2010年12月31日金曜日
ある小さな年の終わりに
新約聖書、ヨハネによる福音書第一章第一節の言葉である。
俺はほんのわずかに陽明学をかじっている。であるから、「知行合一」という言葉の重さを重々認識している。尊敬する山田方谷先生も、河井継乃介も、もちろん佐藤一斉を敬愛していた大西郷も、皆行動の人であった。
こう言明した上で、それでも俺は”言葉は神”であると思う。
我々は、言葉によって世界を認識し、理解し、解釈し、説明し、それにたまに満足し、不平を言い、毎日の平凡な暮らしを生きている。言葉によって他者とつながり、他者を傷つけ、他者へ愛を伝える。
言葉以上のものが我々の精神においてありうること、そのことを俺は否定はしない。親の我が子への愛は、言葉を遥かに超越したものであるだろう。
だが、そうであっても、世代を超えて俺と遠い将来をつなぐ唯一のものは、言葉以外にはないのだ。
この意味で、俺の言葉はーーーもちろん神ではないとしてもーーー俺の全人格である。この一年間、ろくに仕事もせずに、土日にBMWで箱根の温泉に浸かることを目的として生きたこの愚劣な男の全人格を表象するものは言葉なのだ。俺は言葉以外に賭けるものを持たない。そうであれば、俺は言葉以外によって俺を表現することを得ない。
だが、これは俺にとって制約であろうはずがない。
言葉の可能性は無限だ。言葉は、どこまでも通じる。いつまでも記録され、記憶されうる。魂の言葉は、現在と将来を生きる他者へ大きな影響を与える可能性を断固として握り続けている。
このブログを開設してから7ヶ月が経った。
俺は、ここで、様々なことについてそれらしく論じたり説明したりすることを目的としたのではなかった。経済や政治について論じることは、俺などよりはるかに上手くそれをなす者が社会にはいくらでもいて、そういう情報や意見というものは雑誌やテレビ、あるいは彼らのブログに氾濫している。
俺にしかできないこと、俺のブログでのみ皆が見つけられるもの。それは、なんだろうか。いや、そんなものはあり得るのか。
ないのかもしれない。あるとかないとか、そんなことは俺が決められる事柄ではない。
だが、”あるかもしれない”。何かを俺は皆に伝えられる”かもしれない”。俺の馬鹿げた言の葉の数々の一文に、一行に、何かを感じ取ってくれる人がいる”かもしれない”。
俺の精神は、この可能性を論理的に完全に否定できないという気概の上にかろうじて成立している、ひ弱で小さな石ころなのだ。
これまでの131個の投稿の全てを読んでくれた人がいると思う。
俺は皆が俺の言葉に共感してくれることを期待してはいない。
全ての人に無視される覚悟を持って、それでも見えない誰かへ宛てて、俺は書き続けるのだ。
これは絶対に自己満足ではない。もちろんそんなものではない。俺は全然満足していないのだから。
俺が満足する時俺は倉敷の墓の下に眠っているのだから。
”無邪気さがあるのはいかなる処にであるか?-すなわち、生産への意志の存する処にである。自己を超えて創造せんと欲する者、此者こそ至純の意志を有する。美があるのはいかなる処にであるか?-すなわち、われが一切の意志を挙げて意欲せざるべからざる処にである。”
ニーチェ、「ツゥラトゥストラかく語りき、上巻」新潮社、P.289
2010年12月26日日曜日
弁当
2010年12月23日木曜日
映画、時代劇、そして戦争(と独り言)
(http://goldprice.org/gold-price-history.htmlより)
アメリカがこれだけ金融緩和&量的緩和を行ってドルをすりまくっているのに、そうならないと考えるほうがおかしい。現在のコモディティ価格の軒並みの上昇も、日経新聞風に言えば、「力強い中国を中心とした新興国の経済成長にけん引され」ていることになるのだろう。しかし、その中国やその他の経済が世界同時金融緩和・量的緩和によって生まれたマネーが加熱させているだけのバブル状態にあるとしたらどうだろうか?
いつの時代も、経済が成長している限りはそれを礼賛する言葉だけが飛びまわる。それが破綻したとたんに、「根拠なき熱狂」にされてしまう。
「中国の経済成長がいつまでも続く」という暗黙の大前提の上に、ぎりぎりの状態でなんとか小康を保っている世界経済は、中国の”バブル”が崩壊したらどういう状態になるのだろうか。
それは、リーマンショックどころのものではないと思うのだが。
実物資産がものをいう時代だ。
みんな、車を買いましょう(嘘です)。
みんな、ウラン鉱山を買いましょう(本当です)。
最近の米国10年物国債の金利上昇については、①財政悪化(米国の財政赤字はすでに13兆8000億ドル)によるリスクプレミアムの上昇が要因とするものと、②米国経済に対して投資家が抱いていた過度な悲観主義の修正による、実体経済に見合った金利水準への復帰という異なる見方があるようだ。
不勉強で、分からん。勉強しよう。
「ある意味おもしろい」という人がいたら、かならずこう尋ねよう。
「どういう意味でおもしろいのですか」と。
それに瞬時に答えられないものは、”人物”ではないと判断してよい。
自分が有名であることをいいことに、さして面白くもない自分の日常生活を切り抜いて「あれ食べた~あそこ行った~」とブログを書いている一群の阿呆芸能人とそれを読む大衆がいる。
2010年12月21日火曜日
2010年12月19日日曜日
女性の色気の本質
2010年12月18日土曜日
頑張れば救われる、だと?
2010年12月17日金曜日
2010年12月16日木曜日
今年の5冊
”・・・これが、ニーチェ自身がいう「未来の文献学」ということです。彼はこういう意味のことを言っている。いつかこの世界に変革をもたらす人間がやってくるだろう。その人間にも迷いの夜があろう。その夜に、ふと開いた本の一行の微かな助けによって、変革が可能になるかもしれない。その一夜の、その一冊の、その一行で、革命が可能になるかもしれない。ならば、われわれがやっていることは無意味ではないのだ。絶対に無意味ではない。その極小の、しかしゼロにはならない可能性に賭け続けること。それがわれわれ文学者の誇りであり、戦いである、と。” (P.206)
”幸福は、オオカミにとっては、同じことの永劫回帰(ニーチェさん、出番ですよ!)に見出される。時間が環なら、「二度とない」はない(永劫に回帰し続ける)。したがって、オオカミの存在は、生を喪失のプロセスとみる幻想をめぐって打ち立てられているわけではない。”(P.236)
2010年12月15日水曜日
農地争奪戦争、「ランドラッシュ」新潮社
2010年12月8日水曜日
好きな言葉、独り言
"War is an ugly thing, but not the ugliest of things: the decayed and degraded state of moral and patriotic feeling which thinks that nothing is worth a war, is much worse.
-John Stuart Mill
記憶せよ
この日世界の歴史改まる。
アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは彼らのジャパン、眇(びょう)たる東海の国にしてまた神の国たる日本なり。
そを治(しろ)しめたまふ明津御神(あきつみかみ)なり。
世界の富を壟断(ろうだん)するもの、強豪米英一族の力、我らの国に於いて否定さる。
我らの否定は義による。
東亜を東亜にかへせといふのみ。
彼らの搾取に隣邦ことごとく痩せたり。われらまさにその爪牙(そうが)を砕かんとす。
われら自ら力を養ひてひとたび起つ。
老若男女みな兵なり。
大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
世界の歴史を両断する。
12月8日を記憶せよ。
-高村光太郎
2010年12月5日日曜日
イランから始まる核ドミノ
くじらの肉
2010年12月4日土曜日
歴史と名前
名前の由来はよう分からんが、親父によると「基本が大事じゃあろうが」らしい。
俺の名前について話したいのではなくて、今日は時代錯誤者らしく昨今の子供の名前について若年ジジイ代表として一言もの申したい。
今日の読売新聞朝刊によると、2010年生まれの男の赤ちゃんの名前ランキングは次の通り。
大翔(ひろと)
なんと申しますか、そんなに最近の親は息子に空を飛んでもらいたいのか風になって欲しいのだろうか。だから「千の風になって〜」という歌が流行ったのか知らん。あるいは親父の「風に乗って飛び去って現実から逃避したい!」という潜在意識が息子に風だの翔ぶだのの名前を与えていると言うのは皮肉だろうか。歩夢(夢が歩く、or夢と歩け?)クンにいたっては、70歳になったときどう考えても恥ずかしいだろうと思うのだが...
名前は個人的なものではないと言ったら、首を傾げる人がいると思うが、俺は俺の名前は俺だけのものではないと思う。
まず、我々には姓がある。それは過去に俺と同じ姓を持ち生きた人がいたという歴史を証明している。
姓に続く名は、連綿と続く一族のなかで、俺という人間を個人として確立せしめるものだ。それがなければ、俺は独立した個人たり得ない。
親が子に名を与えるとき、親個人の思いは当然強く働く。それは当たり前のことだ。だから、名は好き勝手に決めていいもので、人様の子の名に文句を言う意味が全然ないかというとそうでもない。
俺は、上記のように名前は俺のものであり、家族のものであり、広く一族のものだと考える。だから、俺は自分の子に名を与える際には二つの点を考慮するだろう。
まずは、俺の感覚からして美しく壮健な響きがあり、かつ表意文字である漢字の名を与えるだろうから、俺の「我が子よかく生きるべし」という思いが伝わるものがよい。二つめに、俺は、その名が200年前においても、また200年後においても通用する時代普遍性を持つものかどうかを検討する。つまり、歴史を背負える名かどうかを考慮する。
我が義兄の国オランダは、おもしろい国で、大麻もマリファナも合法なくせに名前の付け方については相当頑固で保守的だ。
兄貴の名はArendというのだが、この名前は彼の父方のお爺さんの名前なのだ。男の子には、父方の祖父、女の子には母方の祖母の名前を与えることがオランダの慣習であるらしい(「最近はだいぶ変わってきたけどね」by Arend)。これは個人に名付けの自由を与えない制度だが、他方で、先祖と自身を同じ名前で繋ぐという非常に有意義な制度だと思う。Arendのお爺さんがArendならば、当然Arendのお
爺ちゃんのお爺ちゃんもArendだったわけで、ご先祖様がいきなり身近に感じられる。
人間の柱は、彼が身体的に宿した歴史の縦軸と、現在を生きる同世代(今を生きる人々)との横軸によって形成される。縦軸は尊敬、横軸は連帯。
以上からお分かりのように、俺は最近の名前というのはどうも歴史から乖離し過ぎじゃないかなぁと思っている。多少お茶目をするのはよいのだろうが。程度の問題なんだが。ひいお爺ちゃんあたりにきかせたら、びっくりするような名前ってかっこいい名前ではないだろう。
俺自身は、上で言った二つの規準に、”大地性”を賦与した名を息子には与えたい。息子には空を飛んでもらう必要はない。自分が生まれた土地にまずしっかり根を生って、そこから世界を平らげる、そういう男になって欲しい。田んぼに力と書いて"男"なのである。
国防の論点
2010年12月2日木曜日
やること。
来年やること!
一つ、八丈島の砂浜で野営
一つ、横浜港で60cmのシーバス
一つ、標高3000m以上で野営、朝日を見ながら上半身裸で腕立て
一つ、BMWでバックで100km/h走行(映画"トランスポーター"のJason Stathamのイメージ)
一つ、BMWでのサーキット走行(目指すは220km/h)
一つ、欧州縦断BMW暴走の旅(The Netherlands ⇒ Miditerraniean、イタリアでLamborghini Gallardoのパトカーに速度超過で捕まってオマワリさんと仲良く記念撮影)
一つ、秋田の鶴の湯温泉2連泊
一つ、サイパン・グアム・テニアン顕彰・慰霊の旅(8月)
一つ、錦江湾で桜島を見上げながら"桜島"をアカペラで歌う
一つ、山田方谷先生についての全著作精読
楽しみだ。
昨日のトレーニング:
チンニング:5 reps x 5 set
ベントロー(35kg) : 10 reps x 3 set
プッシュアップ:20 reps x 3 set
シュラッグ(35kg) : 20 reps x 3 set
フリースクワット(0kg) :50 reps x 1 set
ジャンピング・スクワット:20 reps x 1 set
ショルダー・プレス(35kg):10 reps x 2 set
昨日の夕食:
・わかめうどん一杯
・リンゴ一つ
・ドライバナナ一袋
・ヨーグルト
・プロテイン
筋肉をチワワ2匹分増やす!!!
目指すは燃費最悪の身体!!!
将来は60歳で140km/hのストレートと125km/hのチェンジアップを放る変な爺!!!
高齢化社会を肉体的に乗り越えるのだ。
50mを7秒で走る爺だらけになればいいわけだ。
2010年11月30日火曜日
福武總一郎氏の話を聞いて考えたこと
2010年11月28日日曜日
倉敷で遊ぶ
2010年11月27日土曜日
死刑の意味を問う
宮崎家石巻市で起きたこの悲惨な事件の犯人は、かつての彼女の家に押し入り、彼女の姉と友人の2人を殺害して1人に重傷を負わせた。
法学士の浅薄な議論だから刑法の専門家に突っ込まれることを覚悟して、以下述べる。
近代系法には二つの拠って立つ原理がある。一つに、応報刑論。すなわ ち、刑罰は、過去に他者に対して不正な行為をなし以って損害を与えたことに対して苦痛を与えるためのものとする考え方だ。ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」というわけだ。
いま一つが、教育刑論。すなわち、犯罪者を犯罪に走らせしめた反社会的な性格や特性を是正することを目的として刑罰をは与えられるという考え方だ。
論理必然的に、後者の教育刑論の立場をとれば、未成年の犯罪者は高齢の犯罪者に比べて更生の余地が大きいと判断されるので、死刑判決は出しにくいということになる。今回の判決が社会的インパクトのある判決として注目されていることの背景はこれである。たとえば朝日新聞の今朝(2010年11月27日)の朝刊は、次のように社説で言っている。
「成長の途中段階にある少年は、教育や環境によって大きく変わる可能性を持つ。その特性をどう評価するか。」
もちろん、応報刑と教育刑の関係は絶対的対立の関係とは言えない。潜在的な刑事犯に対して刑罰という苦痛の可能性による抑止力を維持しつつ、同時に実際に事犯が発生すれば犯人に対して教育刑論的に対応して更生を図るというのがだいたいの先進国の刑法及び刑事訴訟法の運用のされ方で
はないかと思う。
俺自身は、かなりさっぱりと応報刑論に"親しみ"を覚える。もちろん俺は保守主義者だから、社会が異端者(サリンを撒こうとするとか地下鉄に爆弾をしかけるとか、そういうレベルの異端者)
に対して教育・指導を行い以って更生を目指すことは当然と思う。しかし、だからといって、"やられたらやりかえす"という秩序維持の大原則がないがしろにされてはならない。私刑(リンチ)が禁止されている近代国家では、国家が唯一の刑罰の執行者である(=国家は暴力を正当に行使する権限を独占する)。
ここ数年、犯罪被害者の裁判への参加ということを耳にすることが多いのだが、俺はこれは違うと思う。 違うというのは、正しくないという意味だ。
国家は、独占的に刑法を警察と検察という実力で以って運用するのだから、国家は犯罪被害者を判決に至る過程に関与させるべきではない。国家がなすべきは、かつては被害者(及びその遺族)が加害者に対して私的に行った復讐(=私刑)を被害者に代理して実現することだ。
勘違いして欲しくないのだが、ここにおいて国家が担う役割は、単に特定の事案における被害者感情の慰撫などではけっしてない。それは結果に過ぎない。
国家がなすべきこと、国家にしかできないことは、「他者に対する不正な侵害は許されない」という法
律以前の道徳律が、実効性あるものとして存在することを最終的に担保しつつ、それを国民に顕示することなのだ。
死刑の意味もまさにここにある。
「人を殺しても、最悪でも無期懲役だ」という社会よりも、「人を殺したら自分も"応報に"殺される可能性がある」という社会通念が共有された社会のほうが健全であると俺は考える。国家が暴力を独占する限り、我々国民は私的に復讐することができないのだから、この徳律を維持するためには、国家は死刑を放棄すべきではない。
従って、当然ながら俺は死刑賛成派であるし、また未成年と65歳の殺人犯にさしたる違いを見出す者ではない。裁判員制度云々は兎も角、今回の判決は画期的なものとして全面的に支持する。
2人殺しても生きているべき人間とは、神なのか?悪魔なのか?
(「冤罪で死刑が執行されたら取り返しがつかない」と死刑を否定する人がいるが、それは死刑だけでの話ではないだろう。冤罪で無期懲役になる可能性だってあるし、それも十分に人生にとっては破滅的だ。冤罪の可能性があるから無期懲役をなくそうという人はいないし、冤罪の可能性があるから強制猥褻罪をなくそうというのも無理な(理が無い)話だ。)
ひとりごと@新横浜
ラストサムライの真田広之は、男でも惚れます。"立てぇーいっ!!!"
最近、新聞か雑誌で俳優ランキングをしていたのをみた。映画監督や脚本家の投票で。間もなく第二部が始まる坂の上の雲で正岡子規を演じる香川照之の評価が一番だった。俺は昔の大河ドラマ秀吉の竹中直人の唾や鼻水を飛び散らしながら、渡哲也演じる信長に「おやかた様っ!」と叫ぶ姿をよく覚えている。日本一の俳優だと思う。
リドリー・スコットとラッセル・クロウの映画"ロビンフット"が楽しみだ。ハンスジマーの音楽だといいな。グラディエイター以来のコンビか?ラッセル・クロウといえば、どこかのホテルでスタッフを殴っておいて言ったのが、「世界中の(ホテルスタッフにいらつかされている)ビジネスマンを代表して殴ってやったのさ」。
少なくとも俺はいらついてないよ。
いじめ。一生消えない心の傷。
そんなわけあるかい。莫迦も休み休み言え朝日新聞こら。60歳のじじいがアストンマーチンからおりてきて50年前のいじめが...なんて言うたらその場で即身成仏させたるわ。
小学校の時、ある男の子を一日に三回泣かして先生にひどく叱られたことがある。集団でのいじめではない。小学校という場所は、"泣いたもん勝ち"なところがあって、不思議だった。「こいつは俺という
敵を前にして泣けば先生が助けてくれると思うとるんか??」と思った。思えば俺は昔からそういう"権力的なるもの"は大嫌いだった。フーコーみたい。
そうそう、アストンと云えば。
長渕剛が2ヶ月前に黒のAston Martin DBSを買ったらしい。 詳しくは雑誌Engine1月号。まぁ、わしのほうがようにあうんじゃけど。今はまだ全然似合んのじゃが。今俺がDBSに乗ると森蘭丸が赤兎馬に乗っているぐらい不細工だろう。
14年後。ありありと想像できる。
富士の空挺部隊か?という風な男が迷彩柄のカーゴパンツに黒のティーシャツ(全部ユニクロ)のちょび髭坊主頭で、爆音鳴らして沼津あたりに1200円の寿司を食べに走る姿を。お供は椿(狼、体重76kg)。
数年前からカフェのカウンターなどコーヒーをもらうときにニコリと笑って「ありがとう」と言うようにしている。この時相手の目をみて言わないとだめだ。最初は恥ずかしかったが、30が近づくにつれ段々と慣れてきた。
ありがとう。この言葉はなかなか重たい言葉で、きちんと使えば伝えられた人の一日をハッピーにしてしまうこともある。実際、俺はしょっちゅうそんなことがある。なんという単純脳。
だから、相手のハッピーな一日を願いながら朝7時にマックで"ありがとう"と言う。一人の他者をすこしだけハッピーにできたならば、俺が豚や牛を捕食して生きる一日には意味があると思うから。
男は顔だ。その顔があれば、周りの人間が安心する、隣の女性も安心する。そういう顔付でなければならん。まして日本の総理大臣は、危機にあっては日本を安心させる顔付でなければならん。永い平和が、危機にふさわしい男の顔を男から奪い取ってしまった。
首相が11月23日の夕方にやるべきだったのは、ぶらさがりの記者会見ではなくて、日の丸を掲げた記者会見の会場で、堂々と「国民のみなさんにまず申しあげる。心配は無用です。我が軍はこの事態をうけて直ちにデフコン3を発動し即応態勢を整えました。日本領土に飛来するどんな航空機や船舶に対する備えも万全です。勿論油断は禁物でありますが、我々は状況をきちんと把握しコントロールしています。新たな情報が入手されれば、適時適切にお報せ申しあげる。」
2010年11月26日金曜日
Ipadが欲しい!
2010年11月16日火曜日
「そこにもうあるわけだよ」
2010年11月14日日曜日
パンダとくらげ
数週間前の検察の中国漁船の船長釈放について、「検察が政治的判断をしては法治国家ではない!」という批判は、まぁそのとおりだろう。
だが、対中国の安全保障・外交力というより大きな視点から見ると、問題の本質はそこではないと思う。
「法治」が貫徹していること以上に大切なことは、政治の側の意思と、その意思を断固として遂行する覚悟を国家のリーダーが示すことだろう。誤解と批判を覚悟で極論を言えば、「法」がきちんと整備・運用されずとも、プラトン的な哲人政治家が統べる国では「法治」は必ずしも必要ではない。
現在の日本には「法治」も「人治」もないのだ。それは国家が弱体化しているということだ。今の日本は、過去百数十年の間に醸成された一群の既得権益が統べる国なのだと思う(既得権益を内蔵しない権力なぞあり得ないのであろうが)。日本という国のクラゲのごときフニャフニャの政権が牙をむき出しにした凶暴なパンダと穏やかに笑う白頭鷲(アメリカの象徴)の間で太平洋の西の方をフラフラと漂っている。たぶん世界からそういうふうに見られているのだろう。
他方で中国には、当然「法治」はないが少なくとも「人治」はある。無茶苦茶であるとしても。
「あれは那覇検察の判断でありますので」などと首相が責任を回避していては、たとえ今回の事件において検察がきちんと中国人の船長を起訴立件したとしても、それでは不十分だ。国家の意思を示すことが首相の最大の仕事であり、それ以外はその他閣僚・官僚の仕事だろう。
ペリーの黒船に動揺して右往左往したかつての江戸の幕閣と、一隻の小さな漁船のタックル(にしか見えません)に動揺しまくって挙句に検察に責任を押し付けようした事なかれ主義の現在の日本政府が、よく似ている。ロシアも完全に足元見てるしね。
それでも俺は日本の将来を楽観している(俺の将来は達観している)。
我々は、近代西欧の世界制覇に対して唯一「否」を突き付けて鉾を手に立ち上がり世界史の大転換をもたらした国である。大敗北のあとにも、物質主義に偏りながらも経済成長で世界を瞠目させた。
この国は、危機の際には必ず他の政治共同体とは異なる我々独自の精神的自主性の復興が行われる。
それは、必ずしも中国との対立関係にのみ我々を導くものではないだろう。中国の巨大な国力に間近
で影響されながらも、それを受容して日本という国の精神的自主性を維持・扶養することが、我々が後世のためになすべき最大の貢献であり、先輩達に対して負う責任の履行である。
今回の事で可哀そうなのは映画「海猿」の製作に携わった人たちだ。実際にマイナスの影響があるかどうかは分からんが、少なくとも興業にプラスの影響はないだろう
独り言:
紅葉のキャンプ、のはずが。
2010年11月12日金曜日
缶コーヒー
今なら、例えば、どこぞの山に走りに行くぜ!というときは、車に小型バーナーと珈琲豆を積んで行くのだが、かつては屋外で珈琲となれば缶コーヒーしか選択肢がなかった。
20歳で関学に入学してから約9年、恐らく俺個人の類型消費量は数百本(千?)に達するはずだ。
怖るべきことは、俺が口にしてきたこの数百本の様々な缶コーヒーのなかで、一本たりとも「ぬるいなぁ」とか「これは熱すぎる」と感じさせるものがなかったということだ。我々は(少なくともさっきまでの俺は)自販機で缶コーヒーを買えば、たとえば熱い缶コーヒーならば、掌で握り締めるには熱すぎるがさはいえ触れることもできない熱さではないという、あの絶妙な適温を当たり前のことと思っている節がある。だがこれはすこいことだ。 ちょっとした機械文明時代の職人芸とでも呼びたい。
気温が3度のときも33度のときだってあるし、自販機に搬入したばかりということもあるだろう。単純に自販機が気づかれぬまま故障 しているということだってあるはすだ。 それでも、常に同じ。常に同じ”パフォーマンス”。これこそプロの仕事だ。しかも玄人っぽく、全く目立たない。
たぶん、このクソッタレ資本主義というものは、数限りないこういう見えないプロフェッショナルの仕事を生み出すことで社会を支えているんだろうと思う。そりゃイチローは確かにプロだが、イチローだけがプロなわけでもない。そういう隠れたプロを思い遣り(思い遣り=遠くを思うこと)、いい気分になった。が、俺はプロではないな。
街や田舎に乱立する自販機を、とてもいとおしくなど思えぬが、こう考えてみると自販機もそれを管理する飲料メーカー(?)も、たいしたものだなぁと、銀杏並木のとなりの人気のないベンチに座りながら考えた。 とても日本人以外にはできぬ芸当だと思う。外国に自販機がない理由の一つかもしれんね。
おぉ、どこからか「すごいのは自販機だろう」というニヒリストの声が聞こえてきた。
さぁ、今週は山で焚き火じゃ(キャンプ)。寒いから薪はたっぷり必要だが、できる限り現地調達を旨とすべし。
今日買った本:
佐々木中「夜戦と永遠」以文社 2008年
みんなよい週末をお過ごし下さい。
2010年11月11日木曜日
てがみ
姪はね、なんとGmailアカウントを持っているんです。
アップするかどうか逡巡したが、まぁ人の悪口じゃないし、よかろうと決めた。
あいこへ
こんにちは。
これをきみがよむのは、なんねんさきのことだろうか。
きみはきょう、うまれてはじめてじぶんのちからでたちあがった。2010ねん11がつ8にちのことだ。
おれはみていないがね。
あねきから「そくほうにゅーす」がとどいて、おもわずにやついてしまった。
きみのちちうえさまもははうえさまも、じじさまももばばさまも、きみがげんきにおおきくなってくれることがなによりもうれしいようだ。おっと、もちろんひいばばさまだってそうだ。
おれもそうだが、きみもたいそうしあわせだ。おれはこうたいしだったそうだが、きみはおひめさまだ。おやばかぶりではあなたのはははなかなかだれにもまけないだろうよ。
でもね、あいこや。
しあわせにうまれついたものは、まじめにいっしょうけんめいにいきて、しあわせをほかのひとにもゆずってあげよう。それがきみのしあわせになる。
せかいからあいされたきみならば、せかいをあいせないはずがない。たとえそれがどんなせかいであってもね。だっておれらのせかいじゃないか。おれらのくにじゃないか。おれらのかぞくじゃないか。ほかのだれのものでもない。
これからきみは、ながいながいじかんのなかで、”すうせんまんぽ”でも、”すうおくほ”でも、そのまだぷにぷにのあしであるくだろう。そのながいみちがうつくしいものであるのかどうか、いまはまだおれはすこしだけふあんだ。
でもね、しんぱいはむようだ。きみをいのちがけでまもってくれるひとがせかいにはたくさんいる。きみにほほえみかけてくれるひとがせかいにはほしのかずほどもいてくれる。
きみのおとうさんはりくぐんのぐんじんさんみたいだし、きみのおじさんはかいぐんのぐんじんさんみたいだ。きみのおかあさんはきみがうまれてからかくじつに”わらいじわ”がふえた。
きみがあるいていくながいみちのほとりには、いろとりどりどりのはなたちがたえずかおっているだろう。
ねがわくは、きみが、そのおおくのはなにきづき、みなとよろこびをわかちあえるうつくしいこころのもちぬしであらんことを。
ほれほれ、わかるかこのぷにぷにむすめ。
きみがだんだんにんげんらしくになっていくのがおれはとてもおもしろい。
きみはそのうちおれのことを「はげおじさん」なんてよぶのだろうね。
まくらことばは、「せかいでいちばんかっこいい」はげおじさんでよろしくたのむぜ。いいこにしてたらたまにはAston Martin DBSにのせてやろう。たまにはニーチェについてかたってやろう。
いまはしっかりおちちをのんでしっかりねておくがよい。しっかり"のう"をせいちょうさせておきなさい。
おれのはなしはむずかしいぞ。みみからはなげがとびだすほどだ。
もとい
2010年11月8日月曜日
人間の間に生きるとき
下記は、ツァラトストラが彼が孤独を愉しんだ山(洞窟)に久しぶりに戻ってきて語る言葉。
2010年11月7日日曜日
空腹と走れ!
2010年11月6日土曜日
読書は孤独な体験であるという誤解について
完全な人間
これに対して男は、自分の卑猥な自己顕示欲と性的欲求の混入した支配欲に動かされ、これがために仕事に励み身体を鍛える。まるで、女性に受容されざれば自身が存在すること能わざる者であるかのように。陥穽は此処にある。