2010年12月31日金曜日

ある小さな年の終わりに

”初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった”

新約聖書、ヨハネによる福音書第一章第一節の言葉である。

俺はほんのわずかに陽明学をかじっている。であるから、「知行合一」という言葉の重さを重々認識している。尊敬する山田方谷先生も、河井継乃介も、もちろん佐藤一斉を敬愛していた大西郷も、皆行動の人であった。
こう言明した上で、それでも俺は”言葉は神”であると思う。
我々は、言葉によって世界を認識し、理解し、解釈し、説明し、それにたまに満足し、不平を言い、毎日の平凡な暮らしを生きている。言葉によって他者とつながり、他者を傷つけ、他者へ愛を伝える。
言葉以上のものが我々の精神においてありうること、そのことを俺は否定はしない。親の我が子への愛は、言葉を遥かに超越したものであるだろう。
だが、そうであっても、世代を超えて俺と遠い将来をつなぐ唯一のものは、言葉以外にはないのだ。
この意味で、俺の言葉はーーーもちろん神ではないとしてもーーー俺の全人格である。この一年間、ろくに仕事もせずに、土日にBMWで箱根の温泉に浸かることを目的として生きたこの愚劣な男の全人格を表象するものは言葉なのだ。俺は言葉以外に賭けるものを持たない。そうであれば、俺は言葉以外によって俺を表現することを得ない。
だが、これは俺にとって制約であろうはずがない。
言葉の可能性は無限だ。言葉は、どこまでも通じる。いつまでも記録され、記憶されうる。魂の言葉は、現在と将来を生きる他者へ大きな影響を与える可能性を断固として握り続けている。

このブログを開設してから7ヶ月が経った。
俺は、ここで、様々なことについてそれらしく論じたり説明したりすることを目的としたのではなかった。経済や政治について論じることは、俺などよりはるかに上手くそれをなす者が社会にはいくらでもいて、そういう情報や意見というものは雑誌やテレビ、あるいは彼らのブログに氾濫している。
俺にしかできないこと、俺のブログでのみ皆が見つけられるもの。それは、なんだろうか。いや、そんなものはあり得るのか。
ないのかもしれない。あるとかないとか、そんなことは俺が決められる事柄ではない。
だが、”あるかもしれない”。何かを俺は皆に伝えられる”かもしれない”。俺の馬鹿げた言の葉の数々の一文に、一行に、何かを感じ取ってくれる人がいる”かもしれない”。
俺の精神は、この可能性を論理的に完全に否定できないという気概の上にかろうじて成立している、ひ弱で小さな石ころなのだ。

これまでの131個の投稿の全てを読んでくれた人がいると思う。
俺は皆が俺の言葉に共感してくれることを期待してはいない。
全ての人に無視される覚悟を持って、それでも見えない誰かへ宛てて、俺は書き続けるのだ。
これは絶対に自己満足ではない。もちろんそんなものではない。俺は全然満足していないのだから。
俺が満足する時俺は倉敷の墓の下に眠っているのだから。

”無邪気さがあるのはいかなる処にであるか?-すなわち、生産への意志の存する処にである。自己を超えて創造せんと欲する者、此者こそ至純の意志を有する。美があるのはいかなる処にであるか?-すなわち、われが一切の意志を挙げて意欲せざるべからざる処にである。”

ニーチェ、「ツゥラトゥストラかく語りき、上巻」新潮社、P.289
  

2010年12月26日日曜日

弁当

なぜか俺がいま勤めている会社では(少なくとも俺の部では)、弁当を食べている男は変人扱いされる。
ある時など、上司に、「お前なぁ、昼ごはんは皆で一緒に(5人とか6人とかで)食べるもんだろう」と言われ、愕然としたことがある。女子高生が集団でトイレに通うの眺めながら、「あんなに大勢でいってもトイレは人数分ないだろうに。。。」とおかしな心配をしたことがあるのだが、それと同じなのだ。
昼ごはんを一人で食べられない人間は、存外に多い。そういう人間は、40歳になってもちょっとしたホテルの最上階のBarで酒を一人でちびちび飲むということが絶対にできない。

一人暮らしの寮住まいだから、自炊しようにもなかなか難しく、いつも一人で散歩したり本屋に行ったり日向ぼっこをしながら昼休みを過ごしている。たまに同期と話をするために一緒に食事にも行くけどね。
そういうわけでいつも外食だから、たまに、弁当が懐かしくなりもする。

今日、渋谷のジュンク堂をフラフラしていると、「お弁当の時間」という本を見つけた(阿部丁-文、阿部直美-写真、木葉社、2010年)。
農家の方や、わら葺き職人や、航空自衛隊のP3Cの整備士など、ありとあらゆる職業の人たちの弁当の写真とその人の全身写真にコメントが添えられたもので、思わず眺め入ってしまった。

俺は弁当が大好きだった。いや、今でも好きなのだが。
幼稚園の時から、母上は、いつもそれはたいそう丁寧に弁当を作ってくれた。
(ちなみに俺が通った幼稚園の名前は、”御国幼稚園”。別に右翼幼稚園ではないぞ)
幼稚園教諭の母上の弁当は、幼稚園児の俺が弁当箱を開けた時に嬉しくなるような弁当ばかりだった。
見るも鮮やかに赤色や緑の食材をふんだんに使った俺の弁当は、ほかの園児の弁当よりはるかに美味しそうで、当時の俺からするとずっと洒落ていて、幼稚園児ながらに自意識過剰幼児だった俺の自尊心を満たしてあまりあるものだった。(思えば当時から今の俺ってなにが変わったのだろうか?)

高校時代にトレーニングを激しく行うようになってからは、1日5食を日課としていた。
昼食は学食で定食を食べるから、2時間目が終わってから10分間の休みの間にドドドドドっと大きな弁当を胃に詰め込まないといけなかった。
毎朝6時19分の山陽本線上り西阿知駅発の電車に乗る俺に、いつも弁当を持たせてくれた母上は、「眠い眠いネズミ...」とかなんとか言いながら、毎朝5時に起きていた。月曜日から金曜日までフルに働いているのにね。

最近は、幼稚園にコンビニの弁当を持ってきたり、ひどいのに至っては一年に一回の遠足にコンビニのおむすびを持たされてきたりする幼児までいるらしい(母情報だから間違いなし)。そんな話を聞いて、俺はやりきれない気持ちになる。こんな悲しいことってあるか?
戦後直後は、弁当を持ってくることさえできずに、昼休みになると小学校の教室からどこかへ消えてしまう児童もいたそうな。でも、コンビニオムスビは、それとは次元を異にしていると思う。上手く説明できんのだが。
そりゃ、最近は母親も父親も仕事をしているから、子のために親が毎日弁当をこしらえるというのがなかなか大変だというのは分かる。
でも、自分の子どもが遠足に行く時に、コンビニのおむすびを渡すなんて、おかしい。
俺がここで「そんなのおかしい」ということになんの意味があるのか、そんなことは知らん。
だけど、この豊かな日本社会は、人間がその人間らしさをもっとも可愛らしい仕方で表現しうる、母親の子どもへの思いやりさえ、近代的な効率性と利便性によって汚染しまったようだ。

俺は、結婚しようものなら控えめに言っても断固たる亭主関白男になりそうな気がしているのだが、それを断った上で、俺は息子や娘のために一生懸命おむすびを作ってくれる素敵な女性と結婚して暮らしたいと思う。もっと言えば俺が深夜に読書や執筆をしていたら塩だけのおむすびに野沢菜の山葵漬けを添えて持ってきてくれるような女性がいいなぁ。
そんな人いないて?
はっはー、「あきらめたらそこで試合終了だよ」。ね、安西先生。

最近、けっこう恥ずかしい話をかいとると思う。
年明けからはね、もうちょっと硬派にいこうと思いますよ。ええ。


2010年12月23日木曜日

映画、時代劇、そして戦争(と独り言)

平和は大切だ。戦争は最悪だ。

巷にはそういう言説が溢れているのに、映画も時代劇も戦争や戦闘を描いたものばかりだ。
今ならNHKが日露戦争を描いた大河ドラマ「坂の上の雲」を放送しているし、正月にもなにかしら戦国武将の大河ドラマが放送されるのだろう(大河ってどういう意味?)。時代劇だって血は飛びはしないが、基本的にはスケサンカクサンが敵をばったばったと打ち倒す。

素朴な疑問がわいてくるではないか。

「俺のことを戦争好きとか軍隊好きとか右翼とか言う人が多いけど、実はみーんな戦争が大好きなんでしょう?隠してるだけなんでしょう?」

という疑問が。

まぁそれはそうだ。
仮に映画・小説・漫画・詩・音楽その他一切のものから戦争や戦闘を排除してみればいい。
我々の文明そのものが内から崩壊していくに違いない。

実は上の俺の問いはただ挑発的に言っているだけで、皆戦争好きでもなんでもない。
ただ、「守るべきもののためにすべてを犠牲にすることの尊さ」を、誰もが知っているのだと思う。
つまり、戦争も戦闘も原因ではなくて結果であることを皆知っている。
何かの尊い価値をつかみ取ること、それを守ること、その命がけの努力の一部に、戦争や戦闘があるのだ。
そして、「尊い価値」というものを、最もあからさまな形で表すのが戦争だ。
だから、表現者は、常に戦争を表現しようとする誘惑に駆られるのだろうし、思想家は戦争について考えることをやめられはしない。

と、映画「ロビン・フッド」を観て思った。
ちなみにこの映画、ハゲは皆悪役。ちょっと気分悪くなったねぇ。

独り言:

2010年の中国での新車販売台数は1800台に達するらしい。2000年に記録された米国の1740台を抜いて、一国としての販売台数では史上最高。世界全体の約四分の一を占める。当然日本は縮小している。2011年の日本の新車販売台数は、446万台程度。今年から1割も減少する見込み。

米国での投入から四年、トヨタのFJクルーザーが日本に導入された。商品として非常に魅力的だ。
スーツを着てこれに乗ったら冗談にしかならないが、スノーボードやスキーを楽しむ遊び人達には最高の道具でありおもちゃになってくれると思う。
トヨタは、「トヨタ=おじさん(レクサス=もっとおじさん)」のイメージを払拭しようと必死のようで、このかわいらしいデザインオリエンテッドな四輪駆動車に期待するところは大変大きいらしい。
だが、いかんせん大きすぎる。4LのV6を積んで、価格が320万円くらいから。
日本の若者は多くが貧乏で(だって年功序列のシステムが残っているから20代は皆金なんてない)、皆車より電車のほうが便利という時代だ。かつ未婚率はかつてないほど高いために、誰も大きな車なぞ求めていない。地方で売れる車の圧倒的多数が軽四なのだ。
だから、さほどの起爆剤にはならないのだろうと思う。都会などではクリエイターだとかデザイナーだとかのデザインに関心のある人たちが御洒落のために乗るだろう。地方でも若者は買うと思うが、残念ながら新車ではなかなか売れないはずだ。
これをもう少し小型にして(たとえばクルーガーとかRAV4とか)のサイズにして、2.0-2.5Lくらいのエンジンを積んでこのデザインならば、よく売れそうな気がするんだけどなぁ。

日産のリーフが発売された。リチウムイオン電池を大量に搭載した、日本メーカー初(海外メーカーの事しりません。。。)の市販型EVである。8時間のフル充電で、約200kmの走行が可能という。価格はだいたい300万円。すでに日本で今年度の販売目標の6000台、米国でも2万台の予約がそれぞれ入っているそうな。
航続距離の短さと、充電インフラの未整備という逆境にあって、EV覇権を奪いに出たゴーン日産に市場の神は微笑むか。
今ほど大手自動車会社経営者に英断が求められている時代はないだろう。今一番面白いのは自動車会社である。これまでの成功体験を覆して新しい自動車を、インフラもないなかで造って売っていかないといけないのだから。それはつまり、次世代が求める新しい市場を造り出すということだ。

羽田空港近くの城南島海浜公園にたまに行く。
飛行機を観るためだ。それと思索にふけるために。
羽田から上がってくるB747が自分のほうに向かって、どでかい図体に付けた四発のエンジンを最大出力にしてぐんぐん上昇し、市街地上空をさけて海上に針路をとり、やがて雲の彼方に消え去っていく。「シ―スパロー(西側諸国で使用されている個艦防御用の対空ミサイル)ならあそこは届くんじゃろうか?」などと考えているのが楽しい。自衛隊(軍隊一般)ってすごいよな。20km先(もっと?)を飛ぶ航空機を確実に撃墜できるんだから。俺はそんなことできません。
そういえば、宝塚の四年間も、宝塚から西宮を流れる武庫川のほとりで伊丹から上がってくる飛行機を何時間も見上げていた。
民間航空機は、のんびりしていて五月蠅くないから、じーっと眺めて思索するには最適だ。
これが戦闘機となると、爆音とその格好よさに引き込まれてしまってなにも考えられなくなるから。あと嫉妬と。

日本ではEVやハイブリッドが次世代の自動車!のようによく売れているが、ガソリンエンジンは死んでいない。例えば、アイドルストップ付のBMW 320iのMTモデルは、モード燃費がなんと18.4km、ATモデルでも16kmに迫る。俺が前乗っていたE46 モデル(AT)は、せいぜい9.8kmというところだったから、、1.5倍近い燃費効率の改善がたった7-8年の間に達成されたことになる。VWはもっとすごい。必殺の「小型エンジン&ターボ&直噴」が奏功して中国を中心に売り上げはロケットのように伸びている。1.4Lの直噴ターボで170PSをたたき出しながら高速道路で20km/l以上走るというのだから、そりゃ売れるはずだ。
マツダの次世代エンジン”スカイアクティブ”に期待する!マツダのためだけではなくて、内燃機関を愛する車好きにとっては、自動車=EVになってしまうことはちょっと悲しいことなのだ。だから、BMWとマツダよ、がんばってください。

いよいよインフレの時代に入りつつあるような気がする。
牛丼屋の価格競争をみて「デフレだなぁ」と言っていたら、そのうち身ぐるみ奪われる羽目になるだろう。
金の価格は11月に1400ドルを超えた。もちろん史上最高値だ。
通貨に対する信用不安が、強まっていることの証拠である。

               (http://goldprice.org/gold-price-history.htmlより)

アメリカがこれだけ金融緩和&量的緩和を行ってドルをすりまくっているのに、そうならないと考えるほうがおかしい。現在のコモディティ価格の軒並みの上昇も、日経新聞風に言えば、「力強い中国を中心とした新興国の経済成長にけん引され」ていることになるのだろう。しかし、その中国やその他の経済が世界同時金融緩和・量的緩和によって生まれたマネーが加熱させているだけのバブル状態にあるとしたらどうだろうか?
いつの時代も、経済が成長している限りはそれを礼賛する言葉だけが飛びまわる。それが破綻したとたんに、「根拠なき熱狂」にされてしまう。
「中国の経済成長がいつまでも続く」という暗黙の大前提の上に、ぎりぎりの状態でなんとか小康を保っている世界経済は、中国の”バブル”が崩壊したらどういう状態になるのだろうか。
それは、リーマンショックどころのものではないと思うのだが。
実物資産がものをいう時代だ。
みんな、車を買いましょう(嘘です)。
みんな、ウラン鉱山を買いましょう(本当です)。
最近の米国10年物国債の金利上昇については、①財政悪化(米国の財政赤字はすでに13兆8000億ドル)によるリスクプレミアムの上昇が要因とするものと、②米国経済に対して投資家が抱いていた過度な悲観主義の修正による、実体経済に見合った金利水準への復帰という異なる見方があるようだ。
不勉強で、分からん。勉強しよう。


「ある意味おもしろい」という人がいたら、かならずこう尋ねよう。
「どういう意味でおもしろいのですか」と。
それに瞬時に答えられないものは、”人物”ではないと判断してよい。


自分が有名であることをいいことに、さして面白くもない自分の日常生活を切り抜いて「あれ食べた~あそこ行った~」とブログを書いている一群の阿呆芸能人とそれを読む大衆がいる。

2010年12月19日日曜日

女性の色気の本質

胸だ!お尻だ!などという安居酒屋の阿呆のおしゃべりをしようというのではないから御心配なく。

俺は、大きな胸や大きなお尻の女性が最も色っぽいのではないと思う。最も、と注意深く言ったのは、「それが全然色っぽくない」というほどに俺は不正直な男ではないからだ。それは確かに男にとっては、女性”性”としての魅力であろう。

だが、肉体的な色気というものは、残念ながら、没個性的なのだ。なぜなら、粗っぽく言えば、それは”モノ”だからだ。
例えばある女性の胸が大きくて、唇がぽってりしているからセクシーだねというのは、ある男がフェラーリに乗っているからセクシーだねというぐらい、実は論理的におかしな話だと思う。
フェラーリがセクシーだということは言えるだろうし、その持ち主がたまたまセクシーだということもあり得るのだが、「フェラーリに乗っている=セクシーである」という方程式が成立するはずがない。
この場合、セクシーなのは、彼女の胸や唇であって、”彼女自身ではない”。
つまり、その胸や唇は、誰のものであってもいいわけだ。別に”その彼女”自身のものであることが重要なわけでは全くない。付け変えることができるわけで(だから豊胸手術なるものがあるわけだ)、彼女の人格とは無関係なのだ。
そうであるから、俺は肉体的な色気というのは没個性的だと思う。
没個性的なものに惚れるのは、非常に難しい。ほとんど不可能だ。だってありふれているのだから。我々は、砂浜の一粒の砂に惚れることができない。
どれだけ色っぽく見える女性も、肉体の表現においては、あくまでその一般性を打破することができないということだ。しかも、恐ろしいことに、それは年を重ねるごとに”モノ”としての魅力を失う運命にある。

本当に男を惚れされる女がいるとしたら、それは肉体的で一般的な彼女の特徴と無関係な、彼女の人格に色気を漂わせる女性だろうと思う。
こう言うと、「なんだ、優しくて気立てのいい女の子とでもいうのだろう」と言われそうだがそうではない。
彼女は彼女自身であり、ほかの誰でもないということ、そのことに男は惚れるのだ。どうやっても彼女を他と同一視できない特別ななにか。彼女からそれをひっぺがして他人に付け替えることができないもの、そんなことをしたら彼女という人格が完全に消滅してしまうというほどの、精神的存在としての完全性、独立性。それに由来する純粋性。純粋なものは、一滴の異物にさえ汚れる。男が守るべきは、この女性の純粋性以外にない。
逆に言えば、これ以外に男が女に惚れることなぞ出来はしない。男にとって最も大切なことは恋愛ではないのだから。

ここ数十年の日本(というより世界というべきか)の女性の洋服が、どんどん肌の露出を大きくしてきたことの背景には、人格の没個性化があるように思えてならない。
つまり、個性個性!という教育が、却って皆がフランス製のバッグを抱えて似たような洋服を着ているという極めて没個性的な人格なき人格の大群(畜群と言ってよかろう)を産み出した。
人格において色っぽさも艶っぽさも持たぬ彼女らは、男を引き付けようとするにはもはやミニスカートを穿いて胸を強調した洋服を着るしかないではないか。そしてその「モノ」への注目を彼女という「人格」への注目と誤解することなしには、おぼろげな個人はアイデンティティを持ち得ないのだ。
男は男で、女性以上に畜生道をまっしぐらに地獄へ向かって走る輩が多いのだがね。
悲しいお話だ。



今年最後のイカリング〜

2010年12月18日土曜日

頑張れば救われる、だと?

左よりのメディアに登場する左がかった知識人や、それに知ったかぶってうなづくコメンテーターやキャスターや芸能人が、「真面目に働いているのにこんな暮らし(たとえば、”派遣”のいつ職を失うかもしれぬ立場で、夫の年収250万円と妻のパート代で子ども二人を養うという暮らし)しかできないのはどこかがおかしい」と言うのをたまに聞くことがある。特に格差社会という言葉が流布し、「年越し派遣村」が日比谷公園に出来た時などはよく耳目にした。

がんばっていれば救われるとか、がんばっていれば必ず成果が出るなどというのは、あまりに幼稚な欺瞞だ。がんばったら成果が出ないと我慢できないような子どもは、何事を達成することはないだろう。

俺はそのことを、野球に教えられた。
野球というのは、ーほかにも似たような競技はあるだろうがー残酷なもので、練習すればするほど下手になるということが十分にある。
見る人が小学生のキャッチボールを30秒見れば、その子が中学校で野球をやめる子なのか、甲子園に出る高校のレギュラーになれる子なのか、六大学でスターになれる子なのか、ある程度は分かる。つまり、野球は先天的なものが99%を占めるスポーツであり、そこにおいては事後的な努力が実際のパフォーマンスに個人が期待するほど現れにくいという意味で残酷であり、だからこそ大人なスポーツであると思う。もしかしたらこれはスポーツ全般に言えることかもしれないが、野球においてはこのことは甚だしい。
たとえば漫画スラムダンクに登場する、海南高校の宮益という選手がいる。彼は、バスケットの強豪高校の部員でありながら、高校でバスケを始め、身体は小さく、スピードもない、つまり取り柄はない。その彼は、遠めからのシュートにすべてをかけて練習し、やがて海南のベンチのなかで神に次ぐシューターの地位を得るまでになった。
残念ながら、甲子園で勝とうというレベルの野球においては、こんな美談はあり得ない。脚がはやいだけで守れなくて内野手にはなれないし、肩が強いだけで打てなくては外野のポジションはとれない。
小学校一年生の時から12年間ほとんど野球漬けの暮らしをした俺は、このことを皮膚感覚として知悉するようになったのだと思う。
だから、「がんばっていれば必ず成果が出る」などという儚い幻想からは常に自由だった。がんばっているのに打てない打者、ストライクが入らない投手(俺だ俺)、そういう苦しむ姿をいやというほど間近で見てきた。
俺は自分なりに必死の思いで野球に取り組んだのだが、それは、「がんばれば必ず成果が出る」と俺が思ったからではなくて、「成果がでない可能性もある、下手をすればもっと球が遅くなる可能性もある。だけど、これに取り組まない限り俺が城東の1番を背負って甲子園で勝つことはできない」と思ったから、やったまでのことだ。

実際の経済社会においては、がんばれば救われるなどということはあり得ない。がんばらなくても、大金を稼ぐものはたまにいるし、数十年がんばってもなにも成し遂げられない者もいるだろう。
恐らく、メディアが言う「がんばれば救われる」「がんばっている人は救われるべきだ」というのは、実際とは反対の言説を言いふらして”失敗者”を慰めているだけなのだ。慰めているだけで、彼らに具体的な努力を行うことの必要性を説いていないという意味で、非常に悪質なのだ。権力を批判しているようでありながら、格差を固定化しようとしているようにさえ見える。
だってそうだろう。
自分の息子が、がんばっているが成果がでない、結婚しようにも妻に食べさせる稼ぎもないとなれば、俺が親であれば「お前のがんばり方はおかしい」というだろう。
宮益は、ひ弱な身体で牧や仙道のような選手になろうと”努力”せずに、自分にとって可能性のあるたった一点にかけてそこを追及したのだ。これこそが、真の「頑張る」ということで、闇雲にマスターベーション的に「がんばっています」という者が「救われるべきだ」などというのは自然界の競争原理を歪めるものだ。

これまでの日本(過去60年の日本)では、たぶん皆「がんばれば救われた」のだ。
巨大な自動車、電機などの裾野の広い産業が膨大な雇用を生みだし、フォーディズムよろしく国内需要の増大はそのまま労働者の賃金上昇につながった。
今、すでにその時代は終わった。一人一人が、自分が生き残るための方策を自分自身で考えて、社会にでるまで十分な準備をしておかなければ、仕事はあっという間に中国やベトナムに飛んで行ってしまうだろう。資本は一瞬で国境を超える時代なのだから。自動車がインドネシアやタイで造られる時代なのだから。厳しい時代のように見えるが、それは視点が10-20年程度の枠しかないためであって、人類の数万年の歴史をみれば、会社に就職した時点で定年までの賃金とその後の年金が保証されているー真面目に「がんばっていれば」ーというのが異常なほど幸運な社会であったとみるべきなのだ。
そんな時代なのに、小学校から大学まで、日本の子どもたちは競争から隔離され、なんとなく親と同じような暮らしができるのだろうという有りもしない夢想のなかで親の資産を食いつぶしながら大切な十代、二十代前半を過ごす。そして、社会に出てから、定昇しない賃金や残業カットに”何かが違う”と悟る。その時にはもう遅いのだ。世界の敵を相手に彼ら(俺ら)はあまりに幼稚でひ弱だ。

だが、こう言った後で、それでも俺はこう言いたいと思う。
「がんばれば救われる」というのは大嘘であるけれども、「がんばらなくては救われない」ということは未だ多くの場合真実であるということを。
そしてこう付け加えたい。
成果が出るとか出ないとかいうことは、全然本質的な事柄ではなくて、常に俺や貴様の”幸福”は、絶望を予見しながら目標に指向される死にもの狂いの努力のなかに、気まぐれに顔を半分覗かせるぐらいのものだということを。

もっとも、がんばればがんばるほどに成果をだしてしまう秀才という一群が世には存在するのだろうがね。


独り言:


・最近陰謀論がはやっているようだ。副島隆彦の本がやたらと平積みされているし、最近では雑誌でも「世界を支配する誰それ」というものに、RothchildやらGoldmansachsの名前が出ている。不穏だ。

・文芸春秋の2011年1月号の「弔辞」が面白い。特に佐藤優が米原万里に読んだ弔辞は最高だ。

・本気で遊べない男はつまらん。仕事に本気になれない男と同じくらいつまらん。
俺が今勤めている会社では、「遊ぶ」というと、「合コンにいって女の子とイチャつく」ことや「友人と毎夜飲み歩く」ことが「遊ぶ」ことであると考えれるほどに男どもの想像力が劣化していて、これではこの会社に未来はないだろう。男の遊びは、まぁいろいろあるのだろうが、どこかしら孤独を必要とするものでなければだめだと思う。そうでなければ、遊びという大切な時間のなかで己を研磨することができないからだ。
集団のなかでニコニコしている自分に対する警戒心ほど大切なものはないと心から思う。

・よい温泉につかっていると、「あぁ、母親のお腹のなかはこんな感じだったのかな」と思うことがある。暖かくて、優しくて、心が落ち着く。地球に数万年も抱かれ続けた温泉が、地球のパワーで地表に押し上げられたものならば、確かにそう感じさせられても不思議ではない。人間の体は、地球に存在する物質でしか造られていないのだから。

・「パワースポット特集」が組まれた雑誌を読んで、実際にそこまでいって「パワーをもらえました」と言える人がいるから、怪しい宗教が人間の歴史と同じ長さの歴史を持つ羽目になる。まぁ、自分で自分のやることを決められない人間は、何時も暇で退屈しているのだ。暇と退屈は、無教養人と奴隷の特権である。

・右の翼で国思い左の翼で民思う両の翼で空を翔け行ってみせましょ地獄まで

・松井冬子という有名な日本画家がいる。その人の画集の帯の言葉。

「意識の孤独を解き放ち、客体化するための手段としての可能性を美術家は握っている。美術家は、多くの主観的孤独にある視覚言語を見て、感じ、また、新たに造り出す。(中略) 自動的に他者の排除を行う運命にあるという点に於いて、美術家はナルシシストでなければならない。(中略) ナルシシズムは美術家の武器である。」
(松井冬子画集 一、河出書房出版社)


2010年12月16日木曜日

今年の5冊

第一位:ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」新潮文庫
この本と「自省録」が俺のこれからの“バイブル”になっていくだろう。

”何から自由である、というのか?ツァラトゥストラはかかることには、何の関心も寄せぬ!ただ、なんじの瞳に明るく告げて欲しい、何のために自由であるか、を。”
”なんじら、今日にして孤独なる者よ、隔絶せる者よ。いつの日か、なんじらは一つの集団となるべきだ。相互いに選びいずるなんじらの中より、選ばれたる民族が発生すべきだ。かくして、この民族の中より、超人が発生すべきだ。”


第二位:佐々木中「切りとれ、あの祈る手を」河出書房出版社
「夜戦と永遠」の著者の少し簡単なほう。しかし内容は目からメダカ。
この下の文章に勇気をもらってしまう俺は阿呆だろうか。いやいやいや、超弩級の阿呆を目指しますよ。

”・・・これが、ニーチェ自身がいう「未来の文献学」ということです。彼はこういう意味のことを言っている。いつかこの世界に変革をもたらす人間がやってくるだろう。その人間にも迷いの夜があろう。その夜に、ふと開いた本の一行の微かな助けによって、変革が可能になるかもしれない。その一夜の、その一冊の、その一行で、革命が可能になるかもしれない。ならば、われわれがやっていることは無意味ではないのだ。絶対に無意味ではない。その極小の、しかしゼロにはならない可能性に賭け続けること。それがわれわれ文学者の誇りであり、戦いである、と。” (P.206)

俺は、99%の人に”受け入れられる”言葉ではなく、1%の世界を変えるであろう人間の魂を揺さぶる言葉を吐きたいと願う。


第三位:マーク・ローランヅ「哲学者と狼」白水社
今年は寅年ではなく狼年である。疑いようがない。
自身がともに暮らしたオオカミの話をするなかで、ヴィトゲンシュタインだのジョン・ロールズだのホッブズだのニーチェだのの哲学者の思想を語るこの男は、真の思想家の凄まじさを俺に痛感させてくれた。思想や哲学というものは、近代西欧に啓蒙主義が誕生して以来、「人間はいかに他の動物と異なるか?」を論じてきた、あるいは、それを自明の前提としてきた。「人間は理性的だ、特別なのだ!あぁ嬉しいな」という風に。
それを、この男ときたら、「そんなものは本質的な違いであるはずがない」と一蹴してしまうのだ。これこそが、思想と呼ぶに値するものだ。「我々はみな”幸福ジャンキー”だ」というくだりは本当に爽快である。だって、幸福が人生の目標であるならば、我々の最終地点である死によって、我々の目標への未達は既に決定されているのだから。そんなわけはないだろう。「人生で一番大切なものは目標とか目的だとすると、その目的が達成されたとたんに人生にはもはや意味がなくなるのだ」。

”希望は人間存在の中古車販売員だ。とても親切で、とても納得がいく。それでも、彼を信頼してまかせることはできない。人生で一番大切なのは、希望が失われた後に残る自分である。最終的には、時間がわたしたちからすべてを奪ってしまうだろう。才能、勤勉さ、幸運によって得たあらゆるものは、奪われてしまうだろう。時間はわたしたちの力、欲望、目標、計画、未来、幸福、そして希望すらも奪う。わたしたちがもつことのできるものすべて、所有できるあらゆるものを時間はわたしたちから奪うだろう。けれども、時間が決してわたしたちから奪えないもの、それは、最高の瞬間にあったときの自分なのである。”(P.216)
”幸福は、オオカミにとっては、同じことの永劫回帰(ニーチェさん、出番ですよ!)に見出される。時間が環なら、「二度とない」はない(永劫に回帰し続ける)。したがって、オオカミの存在は、生を喪失のプロセスとみる幻想をめぐって打ち立てられているわけではない。”(P.236)
”真の幸福は、いつも同じであるもの、変わらないもの、永久不変であるものにのみ存在する”(P.237)


第四位:高山岩男「世界史の哲学」こぶし書房
近代西欧の似非の「世界史」に対して、真の世界史的世界を導くものは我が国日本であると喝破したこの高山岩男。世界規模の思想家であると思う。もっと読まれてほしい。
実際のところは、所詮日本人が生きている世界を支配している”言辞”というものは、西欧、もっといえば、白人たちのものなのだ。彼らの陰謀をどうのこうのという低俗な議論ではなくて、彼らの気宇壮大な論理とエゴイズムもたぶんに混じった博愛主義と強欲に対して、彼らに真っ向から日本の思想を武器に立ち上がろうとしたのが高山だ。

”歴史的個人は最も強烈な個性を持つ意思的・行動的主体である。と共に、それは時代の趨勢を以て自己の運命と自覚せる勝義の歴史的人間である。そして歴史的個人は歴史的趨勢に生きることによって、却って歴史を超出せる永遠に接し、強烈な個性に生きることによって、却って絶対の普遍性を実現する”(p.464)


第五位:司馬遼太郎「峠」新潮文庫
司馬遼太郎の傑作。滅びの美学をこの小説に見出すものは愚鈍だ。
佐藤優の「正義は必ずある。しかしそれは複数個ある」という言葉を、司馬遼太郎は河井継乃助を描くことで証明した。かっこういいのだ。女好きの継乃助が。女好きなのに、かっこういいのだ。

”「志ほど、世に溶けやすくこわれやすくくだけやすいものはないということだ」
そのように継乃助は思っている。志は塩のように溶けやすい。男子の生涯の苦渋というものはその志の高さをいかにまもりぬくかというところにあり、それをまもりぬく工夫は格別なものではなく、日常茶飯の自己規律にある、という。箸のあげおろしにも自分の仕方がなければならぬ。物の言い方、人との付き合い方、息の吸い方、息の吐き方、酒の飲み方、あそび方、ふざけ方、すべてがその志をまもるための工夫によってつらぬかれておらねばならぬ、というのが継乃助の考えかたであった。”

2010年12月15日水曜日

農地争奪戦争、「ランドラッシュ」新潮社

戦争をしてまで人間は何を守ろうとするのだろう?
これが、俺が戦争について考えることをやめられなくなった原因の一つだ。
郷土愛だったり家族愛だったりするのだろうが、今夜は人間をもっと唯物論的に眺めて、最近あまり騒がれないあることについて考えてみたい。

あることとは、食糧のことだ。

人間は、自分でエネルギーを作り出せないから、他の生物・植物を食らって生きている。
金があれば買って食べるだろうし、なければ飢え死にしたり強盗したりもするだろう。

2050年の日本の独立と繁栄という目標に対する障害物は多々あるのだが(そりゃもうありすぎるほどだ)、その中でも世界的に最も重要な変数は、やはり人口であると俺は思う。
英語のPopulationという単語に同じ含意があるのか知らぬが、人の数を意味する時に我々が「人の数」ではなく「人の口=人口」という言葉を使っているのは何か示唆的である。
恐らく、有史以来、人間にとって最大の課題とは、「どうやって米を(パンを、ジャガイモを)食べるか」ということだったのだと思う。だからこそ、穀物を蓄え始めると同時に政治権力が誕生したのだ。

さて、人の口、人口。
現在68億の世界人口は、2050年には90億にまで達する可能性がある。
世界の”口”を満たすための穀物需要は、これに比例して爆発的に増加し、同21億トンから30億トンになる。人口の増加のみならず、”肉食”の段階にますます多くの人々の暮らしが入りつつあることも穀物需給を逼迫させる。中国人13億が、一人当たりアメリカ人と同じ量の牛肉を食べる時、世界は武器を手に取り食料争奪戦争を戦うのだろう。

世界の国のなかには、将来の穀物の不足、つまり「食べられない」という事態を回避するために積極的に「食糧安全保障」政策を推し進めている国がある。また、当然ながら、私企業も将来の膨大な需要に目を付けて世界の農地に手を伸ばしている。

タイトルに書いた本は、世界の国や企業が、外国の農地(ランド)を求めて走り回っている(ラッシュ)している現状をドキュメンタリー風に記したものである。土地が走り回っているわけではなく、人間たちが「ランドにラッシュしている=ランドラッシュ」である。
この本の16-17ページで紹介されている、国際NGO「グレイン(本部はスペイン)」が発表した「2008年食料・金融安全保障のための土地争奪」というレポートによると、ランドラッシュの最近の現状はこんな具合だ。

”食糧危機と金融危機が同時に発生することによって、新しいグローバルな土地争奪が始まった。食料を輸入に頼る国の政府が、食料生産のために海外の広大な土地を手に入れようとしているのだ。他方では、深刻化する金融危機のなかで、企業や投資家が海外農地への投資を重要な収益源とみている。その結果として、肥沃な農地の私有化と集約化が進んでいる。このグローバルな土地争奪によって、世界各地で小規模農業と農村の暮らしが姿を消してしまうかもしれない”

国際食糧政策研究所(IFPRI、http://www.ifpri.org/)は、2009年4月のレポートで、

”土地や水が不足し、しかも資金が豊富な食料輸入国、例えば湾岸諸国は海外農地への投資に最も積極的である。また、多くの人口を抱え、食料安全保障の面で懸念を抱える国々も、海外での食料生産のチャンスを欲しがっている”

と述べている。同レポートによれば、サウジアラビア・カタール・リビア・中国・韓国・インドなど、20カ国が食料確保のために広大な農地を海外で既に入手したという。これらの海外農地は、主にスーダン・エチオピア・パキスタン・フィリピン・カンボジア・トルコ・ウクライナなどの、生産コストが安く、かつ土地と水が豊富な途上国に向けられている。

覚えている人もいると思うが、最近ニュースで「食糧危機」という言葉が使われたのは2008年である。豪州での干ばつなどが原因で、大豆の価格は2006年9月から2008年5月頃までに3倍に、小麦の価格は同時期に2.7倍に、トウモロコシの価格は3.5倍にまで急騰した。
2012年の春ごろに、ラーメン一杯が2700円になって、プリウスが800万円くらいになっている感じだ。
この時に世界を戦かせ(おののかせ)、ある国や企業をランドにラッシュせしめたものが、世界の穀物市場の崩壊だった。穀物市場の崩壊というのは、穀物生産の国の輸出規制である。中国・インド・ロシア・ブラジル・アルゼンチンなどが、輸出規制を行い、国内市場へ穀物を届けることを優先した。この時、食糧はいつでも市場で買えるという自明のルールが崩れ去った。そして、国々は、自分自身で食糧を確保せねばならんと海外農地の拡大に走り始めた。

これが、この本が最初に説明してくれるランドラッシュの発端である。

例によって食糧安全保障にもさしたる国家戦略を持たぬ我が国の隣には、長期的な戦略を立てて海外農地の獲得に邁進する国がある。

大韓民国。

李明博大統領は、就任間もない2008年4月15日、こう述べたそうな。

”穀物の75%を輸入に依存している我が国は、このままでは深刻な危機に陥るかもしれない。根本的な対策を立てないといけない。”
「南北統一後」を視野に入れ、わが民族7000万が生きるための対策が必要なのだ

一回でもいいから日本の首相からこんな言葉を聞いてみたいものだ。
2009年6月3日に開催された、「海外農業開発事業団会議」の総括として、韓国政府は次のように記している。

”2030年までに穀物消費量の50%に対して安定した供給網を確保する。国内自給率25%に加え、自主開発率(海外農場)25%を目標とする。”

国内で生産するのと同量を海外で生産するつもりだそうだ。現在ロシア沿海地方には、韓国の農業企業7社が進出している。2008年12月30日に発表された韓国政府の海外へ進出する韓国企業の支援策は強力である。支援額は、各社事業費の最大70%、金利は1.5%である。特徴的なのは、「韓国政府は、企業が開発した農作物を適正で合理的な条件で国内に搬入することを命じることができる」とされている点だ。食糧危機の際には、これらの企業は韓国政府に「適正な価格で」穀物を販売することが義務付けられたのだ。

韓国がここまで食糧安全保障に懸念を抱いているのは、好調な自動車・IT・電機などの輸出産業の栄達と表裏一体の関係にある。
1998年のアジア金融危機で、韓国政府はIMFの管理下に置かれるという屈辱を味わった。その後の韓国政府は、程度の差こそあれ、各財閥に大胆な事業再編を課して選択と集中を加速させた。少数の巨大メーカー(現代自動車、サムスン電子など)の寡占市場を国内に作りだし、それらが海外市場で外貨を稼ぐという貿易立国として生き残る道を選び、国内市場を広く開放することを選択したために、海外からの安い農作物によって国内農業が壊滅的な打撃を受けたのだ。
だが、ここで手をこまねいていなかったのが李大統領だ。輸出によって稼いだ外貨で以て海外農地を獲得すれば、食糧危機にも耐えられるというのが韓国の食糧安全保障における大戦略である。

不思議な時代が到来しようとしている。
飢餓に苦しむアフリカの貧しい国の広大な農地を経営するのは中国人で、そこで働くのもはるか東からやってきた中国人。そこで作られた膨大な量の大豆は港から巨大な船に乗って波濤を越えて中国へ送られる。農地の近くでは、きれいな水も食糧もない...地元の民は餓えている...
ランドラッシュという、資本の原理がむき出しになった大資本家による農業経営と国家政策としての海外農地取得というものが惹起しかねないのは、新しい植民地支配に他ならない。

ここまで長く書いてきたのは、自分の備忘録のためというのが第一だが、皆に将来の日本人の胃をどうやって満たすのか?という根本的な問いについて考えるきっかけを与えたかったというのもある。僭越ながら。
この本の中で、商社への言及がやはりある。日本への穀物輸入の最大なるものは総合商社という一群の会社である。だがそれは、残念ながら、目先の利益に囚われざるを得ない営利団体の限界を痛々しいほどに鋭く描写している。詳しくは、是非この本を手にとってみて欲しい。

この本は、小説を読んでいるようにも読める。ハードカバーで250ページほどだが、3時間もあれば読み終えるだろう。この時代に生きる人間が常識として知っておくべき情報や驚くべき事実が沢山盛り込まれている。必読の文献である。

飯を食べるためには、稼がないといけない。
だが、金があっても食べるものがないと生きてはいけない。
食糧だけではない。これからは水をめぐる戦争がやがて起こり始めるだろう。
昔ある友人に、「日本の農業を壊滅させたのは商社だ」と言われたことがある。
「日本の小麦の何%はうちが持ってきている」などという呆けた東京の商社マンの言葉なぞ聞こえもしないはるか遠くの田舎では、恐らく数十年の昔、海外からの安い農産物に敗北し、伝統的な小規模農業を継続できなかった人々が沢山いるのだ。このことが日本の地方の景観を壊滅させた一つの要因であったことは紛れもない事実であろう。

この本でも大きくとりあげあれている、青森県津軽の農家・木村愼一氏が登場する映像がYoutubeにあった。
この人は、「欧州のパンかご」と言われる(言われた?)ウクライナで大豆の栽培に挑戦している気宇壮大な日本人だ。ウクライナで米を作ることまで考えているそうな。

独り言:

最近よく思うのだが、ある職務に対する誠実さや真面目さと、それが世界や日本のために真に正義に適っているかという問題は全く別次元のことだ。
例えば、料理人が「お客さんが『おいしい』と言ってくれるのが嬉しい」と感じることは、真っ当なことで、正義に適っている。だが、覚せい剤の常習者に覚せい剤を届けて「お客さんが『これがなかったらどうにも始まらんよ、有難う』と言ってくれるのが嬉しい」というのは、当たり前だがふざけた話だ。
(これは一つの俺の価値判断である。覚せい剤=悪というものはね)
一人の商売人の端くれとして思うのは、本当に正義に適ったものやサービスでしか、莫大な利益は上がらないし、そこで働く者も真に幸福ではありえない。そこで得る収入の多寡など関係ない。 
正義と言ったが、いつの時代だろうが、世界のすべての人を幸福にしてしまう仕事などないのかもしれない。Ipadができれば失職する人がいるだろう、新たな仕事が生まれる影でね。
必要なことは、自分の仕事、自分の売っている商品やサービスが、どの範囲の人々をどれだけ幸福していして、あるいは誰にとって不可欠のもので、またそれがどの人たちに害を与えているのかを、特殊な時代性や地域性をできるだけ捨てて、十分に考えることだ。現在=流行に沿うのは誰もがする。そうではなくて、過去の数百年と未来の数百年の真ん中に自分をぽつんと寂しく置いて、そこであるべき将来を見通す者のみが、偉大な経営者と呼ばれるのだろう。
それがなければ、国家や企業の大戦略というものは形成されるはずがない。
指導者に歴史観が必要である所以である。

それにしても、李明博大統領はすごいことを言う。
戦争しようかという北と統一して、その後に「わが民族7000万が生きるため」の施策を断行する。これが政治家だろう。指導者だろう。
来年皆さんに月何円御配りします!と言っているどこかのくたびれた首相、頑張れ、いや、頑張ろう。国民のレベル以上の政治家は絶対に生まれないのだから。
もっとすごいのは、韓国の上に書いたような政策が、沢山の批判にさらされていながらも、それを甘受して意思するところを貫こうとしているところだ。意思なのだ、人間は。意思こそが、華なのだ。意思なき人間は猿以下なのだ、無駄に知恵だけあるという意味で。詳しくは「哲学者と狼」をご参照下さい。

これからは、いやこれまでも、国家は政治的共同体でありながら、同時に経済的共同体であったのだ。
そうであれば、経営の能力がなくば一国の宰相なんぞ務まりはせん。河井継乃介の”米のトレード”で大もうけをした金で日本に当時日本に3機しかなかったガトリング銃を買ったのであるし。
そう思って会計学の本をちらちら読んでいるのだが、あまりに面白くないので、表紙に大きく「日本を経営する」と縦書きした。すると、少し読むのに気合が入るようになるから人間なんて単純なものだ。

2010年12月8日水曜日

好きな言葉、独り言

"How many things apparently impossible have nevertheless been performed by resolute men who had no alternative but death."

-Napoleon Bonapart

"
War is an ugly thing, but not the ugliest of things: the decayed and degraded state of moral and patriotic feeling which thinks that nothing is worth a war, is much worse.
A man who has nothing which he is willing to fight for, nothing which he cares more about than he does about his personal safety, is a miserable creature who has no chance of being free, unless made and kept so by the exertions of better men than himself. "

-John Stuart Mill

「春風を以て人に接し、秋霜を以て自らを慎む。」

-佐藤一斉

国家をこの世における地獄と絶えずしてきたのは、人々が国家をこの世における天国にしようとしてきた、あの努力以外のなにものでもない。

-F・ヘルダーリン

戸高一成編「秋山真之戦術論集」を読んでいる。
完全に時勢に乗ってしまった。
当たり前だが、射撃も雷撃も索敵も航法もなにもかも海軍では数学と物理が分からなければ理解できない。そりゃそうだ。海の上を互いに動き回りながら数キロ先の敵艦に砲弾を直撃させよういうのだから。俺は数学物理が大の苦手なので、海軍戦術の細かいところになるともう大変である。でも分からないと本を閉じるのは悔しいのでグーグルで検索しつつ読んでいる。

ところで自分で作った予算を澄まし顔の正義のヒーロー顔で「仕分け」とった人たちと、それを糾弾しないメディアってなんなんだろう。この国は存在自体が茶番のような国になってはいないか???

恐らく今の日本は世界で最も「死が遠く」にある社会だと思う。端的に言えば、平均寿命は世界トップで
戦争は60年間一度も戦っていない。餓死者の死体が街に転がっているということもまだ聞かない。公開処刑も当然ない。我々が死に直面するのは、ほとんどの場合病院だけだ。
それなのに(つまり、”それだから”)、この国は世界で最も悲惨な殺人事件が起きる国の一つであるだろう。
親が子を殺す。子が親を殺す。兄が妹を殺す。殺して遺体を切り刻む。そして、何よりも子が死んだ親の弔いをしない...これは、人間という社会的存在である動物の本性の崩壊としか言いようがない。
「命は地球より重い」と言われたこの国の薄っぺらいヒューマニズムは、単に個人の欲望を是認する物質主義と精神性の堕落以外のなにものでもない。
ローマ消滅の最大の原因はゲルマン民族の侵入ではなくて、つまりは国内の退廃だったのだろう。
我が祖国日本は、国が国として存在するために必要なものを総て失いつつあるように思えてならない。

記憶せよ

記憶せよ、12月8日。

この日世界の歴史改まる。
アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる。

否定するものは彼らのジャパン、眇(びょう)たる東海の国にしてまた神の国たる日本なり。
そを治(しろ)しめたまふ明津御神(あきつみかみ)なり。
世界の富を壟断(ろうだん)するもの、強豪米英一族の力、我らの国に於いて否定さる。
我らの否定は義による。
東亜を東亜にかへせといふのみ。

彼らの搾取に隣邦ことごとく痩せたり。われらまさにその爪牙(そうが)を砕かんとす。
われら自ら力を養ひてひとたび起つ。
老若男女みな兵なり。
大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
世界の歴史を両断する。

12月8日を記憶せよ。

-高村光太郎


2010年12月5日日曜日

イランから始まる核ドミノ

読売新聞によると、2008年5月にエジプトのムバラク大統領は、米議員団に対して「イランが核武装するならば、我々も核兵器開発をすすめざるをえない」と伝えていたそうな。ウィキリークスの暴露によって明らかになったことだ。
実は、世界政治において最も重大な危機は、朝鮮半島ではない。実際、朝鮮半島で戦争が起こっても、それはあくまで朝鮮半島の戦争で終わるだろう。そこでどれだけの損害が出るとしても。
世界的規模で重大な問題は、やはりイランなのだ。
イランの核武装は、どうしても周辺国の核武装を惹起する。エジプト、サウジアラビア、トルコ、etc。
インド、パキスタン、イラン、サウジアラビア、エジプトというベンガル湾からアラビア海・ペルシャ湾・紅海・地中海東部に至る地域のこれらの国々が核武装に走る(当然ながらこれら一部はすでに核兵器保有国だ)ことの意味は、どれだけ重視してもしすぎることはないだろう。
だからこそ、オバマ大統領も2009年9月に、イランに対して「どんな選択肢も排除しない」と武力行使の可能性もこそっと仄めかしたのだ。
重大な問題は、イランの核兵器開発が北朝鮮に、北朝鮮のミサイル開発がイランに渡ることだ。
世界にとっては最悪の"Win-Win"なのだ。
やがて中東で危機が訪れるかもしれない。その時、我が国はどう対応するべきか。
今のうちから熟慮し、準備しておこう。
ここでもやはり、5年先に注目されるのは、(アメリカは当然として)中国の目論見である。

ところでWikileaksというのは危険なメディアだ。
各国のIntelligence活動に支障が出るからというのはもちろんそうだが、それだけではない。
「情報垂れ流しですから正しいかどうかはご自分で判断してくださいね~」という時代がついに到来した。すべての情報は電磁的に接続されたWeb上で閲覧可能になるのだが、過去においては、「この情報は正しいだろう」という判断が事前になされていたのだ。たとえば新聞社やテレビ局によって。それがいいかわるいかは別にして。それが、これからは、限りない量の情報が怪しげなものから一見正しそうなものまで全部ごちゃまぜで一般大衆の目に届けられる。
恐ろしい時代だが、ここにビジネスチャンスを見出すものは多いだろう。





くじらの肉

いわしクジラの刺身を食べた。
刺身というものの、実態はクジラの生肉だ。血が滴っていた。
血が滴る肉を食べるというのは、動物としての俺を強くしてくれそうな気がするし、それだけではなくて「この血は海で潮を吹きあげていたクジラという生き物の肉なのだな」と実感する。
くじらさんに感謝。うまい唐揚げになってくれた鶏さんに感謝。
ありがとう。
君たちの肉を絶対無駄にせんようにしっかりトレーニングをするからね。

さはさりながら、クジラは現在極めて政治的な動物になっている。日本が調査捕鯨を行っていることと、捕鯨に反対する勢力が世界には存在するためだ。
これについては、いずれきちんと調べてからここで書く必要があるだろう。

今日のトレーニング:

チンニング:5 reps x 6 set
ベントロー:10 reps x 3 set
プッシュアップ:20 reps x 3 set
シュラッグ(35kg):20 reps x 2 set
フリー・スクワット:50 reps x 1 set
ジャンピング・スクワット:20 reps x 1 set
アームカール(35kg):10 reps x 2 set
ショルダープレス(35kg): 10 reps x 2 set
デッドリフト:(35kg) : 10 reps x 2 set

”結婚するやつはばかだ。結婚しないやつはもっとばかだ”

-バーナード・ショー

”幸福は、幸福であるかどうかを問題にしないときのことをいう”

-芥川龍之介





2010年12月4日土曜日

歴史と名前

我が名は基、もといと読む。同じ名前の人には会ったことがない。
名前の由来はよう分からんが、親父によると「基本が大事じゃあろうが」らしい。
俺の名前について話したいのではなくて、今日は時代錯誤者らしく昨今の子供の名前について若年ジジイ代表として一言もの申したい。

今日の読売新聞朝刊によると、2010年生まれの男の赤ちゃんの名前ランキングは次の通り。
一位から順に。

大翔(ひろと)
悠真(ゆうま)
翔(しょう)
颯太(そうた)
歩夢(あゆむ)
颯真(そうま)
蒼空(そら)
優斗(ゆうと)
大雅(たいが)
颯(はやて)

なんと申しますか、そんなに最近の親は息子に空を飛んでもらいたいのか風になって欲しいのだろうか。だから「千の風になって〜」という歌が流行ったのか知らん。あるいは親父の「風に乗って飛び去って現実から逃避したい!」という潜在意識が息子に風だの翔ぶだのの名前を与えていると言うのは皮肉だろうか。歩夢(夢が歩く、or夢と歩け?)クンにいたっては、70歳になったときどう考えても恥ずかしいだろうと思うのだが...
全国の歩夢さんごめんなさい。

名前は個人的なものではないと言ったら、首を傾げる人がいると思うが、俺は俺の名前は俺だけのものではないと思う。
まず、我々には姓がある。それは過去に俺と同じ姓を持ち生きた人がいたという歴史を証明している。
姓に続く名は、連綿と続く一族のなかで、俺という人間を個人として確立せしめるものだ。それがなければ、俺は独立した個人たり得ない。

親が子に名を与えるとき、親個人の思いは当然強く働く。それは当たり前のことだ。だから、名は好き勝手に決めていいもので、人様の子の名に文句を言う意味が全然ないかというとそうでもない。

俺は、上記のように名前は俺のものであり、家族のものであり、広く一族のものだと考える。だから、俺は自分の子に名を与える際には二つの点を考慮するだろう。
まずは、俺の感覚からして美しく壮健な響きがあり、かつ表意文字である漢字の名を与えるだろうから、俺の「我が子よかく生きるべし」という思いが伝わるものがよい。二つめに、俺は、その名が200年前においても、また200年後においても通用する時代普遍性を持つものかどうかを検討する。つまり、歴史を背負える名かどうかを考慮する。
我が義兄の国オランダは、おもしろい国で、大麻もマリファナも合法なくせに名前の付け方については相当頑固で保守的だ。
兄貴の名はArendというのだが、この名前は彼の父方のお爺さんの名前なのだ。男の子には、父方の祖父、女の子には母方の祖母の名前を与えることがオランダの慣習であるらしい(「最近はだいぶ変わってきたけどね」by Arend)。これは個人に名付けの自由を与えない制度だが、他方で、先祖と自身を同じ名前で繋ぐという非常に有意義な制度だと思う。Arendのお爺さんがArendならば、当然Arendのお
爺ちゃんのお爺ちゃんもArendだったわけで、ご先祖様がいきなり身近に感じられる。
支配の正統性を相続する必要があった鎌倉時代以降の将軍や武将が、ほとんどの場合親から一字を貰っていることは、時代を繋ぐために必要な制度だったのだ。

人間の柱は、彼が身体的に宿した歴史の縦軸と、現在を生きる同世代(今を生きる人々)との横軸によって形成される。縦軸は尊敬、横軸は連帯。

以上からお分かりのように、俺は最近の名前というのはどうも歴史から乖離し過ぎじゃないかなぁと思っている。多少お茶目をするのはよいのだろうが。程度の問題なんだが。ひいお爺ちゃんあたりにきかせたら、びっくりするような名前ってかっこいい名前ではないだろう。

俺自身は、上で言った二つの規準に、”大地性”を賦与した名を息子には与えたい。息子には空を飛んでもらう必要はない。自分が生まれた土地にまずしっかり根を生って、そこから世界を平らげる、そういう男になって欲しい。田んぼに力と書いて"男"なのである。
その点、基という漢字は、どっしりと”土”が一番下でで構えている感じがするし、何より基=Foundation, Basementである。

ついでに友人の御爺様からいただいた有り難い歌を開陳せんとすー

三谷原丈夫備前和気爽やか皇国の基御先祖護らん

(みたにはら ますらおびぜん わけさやか みくにのもとい みおやまもらん)

Bon weekend!





国防の論点

日本人が誇りある国家を維持するために必要な、将来のために議論すべき安全保障政策における論点:
あくまでも、「将来のために」であるから、たとえば「日本には戦闘機を空母から射出するカタパルトを作る能力がない」などと批判せぬように。それはとりあえず枝葉のことだ。
今般の朝鮮半島危機への対応について、自民党などの野党は「危機管理がなっとらん!」と民主党政権を批判していたが、根本的な国防についての議論が、これだけ重大な事態が起きた後でさえ始まりそうにない。この国は、正しく、ヤバい。

一つ、徴兵制を導入すべきか否か
一つ、現有の限定的な対地攻撃能力に加え、潜水艦発射型および水上戦闘艦発射型の対地攻撃ミサイルを保有すべきか否か
一つ、航空母艦を導入すべきか否か
一つ、核兵器及びそれを運搬するシステム一式を導入すべきか否か
おまけ、憲法を改正し、自衛隊を「日本国海軍、空軍、陸軍、(海兵隊)」とすべきか否か(議論の余地なしと認む)

俺は6年前からずーーーーーっとこれらを言い続けてきた。
ある時などは、姉貴から、「核兵器を持ったら核兵器で攻撃される!」と意味不明かつ歴史的にもなんら立証されていない頓珍漢極まりない暴言によりヒステリックに非難された。(あれは少しショックだった。俺は大まじめなのに家族にさえ理解されぬ!と青臭く自虐的になったもんだ)
(事実:歴史上、核による攻撃を受けたのは、核武装していなかった日本のみ。最近では、核実験をした北朝鮮は生き延びて、核兵器を持たなかったイラクのフセイン政権は打倒された)

で、上のように言うは何故か?

・日本は民主主義の国だ。平等な国だ。少なくとも建前は。
であるならば、国防の責務は総ての国民が平等に分担してしかるべきだろう。だから徴兵制を敷くべきかもしれない。議論の余地は十分にある。

・対地攻撃能力を保有しない国は真の意味で「抑止力」を持ち得ない。弾道ミサイルによる攻撃に対する報復攻撃を単独で行えないならば彼我の間に相互抑止は成立していない。
戦闘を、「我が意思を相手側に強制することを目的としておこなわれる実力行為」と定義するならば、意思的・能動的に運用しうる打撃力こそが抑止力の本質であり、抑止力こそが軍事力の中核とされるべきである。
今日の戦争においては、その極めて高精度の兵器投射能力とそれが依存する情報ネットワークへ重要性と脆弱性のために、核兵器ほどではないにしても、先制攻撃を行う側が極めて有利に戦争を戦えるのではないかと思う。
クラウゼヴィッツのいう「絶対的戦争」は蘇るのか。それとも、これから東アジアで起こりうる戦争とは、政治に従属した、政治の手段としての戦争にとどまるのか。我々は、大局的な視点からこれを推察し以て将来の国防の備えとなさねばならぬ。

・近隣の大国が空母を運用することは時間の問題だろう。米海軍のレベルに至るには未だ数十年を要するとしても。空母艦隊が持つ戦術・戦略上の意義とはなにか。
それはまず、圧倒的な空間支配能力であり、次に対地攻撃能力を伴う兵器システムが海上を自由に移動しうる機動性である。海上を自由に移動する空母は、その名の通り航空機を搭載する。米軍の空母一隻には30機程度のF/A-18スーパーホーネットが搭載されているが、この戦闘攻撃機による行動半径は実に数千キロに及ぶ。同時に空母は、多くの対地・対水上攻撃用の兵器運用のための海上移動基地とも言うべきであり、沿岸国からしてみれば、敵性国の空母が近海に遊弋するということは、自国の隣に突然敵の航空基地ができてしまうようなものだ。巡洋艦・駆逐艦からなる艦隊と、米海軍の空母打撃群はこの点において同じ「船」であっても決定的に異なる。だからこそ、米国は世界のどこにでもいつでも空母を派遣できる態勢を未だに維持しているし、有事があればワシントンのオバマ大統領は、「一番近い空母はどこにおんねん???!!!」と尋ねるのだ。

・中国、北朝鮮、ロシア、アメリカ、日本は四つの核兵器保有国に囲まれている。この状態にあって、「日本は唯一の被爆国だ」と言う奴はクレイジーだ。あってはならぬことだが、もし三度目の悲劇が起きたとして、それでもその人は「日本は唯一の被爆国だ」と言えるだろうか?
最大の問題は、「核武装すべきだ」と言った途端に、この国の政治家は政治生命を脅かされることになるということだ。それが自由な民主政治の国のあるべき姿か?政治に教義も至上の法典もない。
守るべきものは、我らの国の未来。たとえそれが悪魔との契約を必要とするものであったとしても、この目的の為に、あらゆる手段は道徳的である。

今の日本は、戦前戦中の「天皇陛下万歳」と「鬼畜米英」を「平和憲法万歳」と「核兵器廃絶」に置き換えただけなのだ。
何も変わってはいない。何も。(誰の真似でしょう?わかるかな~)



2010年12月2日木曜日

やること。

完全に気が早過ぎるのだが、昨日落書き帳に書いたのでここに書いてしまおう。

来年やること!

一つ、八丈島の砂浜で野営
一つ、横浜港で60cmのシーバス
一つ、標高3000m以上で野営、朝日を見ながら上半身裸で腕立て
一つ、BMWでバックで100km/h走行(映画"トランスポーター"のJason Stathamのイメージ)
一つ、BMWでのサーキット走行(目指すは220km/h)
一つ、欧州縦断BMW暴走の旅(The Netherlands ⇒ Miditerraniean、イタリアでLamborghini Gallardoのパトカーに速度超過で捕まってオマワリさんと仲良く記念撮影)
一つ、秋田の鶴の湯温泉2連泊
一つ、サイパン・グアム・テニアン顕彰・慰霊の旅(8月)
一つ、錦江湾で桜島を見上げながら"桜島"をアカペラで歌う
一つ、山田方谷先生についての全著作精読

楽しみだ。

昨日のトレーニング:

チンニング:5 reps x 5 set
ベントロー(35kg) : 10 reps x 3 set
プッシュアップ:20 reps x 3 set
シュラッグ(35kg) : 20 reps x 3 set
フリースクワット(0kg) :50 reps x 1 set
ジャンピング・スクワット:20 reps x 1 set
ショルダー・プレス(35kg):10 reps x 2 set

昨日の夕食:

・わかめうどん一杯
・リンゴ一つ
・ドライバナナ一袋
・ヨーグルト
・プロテイン

筋肉をチワワ2匹分増やす!!!
目指すは燃費最悪の身体!!!
将来は60歳で140km/hのストレートと125km/hのチェンジアップを放る変な爺!!!
高齢化社会を肉体的に乗り越えるのだ。
50mを7秒で走る爺だらけになればいいわけだ。

2010年11月30日火曜日

福武總一郎氏の話を聞いて考えたこと

11月27日の夜、Bennesse会長の福武總一郎氏の話を聞く機会があった。
立場のある人なので、総てのメモをここに公開(というほど大規模なブログではないが)することはできないが、特に俺が伝えたいと思うところは備忘録として残しておきたいと思う。
長いので、時間のあるときに読まれたい。

・日本の人口は減少し始めたのに、東京の人口は増えている。日本では、未だに「大きなもの」がいいという価値観が保存されてしまっている。滅びる前の恐竜のようだ。
・Harvard Business Schoolを全く評価していない。金儲けのため作戦をひたすら事例研究で勉強している。
・会社は一人ではできぬことを志を同じうするものが集まって実現する場所だ。だから、その目標に一致できぬものは出ていけと父(福武哲彦氏)に言われた。
・プリミティブ(原理的な)なことを深く、いつも考えることがなにより大切だ。なんのため生きるのか、なんのために働くのか、人生とは何ぞや、云々。
・この日本に未来なぞない。絶対にない。リーダーも生まれない。こんな借金だらけの国にした者たちに対してどうして若者は怒りをぶつけて行動しないのか理解できない。
・この国の教育は最悪だ。明治以来、日本の教育は「強い個人」を作ることを怠ってきた。強い個人なくば民主主義は機能しない。東京の官僚にすべてを決められておかしいと思わないのか。
・東京の人間はPassiveだ。”楽しいもの”が身の回りにたくさんあるから、ほっといても退屈はしないからだ。東京に幸福はない。
・会社は、売上や利益の大きさは兎も角、社会から尊敬される存在でなければだめだ。
・ゆっくりとやってくる環境危機に誰も本気になっていない。集団ゆで蛙だ。エコで金儲けを企む者は多いが。
・電気自動車普及委員会の会長を務めている。この会の代表幹事は岐阜県各務原市の改造電気自動車製造メーカー”ゼロ・スポーツ(http://www.zerosports.co.jp/index.php”の中島氏。現在世界に9億台走っているガス車を、電気自動車で置き換えるには時間がかかりすぎる。ガス車を電気自動車に改造する方法なれば、安価かつ迅速に電気自動車への切り替えが可能だ。
・幸福に生きるためには、幸福なコミュニティが必要だ。
・宗教なぞよりも、自分の祖先を敬え。自分の家族の墓を大事にしない奴はクソだ。それは自分という人間に柱がないということだ。そんな人間はどうにもこうにもしようがない。
・お代は幸せの対価。金を儲けたいと思うなら、どうすれば人を幸せにできるかを寝ている時も考えろ。そうでなければお金は自分のところには来ない。

地位のある人の特権の一つは、当たり前のことを平然と偉そうに言えることだ。それは特権だ。
上の羅列のなかにさして新しい情報なぞない。だが、自身で事業を劇的に拡大・発展させた人がいうのと、サラリーマンが赤ら顔で講釈を垂れるのとではやはり判然と違う。そこにはかつての実行の影が常にちらつくために、それが迫力となって言葉に力を与える。

この人物の反骨心、権力、中央に対する反骨心はものすごいものがある。未だに本社はBenesseの東京ではなく岡山にあるし、現代アートで世界的に有名になった直島も瀬戸内海の小さな島だ。彼曰く、「あれが東京にあっては意味がない」。

ポンヌフに向かう車中で親父と話をした。水島の三菱自動車がコルトなど小型車の生産をインドネシア(だったはず)に移管する。これで、親父の推定では5000人の規模で仕事を失う人がでる。俺が勤める会社の従業員+1000人である。家族5人なら2.5万人。ついに倉敷にも、日本の国際競争力低下のさざ波は大波となって押し寄せてきた。瀬戸の海はいつも穏やかなのに。

前グーグル・ジャパン社長の辻野氏が、著書「グーグルで必要なことをみんなソニーが教えてくれた」のなかで、カルロス・ゴーン氏と面談をした際のゴーン氏の発言についての記載がある。ゴーン氏は、「(日産の社長に)就任したときは、問題があまりに大きいので、これは大きなチャンスがあると思った」と言ったそうな。
この理屈で言えば、また日頃倉敷出身の俺が東京で感じていることを言えば、東京こそが茹で蛙だ。美しく着飾り、壮麗な邸宅に住みながら茹であげられる蛙だ。
街にはピカピカに磨かれたジャガーやBMWの旗艦車種がごろごろ走り、フェラーリやベントレーも少なくない。日曜日に丸の内や表参道や六本木に行けば、「あぁ、日本はまだまだ豊かだな」と誰でも思うだろう。また、多くのグローバル企業が本社を置き、一部上場で数千人規模の大企業はリーマン・ショックから立ち直り概ね堅調な様子だ。だからこそ、日本の若者は地方を捨ててこの東京に淡い夢だけを手にやってくる。要するに、東京にはまだまだ富があるのだと思う。

このことは、東京を日本で最も保守的な街にしているとは言えないだろうか。
東京で衣食住と教育・医療に困らない生活をしたければ、大企業に就職するのが最も安定的で堅実だ。世界的に見ても、トップレベルではないが、ある程度の生活水準(あくまで、”ある程度”だ。あるべき程度ではけっしてない)は望めるだろう。
それが分かっているから、就職活動中の大学生は、大手企業を目指す。大手企業は東京にあるから、東京に彼らはやってくる。

日本の繁栄の20世紀後半は既に終わったのに、その幻想にすがりついているのが、霞が関の官僚達や大企業の”エリート社員”だけではなく、最も革命的であるべき学生たちであるという事実。
そう言っている俺が、日本でも恐らく最も保守的な大企業に勤めているという絶対的矛盾。切腹ものだ。
自己を否定できぬものが世界を否定することは不可能であり、世界を否定することなしに世界を変革することは不可能である。そして、現在の日本は、真の意味で変革されないならばただ没落しゆくのみ。
次代を作る新しい思想・哲学は、以上の理由から、地方からしか出てこないだろう(ベンチャー企業は東京が一番多い!などと呆けた批判をせぬように)。違う言い方をすれば、東京はかつての江戸幕府だと思っておけばいい。たまに優秀な人材を輩出するものの、総体としてはやはり守旧勢力なのだ。そういう一派に自己否定を要する革命なぞできはしない。
そして、幕末と異なり、地方からでてきた新しい思想は、これからは東京を経由することなくいきなり世界へ向かうのだ。東京は無視されるべきだ。福武氏が東京ではなく直島をモダンアートの島として再生したように。そしてそこに多くの人々が世界から押し寄せているように。それができるだけのインフラが、既に整いつつある。以前述べた、格安航空会社もその一つだろうし、”フリー化”もその一つしあげられるだろう。名古屋と東京を500kmhのリニアで結ぶために必要な数兆円の一部の地方に分配して、日本の地方都市へのLCCの乗り入れを促進するべきだ。
中央がすべてを差配するという明治以来のこの国の支配形態こそ、我々が打倒しなければならないもので、それに抗うものが何者であるのかということが、最近おぼろげながら見えてきたように思う。

まとまりのない駄文に付き合わせてしまい、申し訳ない。

独り言:

会社で「お前浮いてるよなぁ」とたまに言われるのだが、俺からしたら彼らがどぶの底に沈んでいるのである。「どぶのみずみんなで浸かればいい湯だな(5・7・5)」という塩梅で、彼らは全然それに気が付いていない。悲しく惨めだ。


2010年11月28日日曜日

倉敷で遊ぶ

新幹線の車窓からぼんやりと風景を眺めている時間がたまらなく好きだ。
もうちょっとゆっくり走ってくれてもいいのに。だからリニアは俺いらない。
今週末は岡山で福武総一郎氏の話を聴くのと面白い人たちに会うために一カ月ぶりに帰省した。

このブログでほんのすこーし人気者の藍子さん。
まだピアノは俺のほうが上手いな。ふっふっふ。
大好きな~♪大好きな~おいしいブドウのパン食べよ~♪
みーれーどー、みーれーどー、どーどーれーれーみーれーどー♪
なら、俺は弾けます。
朋子(姉貴)のピアノの伴奏で軍歌(出征兵士を送る歌)をある朝早くに(いつかの正月の朝)歌っていたら、母親が「ドドドドドドドド」と階段を下りてきて、「右翼がおるんかと思われるがっ(思われるでしょう)!!」と言うと、側にいた典子が冷静に、「ここにおるが(いるじゃない)、右翼」と言って皆で大笑いしたことがあった。あれは面白かった。孫たちの出来の悪いコントを見て、お婆ちゃんがニコニコ優しく笑っとった。
藍子にも軍歌を沢山教えてやろう。で、小学校一年生のかわいい女の子が何気なく「守るも攻むるもクロガネの~♪」と歌っているというのが面白いですなぁ。
ちなみに誤解されると困るのだが、俺は右翼ではない。長渕風に言うと、「右だの左だのと五月蠅ぇんだ!俺はただど真ん中をまっすぐ生きたいだけじゃいっ!!!」。
右の翼も左の翼も両方大きくないとね、大空は飛べん。


今日の昼食は両親と典子と藍子さんと兄貴のお店でいただいた。
メタボ気味の娘さんは前菜をペロッと平らげました(うそピョン)。


俺は一人だけステーキ定食~じゃのうて、ステーキランチ。
牛さんをいただいて猛牛になりましょう。角生やして突進しましょう。
丸くなるのは棺桶に入るときで十分じゃ。


最後に初登場の兄貴と姉貴。あ、チビちゃんは肩車してもらっとるね。
なんだか幸せそうな家族ですね。
ちなみに、Pont Neuf=新しい橋 ⇒ 新橋。
東京の新橋駅のガード下に、ポンヌフという立ち食い蕎麦屋があるのだが、まだ食べたことはありません。
俺の大いなる野望を語ろうか。
40年後くらいに、たまに山から降りてきて(ツァラトゥストラみたいに)、Pont Neufで結婚式と誕生日や結婚記念なんかでPont Neufに来てくれた(俺の店じゃないのだけど)人の為に長渕の歌をアカペラで歌うこと!ふっふ、オーディションに受かるように頑張るぜ。


あと三日、半島で何も起きないことを祈る。
周辺事態法と自衛隊法をしっかり読んでおかないと。



2010年11月27日土曜日

死刑の意味を問う

裁判員裁判で二度目の死刑判決は、犯行当時18歳であった少年に対して宣告された。
宮崎家石巻市で起きたこの悲惨な事件の犯人は、かつての彼女の家に押し入り、彼女の姉と友人の2人を殺害して1人に重傷を負わせた。

法学士の浅薄な議論だから刑法の専門家に突っ込まれることを覚悟して、以下述べる。

近代系法には二つの拠って立つ原理がある。一つに、応報刑論。すなわ ち、刑罰は、過去に他者に対して不正な行為をなし以って損害を与えたことに対して苦痛を与えるためのものとする考え方だ。ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」というわけだ。
いま一つが、教育刑論。すなわち、犯罪者を犯罪に走らせしめた反社会的な性格や特性を是正することを目的として刑罰をは与えられるという考え方だ。

論理必然的に、後者の教育刑論の立場をとれば、未成年の犯罪者は高齢の犯罪者に比べて更生の余地が大きいと判断されるので、死刑判決は出しにくいということになる。今回の判決が社会的インパクトのある判決として注目されていることの背景はこれである。たとえば朝日新聞の今朝(2010年11月27日)の朝刊は、次のように社説で言っている。

「成長の途中段階にある少年は、教育や環境によって大きく変わる可能性を持つ。その特性をどう評価するか。」

もちろん、応報刑と教育刑の関係は絶対的対立の関係とは言えない。潜在的な刑事犯に対して刑罰という苦痛の可能性による抑止力を維持しつつ、同時に実際に事犯が発生すれば犯人に対して教育刑論的に対応して更生を図るというのがだいたいの先進国の刑法及び刑事訴訟法の運用のされ方で
はないかと思う。

俺自身は、かなりさっぱりと応報刑論に"親しみ"を覚える。もちろん俺は保守主義者だから、社会が異端者(サリンを撒こうとするとか地下鉄に爆弾をしかけるとか、そういうレベルの異端者)
に対して教育・指導を行い以って更生を目指すことは当然と思う。しかし、だからといって、"やられたらやりかえす"という秩序維持の大原則がないがしろにされてはならない。私刑(リンチ)が禁止されている近代国家では、国家が唯一の刑罰の執行者である(=国家は暴力を正当に行使する権限を独占する)。

ここ数年、犯罪被害者の裁判への参加ということを耳にすることが多いのだが、俺はこれは違うと思う。 違うというのは、正しくないという意味だ。
国家は、独占的に刑法を警察と検察という実力で以って運用するのだから、国家は犯罪被害者を判決に至る過程に関与させるべきではない。国家がなすべきは、かつては被害者(及びその遺族)が加害者に対して私的に行った復讐(=私刑)を被害者に代理して実現することだ。

勘違いして欲しくないのだが、ここにおいて国家が担う役割は、単に特定の事案における被害者感情の慰撫などではけっしてない。それは結果に過ぎない。
国家がなすべきこと、国家にしかできないことは、「他者に対する不正な侵害は許されない」という法
律以前の道徳律が、実効性あるものとして存在することを最終的に担保しつつ、それを国民に顕示することなのだ。
死刑の意味もまさにここにある。
「人を殺しても、最悪でも無期懲役だ」という社会よりも、「人を殺したら自分も"応報に"殺される可能性がある」という社会通念が共有された社会のほうが健全であると俺は考える。国家が暴力を独占する限り、我々国民は私的に復讐することができないのだから、この徳律を維持するためには、国家は死刑を放棄すべきではない。

従って、当然ながら俺は死刑賛成派であるし、また未成年と65歳の殺人犯にさしたる違いを見出す者ではない。裁判員制度云々は兎も角、今回の判決は画期的なものとして全面的に支持する。

2人殺しても生きているべき人間とは、神なのか?悪魔なのか?

(「冤罪で死刑が執行されたら取り返しがつかない」と死刑を否定する人がいるが、それは死刑だけでの話ではないだろう。冤罪で無期懲役になる可能性だってあるし、それも十分に人生にとっては破滅的だ。冤罪の可能性があるから無期懲役をなくそうという人はいないし、冤罪の可能性があるから強制猥褻罪をなくそうというのも無理な(理が無い)話だ。)



ひとりごと@新横浜

本木雅弘と福山まさはるの俳優としての格差はすごい。単に顔の作りが違うだけではない。
ラストサムライの真田広之は、男でも惚れます。"立てぇーいっ!!!"
最近、新聞か雑誌で俳優ランキングをしていたのをみた。映画監督や脚本家の投票で。間もなく第二部が始まる坂の上の雲で正岡子規を演じる香川照之の評価が一番だった。俺は昔の大河ドラマ秀吉の竹中直人の唾や鼻水を飛び散らしながら、渡哲也演じる信長に「おやかた様っ!」と叫ぶ姿をよく覚えている。日本一の俳優だと思う。

リドリー・スコットとラッセル・クロウの映画"ロビンフット"が楽しみだ。ハンスジマーの音楽だといいな。グラディエイター以来のコンビか?ラッセル・クロウといえば、どこかのホテルでスタッフを殴っておいて言ったのが、「世界中の(ホテルスタッフにいらつかされている)ビジネスマンを代表して殴ってやったのさ」。
少なくとも俺はいらついてないよ。

いじめ。一生消えない心の傷。
そんなわけあるかい。莫迦も休み休み言え朝日新聞こら。60歳のじじいがアストンマーチンからおりてきて50年前のいじめが...なんて言うたらその場で即身成仏させたるわ。
小学校の時、ある男の子を一日に三回泣かして先生にひどく叱られたことがある。集団でのいじめではない。小学校という場所は、"泣いたもん勝ち"なところがあって、不思議だった。「こいつは俺という
敵を前にして泣けば先生が助けてくれると思うとるんか??」と思った。思えば俺は昔からそういう"権力的なるもの"は大嫌いだった。フーコーみたい。

そうそう、アストンと云えば。
長渕剛が2ヶ月前に黒のAston Martin DBSを買ったらしい。 詳しくは雑誌Engine1月号。まぁ、わしのほうがようにあうんじゃけど。今はまだ全然似合んのじゃが。今俺がDBSに乗ると森蘭丸が赤兎馬に乗っているぐらい不細工だろう。
14年後。ありありと想像できる。
富士の空挺部隊か?という風な男が迷彩柄のカーゴパンツに黒のティーシャツ(全部ユニクロ)のちょび髭坊主頭で、爆音鳴らして沼津あたりに1200円の寿司を食べに走る姿を。お供は椿(狼、体重76kg)。

数年前からカフェのカウンターなどコーヒーをもらうときにニコリと笑って「ありがとう」と言うようにしている。この時相手の目をみて言わないとだめだ。最初は恥ずかしかったが、30が近づくにつれ段々と慣れてきた。
ありがとう。この言葉はなかなか重たい言葉で、きちんと使えば伝えられた人の一日をハッピーにしてしまうこともある。実際、俺はしょっちゅうそんなことがある。なんという単純脳。
だから、相手のハッピーな一日を願いながら朝7時にマックで"ありがとう"と言う。一人の他者をすこしだけハッピーにできたならば、俺が豚や牛を捕食して生きる一日には意味があると思うから。

男は顔だ。その顔があれば、周りの人間が安心する、隣の女性も安心する。そういう顔付でなければならん。まして日本の総理大臣は、危機にあっては日本を安心させる顔付でなければならん。永い平和が、危機にふさわしい男の顔を男から奪い取ってしまった。
首相が11月23日の夕方にやるべきだったのは、ぶらさがりの記者会見ではなくて、日の丸を掲げた記者会見の会場で、堂々と「国民のみなさんにまず申しあげる。心配は無用です。我が軍はこの事態をうけて直ちにデフコン3を発動し即応態勢を整えました。日本領土に飛来するどんな航空機や船舶に対する備えも万全です。勿論油断は禁物でありますが、我々は状況をきちんと把握しコントロールしています。新たな情報が入手されれば、適時適切にお報せ申しあげる。」

2010年11月26日金曜日

Ipadが欲しい!

Ipadを買いたい。
うーむ、買いたい。

おもな使用目的は読書と蔵書。
6畳の寮の部屋における本の量というのは知れている。大学教授ほどの蔵書があるわけでもないが、生活に支障を来すぐらいの分量になると、やはりこの狭い部屋に暮らす身としては「買いたいけど置く場所が...」などと考える破目になる。そういう人はたぶんけっこうな数居る筈だ。

で、自分で最近作った本棚などをじーっとみていると、「これは電子書籍化してもいいだろう」という本もなかにはあるのだ。たとえば、漫画。たとえば、雑誌。たとえば、2時間で読めるビジネス書。その他小説などいろいろ。
じゃあ、全部電子化できるかというと、俺はそれはできない。今読んでいる佐々木中「野戦と永遠」なんて、おそらく最も電子書籍に向かない部類の本じゃないかと思う(俺が読みなれないだけ?)。「世界史の哲学」は汚しながら書き込みしながら読んで、格闘した後を筆跡として留めておきたい。
他方で、漫画は完全に電子書籍と親和的だと思う。漫画「ジパング」、「バガボンド」、「沈黙の艦隊」でかなりのスぺースを占領してくれているのだが、こいつらが厚さ1cmもないIpadに入って行ってくれたら、これはかなりの空間が生まれるだろう。

例えばハワイに4泊でのんびりぐうたら旅行に行くとする。この場合、今の俺なら読むべき本を数冊(4泊ならたぶん20冊くらい)を持っていく。この場合、絶対に漫画を持っていくことはない。30巻あるうちの5巻だけ読むのも面白くないし、重すぎる。のくせに、あっという間に読めてしまう。
Ipadがあれば、これが完全に変わるだろう。Ipadと読みたい本20冊だけを持っていけば、本を読んで頭が疲れた時に、ホテルのテラスで久しぶりにドラゴンボールを42巻全巻を読破する...などというこの上ない贅沢もできてしまう。
おぉ、これぞ現代文明の利器。
たぶん、Ipadを持ち歩くというのは、本屋を常に携帯しているようなものなのだ。その利便性と収納力は想像を絶するものがある。簡単な本や漫画・雑誌を携帯すること、あるいは即座にWeb上で手に入れること。ちゃんと使えば「時間を買う」ことができる。

「Ipadで漫画読むだけ?」と言われそうだが、まぁそこはいろいろ拡張できるだろう。
思うのは、あの重たい(いまキーを叩いているレッツノートを買った時には、「なんと軽いのか...」とびっくりしたのだが)ラップトップを持ち歩いたり出張に持参するのがどうにもスマートではないということだ。
もっといえば、そのうちにIpadのような薄型軽量の情報デヴァイスを持っていれば、もはやオフィスなんぞに行かずとも仕事が済んでしまうという仕事がこれからどんどん増えてくるだろう。また、そうならなければ、情報科学技術がなんのために誕生し発展したのかが分からない。人間が使いこなして自分がより快適に暮らすためにこういう技術はあるのだから。
孫正義氏も言っていたが、パソコンなんてものはそのうちなくなるのだ。Ipadはその始まりのように思う。だってなんなんだあの立ち上がりの遅さは。腕立てが30回ぐらいできてしまう。
少なくとも、家庭に大きなデスクトップやラップトップというのは、今では当たり前だがそれもなくなるだろうと思っている。

そういえば、Ipadではないが、Iphoneで俺の残業は確実に減った。つまり自由時間が増えた。
まずオフィスの外でも会社のメールを読めるので、面倒なブラウザからWebmailを開くということが不要になった。自然、「まだアメリカが明かない(ビジネスアワーになっていない)からもう少し会社にいよう」と残っていたのが、今はすたこら会社を出てスタバで読書をしながら必要なメールに返信するということができるようになった。いま画面の割れたIphoneが隣にあるが、今現在会社のメールが28通入っている。これまでだったら、土曜日の朝や日曜日の朝にWebmailでIDとPasswordを打ち込んでみていたメールが、携帯電話のメールを閲覧するように読める。必要があればそのまま返信するか電話をするし、なければ放っておくか、忘れてはいけないものをメモに残す。
土日の間にだいたい150通くらい受信するメールを、これまでは基本的には月曜日の朝に会社で読んでいた。朝8時30分から。今は、9時30分に出社するが、メールにはすべて目を通しているから、会社に到着した瞬間に、「そういえばあれですけど」と話ができる。土日のいつ読んでいるかというと、まさに細切れの時間。電車を待つ5分間とか、待ち合わせ予定時間前の2分間とか。

さらに。
Googleカレンダーとアプリ”Refill"があれば、紙の手帳は完全に無用。
数か月前からIphoneにこのアプリを入れて、予定を管理している。これは、Googleカレンダーとサーバーで勝手に同期してくれるから、とんでもなく便利だ。朝会社の机につき、最初にやるのはOutlookを開くことではなく(上述のように、メールは会社に着くまでにすべて目を通している)、Googleカレンダーを開くこと。
一日の予定をざっと見て、なんとなく19時に退社かなーとめどをつける。Googleカレンダーは机にいる間は常に開いておいて、上司から「これいつまでに頼むわ」と言われたら、「はい」と言う前にその日付に「北朝鮮に向けてトマホーク発射」と記入する。Remindのメールも適切なタイミングをセットしておけば、とりあえず俺がそれを忘れていてもGmailが一週間前とか3日前にメールとスクリーン上のポップアップで思い出させてくれる。
会社でやらないといけないことなんて覚えていられないので(覚えていたくもない!)、これは本当に重宝している。しかも、それをIphoneで休みでも帰宅中でも見れるというのが、なんとも快適だ。
また、紙の手帳はなくしたら終わりだが、Iphoneを紛失したところでGoogleカレンダー上にすべての情報は残っているから、新しいIphoneを買って同期すれば全く同じ状態に復帰できる。

長くなった。
俺なんぞまだまだIphone初心者なんだが、スマートフォンをテレビゲームとネットサーフィンだけに使うのは本当に宝の持ち腐れだと思う。



2010年11月16日火曜日

「そこにもうあるわけだよ」

先週水曜日、珍しく同僚と仕事のあと食事にいった。
「一杯いくか?」というやつだ。結局二人でスーパードライの瓶を90分ほどで4本飲んだからアサヒ嫌い(別に朝日新聞嫌いとは没関係)の俺にしては飲んだほうだろう。

実は、楽しかった。
面白い話が聞けた。もっと言えば、有り難い話だ。
この同僚は、俺より年は6歳ほど上で、商売の経験でいえば俺とは雲泥の差がある。彼は俺を赤子としか見ていないふうだ。
彼は、今の会社に移ってくる前はある厨房機器の卸売会社に勤めていた。作業着を着てMTの軽トラで都内を中心に関東を縦横に走り回る日々だったそうだ。
彼がこういうのだ。

「あのな、仕事してたらな、よく電話がかかってくるだろ?
マンションを買って資産運用しませんか?っていうやつだよ。俺の前の仕事ってのはあの電話をしてくるおっさんと全然変わらなかったね。
相手が仕事中だってのをよーく知ってるわけだ、やつらは。でもってマンション投資の勧誘なんてあやしいなぁと思われるのだってあいつらが一番よく知ってるよ。それなのに完全にだめもとでいっつもああいう電話をしては朝から晩まで断られ続けてるわけだ。俺の一年目なんて完全にそうだったよ。どこに飛び込んでも帰れだのうるせーだの。。。だってありふれてるんだから。誰から買ったって一緒なわけだよ。それをなんでクソガキのよく知らない俺から買うかって話だよな。。。
でもな、なんて言うのかなぁ...マンションだろうが冷蔵庫だろうがな、作っちゃったわけだよ、そこにもうあるわけだよ、『はいこれいらないから捨てますよ~』ってわけにはいかねぇんだよ。だったら俺がそれ売るしかないじゃん。頑張って売るしかないでしょ?」

これって、商売の真髄であるなにかに触れていると思った。
経済学的に言えば、需要が在って、それに対応する供給が在る。しばしばバランスが崩れることはあるが、そこは価格メカニズムが働いてやがて均衡点に至る。しばしば曲解されるA.スミスの「神の見えざる手」の差配も畢竟こういうことだ。
だが、現実はそんなモデル的な美しさとは真逆だ。供給が需要を超過して「作っちゃった」場合には、それをどうやって売って金を回収するかは、中小零細の企業にとってはそのまま生存問題に直結することもあるだろう。
彼は、そういう世界で商売をしてきた。変な言い方をすれば、「売れるはずがないもの」を売る努力を数年に渡って遂行してきた。だから、彼がする仕事には常に「これで俺は金をもらっていいのか」という意識が如実に現れる。金を稼ぐことの困難を知ればこそ、金を受け取ることについて誰よりもストイックにならざるを得ないのだろう。そこに、その商品以上の価値を自分が追加できるかの否か。それができなければー彼の言い方ではー「自分の食い扶持さえ稼げねぇ」ことになってしまうのだ。
社会人3年目が今更こんなことを言うのもいかがなものかと思うが。

さっき渋谷の宮益坂を表参道のほうから下りながら、ふと思った。

「そこにもうあるわけだよ」

という言葉。俺らの人生ではないか。
俺の人生も貴様の人生も、気が付いたときには「そこにもうあった」。それは捨てることができるものではなかった。

俺らのうちのだれ一人として、この世に「よし!1982年の4月9日に三谷原という変な名字の家の長男として生まれよう!名前は基でよろしく!」などと決定して生まれるのではない。自分では何の意識もなく、なんとなくという意識も持たぬまま、自我なくこの世に生を享け、やがて自己と世界を発見する。
なんという非合理性だろうか!!!合理的であると措定された近代的個人は、そもそもその誕生の是非さえ自分では決定できなかった。自分の存在如何について決定権を持たぬ存在が、生において合理的であろうはずがない。だって俺という精神は、「そこにもうあるわけだ」から。俺が選んだのではないのに。

しかし、俺はこの非合理性に対して真正面から向き合って立ち向かう真剣を振り回すような生き方にしか、生きるべき時間は存しないと確信する。自分では、如何ともしがたい、コントロール不可能な事実を諾として受容してその内において限界まで頑を張る。そういう愚直な生き様によってしか、我々はこの「そこにもうあるわけだ」という非合理の罠を打ち破って成長していくことはできないように思う。

「自分では、如何ともしがたい、コントロール不可能な事実を諾として受容してその内において限界まで頑を張る」というのは、そのまま神風特別攻撃隊の英霊の生き様ではないか。

士農工商の「商売人」であっても、よく特攻精神を堅持して戦い続けるならば、特攻隊員もどきにはなれるのではないかという淡い希望にほくそ笑みながら、赤ら顔は外苑前から銀座線に乗り込んだ。

独り言:

衛星探査機「はやぶさ」が宇宙から粒子を持ち帰ったことが快挙だそうだ。何を持ち帰ったのかと思えば、100分の1mmの粒子が数千...
だが、現代の科学技術を以てかかればこれだけでも宇宙誕生の初期の状態を解明する(「宇宙誕生の初期の状態を解明する」?????????)ことができるそうな。
頓珍漢にはどうにもチンプンカンプンだが、夢のある話ではあるようだ。
ちなみに最近よく売れている「宇宙は何でできているのか」という本はさっと読めて面白い本でした。
死ぬまでに一度は必ず宇宙に出て地球と遠い宇宙を眺めたい。俺が60歳まで生きられるなら可能になるだろう。数百万円で行ける時代が来るだろう。楽しみだ。目茶苦茶楽しみだ。
その時貴様はようやくその狭量なナショナリズムを克服できるだろうって?阿呆は寝て言うがよろしい。俺は宇宙のどこに行こうと日の丸を背負っていくだろう。日の丸は日本の旗でありながら、俺の旗でもあるのだから。

「対人戦闘用意よし」。



2010年11月14日日曜日

パンダとくらげ

尖閣諸島をめぐる数ヶ月間の問題は、現在中国の漁船と巡視船との衝突ビデオをYoutubeに投稿した海上保安官の逮捕如何をめぐって注目されている。
数週間前の検察の中国漁船の船長釈放について、「検察が政治的判断をしては法治国家ではない!」という批判は、まぁそのとおりだろう。
だが、対中国の安全保障・外交力というより大きな視点から見ると、問題の本質はそこではないと思う。
「法治」が貫徹していること以上に大切なことは、政治の側の意思と、その意思を断固として遂行する覚悟を国家のリーダーが示すことだろう。誤解と批判を覚悟で極論を言えば、「法」がきちんと整備・運用されずとも、プラトン的な哲人政治家が統べる国では「法治」は必ずしも必要ではない。
現在の日本には「法治」も「人治」もないのだ。それは国家が弱体化しているということだ。今の日本は、過去百数十年の間に醸成された一群の既得権益が統べる国なのだと思う(既得権益を内蔵しない権力なぞあり得ないのであろうが)。日本という国のクラゲのごときフニャフニャの政権が牙をむき出しにした凶暴なパンダと穏やかに笑う白頭鷲(アメリカの象徴)の間で太平洋の西の方をフラフラと漂っている。たぶん世界からそういうふうに見られているのだろう。
他方で中国には、当然「法治」はないが少なくとも「人治」はある。無茶苦茶であるとしても。
「あれは那覇検察の判断でありますので」などと首相が責任を回避していては、たとえ今回の事件において検察がきちんと中国人の船長を起訴立件したとしても、それでは不十分だ。国家の意思を示すことが首相の最大の仕事であり、それ以外はその他閣僚・官僚の仕事だろう。
ペリーの黒船に動揺して右往左往したかつての江戸の幕閣と、一隻の小さな漁船のタックル(にしか見えません)に動揺しまくって挙句に検察に責任を押し付けようした事なかれ主義の現在の日本政府が、よく似ている。ロシアも完全に足元見てるしね。


それでも俺は日本の将来を楽観している(俺の将来は達観している)。
我々は、近代西欧の世界制覇に対して唯一「否」を突き付けて鉾を手に立ち上がり世界史の大転換をもたらした国である。大敗北のあとにも、物質主義に偏りながらも経済成長で世界を瞠目させた。
この国は、危機の際には必ず他の政治共同体とは異なる我々独自の精神的自主性の復興が行われる。
それは、必ずしも中国との対立関係にのみ我々を導くものではないだろう。中国の巨大な国力に間近
で影響されながらも、それを受容して日本という国の精神的自主性を維持・扶養することが、我々が後世のためになすべき最大の貢献であり、先輩達に対して負う責任の履行である。


今回の事で可哀そうなのは映画「海猿」の製作に携わった人たちだ。実際にマイナスの影響があるかどうかは分からんが、少なくとも興業にプラスの影響はないだろう


独り言:


「一方で経済の世界性を要求しつつ他方で国家の自足性を要求するとき、国家がその領土内に於いて能う限り自主性を保つべき領土的拡張の要求を抱き、一個の自足的世界性を持つような帝国を構成しようとする意図に出ることは当然の傾向である」

-高山岩男「世界史の哲学」p.323

恋愛とは、第一に孤独からの盲目的逃避であり、第二に自己愛への間接的隷属であり、そして第三に肉欲の道徳的充足である。

-俺 (あぁ、皆に喧嘩を販売してしまった)


紅葉のキャンプ、のはずが。

キャンプのシーズンは10月と11月。これは定説です。疑うべくもないことです。
大学のサークルのにわかキャンパーもいないし、バイカーの集団の宴会に悩まされることもすくない。虫も少ないし、なにより汗をかかない。夜の寒さも焚き火のお供だ。
おまけにこの時期は、紅葉が見頃、のはずだったが今回は外した。まぁ暗くなれば同じことだ。


渓流に浸かって夜の出番を待つプレモル。風呂に入ってるみたい。


焚き火をしながら珈琲を飲みつつ本を読みたいからキャンプをしているようなもんだ。昨晩は終わりつつある「世界史の哲学」を200ページ弱読めた。別に屋外に寝ることが特別好きなわけではない。夜の闇と静寂と寒さ、これが必要なのだ。都会にはどれ一つとしてない。都会の夜は明るく(あるいはわざといやらしく暗く)、五月蠅く、温かい。

昼食:シイタケ・チキンラーメン、バナナ3本、珈琲2杯。
夕食:豪州産ステーキ990g、セロリ1房、角切り餅4個、バナナ3本、プレミアムモルツ500ml、珈琲一杯。


ついでに帝国海軍五省を張り付けて格好良くなったMoreskin6号。




2010年11月12日金曜日

缶コーヒー

大学に入ってから、河原やカフェで読書をするのにどうしても手放せなくなったものが、珈琲。
今なら、例えば、どこぞの山に走りに行くぜ!というときは、車に小型バーナーと珈琲豆を積んで行くのだが、かつては屋外で珈琲となれば缶コーヒーしか選択肢がなかった。

20歳で関学に入学してから約9年、恐らく俺個人の類型消費量は数百本(千?)に達するはずだ。

怖るべきことは、俺が口にしてきたこの数百本の様々な缶コーヒーのなかで、一本たりとも「ぬるいなぁ」とか「これは熱すぎる」と感じさせるものがなかったということだ。我々は(少なくともさっきまでの俺は)自販機で缶コーヒーを買えば、たとえば熱い缶コーヒーならば、掌で握り締めるには熱すぎるがさはいえ触れることもできない熱さではないという、あの絶妙な適温を当たり前のことと思っている節がある。だがこれはすこいことだ。 ちょっとした機械文明時代の職人芸とでも呼びたい。

気温が3度のときも33度のときだってあるし、自販機に搬入したばかりということもあるだろう。単純に自販機が気づかれぬまま故障 しているということだってあるはすだ。 それでも、常に同じ。常に同じ”パフォーマンス”。これこそプロの仕事だ。しかも玄人っぽく、全く目立たない。

たぶん、このクソッタレ資本主義というものは、数限りないこういう見えないプロフェッショナルの仕事を生み出すことで社会を支えているんだろうと思う。そりゃイチローは確かにプロだが、イチローだけがプロなわけでもない。そういう隠れたプロを思い遣り(思い遣り=遠くを思うこと)、いい気分になった。が、俺はプロではないな。

街や田舎に乱立する自販機を、とてもいとおしくなど思えぬが、こう考えてみると自販機もそれを管理する飲料メーカー(?)も、たいしたものだなぁと、銀杏並木のとなりの人気のないベンチに座りながら考えた。 とても日本人以外にはできぬ芸当だと思う。外国に自販機がない理由の一つかもしれんね。

おぉ、どこからか「すごいのは自販機だろう」というニヒリストの声が聞こえてきた。

さぁ、今週は山で焚き火じゃ(キャンプ)。寒いから薪はたっぷり必要だが、できる限り現地調達を旨とすべし。

今日買った本:

佐々木中「夜戦と永遠」以文社 2008年

みんなよい週末をお過ごし下さい。



2010年11月11日木曜日

てがみ

掴まり立ちをした姪への手紙。
姪はね、なんとGmailアカウントを持っているんです。
アップするかどうか逡巡したが、まぁ人の悪口じゃないし、よかろうと決めた。



あいこへ

こんにちは。

これをきみがよむのは、なんねんさきのことだろうか。
きみはきょう、うまれてはじめてじぶんのちからでたちあがった。2010ねん11がつ8にちのことだ。
おれはみていないがね。
あねきから「そくほうにゅーす」がとどいて、おもわずにやついてしまった。
きみのちちうえさまもははうえさまも、じじさまももばばさまも、きみがげんきにおおきくなってくれることがなによりもうれしいようだ。おっと、もちろんひいばばさまだってそうだ。
おれもそうだが、きみもたいそうしあわせだ。おれはこうたいしだったそうだが、きみはおひめさまだ。おやばかぶりではあなたのはははなかなかだれにもまけないだろうよ。


でもね、あいこや。
しあわせにうまれついたものは、まじめにいっしょうけんめいにいきて、しあわせをほかのひとにもゆずってあげよう。それがきみのしあわせになる。
せかいからあいされたきみならば、せかいをあいせないはずがない。たとえそれがどんなせかいであってもね。だっておれらのせかいじゃないか。おれらのくにじゃないか。おれらのかぞくじゃないか。ほかのだれのものでもない。


これからきみは、ながいながいじかんのなかで、”すうせんまんぽ”でも、”すうおくほ”でも、そのまだぷにぷにのあしであるくだろう。そのながいみちがうつくしいものであるのかどうか、いまはまだおれはすこしだけふあんだ。
でもね、しんぱいはむようだ。きみをいのちがけでまもってくれるひとがせかいにはたくさんいる。きみにほほえみかけてくれるひとがせかいにはほしのかずほどもいてくれる。
きみのおとうさんはりくぐんのぐんじんさんみたいだし、きみのおじさんはかいぐんのぐんじんさんみたいだ。きみのおかあさんはきみがうまれてからかくじつに”わらいじわ”がふえた。
きみがあるいていくながいみちのほとりには、いろとりどりどりのはなたちがたえずかおっているだろう。
ねがわくは、きみが、そのおおくのはなにきづき、みなとよろこびをわかちあえるうつくしいこころのもちぬしであらんことを。
ほれほれ、わかるかこのぷにぷにむすめ。

きみがだんだんにんげんらしくになっていくのがおれはとてもおもしろい。

きみはそのうちおれのことを「はげおじさん」なんてよぶのだろうね。
まくらことばは、「せかいでいちばんかっこいい」はげおじさんでよろしくたのむぜ。いいこにしてたらたまにはAston Martin DBSにのせてやろう。たまにはニーチェについてかたってやろう。
いまはしっかりおちちをのんでしっかりねておくがよい。しっかり"のう"をせいちょうさせておきなさい。

おれのはなしはむずかしいぞ。みみからはなげがとびだすほどだ。


もとい



2010年11月8日月曜日

人間の間に生きるとき

天山温泉湯治郷での昼飯は麦とろと決めている。
箱根の紅葉は来週-再来週が見頃でしょう。
これを食べる時のイメージは、信長の桶狭間直前の清州城での湯漬け。


下記は、ツァラトストラが彼が孤独を愉しんだ山(洞窟)に久しぶりに戻ってきて語る言葉。

「われ人間の間に生くるとき―、つねに、控え目の真理を以て、愚人の手と痴呆の胸を以て、また憐憫のあまたの小さき虚偽を以て、生きていた。
彼らの間にあるとき、われは仮装して座っていた。かれらに堪えんがために、すすんで自己を誤解していた。また、われみずからに『なんじ、愚かしき者よ、なんじは人間を知らぬ!』と諭していた。
人間の間に生きるとき、人間は人間を忘れる。すべての人間には、あまりに多くの前景がある。―遥かをみはるかし遠くを求むる目は、ここにあってはその用をなさぬ!
かれらがわれを誤解したときも、愚かしきわれは、己を宥恕する以上にかれらを宥恕した。われみずからに対して峻酷なるに慣れ、しばしばこの宥恕の故にわれみずからに復讐した。
毒ある蠅にさされ、多くの悪意の滴によって穿たれし石のごとくに空洞と化しながら―、われはかれらの間に座って、みずからに説いた、『すべての小人らはかれらの卑小に罪はなし』と。
なかんずくわれは、おのれを『善き者』と呼称する輩を、こよなき毒を有する蠅と知った。かれらは邪意なくして刺し、邪気なくして偽る。このかれらが、いかにしてわれに対して―公正でありえたろうぞ!」

―ニーチェ「ツァラトストラかく語りき」下巻、P.90-91

社会に出て仕事をするようになって二年半。
自身の成長は皆無だ。「お疲れ様です」を午前中から言うことに25%ほど抵抗がなくなったぐらいだ。
だが、たった3年前にこれほどニーチェの言葉が脳髄を震わせることは想像できなかった。
最近ニーチェニーチェと五月蠅いが(俺が)、まっこと、心酔しかけている。惚れちゃいかんがね。



2010年11月7日日曜日

空腹と走れ!

最近、腹を空かせている。
ろくに仕事の出来ないへなちょこサラリーマンでも解雇にならない有難い(?)会社に勤めているので、毎日の食事ができず腹を空かせているわけではない。
つまり、意図的に腹を空かせている。

今の日本の社会(都心部)は、異常だ。
人間が誕生してから20万年、昼夜を問わずいつでもなんでも食べ物を手に入れることができる環境というのは、どんな物差しで測ってみても、異常だ。日本と同等の先進国においてさえ24時間開店のコンビニなんてものはないという国も少なくない。(だが今日の目的はコンビニが蔓延するこの状況の是非について語ることにはない。蔓延なんて言うてしまったが)
その結果、我々は、「腹が減った⇒何かを食べる」ことが当然だと思っていないだろうか。残業している時に空腹を感じれば、近くのコンビニとかファーストフード店で食べ物を手に入れられる。我慢する理由なぞない。小腹が減った時のために開発しました!という風な食品がとりわけコンビニに膨大に並べられている。こうなれば、我々が当然のことだが、空腹を感じる時間は少なくなる。
俺は、説明できないのだが、このことは生物としての人間を弱くしているように思えてならない。
考えてみてほしい。
確認されている最古の農耕は、中国において15,000年ほど前に行われていたという。
つまり、人類の誕生から15,000年前までの十数万年の間、人類は、「腹が減った⇒コンビニ」ではなくて、「腹が減った⇒狩り(猪がいるといいですね!マンモスを倒せたら何日ぐうたら?)」という暮らしを生き延びてきたのだ。その人間が、この21世紀初頭の日本では、いつでもどこでも鶏の唐揚げだろうが肉マンだろうがパスタだろうが食べることができる。このことの意味は、けっして軽くないと思う。

さはさりながら。
仕事をする平日に腹が減ってはなかなか集中できぬという事情がある(実験済)。
だから、お勧めはやはり土日だ。
まず、金曜日の夜は水とプロテインだけを摂る。ついでに銭湯のサウナで大汗を書き新陳代謝を上げる。そして、「腹減った~」と言いながら就寝。土曜日の朝、昼も珈琲と水しか口にしない。
毎日真面目に三食きちんと食べている人は、これで土曜日昼3時にもなれば、けっこうな空腹感を感じるはずだ。で、大切なのはここから。

この空腹常態で、筋肉が分解されるのを覚悟で(我々の身体は低血糖状態で運動を行うと、筋肉(=たんぱく質)を分解してエネルギーを得ようとする)、トレーニングを行う。
今週末の俺の場合は、アップダウンのある5kmのコースを時折75%ぐらいのダッシュを混ぜつつ、走る。その後、懸垂・腕立て、それから少々瞬発系のトレーニングを入れる。すると、面白いことに気が付くはずだ。空腹を完全に忘れるのだ。さっきまでひどく空腹だったのに。
そりゃそうだろう。腹ペコの子どもライオンに獲物をせがまれた母ちゃんライオンがトムソンガゼルに飛びかからんとする時に、空腹もなにもないだろう。昔右手の中指の爪がパックリ割れて血まみれなのに、問題なくピッチングを続けられたことがある。人間=動物は、ちゃんとできているものだ(試合後に号泣するほどの激痛に襲われた)。
だいたい90分間ぐらいのトレーニングを終えて、食事をとる。当然ながらやはりたんぱく質が主体となる。イメージだけで言えば、1,500kcalくらい一気に摂る。理想的には、ササミ・卵白などで十分なたんぱく質を補い、新鮮な果物と根菜で身体を整えたい。ここまででだいたい土曜日の「食事+トレーニング」が完了。そのあとは実はプレミアムモルツを一本空けつつニーチェを音読するという怠惰な夜を過ごしたりもする...赤ら顔で。

いかがだろう。
この機械化文明の恩恵を当然のものと思って二本足では走ることもできない動物園の肥満動物に堕落したくない戦闘者のあなたは是非一度お試しを。
身体が若返って元気になるのを実感できるはず。
なにより食欲という欲求さえ自身のコントロール下における自分に自信が持てるだろう。
空腹のときのほうが、戦闘的なんだよね、人間って。ライオンと同じで。頬のこけた奴には注意するべし。


独り言:

日本シリーズ盛り上がってますな。
だけど放映権料に依存したビジネスモデルはもはや成り立たんでしょう。
アメリカがあの国土で一つ(二つ)のリーグでやれるのだから、台湾韓国日本中国でトップリーグを12チーム、セカンドリーグを12チームぐらいにして、Asian Professional Baseball Leagueぐらいでやれば楽しい。野球版大東亜共栄圏?うーん、Maybe。



2010年11月6日土曜日

読書は孤独な体験であるという誤解について

読書とは孤独な行いである―。
もしあなたがそう考えているとしたら、あなたは残念ながら途方もなく浅薄な人間だ。そう断言することに俺は全然躊躇しない。
読書とは孤独な行いであると考えることは、読書における他者性を無視するか、意図的に排除している。
例えば、なんらかの情報・知識を記憶すること、まぁこれは受験勉強において頻繁に必要になることであるが、これは多くの場合孤独な行いである。大学センター試験の日本史で100点を取ろうと思えば、794年に平安京が設立されたことだけではなく、その数千数万倍の情報を記憶する必要がある。記憶するのはあなた自身だから、誰もその行いに介入しないし、助力もしない。
だが、読書とはそういうものとは本質的に違う。形而下的に言えば、机に座って書物を開くという行為は受験勉強のような孤独な行いと似ている。だからこそ、「読書=孤独」というおかしな一般通念があるのだろう。
本来、読書とは、自分とは異なる他者がこの世界に存在することを大前提とし、読者とは異なる言葉の用法を以て読者とは異なる(たまに同一でもありうる)思想を紡ぐその他者と直接に関わらざるを得ない、これ以上ないほどの能動的な活動である。
読むということを見下してはいけない。読むという行為を見下すことができるのは、命がけの文章に触れたことがない人間だけだ。そういう「読者」は、2時間で目を通すことができる1500円のビジネス書しか読んだことがないのだろう。そんな本を一万冊読んでも、一冊の真っ当な読書には敵わない。
著者が全人格をかけてものした文章に直接触れる読者の精神が、一体全体どういう理屈で孤独であり得るのだろうか。俺はそんなことは理解しないし、想像もできない。単なる情報の交換・伝達を媒介として他者と「交流」することはそもそも無理な相談なのだ。なぜといって、情報それ自体を保有する者の匿名性は、それが他者に伝達されたとしても未だはぎ取られはしないから。そもそも考えてみればすぐに分かることだが、情報が流通するのは貨幣と同様にその一般性のためである。そうであれば、情報に個性などありはしないのである。個性なき他者?そんな者が存在しえる筈がないではないか!!個性なき他者というのは、空気と同じである。特殊的であるからこそ我は我でありうるし、あなたは他者として存在しうるのだと思う。
話が逸れた。
読む人は、他者の存在を前提として生きる者だ。この他者とは、根本的に理解し合えない敵も当然に含むものだ。読む人が減ったからこそ、他者の存在を許容できぬ狭量な社会になっているのだと思えてならない。世界=自分、そういう極端な自己愛とその反対の個人の不安、そういう矛盾が蔓延っている。



完全な人間

母たる女性こそ、人間という生物のうちで最も美しいのだと思う。つまり、彼女は、吠えることも唸ることもなく冷静に鹿を殺す狼なのだ。
彼女にとって世界は、完全な身体性と即時性を持って常に彼女の側にある、否、彼女と世界を区別するものは最早存在せず、彼女即世界の関係が成立し、主客二分論は止揚される。
これに対して男は、自分の卑猥な自己顕示欲と性的欲求の混入した支配欲に動かされ、これがために仕事に励み身体を鍛える。まるで、女性に受容されざれば自身が存在すること能わざる者であるかのように。陥穽は此処にある。
女性との関係ー殆どの場合それは性的関係を伴うーによって大方の男は世界に受容される。それは彼らが望むことである。しかし、このことによって、男は世界内存在(注)として、謂わば世界に包含されてしまう。かかる上は、彼は世界を批判することはできない。世界内存在が、「世界」を変えることはできないし、破壊することもできはしない。
俺は、女性の優しい砂糖によって世界という苦い対象を甘くして、そのなかに自己を没入させることで得られる幸福を拒否する。俺は、その道が幸福であるか否かに関心を払うことなく、世界外存在たるべきだと信じる。俺は、集団登下校を拒否する。おぉ、異教徒の聖夜に色めき立つ畜群よ!

「私は、ここに立つ。私には、ほかにどうすることもできない」

-マルティン・ルター
ハプスブルグ帝国皇帝カール五世のヴォルムス国会の召喚に応じて

(注):ハイデガーがいった「世界内存在」ではない。単純に、in or outと考えられたい。

追伸:

「自分や自分の作品を退屈だと感じさせる勇気を持たない者は、芸術家であれ学者であれ、けっして一流の人物ではない」

-ニーチェ



武田知弘「ヒトラーとケインズ」

少しまえどこぞの本屋で、帯に「なぜ冷静なドイツ人がこの独裁者に従ったのか?」と書かれた本を見た。
戦前戦中は軍=加害者、国民=被害者という後味のよい善悪二元論に歴史を還元したくなるのは、その社会全体の痴呆の始まりか。

さて、この本は、ヒトラーの経済政策とケインズの経済思想・主張を比較したもので、その類似点を強調することでナチスに新たな光を当てようとしている。同時に、それが大恐慌(1929)後のハイパーインフレ(マルクの価値は1兆分の1になった)をいかに克服し、工業大国ドイツを成長させて国民に職とパンを与えたかについて述べている。

端的には、「ナチスの経済政策は効果において素晴らしかった。アメリカのニュー・ディールは失敗したが(アメリカの景気が本格的に回復したのは1941年以降)。そして、それはケインズがさまざまな著作などで主張したことと基本的に一致した政策であった。」ということを言っている。

俗に言われるケインジアン政策とは、「不況期には、政府が財政出動を行って有効需要を創出し、以て失業を減らすべし」という政策だといえる。リーマン・ショック後の世界経済の動揺・低空飛行のなかで、数多くの政府が行ったことはまさにこれを地で行くものだった。
ヒトラーがドイツ帝国の総統として全権を掌握した1933年、ドイツは世界恐慌により大打撃を受け600万人以上の失業者を抱えていた(失業率34%)。経済破綻といってよい。
ヒトラーは政権奪取の3ヶ月後、有名なアウトバーンの建設を発表した。ドイツ全土を全長1万7千キロの高速道路(いまだに一部は速度無制限!あぁ、なんて甘美な響きだ)を6年間で建設するというものだった。このアウトバーンの建設に始まり、住宅建設、都市再開発などのきわめて積極的な公共投資(ヒトラーは当時は財政赤字をものともせずに16億マルクの国債を発行した)によって、わずか3年間で失業者を100万人にまで減少させた。経済は順調に回復し、1936年のGNP(国民総生産)はナチス政権誕生以前の最高であった1928年を15%も上回ったという。
この時期、同じく世界恐慌により崩壊した米国は、ニュー・ディール政策を1933年から行うも1938年の時点ではいまだに800万人の失業者を抱えていた。

さまざま特徴のある経済政策を行ったナチス政権のなかでもヒトラーの公共投資戦略は非常に現在にあっても示唆的だ。ヒトラーは、高額所得者・大企業に対する増税を行い、それを公共事業の原資とした。かつ、公共事業費は、労働者に厚く分配した。要するに、高額所得者・大企業の金を労働者に分配したということだ。観念的に「平等が大切!」だからこの政策が正しいというのではない。
なぜ、労働者の取り分を厚くする必要があったのか?
それは、単に公共事業(地方に橋を作る道路を作る、例えばね)を行うだけでは、それは地主層や大手建設会社を潤すことはあるが、彼らは相対的に労働者よりも大きな富を既に保有しているために、公共事業による収入増=消費につながらない。だが、失業していた労働者にこの収入が分配される場合、彼らはどうしても消費にその収入を回さざるを得ない。つまり、ヒトラーは、増税によって金持ちの資産を吐き出させて、それを公共投資によって有効需要に還元してから労働者に分配したのだ。それによって、眠っていた富が市中に動き出すようになり、経済が活性化した。ナチスは、公共事業を受注した企業にナチス党員(SS?)を送り込み、業者が労働者にきちんと収益を分配しているか監視を行った。
(翻って日本の公共事業ときたらどうだろうか?)

著者は、ヒトラーとケインズの社会に対する見方(それを経済思想と呼んでいるのだが)について、両者の根底には、「とんでもない格差社会を作らない」という意思(=当為)があったという。例えば、ケインズは、1917年に母親に宛てた手紙でこう述べる。

「戦争がこれ以上長引くことは、・・・これまで我々が慣れ親しんできた社会秩序の消滅を意味するえあろう・・・残念ですが、私はこれを全面的に悲しいとは思いません。金持ちがいなくなることはむしろほっとすることです。それより私が恐れることは、(国民)総貧困化の恐れが生じることです」。

ちなみにケインズは、イートン校からケンブリッジ大学という典型的なイギリス特権階級の教育課程を経ている。他方で、ヒトラーは、1940年11月、ベルリンの軍需工場で行った演説で次のように述べた。

「現在の資本主義の経済原則では、国民は経済のためにあり、経済は資本のためにある。しかしわれわれは、この原則を逆転させた。つまり、資本は経済のためにあり、経済は国民のためにある、ということだ。別の言葉でいえば、何より重要なのは、国民なのだ」

政治とは、夢を語ること以上に、限界的な決断を行うことだ。つまり、有限的資源(このパンを二人で分けることはもはや不可能だがどちらかが食べないとどちらも死ぬ!)をいかに配分するかについて、暴力を背景に決断して実行することが政治である。そうであれば、政治を行う者の精神は、どれだけ頑丈であってもそれに過ぎることはない。なぜといって、政治とは人間の活動において唯一の合法的のみならず、「正しく」人を殺すことができる活動なのだから。
しかし、その頑丈さは単なる不感症が故であってはならない。過敏なまでに、対立せる諸個人・諸集団にとっての死活的利益を「理解」しながらも、それを裁断していくための断固たる「信念」を持つ者だけが、政治を行いうるのだと思う。

「覚悟だぜ」


2010年10月31日日曜日

読書論

平均的な28歳の日本人よりも、読んできた本の数は少々多い方だと思っている。
文系の修士だから、そうでなければ恥ずかしいのだが。

ここでは俺なりの本の買い方、本の見つけ方などについて書きたいと思う。

まず、書店には必ず毎日脚を運ぶ。基本的には、夜帰宅の際に渋谷、あるいは最寄駅の書店に立ち寄る。
夜まで仕事が遅くなりそうだと思ったら、昼ご飯を立ち食いそば(これが感動的に不味い!!!)で3分で済ませて、残りの昼休みを外苑前駅側のLibroで過ごす。
その際の順番は、まず週刊誌および月刊誌。必ず目を通すようにしているのは、”週刊現代”、”週刊ポスト”、”週刊文春”、”週刊新潮”、写真週刊誌”Days"、”AERA”、”文芸春秋”(これは毎月買っている)、”中央公論”、”世界”、”諸君”、”論座”、”正論”。次いで、その向かい側にあるファッション雑誌(女性誌もみます)。それから車やスポーツのいわゆる男雑誌。そのあと場所をぐるっと変えて、ハードカバーの時事についての本が並んでいる書棚へ。そこからゆっくり移動して新書の棚ではじっくりと時間をかける。特に、信頼している中公新書と講談社新書の新刊はできるだけ多く目次に目を通す。これでとりあえず一段落。ここまででだいたい30分くらいかかる。そのあとは、先に見た本や雑誌で気になったものをもう一度見に行って、「本棚にいれとくべき」と少しでも思ったものは迷わず買う。
(あまり皆さんご覧にならんと思うが、”Days”は優れた写真週刊誌です。Fridayもいいが、こちらも是非)

休日、時間がたっぷり(2時間~)あるときは、大型書店にいく。関学時代は西宮北口のジュンク堂。京都時代は四条河原町のジュンク堂。東京にきてからは丸の内の丸善。最近、渋谷の東急本店6Fに丸善&ジュンク堂ができて、俺の寮からは30分でいけるので重宝している。
この時は、画集・魚や恐竜の図鑑にまで探す本を広げる。告白すると、休日の巨大書店で恐竜図鑑を時間を忘れて眺めることは俺の大切な趣味である。
なにせ時間があるので、この時は平日の昼休みのようにバタバタとは動かない。広大なフロアを散歩しながら、いつもは見ようとしない本にできるだけ出会えるように努めている。

以上がざっくりとした本屋の使い方。

では、よい本をどうやって探すのか。
まず、週末の各新聞の書評はある程度注目するようにしている。特に、読売が俺の好みだ。朝日はたまにイデオロギッシュ過ぎるが、その筋の著作を探す場合にはよかろうと思う。
今にして思うが、よい本を薦めてくれる「読書仲間」を持つことは人生において非常に重要だと思う。
これだけ情報があふれた時代であっても、ニーチェが言うような「人格を変えてしまうような」本に出会うことは稀だ。まぁ、そんな本だらけだったら多重人格者になってしまうだろうが。
それと、「必読著者」という枠を俺は設定している。現在は、西部邁・佐伯啓思・岩井克人・佐藤優・水野和夫・トマス・フリードマンなど。さらに、「この単語がタイトルに含まれていたら買う」という単語も決めている。例えば、「ハイエク」・「エドマンド・バーク」・「山田方谷」・「戦略論」など。
松岡正剛氏の”千夜千冊”も参考にしている(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0001.html)。
もちろん、読了した本のなかで著者が頻繁に引用していた文献・参考文献に芋づる式に読書を広げていくのは常套手段である。

読書について難しいのは、幅を広げる必要があるのだが、他方で自分の専門分野(俺なら政治思想・安全保障と言いたい)を深めていく必要もあることだ。そのためには、読書ノートを作って、定期的に分野別の読書計画を策定して実行するほかないのだろうと思う。

読書は趣味ではない。趣味がゴルフである人は、嫌いになったらやめてしまってもよいが、読書はそういう類の活動ではない。
人間は生きている限り、量の大小はともかく、死ぬまで読書を続けなければならないと思っている。
「本なんて読みません」という傲慢人間とは会話が成立する気がしない。



航空会社の敵はGoogle?

たまに台湾に出張に行くことがあるので、羽田空港から台湾の松山空港(桃園空港よりはるかに台北市街に近い)に飛べるようになったのは嬉しい。
しかし、羽田の国際ターミナルが稼働したばかりだけれど、俺はやはりLCC(=Low Cost Carrier、格安航空会社と日本では呼ばれる)の日本乗り入れのほうに注目している。
アジア最大手のLCCであるAir-Asia(http://www.airasia.com/my/en/home.html)が、最近日本に乗り入れた。Kuaralunpurまで最安値ではなんと5000円で運んでくれるという。5000円では”こだま”で東京駅から小田原のちょっと向こうぐらいまでしか行けない...!これはフリース1000円の価格破壊という次元ではないだろう。ちなみに今調べると、Kuaralunpur-羽田の往復はJALで72,000円(当然エコノミークラス)。文字(数字?)通り、桁違いなのである。
米国国内線のシェアは、Jet Blue、SouththWest、AirTranの3社で約20%を占めるにまでなっている(http://www.asahi.com/business/topics/economy/TKY201007030368.html)。欧州では最大手のRyan Airが好調だ。航空業界の地殻変動が、ついに日本にもやってきた。

10,000円で東南アジアに飛んでいける。あるいは、LondonからParisに5,000円で飛んで行ける。
こういうことは、俺は当たり前のことだと思う。
では、それはいかなる意味で当たり前か。
成田からジャカルタやクアラルンプールをJALで往復して7万円だとか8万円という値段は、インターネットが万人に普及せず、東京とジャカルタの間で連絡をとろうとすれば高額の国際電話料金か郵便代を負担しないといけなかった時代の名残なのだ。世界に出かけること、日本を出ること、海外の人と連絡をとることが「非日常」だった時代の昔のことなのだ。
2010年の今日、普通に暮らしている庶民はジャカルタに暮らす友達と話すならば、普通Skypeを使うだろう。つまり無料だ。カメラを付ければ顔を見ながら会話できる。話す必要がなければ、Gmailを使ってメールを送るだろう。写真だろうが動画だろうがなんでも基本的には添付して送付できる。当然無料。

そういう時代に、その友達が暮らすジャカルタに飛んでいくのに、8万円をあの狭苦しいエコノミークラスのシートのために支払おうという者は、最早多くないのではないかと思う。現在においては、情報通信技術の飛躍的向上と低価格化(というよりも、”Free化”)によって、人々が自身の移動に支払ってもいいと考える金額は、決定的に下落しているのだと思う。つまり、「直接会って会話すること」の価値が、相対的に低減しているのだ。もちろん、彼らの懐事情のために毎回の渡航のために数万円を支出できぬという事情もある。
かつては高給取りのビジネスマンや富裕層だけのものであった海外渡航は、完全に「民主化」された。それを背景にあって招導したのは、限りなくゼロになった情報の蓄積と交換にかかる費用である。
LCCというのは、航空業界が我々の生活するインフラの改善と変異に対応したものだと理解してよいと思う。航空会社の敵は、航空会社のみならず、実はGoogleなのかもしれない。

独り言:

大好きなPremium Molt'sに”黒”が出た。早速買ってきて今ジャガリコのじゃがバターをつまみにちびちび飲んでいるが、これ、たいそう旨い。みんな是非飲んでみてちょうだい。
暖炉の前のソファに腰掛けてドストエフスキーを読みつつMacalanを飲んでいる...というのは何年後でしょうかね。いや、囲炉裏の側で作務衣姿で黒霧島か。

ロッテマリーンズの主将、西岡選手。
最近この選手の顔つきが全然違う。かつては茶色い髪の毛で「ちゃらーい」感じだったのだが、今の顔つきは完全にサムライ、大人の男の顔だ。ああいう顔つきに俺もなりたい。
彼だけではない。サッカー日本代表として南アフリカで活躍した長谷部選手、イタリア・セリエAに移籍した長友選手。いずれも俺より年は下だが、本当に立派な顔付だと思う。男は自分の顔に責任を持たねばならん。

不藤(先日の投稿参照)はニースの隣町の語学学校の庭に生っていたミカンを捥いで食うてたらそこの庭氏に叱られたそうな。いやはや、なんとも自由ですなぁ。普通、なかなか捥いで食べんよね。みかん。



TPP(環太平洋連携協定)と農業

TPP。トランス・パシフィック・パートナーシップ。環太平洋戦略的経済連携協定。
なんでもかんでも英語で略すから、東アジアだけでもAPECだのARFだのASEANだのごちゃごちゃになっている。またその一つか、、、と思いながら、日経新聞が毎日TPPについて「はよせんとバスに乗り遅れますよ!」と大慌ての体で書いているのを読んでいる。これは、チリなど四カ国が始めた自由貿易協定を基に、米・豪など計九カ国が協定の拡大・改定について交渉しているものだ。関税撤廃の例外を絞り、貿易自由化の度合いが高い協定を目指すもので、加・韓・中国も関心を示しており、日本も加われば文字通り環太平洋の巨大貿易圏が誕生する。

日本にとっての論点は、要するに「農業保護か、自由貿易による製造業支援か」ということになるのだろう。現状では、管首相は来月の横浜でのAPEC首脳会議で参加表明をするそうだが、政府にも民主党内にもTPPへの反対は非常に強くある。当然ながら、農業団体・農水省は必死になってTPPへの参加表明を阻止しようとしている。全国農業協同組合中央会(JA全中)の茂木会長は、10月28日の記者会見で、TPPへの参加によって、「農業が壊滅し、農業機械といった製造業、運送業など幅広い産業が影響を受け、地方の雇用が失われる」と述べた(http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2010102800737)。価格競争力のない日本の農産物は、関税の庇護を失えば、海外からの輸入農作物によって圧倒されてしまうという。

これに対して、日経新聞は、TPPへの参加が必要だという立場であり、打撃を受けることがほぼ確実な農業については、「関税による保護から財政による保護」への政策の切り替えで対応し、米などの国際競争力のあるものとそれ以外(たとえばこんにゃく芋や砂糖)を分けて、前者についてはこれまでの減反政策を廃止、後者については追加的財政支出は不可欠と主張している(http://www.nikkei.com/news/editorial/article/g=96958A96889DE3E5E0E0EAE4E5E2E0EBE3E2E0E2E3E28297EAE2E2E2;n=96948D819A938D96E38D8D8D8D8D)。

簡単な事実と対立している意見を羅列したが、俺はこの問題について回答を出せていない。
韓国との比較で考えてみよう。
日本と主要産業がほとんど同じであるお隣韓国は、既に米国・EU(注)という巨大市場とFTA(Free Trade Agreement)を締結済であり(批准はまだ)、東南アジアの多くの国とのFTAはすでに発効している。たとえば、2015年には現代自動車がドイツに輸出する自動車に関税はかからなくなるが、ニッサンの自動車はEUが域外から輸入される自動車に課す10%の関税がかかってくる。韓国自動車産業はまもなく日本よりも100m競争で10mも前からスタートすることになるのだ。ただでさえ労働力が日本より安いのに。韓国のGDPに占める輸出の割合は実に45%。日本は、日経新聞の円高恐怖症のせいでひどく輸出依存度が高いように思われているように思うが、実際は韓国30ポイントも低い15%。韓国が、資源国(韓国は日本と同じ程度の資源輸入国)や新興国(韓国は海外市場がどうしても必要)とのFTAを戦略的に結ぼうとする理由はよく分かる。そもそも、少女時代などのアイドルグループがわざわざ日本語をおぼえて日本でデビューするのは、国内市場が製造業だろうが芸能だろうが小さすぎるからなのだ。それと製造業についても構図は同じなのだ。

では、日本はどうするべきなのだろうか。
農業の競争力強化。生産規模の拡大。海外への生産物の輸出。ぐらいだろうか。
アメリカの27分の1の耕地に、500分の1の牧草地に、アメリカの1.8倍の農家がひしめいている。そしてのその農家は後継ぎがおらずほとんどが60歳以上。
戦後日本=自民党一党支配=地方の土地持ちの支持基盤。
なにやら問題が見え隠れするよなしないような。。。

引き続き考えます。

「農業と製造業」、あるいは「財政と農業」についてご意見をお持ちの方、あるいは読むべき本はこれ!というのがあれば、ぜひ教えてください。
よろしく頼みます。
キーワード:「農業生産性」「食糧安全保障」「個別所得補償制度」「地方の景観維持」「製造拠点の海外移転」「円高」などなど

(注):EU-韓国のFTAでは、米が除外されている。ただし、EUでの米の生産はスペイン・イタリアで細々と行われているだけで、EUにとってはさしたる問題ではなかっただろう。さすがにというべきか、キムチの国はやはりトウガラシもFTAの対照から外している!したたかなるかな、大韓民国。これをして我は「キムチ安全保障」と呼びたい。キムチのない韓国は、廻しをつけない相撲みたいなもんですね。

独り言:

ところで、管首相の口から出てくる、日中間の「戦略的互恵関係」という言葉、恐ろしいほど内容空疎だ。さすがに我が国の首相なので、「阿呆の空念仏だ」と言ってすますわけにはいかん。
人民解放軍海兵隊が尖閣に上陸してきても、「戦略的互恵関係の維持が大切だという点で我々は一致している」とでも言うつもりか?国内政治だろうが国際政治だろうが、ゼロサムの局面があるから政治があるのであって、十分に大気中に存在する酸素をめぐっては「政治」は発生しないし、発生する必要がないのだ。
”国際政治とは、ほかのすべての政治と同じく、希少資源の権威的配分である”(ハンス・モーゲンソー)
日本人よ、戦争はしなくていい(しないといけない)が、戦争をする覚悟を持とう。じゃないとヤクザに脅されて終わりだ。世界におまわりさんはいない。おまわりさんがいないからイラクの10万余(多すぎやしまいか?阪神大震災でさえ犠牲者は1万にはるか及ばぬ)の民は米軍の「誤爆」で殺されたのだ!!!

米国中間選挙がまもなく。茶会党がブイブイ言わせとる。
だが、建国の理念が、「権力への批判=個人主義(銃保持の憲法による保障⇒革命権?)」である国って、そもそもどうなんだろうか???そもそも国家というのは”神話”の上に成立するものだと思う俺からすると、今回改めてあの国の異様さを感じざるをえない。ホッブズが「リヴァイアサン」で書いた怪獣の姿が、これまでのアメリカという国の暴力専横ぶりに重なって見えるのは俺だけか?
まぁ、「俺の税金を博打やって大損こきやがった弩阿呆バンカー野郎に渡してくれるでねぇ!」というサウスダコタ辺りの農家のおっちゃんの叫びは、分からんでもないのだが。(銀行・証券業の方へ:銀行・証券業=博打だと俺は考えてません。一部企業においては、そういう要素もあったのだろうという程度に思っている)

ブログ開始より約5か月。投稿は約100。
これぐらいのペースを維持していこうと思う。