2012年1月31日火曜日

ダルビッシュの退屈

強く記憶に残っている。
いつかの野茂と清原の対決。やるかやられるかの斬り合いのなかで、野球の試合そのものは背景に霞んでしまい、数万人が埋めた球場はただ二人のためだけの舞台と化す。野球場は、二人しかいない土俵となる。
野茂はクールだったが、それでも清原のど真ん中に炸裂するかのように飛んで行くストレートは、彼の負けん気を何よりも明らかに表していた。
彼らは、一生懸命に遊んでいた。己の誇りをかけて。
かつてホイジンガが、『ホモ・ルーデンス』のなかで言ったような「遊び」を二人は体現していた。羨ましくなるほどに、楽しそうだった。

ダルビッシュは凄い投手だ。プロの世界で5年連続防御率が1点台。二試合連続で三失点完投したら、次の二試合は必ず二試合とも完封するわけだから、彼が北海道スタジアムで言ったように、まともな勝負はすでに成立していなかったと言ってよい。打者の体力技能の向上を考えれば、ダルビッシュが日本野球史上最強の投手であることは間違いないだろう。

だが、野茂にとっての清原のような敵がダルビッシュにいただろうか。
残念ながら、いなかった。
パリーグには凄いホームランバッターもアベレージヒッターもいたが、競技者としての格においてダルビッシュと同等の選手はいなかった。
過去に少し投手をしたことがあるが、自分でどうでもいい敵と思っている打者に少々打たれても、投手は痛くも痒くもないものだ。記憶にさえ残らないだろう。

三島由紀夫もどこかで言っていたが、人間にとって、最大の苦しみは持てる能力の全力を発揮することが許されなかったり、そういう場所を与えられないことだ。だからこそ、近代の歴史において、自由は、それ自体が最高の価値とさえ見なされた。ましてダルビッシュのような異常なレベルの才能は、より強くそう感じるに違いない。
自らの才能と能力を抑圧することに比べたら、実力以上のことに挑戦するほうがはるかに健全だし愉快だろう。

全力の156kmhのストレートで、無我夢中で三振を奪いに行くダルビッシュと、それを見事にホームランにしてしまう怪物のようなスラッガー達の闘いが楽しみだ。ダルビッシュの過剰なエネルギーが打者のエネルギーとぶつかり、炸裂してしまうような、そんな遊びを見せて欲しい。

野球なんぞ道楽である。
道楽に命を賭けるクレイジーを俺は愛する。そして道楽のためにも、やっぱり敵が必要なのである。


雪見大福のやうな富士山

米のエネルギー輸入依存低下が意味することは

アメリカがガスの純輸出国となると、世界最大のガス生産・輸出国であるロシアは苦しくなるだろう。いまウラジオストクに伊藤忠など日本企業が、天然ガスの巨大液化プラントの建設を検討中だが、ガスを世界中に売りたいロシアと、原発が止まり中東からの石油とガスの安定供給に不安を覚えている日本の国益は一致するだろう(シーレーンにますます中国海軍がせり出してくる)。

プーチンは組みやすい相手ではないが、目指すところは明らかで単純だ。すなわち地域覇権国としての大国ロシアの復活である。

こう考えると、ビジネスで必要な「何を与えて何をとるか」という姿勢は、外交でも当然そのまま使える。

もっとも、外交は道徳的であるべきと考える人には嫌な言い方だろうが。


以下は日経の記事。


米国のエネルギー対外依存度が低下している。新型天然ガス「シェールガス」やメキシコ湾の沖合油田開発が進み、消費エネルギーに占める輸入の割合は2010年の22%から35年には13%に低下する見通し。新たな技術の実用化などで、これまで採掘が難しかった鉱区での開発が可能になることなどが背景。オバマ政権は豊富な埋蔵量を背景にエネルギー安全保障を強めており、対イラン制裁などで強気の姿勢をとる原動力になっている。
米エネルギー省などによると、米国内の原油生産は1986年から減り始めたが、2008年から上昇に転じ、10年には1日あたりの生産量が約550万バレルと2年で約10%増えた。さらに20年には670万バレルまで増えると予想している。10年には英BPの原油流出事故があったが、メキシコ湾での沿岸油田などの増加を見込んでいる。
もう一つの柱となるのが地中の岩盤層に含まれる「シェールガス」。岩盤に大きな割れ目を作って採掘する技術が00年代に確立したことで生産量が増え、10年には天然ガス国内生産の23%に達した。これが35年には49%まで上昇すると予想する。
エネルギー省によると、米国はシェールガスなどを液化天然ガス(LNG)として輸出する計画だ。この結果、米国は16年にLNGの純輸出国に転じ、21年には天然ガス全体でも純輸出国になると見込む。シェールガス開発には水質汚染への懸念が指摘されるが、生産コストが比較的低いのが特徴で、北部と南部を中心に開発が進んでいる。

(2012/1/25 日経)


合同自主トレってなんじゃい。合同的で自主的なトレーニングなんてあるかい。合同練習といいなさい。


寝んとす。

ふとんフカフカ。


2012年1月30日月曜日

Steve Jobsが数千人いた国

"If today were the last day of my life, would I want to do what I'm about to
do today?"
(もし今日が人生最後の日であるならば、今日これからやろうとしていることを僕はしたいと思うだろうか?)

Steve Jobsが毎朝自らに問い続けた問いだ。彼の2005年の「Connecting the dots」スピーチのなかで触れられている。

彼は、同じ演説の中で、こうも言う。

"Remenbering that you are going to die soon is the best tool I've ever
encountered to avoid the trap of thinking that you have something to loose.You are already naked. There's no reason not to follow your heart."
(あなたはまもなく死んでしまうということを銘記しておくことは、あなたは何か失うものを持っていると考える過ちを避けるための、僕がこれまでに出会った最高の方策だ。僕たちはすでに丸裸で、何も持ってはいない。だから僕たちの心に従わない理由なんてない)

(あぁ、なんてマーク・ローランヅ的なんだろう。狼もねずみもミミズも俺も、明日死ねるし、明後日灰になれるほどには自由なのだ)

思えば、かつて日本にはSteve Jobsが数千人も数万人もいたのだ。
同級生、家族、先輩、友人を戦争でなくしたのみならず、自らがたまたま生き残ったかつての軍人たちは、Jobsのように、月照と錦江湾に身投げしたが自分だけ生還してしまった西郷南洲のように、母に与えられ、その後もう一度与えられた命を燃やす場所を懸命に探したのだ。苦しみながら、戦友にいつも敬礼しながら。
まがいなりにも世界の大国となった日本皇国は、死地をくぐり抜けた俺らの爺ちゃんのSteve Jobsが作り上げたのだ。

で、あるならば、だ。
必死の覚悟をいま決めて生きるべきは、諸君、我々だろう。いま死ぬべきは我々だろう。いま203高地に突撃を敢行すべきは、貴様だろう。潔く、あっさりと死ね。

美味いもんを喰らって女といちゃついて豪邸に住むことから逃亡して、ジャングルの一匹の虎として飢えて死にたい。
我々は、死において俺の自由意志を発揮できると確信できる程度においてのみ、このありとあらゆる面倒な世界から超絶たる位相に立ち得るだろう。

畜群から脱したいのなら、諸君、生という安全で楽しい牧場のなかで草を食んで肥え太っている暇なんぞないのだよ。

俺は一個の核弾頭になりたい。


朝まで生テレビ - 橋下大阪市長に返り討ちにされる人達

http://www.youtube.com/watch?v=1s4qWNoXIBc

ぜひ全編ご覧いただきたい。
あまりに的外れで幼稚な反橋下派の主張とたまに繰り出される東氏のするどい突っ込みに大いに笑うことができる。

何かを変えようという意思を持つ人に、「変えたらどうなるか分からないから怖いから変えないでくれ」と言うのなら、もはや政治を語り政治家を批判するべきじゃないだろう。

2012年1月28日土曜日

陽明学徒・大塩平八郎

大阪の"平八"という店を昨日予約した。
日本史における、二大"平八郎"の一人の言葉。

「常人、天地を視て無窮となし、吾を視て暫となす。故に欲を血気壮時に逞しゅうするを以って務となすのみ。而して聖賢は、即ち独り天地を視て無窮となすのみならず、吾を視ては以って無窮となす。故に身の死するを恨みずして心の死するを恨む。心死せざればすなわち天地と無窮を争う。」

「徳性の中より来たる生死変ぜず、識見の中より来たる則ち時あって変ず。故に君子は識見を以って徳性を養う、徳性堅定なれば則ち生ずべく死すべし。」

ー加藤拙堂『史的諸相と武士道の立場』

人生という顔の輪郭が脂肪で膨れ上がって、自分の肌と外部の境も分からんような、正体不明の人生を行きたくはない。
「生きるために生きるんじゃねえ」と親父に言ったのが9歳。
俺は何をしているんだろう。

世の中に火炎放射器から飛び出す炎のようにまき散らされる、畜群の小さく、ありふれた、差し障りのない幸福とそのための資本主義的な処方箋の洪水に、俺の頭ははじけてしまいそうだ。俺の額の髪の毛の生え際が着実に後退していることは、必ずしも親父から受け継いだ遺伝子のためだけではあるまい。


2012年1月27日金曜日

京都の机

ここでよく遊んだ。
公共政策大学院の自習室。
2008年の1月くらいかな。

2012年1月26日木曜日

Ecce Homo

人間一般に対する吐き気、嫌悪。
自分が成分として彼らと同一であることに対する自覚。
自分の肉体と精神における統一性の欠如に対する不満。
弱さを見つめることなく畜生であり続ける馬鹿に対する諦観。

そして昨日に対する復讐のために東に出ずる太陽。

世界にとって、心の慰安があるとせば、そは彼らが生まれながらにかかる性質と、精神と呼ぶに値しない精神を持っているということである。
彼らに愛すべき敵はいない。彼らは暖かい食事と人肌と、なによりも平和を求める。
他者に対する最高の敬礼は、彼との終わりなき闘争の内にのみ発見されよう。闘いは、格別の人間二人の間においてのみ、そのところを得るであろう。

「幸いなことに世界は、人がよいという他に取り柄がないような畜群がその中にけちな幸せを見つけられるようにと、そんな本能を目標にして構築されてはいないのだ。
万人をすべからく善人であれ、畜群であれ、碧い目の人であれ、誰であれ、
誰にでも好意的であれ、美しき魂であれーさもなくば、ハーバード・スペンサー氏がお望みの様に、万人は愛他的であるべしなどと要求することは、どだい生存からその偉大な性格を奪い取ってしまうことにほかならない。」

ーニーチェ「この人をみよ」
最終章「なぜ私は一個の運命であるのか」より

表参道を散歩中に記す


2012年1月24日火曜日

雪〜

キャリーバッグの轍と足跡。
上等なウールを使った我がMacintoshの塹壕外套は、雪で真っ白になってもびくともせず。

まだ寒い日は続くようですね。


大きくなった藍子さん。

黒猫ヤマトのトラックをみて、「ニャートラック!」と名づけました。
なんとも、初々しく気持ちの良い感性ではないですか!
兄貴曰く、藍子が来ると、俺のおばあちゃん(つまり藍子の曾祖母)の動きが機敏になるそうな。
ちびっ子の力ってすごいんだねぇ。

貴様は次のことを忘れぬようにするがよい。
すなわち、どれだけ目前の出来事が幸福に充ちているように見えても、昂ぶってはいけない。
そんなものは、明日にでも正当に奪われるかもしれぬ。
その後に残る貴様は、負け犬か。それとも不屈の戦士か。




2012年1月23日月曜日

中国の住宅バブル

http://www.foreignaffairs.com/articles/136963/patrick-chovanec/chinas-real-estate-bubble-may-have-just-popped

Foreign AffairsのWeb版に掲載された中国の住宅バブルについての論文。
似たようなものはどこにでもあるかもしれぬが、コンパクトでとても読みやすい。

すでに中国は、麻薬中毒者にさらに強度の麻薬やモルヒネを打つが如くに、過剰在庫を抱えたデベロッパーを国営銀行が緊急融資によって延命させるという状態にある。
中国の不動産バブルについては数年来多くの人が警告を発してきたが、北京は特になにもしていない。国民が購入できる不動産の数を制限するなどはしているが。

だが、調整の足音は明らかにすぐそこまで来ている。
昨年10月、上海であるデベロッパーが高級マンションの値段を最大3分の1値下げした。これに怒り狂ったのが最高値を掴まされた購入者達だ。彼らはこのデベロッパーの事務所に押し掛け、金を戻すことを要求しながら窓を壊すなどやりたい放題をした。北京では昨年11月だけで新築の住宅価格が35%も下落した。ある代理店によれば、北京ではデベロッパーは約22か月分の在庫をすでに抱えており、上海でも21か月分の在庫が余っている。
中国は、ー日本もそうだがー、バランスのとれた内需主導の成長をついに実現することなく、設備投資により駆動されるバブル型の経済成長を突っ走った。
多くの地方政府は、レバレッジを効かせてインフラ投資を大規模に行ってきており、不動産市況が反転すれば年率8-10%の経済成長は夢と消えるだろう。

中国の住宅バブルは、世界の「生産」を精一杯吸収してきたことはいうまでもない。建築に必要な鉄鋼は石炭と鉄鉱石の価格を押し上げ、各種の機械や木材需要を高止まりさせ、そして中国の人々が消費財を大量に購入することを可能にしてきた。

それが、間もなく一転するだろう。
中国の多くの地方や都市に、誰もすまないマンションや高級住宅街が残される。
結局、バブルが資本主義とそのなかで活動する人間にとって魅力であるのは、貧乏クジを引かなければ、それは利を得る最大の機会であるからだ。だが、それは、常にゼロサム・ゲームであって、必ず誰かが泣く。泣くだけではなく、人が死ぬ。

それにしても、この物語における最大の皮肉は、太平洋の東側の住宅バブルによって世界経済が破滅するのを防ぐために、太平洋の西側に住宅バブルを再び生み出す他に策がなかったということだ(著者曰く、中国の多くの都市での住宅価格はこの二年間で2倍になった)。

望みは、著者も言うように、バブルが崩壊して低価格になり庶民にも手が届くようになった中国の住宅市況は、より健全な中国経済への転換を促すかもしれない。また、これまで過剰に不動産に流れ込んできた投資が他のより生産的な分野に向かうということも十分に考えられるだろう。

個人を守る国家や社会の力がどんどん弱くなっているように感じるのは俺だけではないと思う。
もはや政府を批判してどうなるという次元にはないだろう。
日本がなくなって、勤めている会社がなくなって、自分の資産すべてが吹っ飛んでしまっても、どうにか生き抜く術を得なければいけない。そういう覚悟を持って子供を生まねば子供が不幸になる。

まぁしかし、皆そうやって生きてきたんだよな。
俺だけが特別だなんて思ってちゃいかん。

ユニクロのCM

ユニクロの最近のCMが好きだ。
和紙職人の女性が、凍りつきそうな寒さのなかで冷たい水で紙を濾している、あのCM。たしかこれ以外にも似たようなものを観たと思う。皆さんもう観ましたかな?

少し前は、女優の黒木メイサが黒のフリースを着て踊っていた。都会的で、お洒落だった。ユニクロが苦手とする若くオシャレに敏感な女性たちを強く意識したものだろうなと感じた。
http://www.youtube.com/watch?v=ROAdOE-EKrc

それが、今回は和紙の職人だ。
日経ビジネスリーダーにも特集が最近あったので間違いないが、ユニクロは改めて「ユニクロとは何か?」を問い質し、ZARAやForever21と区別がつかぬようなブランドになってはいかんと柳井社長は考えたのだろう。たしかに、ブラトップ、ヒートテックに続く核となるべき新商品は出て来ていない。
機能性商品の開発力とそのマーケティング、そして価格に圧倒的な強さを持つユニクロの根本は、"オシャレな洋服"としてのユニクロではなく、やはり"誰にでも買える、快適な日常着"としてのユニクロなのだと思う。着ていることを着ている当人が意識する洋服が、デザイナーの個性が発揮されるオシャレなブランドの洋服であるならば、ユニクロの洋服は、着ている人がその服を着ていることを忘れて仕事や勉強や遊びに熱中できるものであればいい。そして、両者はほとんどの場合競合しないだろう。
その意味で、かっこいい女優がスタジオで踊る姿ではなく、古くから伝わる(であろう)和紙を製作する職人さんをその仕事場で空気感もそのままにカメラに収めた新しいユニクロのCMは、ユニクロの意思がはっきりと示されている、とてもよいCMだと思う。
自らが社会に訴える価値のなんたるかを忘れない企業は、強い。BtoCのビジネスであれば尚更そうだろう。
少し女性にもてたからといって世界の女性全てから愛されようとするから男は大失敗をするのであって、他の誰かに嫌われようとも構うもんかという気構えが企業の成長には肝要である。

ところで、トヨタの新型車アクアが爆発的な人気を博している。12月26日の発売から今週末の1か月弱で、国内販売台数が10万台(トヨタの目標の6倍)に達するそうな。ハイブリッドのリッター35kmで169万円。
これこそトヨタのやるべきことだと思う。トヨタは、グッチやアルマーニに憧れる必要なぞない。車を道楽やファッションとしてではなく、毎日の通勤や子供の送り迎えに使う普通の生活者のために世界最高の技術を駆使するべきだと思う。さすれば結局トヨタがGMやVWや現代や大宇の後塵を拝している新興国市場でも闘えるだろう。
しかしトヨタのVitzのCMは悲惨だな。つくってる人が一番後悔してるんちゃうかね。

トヨタはユニクロに学ぶべきだ(さはさりながら、VWもAudiを持ってるもんなぁ)。
がんばれトヨタ。VWに負けるな。
スカイアクティブのデミオで30km!を宣伝中のマツダもがんばれ〜

2012年1月21日土曜日

My name is "National Justice(國義)."

とは言うものの、やはり三谷原國義は古過ぎでしょうと母に言われ...優子はよいらしいが。
ちぃと考えてしまった。

ところで、俺は「家族サービス」という言葉が大嫌いだ。阿呆の言うことだ。
Serviceという英単語の語源はラテン語のServitus。これは、「奴隷の状態」を意味する。奴隷、奉公、隷従というイメージだ。別に語源を引っ張らなくても、いまこの言葉が使用される文脈は「意思に反して嫌々でもしなければいけないこと」だろう。
会社にも家族にも隷従し、平日も休日も嫌々暮らして10年も経てば、男の顔は立派な奴隷の顔になるだろう。そもそも政略結婚させられたのでもなく、自由意志で結婚してこれまた自由意志で子供をつくったくせに、それにServitusとは一体全体どういうことだ。
そういうわけで、毎朝の東急田園都市線は、現代の奴隷船の船倉である。

母がくれたべべ用のおもちゃ。孫はかわいい、というがまだ生まれていないのに気が早いなぁ。俺は自分の子供とたくさん遊べるかは知らんが、遊ぶときはとてつもない集中力で遊ぶぞ~

2012年1月16日月曜日

松井冬子展、横浜にて

地球は丸く、人は白い。森は黒く、ただ海だけが怪しく光る。

小さくなった土の上に、末人たちが踊る。

松井冬子さんの絵を横浜美術館に観にいった。この人の画集を一冊持っているだけなんだが、新しい作品が沢山増えていて、見応えがある。3月18日迄。
この画家は、人間の理性というものにさしたる価値をおくことなく(と見える)、狂気や陶酔、人格の分裂や幽霊を恐ろしく繊細な筆致て描く。

全てが平準化された現代社会に対する、余りにも美しい反抗、あるいは絶望。

生麦事件があったころの横浜は、弩級の田舎町だったのだろうな。

2012年1月14日土曜日

武蔵御嶽神社参拝!大口眞神!

明治神宮では本殿での参拝ができなかったので、年末から妻と行きたいねぇと話していた、武蔵御嶽神社に初詣に参る。御嶽山という東京は青梅と奥多摩の境の辺りに、背後に「大口眞神(おおぐちまがみ)神社」を従える、たいそ立派な神社がある。

なぜ昨年から行きたいと思っていたかというと、小倉美恵子『オオカミの護符』(新潮社)を読んだからだ。これは、わずか50世帯の農村から、今やえらくおしゃれな、7000世帯が暮らすようになった川崎市宮前区土橋に、先祖代々農業を営み暮らしてきた著者が、清潔で静かで華やかな田園都市になってしまった東急田園都市線の沿線地区にいまだに残る、日本古来の山岳信仰の在り方をアナクロニズムやロマン主義に陥ることなく描き出した傑作である。

東京に暮らさぬ幸運な方には不案内なことだろうが、渋谷から中央林間をつなぐ田園都市線の近代化・ブランド化たるや凄まじい。二子玉川は言うに及ばず、たまプラーザも新しい駅舎とその周りの商業施設も俺には都会的過ぎる。子供を育てるには、Gucciが徒歩8分である場所よりも1mの雷魚が潜む野池に徒歩8分で行ける場所のほうがいいだろう。

話を戻す。
この本の表紙がオオカミ(=大神)というのも最高だ。これほど俺を牽きつけるものもあるまい。(オオカミ=大神:http://yamazakura2050.blogspot.com/2010/10/blog-post_3719.html

広大な西関東平野を御嶽山から睥睨するこの神社の来歴は、次の通り(以下の大部分は、武蔵御嶽神社社務所発行のパンフレットより)。

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武蔵御嶽神社の創建は、第十第崇神天皇7年と伝えられ、延喜式神名帳(平安時代)には、大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのあまつかみのやしろ)として記されており、古くより関東の霊山として信仰を集めた。
祭神は、櫛真智命(くしまちのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなみのみこと)、廣国押武金日命(ひろくにおしたけかねひのみこと)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、御眷族大口眞神(ごけんぞくおおぐちまがみ)。
山岳信仰の興隆とともに、中世関東の修験の一大中心地として鎌倉の有力武将たちの信仰を集め、御嶽権現の名で厄除、延命、子孫繁栄を願う多くの人々の崇敬を集めてきた。武将の崇敬が厚かったため、国宝の赤糸威大鎧(あかいとおどしのおおよろい、畠山重忠が1191年に奉納)をはじめ貴重な武具もここに伝わる。
天正十八年に徳川家康が関東に封ぜられると、朱院地三十石を寄進され、慶長十一年大久保石見守長安を普請奉行として社殿を改築、南向きだった社殿は江戸城守護のため東向きに改められた。
人々の社寺詣でが盛んになるとともに、御嶽詣も、武蔵・相模を中心に関東一円に広がり、講も組織され、現在に至っている。
また、日本尊王(やまとたけるのみこと)東征の折、この地で難を白き狼により救われた。
(武蔵御嶽神社HPより:「日本武尊が東征の際、この御嶽山から西北に進もうとされたとき、深山の邪神が大きな白鹿と化して道を塞いだ。尊は山蒜で大鹿を退治したが、そのとき山谷鳴動して雲霧が発生し、道に迷われた。そこへ、忽然と白狼が現れ、西北へ尊を導いた。尊は白狼に、大口眞神としてこの御嶽山に留まり、すべての魔物を退治せよと仰せられた」)
明治維新により、御嶽神社の社号となり、さらに昭和二十七年武蔵御嶽神社と改められた。
現在の社殿拝殿は、元禄十三年に徳川幕府によって造営されたものである。
御嶽神社は、太占祭を行う数少ない神社の一つとしても知られる。太占とは、古代日本において行われていた、獣骨(主に鹿)を用いた卜占の一つだが、これがこの平成の時代にもいまだに1月3日に行われている。現在は群馬の貫前神社と武蔵御嶽神社でしか行われていない秘中の秘術である。
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JR青梅線、青梅駅と奥多摩駅の真ん中より少し南の、「ここが本当に東京か?」と言ってしまわずにはいられない田舎の山坂道をびぃとで登り、ケーブルカーに乗って武蔵御嶽神社の参道を目指す。

最大傾斜25度のケーブルカーで出発進行~
乗客は俺ら二人のほかにはカップルが一組だけ。
「テロ対策を行っております。不審物を発見されたときは...」というが、ここでテロをするテロリストはそうとう暇で仕事のないテロリストだろう。

ケーブルカーを降りて、参道(山道)を歩いていると、遠くに人家が見えた。こんな場所で生活ができるのか???と思っていると、これは宿坊である。

こんな宿坊が参道の周りを埋め尽くしている。すべての宿坊の玄関にはしめ縄が吊られ、神聖な場所であることを静かに主張している。
里からやってきた御嶽講中(後で詳述)は、直接山頂の神社に参拝することはしない。まず宿坊に立ち寄り、そこでお祓いをし、身を清めてから「御師(おし)」に導かれて再び山頂を目指す。
これが、「山入り」の作法であるそうな。約30軒ある宿坊は、いずれも御嶽神社に仕える御師の家だそうだ。各地の「御嶽講中」には、それぞれ古くから(数百年前から)行き来を重ねてきた御師があり、その宿坊に泊まってから神域へと近づく準備を行うのが御嶽参りの伝統的な作法なのだという(小倉、前掲、P.63)。

では、「講」とはなんなのか?
我が家でも親父が、「今日はお講じゃ」といって夕方村の近所の人の家にでかけていくことがあったが、「講」という言葉の使い方はかなりこれに近い。ここで言う講とは、「御嶽山にある武蔵御嶽神社にお参りに行く(村の)代表者を決める行事(小倉、前掲、P.38)」である。種まきや田植えの始まる前に、作業の無事と豊作を願うことから、毎年春先に行われる。昔は、多摩川が氾濫したり大雨が降ったりすれば、農民の生活はとたんに危機に瀕した。餓死者とは言わぬまでも、その被害は甚大だっただろう。さればこそ、関東一円から各地の講が毎年このはるか青梅まで(車から川崎から2時間だが、距離にすれば80km。しかもそのうち最後の10-20kmは険しい山坂道だ)通い詰めたのだ。小倉氏もいうように、切実な願いを込めて、講を組んでの御嶽詣は270年の長きにわたり現在まで続けられている。恐らく、講での御嶽参りは、厳しく苦しいだけの参拝というイメージではなく、一年に一度の「ハレ」の日でもあったのだと思う。
その証拠が、「百回記念」や「百五拾回記念」などと彫り込まれた、各地の講が神社の参道に建立しているこれらの碑である。俺は、こんな碑がかくも沢山建立されている神社を他に知らぬが、あるのだろうか?こういうものを見ると、明治神宮や靖國神社の、「社格」とは違う、神社としての「若さ」を思うのである。この御嶽神社には、東京に明治神宮も靖國神社もないころから、武蔵や相模の人々は詣で続けてきたのだから。


(この碑にある「犬蔵」というのは、東名川崎IC近くの地名である)
こんなちびっこも兄ちゃんに手を引かれて参拝しておる。いい子になるだろう。ママ様は少しヤンチャな風だったけど。 さて、ここまで書いてからようやくオオカミである。
まず、武蔵御嶽神社本殿正面の左右に、二体のオオカミが鎮座する。これをみて、「なんだかすごい狛犬だね~」と言っている参拝客がいたが、これはどうみてもオオカミだろう。これほど迫力のある、筋骨隆々とした狛犬は見たことがない。背中に大口眞神を祭る山でもあることから、オオカミと断定して間違いなかろう。この爪もどうみても獣の爪だしね。



本殿の後ろの小さな社を護る小さな狛犬(猪もおるかね?)達。

で、こちらが大口眞神の左右に鎮座する、迫力のオオカミ。

長大な牙、太く逞しい前脚、みるからに犬ではない、別の種の獣である。
この土地では、小倉氏が指摘するように、神への信仰の前にオオカミと人との関わりが1000年も以上昔からあったのだろう。
オオカミ信仰は、縄文時代にまでさかのぼる古いものであるそうな。

彼らに安産を祈願したから最早なんの心配もなかろう。靖國にも行ったし。

「オオカミ信仰」と「山岳信仰」については、交わるところとそうではないところがある。それぞれについて一度しっかりと勉強しないといけないようだ。

勉強不足ですみません。

俺が高梁川に育まれたように、武蔵の国の民は利根川・荒川・多摩川がもたらす水利から莫大な富を得ながらも、同時に台風や大雨の際には荒れ狂う大洪水によって途方もない損害を被ったことだろう。だが、それが肥沃な関東平野をもたらしもした。そうであればこそ、恐れながら、畏れながらも敬い崇めるという日本に伝わる古来からの自然と祖先への信仰が生まれ、育まれてきたのだと思う。
御嶽神社の参道に立ち並ぶ講の碑をみても、それらの多くが現在の多摩川の流域に存在する地区であることが多い。羽田空港の近くで東京湾にそそぐ多摩川は、武蔵国は笠取山に源流を発し、丹波渓谷、奥多摩を経由して、青梅、福生、昭島、立川、国立、府中、調布、世田谷、川崎を流れて東京湾に至る。その源流にほど近い御嶽山が、百姓にとってのカミであったことは、当然であり、それ以外にはあり得なかったようにさえ思える。

かつて、ここに暮らした百姓の皆さんは、毎年春には講を組んでまだ雪の残る御嶽山を目指して、多摩川沿いに歩を進めたのだろうと思うと、なんとも言えぬ豊かな思いが胸中に湧き上がってきた。
さらに、このような川が山の富を海に放つことで、日本は世界にも稀な豊かな漁場を沢山持っている。狭く険しい山がちな国であるが、まさに神州八島と呼ぶにふさわしい国ではないか。


何を信じていてもいい。どんな神に祈っていてもいい。だが、俺は、思う。
人として生まれた限り、大切なもの、自分よりも大切な何かが確かに世界にはあるということを思い宿しているべきである。それは、自身の栄達のためではなく、もっと大きなものに「祈る」ことだ。祈ることは、我々の行為のうちで最も貴いことだと思う。自分達の命を足元から支えてくれる山や川に対する心からの畏敬。それに対して祈ることを忘れてはいけない。それは、「環境保護」とか「エコ」とかいう流行りの言葉からの対極にある、それらよりはるかに重く優しい慈しむ心である。

日本人の自然信仰、山岳信仰の根本は、形式としての神社やオオカミを拝むことではない。それらは単に象徴である。天皇陛下がそうであるように。この外形的な行為の内側に潜む、母であり父である自然への畏敬の念こそが、この日本を世界に唯我独尊たる文明にまで押し上げたものに違いない。

それにしても、ケーブルカーの駐車場代が一律1000円というのはいかがなものか。さらにケーブルカーも往復1090円。既得権益の匂いがするぞ。

帰りは奥多摩駅近くの「もえぎの湯」で冷えた身体を温めた。やまめという魚は新鮮なものは刺身で食べられるんですね。知らなかった。

明日は、横浜に「松井冬子展」を観に行こうかと思う。
あぁそうだ。びぃとをNicoleに持っていかないと。X3が欲しいんだよなぁ。なぜって、べべすけが生まれたらキャンプに行くのもどこへ行くにも荷物が増えそうだから!
あぁ、物欲を正当化する論理なんぞいらんのだよ!!!
今日車中で聞いていた、長渕「友よ」はよい曲だな。
http://www.youtube.com/watch?v=pIiipsvaGEg
この曲、親父の赤い古ぼけたファミリア(アクセラの先代じゃコラァ!)でよくかかっていた。

狼さん付きのお札を張ってもらったびぃと。”へっへ~”という顔でした。
びぃとも真っ黒で筋肉質で狼っぽいですからね。

最後に、今日のベストショットをどうぞ!会社のPCの壁は当分これじゃ。

2012年1月10日火曜日

月夜にポツリと

主人と散歩しているときに、引き綱を自分でしっかりと咥えて進む方向をちゃんと見据えて歩く、真っ黒のラブラドールレトリバーを、さっきみかけた。
自分のことは自分できめるのだという気迫が表情に溢れた、たいそう立派な犬だった。
俺もああいう犬みたいになりたい。
我以外、皆師也。

山で暮らしたいという思いが日増しに強くなっている。これは考えているのではなく、俺の細胞の欲求であるが、べべすけと何をして遊ぶかも当然考えておる。

2012年1月2日月曜日

初詣、人の波、すたこら退散

靖國神社に行こうかと思ったが、明治神宮には初詣でいったことがないからと妻と表参道で電車を降りて、てくてく表参道を歩いて神宮へ。
明治大帝がお隠れになった後に造成された人工林であるが、すでに100年を超える樹齢の木々が東京のど真ん中に織り成す自然は、すでに人工という風貌ではない。近代日本の躍進を御身自ら先導された明治大帝と皇后殿下を祭る社に相応しい風格である。
が、当然ながら、明治大帝の御先祖をまつる伊勢神宮の畏れ多いほどの巨木が立ち並ぶ伊勢の参道に比べると、矢張り格の違いを感じもするのだけど。
日本の最も神聖な場所は、人工のものが少なく、手を付けなければすべての構造物は朽ちて自然に還る。ギリシャのアテネの神殿は、石を使って建設されていて、まさに自然界における生命の循環に立ち向って逆らうかのようだ。
だからなんだって?
つまり、日本の古い自然・祖先信仰こそ、ニーチェの永劫回帰の思想と親和的だということでしょう。
ということは、去年「超訳・ニーチェの言葉」が売れまくったのも、自然の摂理???

と、いうわけで、参拝したものの、人が多すぎて本殿まで辿り着けず、国家安泰と家運隆盛を祈願して渋谷のジュンク堂へ。
購入したものは、次の四冊。

・マーク・リラ「神と国家の政治哲学」
⇒政治と宗教を分離した、それに成功したと信じている我々である。
が、著者曰く、「歴史的には、違っているのは我々であって、彼らではない(注:つまり、分離した、できたと思っているのは我々だけだ)」。

・カエサル「ガリア戦記」
⇒松岡正剛氏はこれを高校生のときに読んだそうな。読書層というのは、中学高校でこういうものを読んでいるのだなぁと思った。俺はノーラン・ライアンの「ピッチャーズ・バイブル」とか小山さんの「初動負荷理論」とかばかり読んでおったわ。大学に行く気もなかったのだから、そりゃ当の然でしたな。

・エイミー・チェア「最強国の条件」
⇒帯に、日本再興のカギは「寛容」と「多様性」とあり、ピンときたので購入。
 この「多様性」というときに、やはり必要なのは、「地域主権」だろう。そして、それは地球の裏側で生産される原油や食料(とそれを持ってくる商社)に大きく依存しない、一定の自活経済圏を必要とするものだ。ここでは俺は一貫しているという自負がある。俺と同じころに大学や大学院で国際関係論や国際政治学を学んだものは、誰もが一度はジョセフ・ナイの「国際紛争ー理論と歴史」を手にとったことがあると思う。俺はこのなかで述べられている「世界がひとつにつなげられ、相互依存が深化している」ことがさもよいことのように描かれていたことに昔から大いなる違和感があった。これは、アメリカの住宅バブルで世界経済全体が狂ってしまって日本で中年男性の自殺者が増加するという可能性まで考慮していただろうか?とてもそうは思えないのだ。冷戦後のアメリカ的楽観主義の花盛りということだったのだろう。
早い話が、結婚していなければ、結婚の悦びもない代わりに夫婦喧嘩もあり得ないのだ。

・有本葉子「うちのおつけもの」
⇒土曜日のブランチはおむすびと旨い漬物が最高である。土曜日の昼間は軽い飢餓状態にしておくのが正しい。ミョウガの梅酢漬けなんて滅茶苦茶旨そうである。

それにしても、「~だけダイエット」の流行り方はなんなんだろう。
「巻くだけダイエット」、「座るだけダイエット」、「立つだけダイエット」、「背伸びするだけダイエット」、「計るだけダイエット」、「歩くだけダイエット」、「肉だけダイエット」、挙句の果てには「寝るだけダイエット」...そんな控え目なことを言わずに、巻いて座って立って背伸びして計って歩けばたいそう痩せるだろうに。
寝てて痩せられたらそりゃぐうたらな方には嬉しいだろうねぇ。
昔は「バナナダイエット」とか「リンゴダイエット」とかが流行ったことがあったが、ものを変えやり方を変え、(主に)女性の「痩せたい!」「綺麗になりたい!」という願望を市場で金に換えていく資本主義の力強さには平伏したくなりますな。とはいえ、十億人が肥満なのに、それと同じくらいの数の人が飢えている。力強い資本主義は、万能には程遠い。
長渕剛曰く、「デブは敗北だ」。


御節料理

"なんじら創造する者よ、高人よ、人間は所詮己の子のみを孕みうるに過ぎない。
何物によっても欺瞞せらるるなかれ! 説得せらるるなかれ!そもそも、なんじの隣人とはなんであるか?よしなんじらが「隣人のために」行動することありとも、なんじらはなお隣人のために創造することはありえない。
なんじら創造するものよ、この「-のために」を忘れよ。なんじらが「-のために」にも「-の故に」にも、一事を為さざること、これをしもまさになんじらの徳は欲する。これらの小さき偽りの言葉に対しては、なんじらは耳を塞げ。
この「隣人のために」はただ小人の徳である。かれらにあって言わるるは、「互いに相等しく」また「手を手で濯ぐ」である。なんじらが持つ利我の力をも権利をも、かれらは持たぬのである!
なんじら創造するものよ、なんじらの利我のうちには、孕める者の慎重と予見がある!いまだ何人も見たることなきもの-果実をば、なんじらはまったき愛をあげて、護り、養い、育てる。
なんじらのまったき愛のあるところ-なんじらの子の許に、また、なんじらのまったき徳はある!
なんじらの意思こそ、なんじらの「隣人」である。いかなる小さき虚偽の価値によっても、説得せらるることなかれよ!"

ニーチェ「ツァラトゥストラ」