2011年11月7日月曜日

合理性の陥穽

自分の将来について考えるときに、ロードマップを描いて段階的に課題をクリアしていくことはよいことだが、ここには一つの問題があるように思う。

現在から将来を見通す自分は、当然ながら現在の自分だ。20年後のあるべき自分というのは、10年後の自分がさらに10年を生きた後の自分なのだが、この10年後の自分がどうあるかついて判断するための基準は、いまこの瞬間の自分だ。

だから、この目標設定は、それまでの人生での自分の生き方や実績を考慮した上で作られる、合理的な目標になりがちだ。だからこそ、現在の自分からみて実現可能(と思われる、合理的な)小さな課題を順に積み上げて行く。

中卒の人が一部上場の会社をつくるというような"夢"は、この思考からはどうしでも辿り着けない。

将来の俺は今の自分からは想像もできないほど大きな人間になっているだろうし(というよりも、今の俺の人間が小さ過ぎる)、またそうでなければ俺は俺自身に退屈してしまうだろう。誰よりも永く付き合うのは俺自身なのだから、俺は自分をわくわくさせるような自分自身であらねばならん。そこへ至る道をいまの俺は想像できないが、もしできるならば俺はすでにそんな人間になっているはずだ。だから、諦める必要は全然ない。

つまり、可能性は上にも下にも無限だ。 俺自身が勝手に縛り付けない限りにおいて。

中庸の暮らしが保証されていない代わりに、俺は何物にでもなれる。

もうすぐ人生の半分の30歳だがこの確信は揺るがない。

中卒だった本田宗一郎は、ホンダがただの部品工場だったころから、朝礼でみかん箱に立って「世界のホンダになる!」と叫び続けたそうな。そして、この非合理的な目標を達成するために合理を超越した努力をひたすら続けた。その結果が、いまのホンダなのだ。

必死即生也。