べべすけ、君の両親の平成23年12月30日の顔です。
父の髭面の理由は、この数週間「坂の上の雲」のドラマをテレビで観ていたからです。だから、最近の口癖は、
"ゼット!!!掲げぇぇっっっ!!!"
母の色白の理由は、パス牛乳をよく飲んでいるからです。
伊豆、大室山に登るロープウェイにて。
べべすけ、君の両親の平成23年12月30日の顔です。
父の髭面の理由は、この数週間「坂の上の雲」のドラマをテレビで観ていたからです。だから、最近の口癖は、
"ゼット!!!掲げぇぇっっっ!!!"
母の色白の理由は、パス牛乳をよく飲んでいるからです。
伊豆、大室山に登るロープウェイにて。
東北での大震災後、こういう言説は強化されました。
そりゃそうです。
映画「ディープ・インパクト」のような世紀末的映画でしか観られそうもない巨大津波が文字通り町そのものを飲み込んでいくところを目撃した我々は、原子力発電所の破滅的な危機も相俟って、世界はもはやこれまでと同じではありえないとか、世界は変わらなければならないとかいう多くの声を聞かされています。
もちろん、それは、多くの利益団体や既得権益者にとって、自分に望ましい方向に社会を変えるための最大の機会であるという大きな理由もありますが、最初に書いた理由からも、恐らくそれだけでは説明できぬものでしょう。
同じ年に、近代国民国家を真っ先に作り上げた欧州はといえば、終わりそうもない金融危機にのたうち回り始めました。
そして、民主主義が必然的に招導する財政における社会民主主義が、論理的帰結として財政危機に至るという現実を我々は目の当たりにしています。
そして、それが破裂したとき世界がどうなるのか、誰しもが固唾を飲んで見守っている、なんてことはありませんね。
大袈裟に言えば、産業革命以降の世界を形作ってきた技術主義と、資本主義と国家主義のアマルガムとしての大いなるシステムが終わろうとしているという時代認識がかつてないほど強烈に意識された年が終わり、新しい年がやってくるわけです。
だけど、新幹線は去年と同じように今年も年末年始の帰省客をいそいそと大量かつ正確に運ぶし、阿呆な芸能人はハワイに出かけ、大衆はその映像を居間のコタツで観させられるのです。
東北が、日本が、どれだけの損害をこうむったとしても、それは日本人1.28億人全員の生活を変えたわけではないし、まして世界をひっくり返したわけではないのです。
我々はひたすらに終わりなき毎日を生きて行かねば、生き抜いていかねばならぬということです。
年の瀬で区切りがつくものなんて、実際のところ何かひとつでもあるでしょうか。
恋愛、夫婦関係、仕事、戦争、外交交渉。
北朝鮮のミサイル、拉致問題。中国の海洋進出。欧米と日本の債務危機。
すべて、今日のこの日にも大いなる問題であるし、来年の元旦にもそうであるし、恐らく来年の年末にはさらに悪化しているのでしょう。
だから、年の瀬だ年賀だといって、ひたすらに流れていく自分の人生や歴史に、なにか決定的なものが生まれるわけではないし、新しいものが始まるわけでもないのです。
むしろ、これだけの危機の年の後であっても、こんなにも普通に正月がやってくることの異常さに注意したい。
そして、そう思うとき、我々の人生はどこまでも、ひたすらに平凡なものだと思い知らされます。
これだけ破滅的と思われ、実際そう言いふらされる地震や危機の只中にあっても、我々が生きているのは平凡なる日常でしかないのです。
人生に意味などない。そうかもしれません。
確かにあるとは言えない。少なくとも、「俺の人生には意味がある」ということを証明することは絶対にできないのです。
肉親を失った多くの同胞に、そう強く言いたいとも思わないし、それが正しいことだとも思えません。
だけど、そうやって平凡な毎日のなかに一度沈み込んでから、泥にまみれて這い上がってくるところに、我々の命が輝く場所が漸く存在するのだと思います。
人生を、「どうせ終わるものだから」と思って享楽的に生きて快楽主義に堕していくことも、あるいは阿呆な宗教者のように人生に大前提的に意味があると考えて熱狂することも、はたまた自分が他の時代とは異なる特殊な時代を生きていると妄想することも、畢竟、格好悪いのです。
格好良く生きよう。
断固たる決意を持って。
俺のために生きてくれたすべての人のために。俺の後に続くすべての人のために。
すべてを受け入れながら、しかしすべてに反抗しながら。
三谷原基拝
自分の将来について考えるときに、ロードマップを描いて段階的に課題をクリアしていくことはよいことだが、ここには一つの問題があるように思う。
現在から将来を見通す自分は、当然ながら現在の自分だ。20年後のあるべき自分というのは、10年後の自分がさらに10年を生きた後の自分なのだが、この10年後の自分がどうあるかついて判断するための基準は、いまこの瞬間の自分だ。
だから、この目標設定は、それまでの人生での自分の生き方や実績を考慮した上で作られる、合理的な目標になりがちだ。だからこそ、現在の自分からみて実現可能(と思われる、合理的な)小さな課題を順に積み上げて行く。
中卒の人が一部上場の会社をつくるというような"夢"は、この思考からはどうしでも辿り着けない。
将来の俺は今の自分からは想像もできないほど大きな人間になっているだろうし(というよりも、今の俺の人間が小さ過ぎる)、またそうでなければ俺は俺自身に退屈してしまうだろう。誰よりも永く付き合うのは俺自身なのだから、俺は自分をわくわくさせるような自分自身であらねばならん。そこへ至る道をいまの俺は想像できないが、もしできるならば俺はすでにそんな人間になっているはずだ。だから、諦める必要は全然ない。
つまり、可能性は上にも下にも無限だ。 俺自身が勝手に縛り付けない限りにおいて。
中庸の暮らしが保証されていない代わりに、俺は何物にでもなれる。
もうすぐ人生の半分の30歳だがこの確信は揺るがない。
中卒だった本田宗一郎は、ホンダがただの部品工場だったころから、朝礼でみかん箱に立って「世界のホンダになる!」と叫び続けたそうな。そして、この非合理的な目標を達成するために合理を超越した努力をひたすら続けた。その結果が、いまのホンダなのだ。
必死即生也。
そう、新橋!すなわち、Pont Neuf!
倉敷の兄貴のレストランの名前の由来となった橋。この橋の下は賀茂川と高野川が合流する、京都の通称”デルタ”のような中州になっていて、3分歩けば巨大なルーブル美術館。
石畳に俺のChurchの足音が響いていた...というのはうそで、おりからの小雨で少し肌寒く感じた。