明治神宮では本殿での参拝ができなかったので、年末から妻と行きたいねぇと話していた、武蔵御嶽神社に初詣に参る。御嶽山という東京は青梅と奥多摩の境の辺りに、背後に「大口眞神(おおぐちまがみ)神社」を従える、たいそう立派な神社がある。
なぜ昨年から行きたいと思っていたかというと、小倉美恵子『オオカミの護符』(新潮社)を読んだからだ。これは、わずか50世帯の農村から、今やえらくおしゃれな、7000世帯が暮らすようになった川崎市宮前区土橋に、先祖代々農業を営み暮らしてきた著者が、清潔で静かで華やかな田園都市になってしまった東急田園都市線の沿線地区にいまだに残る、日本古来の山岳信仰の在り方をアナクロニズムやロマン主義に陥ることなく描き出した傑作である。
東京に暮らさぬ幸運な方には不案内なことだろうが、渋谷から中央林間をつなぐ田園都市線の近代化・ブランド化たるや凄まじい。二子玉川は言うに及ばず、たまプラーザも新しい駅舎とその周りの商業施設も俺には都会的過ぎる。子供を育てるには、Gucciが徒歩8分である場所よりも1mの雷魚が潜む野池に徒歩8分で行ける場所のほうがいいだろう。
話を戻す。
この本の表紙がオオカミ(=大神)というのも最高だ。これほど俺を牽きつけるものもあるまい。
(オオカミ=大神:http://yamazakura2050.blogspot.com/2010/10/blog-post_3719.html)広大な西関東平野を御嶽山から睥睨するこの神社の来歴は、次の通り(以下の大部分は、武蔵御嶽神社社務所発行のパンフレットより)。
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武蔵御嶽神社の創建は、第十第崇神天皇7年と伝えられ、延喜式神名帳(平安時代)には、大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのあまつかみのやしろ)として記されており、古くより関東の霊山として信仰を集めた。
祭神は、櫛真智命(くしまちのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなみのみこと)、廣国押武金日命(ひろくにおしたけかねひのみこと)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、御眷族大口眞神(ごけんぞくおおぐちまがみ)。
山岳信仰の興隆とともに、中世関東の修験の一大中心地として鎌倉の有力武将たちの信仰を集め、御嶽権現の名で厄除、延命、子孫繁栄を願う多くの人々の崇敬を集めてきた。武将の崇敬が厚かったため、国宝の赤糸威大鎧(あかいとおどしのおおよろい、畠山重忠が1191年に奉納)をはじめ貴重な武具もここに伝わる。
天正十八年に徳川家康が関東に封ぜられると、朱院地三十石を寄進され、慶長十一年大久保石見守長安を普請奉行として社殿を改築、南向きだった社殿は江戸城守護のため東向きに改められた。
人々の社寺詣でが盛んになるとともに、御嶽詣も、武蔵・相模を中心に関東一円に広がり、講も組織され、現在に至っている。
また、日本尊王(やまとたけるのみこと)東征の折、この地で難を白き狼により救われた。
(武蔵御嶽神社HPより:「日本武尊が東征の際、この御嶽山から西北に進もうとされたとき、深山の邪神が大きな白鹿と化して道を塞いだ。尊は山蒜で大鹿を退治したが、そのとき山谷鳴動して雲霧が発生し、道に迷われた。そこへ、忽然と白狼が現れ、西北へ尊を導いた。尊は白狼に、大口眞神としてこの御嶽山に留まり、すべての魔物を退治せよと仰せられた」)
明治維新により、御嶽神社の社号となり、さらに昭和二十七年武蔵御嶽神社と改められた。
現在の社殿拝殿は、元禄十三年に徳川幕府によって造営されたものである。
御嶽神社は、太占祭を行う数少ない神社の一つとしても知られる。太占とは、古代日本において行われていた、獣骨(主に鹿)を用いた卜占の一つだが、これがこの平成の時代にもいまだに1月3日に行われている。現在は群馬の貫前神社と武蔵御嶽神社でしか行われていない秘中の秘術である。
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JR青梅線、青梅駅と奥多摩駅の真ん中より少し南の、「ここが本当に東京か?」と言ってしまわずにはいられない田舎の山坂道をびぃとで登り、ケーブルカーに乗って武蔵御嶽神社の参道を目指す。
最大傾斜25度のケーブルカーで出発進行~
乗客は俺ら二人のほかにはカップルが一組だけ。
「テロ対策を行っております。不審物を発見されたときは...」というが、ここでテロをするテロリストはそうとう暇で仕事のないテロリストだろう。
ケーブルカーを降りて、参道(山道)を歩いていると、遠くに人家が見えた。こんな場所で生活ができるのか???と思っていると、これは宿坊である。
こんな宿坊が参道の周りを埋め尽くしている。すべての宿坊の玄関にはしめ縄が吊られ、神聖な場所であることを静かに主張している。
里からやってきた御嶽講中(後で詳述)は、直接山頂の神社に参拝することはしない。まず宿坊に立ち寄り、そこでお祓いをし、身を清めてから「御師(おし)」に導かれて再び山頂を目指す。
これが、「山入り」の作法であるそうな。約30軒ある宿坊は、いずれも御嶽神社に仕える御師の家だそうだ。各地の「御嶽講中」には、それぞれ古くから(数百年前から)行き来を重ねてきた御師があり、その宿坊に泊まってから神域へと近づく準備を行うのが御嶽参りの伝統的な作法なのだという(小倉、前掲、P.63)。
では、「講」とはなんなのか?
我が家でも親父が、「今日はお講じゃ」といって夕方村の近所の人の家にでかけていくことがあったが、「講」という言葉の使い方はかなりこれに近い。ここで言う講とは、「御嶽山にある武蔵御嶽神社にお参りに行く(村の)代表者を決める行事(小倉、前掲、P.38)」である。種まきや田植えの始まる前に、作業の無事と豊作を願うことから、毎年春先に行われる。昔は、多摩川が氾濫したり大雨が降ったりすれば、農民の生活はとたんに危機に瀕した。餓死者とは言わぬまでも、その被害は甚大だっただろう。さればこそ、関東一円から各地の講が毎年このはるか青梅まで(車から川崎から2時間だが、距離にすれば80km。しかもそのうち最後の10-20kmは険しい山坂道だ)通い詰めたのだ。小倉氏もいうように、切実な願いを込めて、講を組んでの御嶽詣は270年の長きにわたり現在まで続けられている。恐らく、講での御嶽参りは、厳しく苦しいだけの参拝というイメージではなく、一年に一度の「ハレ」の日でもあったのだと思う。
その証拠が、「百回記念」や「百五拾回記念」などと彫り込まれた、各地の講が神社の参道に建立しているこれらの碑である。俺は、こんな碑がかくも沢山建立されている神社を他に知らぬが、あるのだろうか?こういうものを見ると、明治神宮や靖國神社の、「社格」とは違う、神社としての「若さ」を思うのである。この御嶽神社には、東京に明治神宮も靖國神社もないころから、武蔵や相模の人々は詣で続けてきたのだから。
(この碑にある「犬蔵」というのは、東名川崎IC近くの地名である)
こんなちびっこも兄ちゃんに手を引かれて参拝しておる。いい子になるだろう。ママ様は少しヤンチャな風だったけど。
さて、ここまで書いてからようやくオオカミである。
まず、武蔵御嶽神社本殿正面の左右に、二体のオオカミが鎮座する。これをみて、「なんだかすごい狛犬だね~」と言っている参拝客がいたが、これはどうみてもオオカミだろう。これほど迫力のある、筋骨隆々とした狛犬は見たことがない。背中に大口眞神を祭る山でもあることから、オオカミと断定して間違いなかろう。この爪もどうみても獣の爪だしね。
本殿の後ろの小さな社を護る小さな狛犬(猪もおるかね?)達。
この土地では、小倉氏が指摘するように、神への信仰の前にオオカミと人との関わりが1000年も以上昔からあったのだろう。
オオカミ信仰は、縄文時代にまでさかのぼる古いものであるそうな。
彼らに安産を祈願したから最早なんの心配もなかろう。靖國にも行ったし。
「オオカミ信仰」と「山岳信仰」については、交わるところとそうではないところがある。それぞれについて一度しっかりと勉強しないといけないようだ。
勉強不足ですみません。
俺が高梁川に育まれたように、武蔵の国の民は利根川・荒川・多摩川がもたらす水利から莫大な富を得ながらも、同時に台風や大雨の際には荒れ狂う大洪水によって途方もない損害を被ったことだろう。だが、それが肥沃な関東平野をもたらしもした。そうであればこそ、恐れながら、畏れながらも敬い崇めるという日本に伝わる古来からの自然と祖先への信仰が生まれ、育まれてきたのだと思う。
御嶽神社の参道に立ち並ぶ講の碑をみても、それらの多くが現在の多摩川の流域に存在する地区であることが多い。羽田空港の近くで東京湾にそそぐ多摩川は、武蔵国は笠取山に源流を発し、丹波渓谷、奥多摩を経由して、青梅、福生、昭島、立川、国立、府中、調布、世田谷、川崎を流れて東京湾に至る。その源流にほど近い御嶽山が、百姓にとってのカミであったことは、当然であり、それ以外にはあり得なかったようにさえ思える。
かつて、ここに暮らした百姓の皆さんは、毎年春には講を組んでまだ雪の残る御嶽山を目指して、多摩川沿いに歩を進めたのだろうと思うと、なんとも言えぬ豊かな思いが胸中に湧き上がってきた。
さらに、このような川が山の富を海に放つことで、日本は世界にも稀な豊かな漁場を沢山持っている。狭く険しい山がちな国であるが、まさに神州八島と呼ぶにふさわしい国ではないか。
何を信じていてもいい。どんな神に祈っていてもいい。だが、俺は、思う。
人として生まれた限り、大切なもの、自分よりも大切な何かが確かに世界にはあるということを思い宿しているべきである。それは、自身の栄達のためではなく、もっと大きなものに「祈る」ことだ。祈ることは、我々の行為のうちで最も貴いことだと思う。自分達の命を足元から支えてくれる山や川に対する心からの畏敬。それに対して祈ることを忘れてはいけない。それは、「環境保護」とか「エコ」とかいう流行りの言葉からの対極にある、それらよりはるかに重く優しい慈しむ心である。
日本人の自然信仰、山岳信仰の根本は、形式としての神社やオオカミを拝むことではない。それらは単に象徴である。天皇陛下がそうであるように。この外形的な行為の内側に潜む、母であり父である自然への畏敬の念こそが、この日本を世界に唯我独尊たる文明にまで押し上げたものに違いない。
それにしても、ケーブルカーの駐車場代が一律1000円というのはいかがなものか。さらにケーブルカーも往復1090円。既得権益の匂いがするぞ。
帰りは奥多摩駅近くの「もえぎの湯」で冷えた身体を温めた。やまめという魚は新鮮なものは刺身で食べられるんですね。知らなかった。
明日は、横浜に「松井冬子展」を観に行こうかと思う。
あぁそうだ。びぃとをNicoleに持っていかないと。X3が欲しいんだよなぁ。なぜって、べべすけが生まれたらキャンプに行くのもどこへ行くにも荷物が増えそうだから!
あぁ、物欲を正当化する論理なんぞいらんのだよ!!!
今日車中で聞いていた、長渕「友よ」はよい曲だな。
http://www.youtube.com/watch?v=pIiipsvaGEgこの曲、親父の赤い古ぼけたファミリア(アクセラの先代じゃコラァ!)でよくかかっていた。
狼さん付きのお札を張ってもらったびぃと。”へっへ~”という顔でした。
びぃとも真っ黒で筋肉質で狼っぽいですからね。
最後に、今日のベストショットをどうぞ!会社のPCの壁は当分これじゃ。