外部に流れる情報への意識もそれを分析する理性も磨耗していく他ないように思えてならない。情報の増加は、個人の精神における意識の量を増加させはしなかったし、理性をより安定的で精緻なものにすることもなかった。佐々木中がいうように(『切りとれあの祈る手を』)、何故我々はかくも何かを「知っていること」を強迫観念的に追いかけているのだろうか。何かを知っていること、それについてそれらしく語ることは、なぜそれほど重要なのだろうか。なぜいちいちニュース番組にコメンテーターなり専門家なりが登場して、もったいぶってその専門的知識とやらを開陳しないといけないのだろうか。それほど、「知らない」ということは危険なのだろうか?それほど格好悪いことなのだろうか?

人間の脳味噌の容量は無限ではないから、知識(この「知識」には島田シンスケがドウシタコウシタという馬鹿げた事実も含む)を無際限に詰め込めば、次第に自身の意識はなくなっていく。意識が減少すれば、思考は減速し、やがて停止する。つまり、入力をそのまま出力するだけの無個性のロボット人形が出来上がるだろう。情報が「購入される」産業主義時代に各地で全体主義が生まれたことは、アーネスト・ゲルナーを引用するまでもなく、全く偶然などではなかっただろう。つまり、批判的精神の欠如という現代大衆社会に広く見られる精神的病理は、情報の無際限の流入と情報の源流における独占に強く規定されているのだ。

これに対する処方箋の一つは、独りになることだ。情報の交換のみに終始する話ばかりをしていては駄目だ。
携帯を捨て、友や家族から離れ、独りになり、孤独へ沈潜していくことだ。
独りになって、河原に静かに座ると、風が身体の周りを走っていくのを感じることができるだろう。
少しじっとしていると、その風の一筋一筋に、流れがあり、暑さや冷たさがあることまでも分かるようになる。
近辺に鳴く鳥や虫の声、自動車のエンジンやタイヤと路面の摩擦音など、耳に入ってくる情報だけでも膨大である。
そうしながら、脳裏に去来することをフラフラと考え、それをメモしてみると面白いことに気が付くだろう。
つまり、自分が自分自身では何も考えられていないこと、また自分が考えていることのほぼ全てが「誰かが考えて喋っていたこと」をそのまま記憶しているだけであることに。あるいは、月曜日の朝の到来を憂鬱気に待ち、何か楽しいことはないかなぁなどと他人任せの人生を生きる自分を再発見する。

俺が欲しいものは、世界の全てについての知識ではない。
俺は、深み茂みの奥で獲物を待ち伏せる虎の集中力が欲しい。
意識の絶対量を圧倒的な次元にまで高め、それを一点に集中させて、とてつもないものを生み出すという力がなくては人生において何事も成し遂げることはできないだろう。


2011年9月3日土曜日

猿真似の出来ぬ時代へ

幕末から明治へ。
大東亜戦争の敗北から復興、高度経済成長へ。
いずれも厳しく、困難な時であった。
だが、二つの国難が生易しく思えてしまうほどに、現在の日本が直面する問題は重大だ。

かつて、我々には真似るべきものがあった。
明治の元勲たちは、陸軍と憲法はドイツ、海軍はイギリスに倣い、民法はフランスという具合にうまく西欧列強のいいところを摘み出してはそれを真似た。それによって、明治維新から40年足らずで、丁髷に二本差の侍の国は、西欧の大国ロシアと対等に戦うのみならず、アメリカの利益を見越してこれを上手く巻き込んですばやく講和を結ぶという非常に卓越した外交手腕さえ習得していた。
いわゆる戦後においては、我々には真似るべき、豊かな社会があった。
アメリカだ。
進駐軍として我が国に入ってきた米軍兵士が我々の父や祖父たちに与えたチョコレートの甘さに象徴される物質的豊かさを目指して、外交・安保をアメリカに任せながら、戦後日本は島全体で汗をかくかのように猛烈に働いた。その結果、あっという間に西欧諸国を抜いてアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国という看板を得た。

バブルの饗宴から20余年、その間の低成長の時代を過ぎ、今、我々は財政赤字と少子高齢化という重すぎる荷物を背負い、大地震と大津波に打ちのめされ、準国産エネルギーとも言うべき原子力が生み出す安い電気を失い、国内の基幹産業の競争力は円高と後進国の成長によりますます追い詰められている。
そんな時に、かつて日本の近代化の教師であった欧州はEU内部に深刻な対立を抱え、共通通貨EUROの未来さえ危ぶまれる。
アメリカに至っては、債務デフォルトに至るかどうかという瀬戸際まで行くほどに、財政状況は危険な状況にある。
かと言って1000年前の先生であった中国も隣で問題を抱えていて、到底ロールモデルになるはずもない。

我々は、どの国をモデルとしそれを目指して走っていけばいいのか。
我々は、21世紀にどのような経済社会を作り上げるのか。
皆目見当がつかぬ。

だが、危機の中にチャンスはある。むしろ、危機の中にこそ偉大な何かは生まれるものだと信じたい。戦後の焦土のなかから、HONDAが、TOYOTAが、SONYが、PANASONICが生まれやがて世界を席巻したように。

フランシス・ベーコンの力強い言葉を引用しよう。

「順境に、恐れと不安がなくはない。逆境に、希望と喜びがなくはない」

いつの時代も、そうだったのだ。数千年も、数万年も変わりはしない。
我々は、少しだけ、自分の生まれた時代を特別だと、非常な時代だと錯覚しながら、だが、だからこそ人生を意気に感じて短い人生を死に物狂いで生きてきたのだ。
そして、それでいいのだと思う。

得意の脱線だ。
物まねに意味はない。皆と同じであることはもはや無効だ。そんな19世紀的な産業革命の残り香が漂う時代の郷愁に浸っている暇はない。
街も、村も、貴様も、そして我が国も、誰も何も真似できないこの世界で、それでも意思によって武装して、自らの命を華々しく、雄雄しく輝かせるのだ。
熱く生きよ。強く生きよ。そして冷たく死ぬがいい。

2011年8月26日金曜日

伊藤之雄「昭和天皇伝」

ツァラトゥストラよろしく山に籠っていましたといいたいところだが、陽のよくあたる新居での新しい生活がようやくひと段落したところ。
我が愛車”びぃと”が部屋の目の前に停まっているのが嬉しくて、将来建てる「白光庵」では半地下の書斎の隣にAston Martinの格納庫を置いて、それと書斎との壁は全面ガラスにしようと思っている。

まったく同じことをずっと続けるということが俺ほどできないとどうしようもないだろう。
この数ヶ月のぐうたらについては、本当に弁解の余地もなく、どれだけ自己批判をしても仕方がないのだが、さはさりながら、一つのことに専心すると他のことが全く見えなくなるという俺の性質は、人生の所々ではいい方向に作用することもあると思われる。
思えば、器用さと容量のよさが求められる時代であって、俺が息をする場所なんてどこぞにありや?

さて。

京都時代に講義をとらせてもらった伊藤之雄・京都大学公共政策大学院教授の「昭和天皇伝」を読んでいる。痛感させられたことは、新興の大国(明治後期~昭和初期の日本は、政治的・軍事的に疑いもなく大国であった)にとって、軍に対する適切な統制をいかに実現するかということは、非常に困難な課題であったということだ。
明治天皇の時代には、伊藤博文・山県有朋という、軍・官僚双方に対してコントロールを及ぼせる輔弼者が天皇陛下の側に仕えていた。昭和天皇の時代にも、初期には西園寺公望が最後の元老として尽力したが、やがて老衰には勝てず、日米開戦の足音が次第に近づく1940年の末に亡くなった。伊藤教授曰く、昭和天皇は、元老を失い孤独のなかで重大な国家の危機に立ち向かわねばならなかったのだ。
「天皇は大元帥として陸海軍を統制する立場にあったから、天皇には(満州事変も日中戦争も対英米戦争も全ての)戦争責任があった!」というのは、昭和天皇が直面された国内外のあまりに困難な状況を全く無視しているのではないだろうか。ロンドン海軍軍縮条約、天皇機関説問題、インフレ、満州事変、軍部大臣現役武官制、日中戦争、その他、あまりにも、沢山。
大日本帝国憲法下の大日本帝国を、現在の作られた「大日本帝国」というイメージから類推して、「神聖して冒すべからざる」天皇陛下の意向のままに全ての国家権力が執行される、いわばナチス・ドイツのような独裁国家だと想定している人が、天皇陛下の戦争責任を問いたがる。
国家は、言うまでもなく、暴力を独占する存在である。国家は、実力組織を保有する。そして、それに対する統制権をいずれかの者が持つことになる(現在の日本では内閣総理大臣)。リビアやエジプトで最近明らかになったように、この実力組織が統制者の意思に唯々諾々と従うというのは、あまりにナイーブ過ぎる幻想だと思う。だって考えて見てほしい。我々が善として疑うこともないこの近代国家それ自体が、元はといえばフランスにおける民衆の蜂起、革命に由来するものなのだから。
とはいえ、戦争を行なったことそれ自体についてではなく、我が国があの戦争に負けたことについて政府は明らかに日本国民に対して責任を負うべきであったし、それがうやむやにされたことは間違いない。だがそれは、決して国際法に基づく「戦争を計画した罪」とか「戦争を開始した罪」とかいうものではない(今でも、国家は「合法的に」戦争を行なえる。悲しいか?泣くか?平和主義国家ですと宣言するか??誰かさんに助けて下さいとすがりつくか???それとも懸垂して腕立てしてダッシュするか???)

結論:昭和の歴史を振り返り、日本が辿った60余年の歴史を概観するのに最高の本である。
著者のこの徹底的な一次資料の引用・参照の仕方はどうだ。まさしくプロだと思う。



2011年6月25日土曜日

友人論

結婚して家庭を持つとなると、友人とともに過ごすことができる時間は極端に減る。
子供ができて、社会に枢要な地位を占めるようになれば、尚更旧来からの友人と会う時間は少ない。
いずれ書かないといかんと考えていた、俺の友人論を簡略ながらここに記す。

友を持ちたければ、「友なぞいなくてもよい」と思わねばならない。
これがまず最初の命題である。

「人生でもっとも大切なものは友である」

しかり、そうかもしれぬ。
これによって「友のいない人生はつまらない」などと考えてしまうことが、危険だ。
ニーチェに友が100人いたとしたら、俺はいま「ツァラトゥストラ」を読むことはできなかっただろう。友がいること、友といつでも酒を飲めることは、常に男の人生においてプラスであるとは到底言えぬ。

男の友人同士の関係は、独立した戦国武将の対等な同盟でなければならぬ。
将軍と外様大名の主従関係であってはならぬ。あるいは土曜日の昼下がりに愚痴を言い合い共通の友人のタブロイドネタで盛り上がる中年女同士の関係であってはならぬ。
そのためには、男は独立せねばならぬ。全てから独立せねばならぬ。
それは、当然に最も近しい友も含むことは論を俟たない。

大人の男同士の関係は、互いの意思がぶつかりあうところに生じる小さな爆発のようなものであるべきだ。爆発することができずマグマをためている一人の男が、同じように意思というマグマをぐつぐつと精神に漲らせている別の男と会い、それがぶつかりあって爆発する。
それが、一番楽しい。これは、男と女の関係では見出すことができぬ愉快である。
久しぶりに会う友に、心身ともにますます頑強になっている姿を見せて互いに競争しつつ成長していくのだ。

貴様は、「あいつだけには負けられぬ」という敵=友を持っているか?

独り言:

電車の車内広告である大学がこんなことを言っている。
「社会に役立つ人材を育成します」
あぁ、商業主義大学の広告宣伝だね。教育にで金儲けをしてたいそうなことだ。
大学という最高学府は、知識を求める人間が行く場所だ。それがこの大衆社会が来るところまできた現在にあっては、単なる学歴と技術と知識を得るために多くの者が通うテーマパークになった。
そもそも大学生はこう問うべきではないのか?
「『社会に役立つ』だと?そもそもその社会とはなんだ?社会なんぞあるのか?それは革命によって修正されるべきものではないのか???それ自体は正しいものなのか???」云々と。
全てを疑って、そのあとに自分の信じるものを苦しみながら見出していくということ。
それこそが、学生であることの特権であり、それさえできれば他は何もしなくてもいいのだ。
その過程で、我々は人間の幅を広げ、知識を得、歴史を知り、傲慢になり、他人を思うようになるのだ。
学生の教育に熱心な大学にだけは、俺の子供をやりたくないと思う。そうでなければ、俺の子供は勝手に自分の世界を作っていくだろう。
考えてみたほしい。スティーブ・ジョブスは、「社会の役に立ちたい」というよりも、「社会を(情報)革命で変えてやろう」と思い行動したればこそ、あれだけの事業を成しているのではないか?
ちなみに彼はスタンフォード大学の卒業式での演説で、「大学を入学から3カ月で辞めたことは、私の人生におけるもっとも素晴らしい決断でした」と言っている。大学を卒業する者たちを前にこうあっけらかんと言えるのは、なかなか気持ちが良いね。


虱レース by 石原莞爾

石原莞爾は、陸軍幼年学校在学中の折、機械式ペンシルの先に虱を10匹飼っていて、机の上にこいつらを出しては「虱レース」を楽しんでいたらしい。またあるときは、図画の授業のために提出する写生の題材に困った彼は、彼の股間の一物を写生して、これを「便所にて我が宝を写す」と題して提出したそうな。
最近会社の研修で講師が、「会社を(よい方向に)変えるのは奇人変人の類です」と言っていたために、今朝石原のことを想起して「秘録 石原莞爾」という本を本棚から引っ張り出したのだが、まぁここまでの変人はあまりおらん。
ところで、石原の部下の兵に対する愛には考えさせられるところ甚大なり。石原=最終戦争論だけではないよ。
石原は兵の教育についてこう述べている。
「猛訓練によって養われてきたものは、兵に対する敬愛の念であり、心を悩ましたものは、その一身を真に君国に捧げている神の如き兵に如何にして精神の原動力となるべき国体に関する信念、感激を叩きこむかであった」。
ある基地で連隊長を勤めていたときなどは、石原は日曜日などに兵営を訪ね、浴場を視察して、敬礼をする兵に対して、「敬礼はせんでもよい。湯加減はどうだ?」と尋ねもしていたそうな。そして、温かい風呂に兵が使って喜んでいるのを見て、彼自身もたいそう嬉しそうにしていたという。
今の会社に勤めて3年が過ぎ、俺より若いものと共に働くようになった。歳を重ねていけば、俺が弩阿呆でない限り、年下のものを部下として「動かす」ということが多くなる。そのときに、彼らの「精神の原動力」を俺はいかにして与えられるだろうか???
精神の原動力を増進せしめるために、その人への即物的な価値供与の多寡を決定する権限を自身が保持していることを以て脅迫するが如きは、人間における最低次元の者だ。俺はそこまでの鬼畜にはなりたくない。
チャーチルの多くの演説は、明らかに英国人の「精神の原動力」となり、あの苦しい戦いを勝ち抜く力となった。この日本の戦後最大の苦難の時に、日本の政治家の言葉は誰にも響きはしない。彼らは、何も信じてはいないのだ。
人の上に立つ者は、頭脳抜群の優秀な人間でなければならない。集団を率いる者が阿呆だと悲惨が起きる。だが、頭脳だけでは十分ではないのは明らかだ。人間としての大きさは、石原が兵の風呂を休日に視察して湯加減を確かめていたように、自分以外のどれだけ多くの人間の幸福安寧を、我がものとして思い遣ることができるかによって決まる。
ついでだが、石原は大正6年に「長岡藩士河井継乃助」という本を書いている。「どうも継乃助と石原は似ているところがあるなぁ」と感じていただけに、これは必読の書だ。

独り言:

「俺は...もう日本が駄目かと思った...だけど!そこに日本があった...!!」(東日本大震災後の空軍松島基地にて、長渕剛)
まさに、詩人だ。
破滅のなかでこそ起ちあがってくるものがある。
マーク・ローランズは繰り返し言う。
「最も大切なあなたは、あなたの大切なもの全てを失った時に残るあなただ」

弱きに対しては優しくあれ。
強きに対しては卑屈になるな。
善きに対してはこれを援け、
悪しきに対しては鬼であれ。

私心を捨て、正義を第一とし、大局的な視野の下に、時代の先の先までを洞察して判断を下し、ただ国家国民のために最善を尽くす。
ここにおいて、俺は誰にも負けたくない。それ以外は取敢えずどうでもいいや。

熱く生きたいと思った。社会の理不尽や嫉妬に懊悩することがあったとしても、現実が俺からみてどれだけ理想から逸脱しているとしても、俺は理想を捨ててはいけないと思った。
俺という個人が、俺の目標に対して資格十分の男であるかどうかを決定するのは、俺が死んでから誰かがしてくれるだろう。俺はそんなことには全然興味がない。俺は俺自身が信じる道を行くだけだ。
そして、仲間とともに血を沸騰させて涙を流して感動できる一瞬を諦めてはいけない。それは、現実から逃げるということではけっしてない。

最近、この歳になってー恥ずかしいことだがーようやく挨拶がきちんとできるようになったと感じる。
高校の時、二年下のある君の挨拶に驚愕したことがあって(15-16歳の少年の挨拶にしては出来過ぎていた)、爾来それを目標にしてきた。
海外でよく目にするのは、日本人の変な挨拶だ。「Good morning」とホテルのスタッフに言えない(目を見て言わない)、食事を持ってきてくれたウェイターに対して「Thank you」と言えない、その他沢山。
コンビニで「袋はいりません」と言うときに、なぜああも多くの人が目線も合わせずに言うのか俺にはよく分からん。丁寧に袋に入れてくれたら「ありがとう」の一言ぐらい言ってもバチはあたらんだろう。
相手の目をみて目礼をする、「こんにちは」という、それは人間関係の始まりの最も大切なことだと思う。
先日会社である幹部が、「まぁ(経営方針などについて)いろいろ言いましたけどね、皆さん、挨拶をしましょうよ。廊下ですれ違う時に、声に出さなくてもいいけどね、小さく会釈をするとかね、できるじゃないですか」と言っていた。あれはいい発言だった。それ以外はどうでもいいことと当たり前のことの陳列でみんなして睡眠していてもいいくらいだったけれど。


2011年6月8日水曜日

Sevilla, Spain!

初めてのスペイン。仕事でこんな国を訪ねることがあろうとは。
MadridのAtocha駅。 気温は30度を越えていて、かなり暑い。






スペインの新幹線”AVE”。
グリーン車(?)に乗ると弁当とワインが出てくるのだが、お腹いっぱいだったので食べず。

車窓から眺める風景は単調で、人影も少ない。まぁ、広い国土のうちの新幹線が走っているところを眺めただけだが。

川も少なく、土壌は乾燥し、この土地が大規模な人口を養うことはできぬ土地であることは明らかだ。だが、同時に降り注ぐ強い陽光は、太陽熱発電・太陽光発電の基地として魅力的だし、人口が過密状態ではないために多くの場所で風力発電を行うことができるだろう。






”AVE”でマドリッドから南西に向かって田園風景のなかを2時間半揺られると、Sevilla。

これは、グアダルキビール川。この川の名はアラビア語で、「大いなる川」を意味する。
この川が、この街と大西洋を繋いでいる。
どの都市へ行っても、川に行くのが好きだ。ロンドンはテムズ、パリならセーヌ。俺の故郷は高梁川。古いところでは古代の四大文明はいずれも大河川を擁した。

水上交通、肥沃な土地、海洋への連絡。全てが都市を形成するのに必要不可欠なものだ。

はるかな昔から、この土地の人々はこの川とともに生きてきたんだなぁと思いながら流れを見つめてぼけっとしているのが大好きだ。



この街は、スペイン南部の中心都市で、アンダルシアの州都でもある。セビリア都市圏の人口は130 万人ほどでそれなりの規模だ。ちなみにローマ五賢帝の一人、ハドリアヌスはこの街の生まれなんだって。
細い路地を抜けていったところに見つけた居酒屋のようなレストランの屋外の席から教会を写す。



8世紀からイスラムの支配を受けたこの地域は、西欧ではあるが、イスラムの強い影響が残っている。というよりも、人々の顔つきがかなりアラブ人に近い。15世紀後半にレコンキスタが完了すると、いよいよ新大陸に進出し、セビリアはアメリカとの貿易と独占して以後2世紀に渡って繁栄した。


昨日の夜のAreva主催のFarewell夕食会にて。牛がいました。マタドールもいました。




なんで赤い布に突進するのだろうか。




がんばれ牛さん!

ちなみに、牛さんはちゃんと最後は自分のお家に帰っていったのでご安心を!
で、食事の最後にはお待ちかねのフラメンコ!





これには、感動した。
アンダルシア地方の女性はいまでもほとんど全員がフラメンコを踊れるそうな。
女性二人と男性一人の踊り手の、恍惚感にあふれた表情がとても印象的で、会場にいた200人くらいの観客は総立ちになって拍手を送った。

失業率が20%だの財政赤字がどうだのとユーロがどうだのと日本と同じくらいに問題を抱えるスペインだが、フラメンコがある限り問題なさそうだ。
踊り歌うことは、常に論理を超越している。
国が光り輝くのは、その国の歴史の豊穣さにおいてなのだろう。
我々は何者であるのか、何者であったのか。フラメンコほどそれを烈しく語るものはないのかもしれない。

2011年6月5日日曜日

Pont Neuf, Paris!

夜、と言っても22時まで明るい。
母親がスペイン人だという陽気なオールバックのタクシードライバーのおじさんが150kmで飛ばすMercedez C classの後席で、これまたノリノリのスペイン音楽を聴きながらシャルルドゴール空港からParisの街へ。
仏語がぺらぺらになった小カストロこと不藤とMonparrnasseという街の小さなArzentine料理屋で晩御飯。二人で650gの肉の塊とチリワインを少々。しかし西洋人てなんであんなに食べるんだろう。



22時まで明るい初夏のParis。次に二人が向かったのは...???

そう、新橋!すなわち、Pont Neuf!



倉敷の兄貴のレストランの名前の由来となった橋。この橋の下は賀茂川と高野川が合流する、京都の通称”デルタ”のような中州になっていて、3分歩けば巨大なルーブル美術館。
石畳に俺のChurchの足音が響いていた...というのはうそで、おりからの小雨で少し肌寒く感じた。

いやー、始めてポンヌフを渡って満足満足でした。ごっつい橋でした。
岩倉具視辺りがかつてこの辺りをみて、「こいつぁすごい」と唸ったんだろうな。


Pont Neuf駅というのもあるんですな。 知りませんでした。



こういう裏通りに色気があります。京都の木屋町なんかもそうです。

この街は渋い。東京のように、「スポーツクラブやってます!!!」という看板なぞほとんどない。


ほんの数時間のParis散歩だったが、また来たくなった。
それにしても大陸はよいな。BMWさえあればどこまでだって走っていける。
新婚旅行は是非欧州を縦断したいと思う。始発、フリースランド。終着、マドリッド?



台北で大樹と台湾ビールを飲み、Parisで不藤とワインを飲む。
旅慣れぬ俺は、観光でも旅でもない出張の合い間のこういう一時が、たまらなく好きだ。

不藤、ありがとう!