2010年12月31日金曜日

ある小さな年の終わりに

”初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった”

新約聖書、ヨハネによる福音書第一章第一節の言葉である。

俺はほんのわずかに陽明学をかじっている。であるから、「知行合一」という言葉の重さを重々認識している。尊敬する山田方谷先生も、河井継乃介も、もちろん佐藤一斉を敬愛していた大西郷も、皆行動の人であった。
こう言明した上で、それでも俺は”言葉は神”であると思う。
我々は、言葉によって世界を認識し、理解し、解釈し、説明し、それにたまに満足し、不平を言い、毎日の平凡な暮らしを生きている。言葉によって他者とつながり、他者を傷つけ、他者へ愛を伝える。
言葉以上のものが我々の精神においてありうること、そのことを俺は否定はしない。親の我が子への愛は、言葉を遥かに超越したものであるだろう。
だが、そうであっても、世代を超えて俺と遠い将来をつなぐ唯一のものは、言葉以外にはないのだ。
この意味で、俺の言葉はーーーもちろん神ではないとしてもーーー俺の全人格である。この一年間、ろくに仕事もせずに、土日にBMWで箱根の温泉に浸かることを目的として生きたこの愚劣な男の全人格を表象するものは言葉なのだ。俺は言葉以外に賭けるものを持たない。そうであれば、俺は言葉以外によって俺を表現することを得ない。
だが、これは俺にとって制約であろうはずがない。
言葉の可能性は無限だ。言葉は、どこまでも通じる。いつまでも記録され、記憶されうる。魂の言葉は、現在と将来を生きる他者へ大きな影響を与える可能性を断固として握り続けている。

このブログを開設してから7ヶ月が経った。
俺は、ここで、様々なことについてそれらしく論じたり説明したりすることを目的としたのではなかった。経済や政治について論じることは、俺などよりはるかに上手くそれをなす者が社会にはいくらでもいて、そういう情報や意見というものは雑誌やテレビ、あるいは彼らのブログに氾濫している。
俺にしかできないこと、俺のブログでのみ皆が見つけられるもの。それは、なんだろうか。いや、そんなものはあり得るのか。
ないのかもしれない。あるとかないとか、そんなことは俺が決められる事柄ではない。
だが、”あるかもしれない”。何かを俺は皆に伝えられる”かもしれない”。俺の馬鹿げた言の葉の数々の一文に、一行に、何かを感じ取ってくれる人がいる”かもしれない”。
俺の精神は、この可能性を論理的に完全に否定できないという気概の上にかろうじて成立している、ひ弱で小さな石ころなのだ。

これまでの131個の投稿の全てを読んでくれた人がいると思う。
俺は皆が俺の言葉に共感してくれることを期待してはいない。
全ての人に無視される覚悟を持って、それでも見えない誰かへ宛てて、俺は書き続けるのだ。
これは絶対に自己満足ではない。もちろんそんなものではない。俺は全然満足していないのだから。
俺が満足する時俺は倉敷の墓の下に眠っているのだから。

”無邪気さがあるのはいかなる処にであるか?-すなわち、生産への意志の存する処にである。自己を超えて創造せんと欲する者、此者こそ至純の意志を有する。美があるのはいかなる処にであるか?-すなわち、われが一切の意志を挙げて意欲せざるべからざる処にである。”

ニーチェ、「ツゥラトゥストラかく語りき、上巻」新潮社、P.289
  

2010年12月26日日曜日

弁当

なぜか俺がいま勤めている会社では(少なくとも俺の部では)、弁当を食べている男は変人扱いされる。
ある時など、上司に、「お前なぁ、昼ごはんは皆で一緒に(5人とか6人とかで)食べるもんだろう」と言われ、愕然としたことがある。女子高生が集団でトイレに通うの眺めながら、「あんなに大勢でいってもトイレは人数分ないだろうに。。。」とおかしな心配をしたことがあるのだが、それと同じなのだ。
昼ごはんを一人で食べられない人間は、存外に多い。そういう人間は、40歳になってもちょっとしたホテルの最上階のBarで酒を一人でちびちび飲むということが絶対にできない。

一人暮らしの寮住まいだから、自炊しようにもなかなか難しく、いつも一人で散歩したり本屋に行ったり日向ぼっこをしながら昼休みを過ごしている。たまに同期と話をするために一緒に食事にも行くけどね。
そういうわけでいつも外食だから、たまに、弁当が懐かしくなりもする。

今日、渋谷のジュンク堂をフラフラしていると、「お弁当の時間」という本を見つけた(阿部丁-文、阿部直美-写真、木葉社、2010年)。
農家の方や、わら葺き職人や、航空自衛隊のP3Cの整備士など、ありとあらゆる職業の人たちの弁当の写真とその人の全身写真にコメントが添えられたもので、思わず眺め入ってしまった。

俺は弁当が大好きだった。いや、今でも好きなのだが。
幼稚園の時から、母上は、いつもそれはたいそう丁寧に弁当を作ってくれた。
(ちなみに俺が通った幼稚園の名前は、”御国幼稚園”。別に右翼幼稚園ではないぞ)
幼稚園教諭の母上の弁当は、幼稚園児の俺が弁当箱を開けた時に嬉しくなるような弁当ばかりだった。
見るも鮮やかに赤色や緑の食材をふんだんに使った俺の弁当は、ほかの園児の弁当よりはるかに美味しそうで、当時の俺からするとずっと洒落ていて、幼稚園児ながらに自意識過剰幼児だった俺の自尊心を満たしてあまりあるものだった。(思えば当時から今の俺ってなにが変わったのだろうか?)

高校時代にトレーニングを激しく行うようになってからは、1日5食を日課としていた。
昼食は学食で定食を食べるから、2時間目が終わってから10分間の休みの間にドドドドドっと大きな弁当を胃に詰め込まないといけなかった。
毎朝6時19分の山陽本線上り西阿知駅発の電車に乗る俺に、いつも弁当を持たせてくれた母上は、「眠い眠いネズミ...」とかなんとか言いながら、毎朝5時に起きていた。月曜日から金曜日までフルに働いているのにね。

最近は、幼稚園にコンビニの弁当を持ってきたり、ひどいのに至っては一年に一回の遠足にコンビニのおむすびを持たされてきたりする幼児までいるらしい(母情報だから間違いなし)。そんな話を聞いて、俺はやりきれない気持ちになる。こんな悲しいことってあるか?
戦後直後は、弁当を持ってくることさえできずに、昼休みになると小学校の教室からどこかへ消えてしまう児童もいたそうな。でも、コンビニオムスビは、それとは次元を異にしていると思う。上手く説明できんのだが。
そりゃ、最近は母親も父親も仕事をしているから、子のために親が毎日弁当をこしらえるというのがなかなか大変だというのは分かる。
でも、自分の子どもが遠足に行く時に、コンビニのおむすびを渡すなんて、おかしい。
俺がここで「そんなのおかしい」ということになんの意味があるのか、そんなことは知らん。
だけど、この豊かな日本社会は、人間がその人間らしさをもっとも可愛らしい仕方で表現しうる、母親の子どもへの思いやりさえ、近代的な効率性と利便性によって汚染しまったようだ。

俺は、結婚しようものなら控えめに言っても断固たる亭主関白男になりそうな気がしているのだが、それを断った上で、俺は息子や娘のために一生懸命おむすびを作ってくれる素敵な女性と結婚して暮らしたいと思う。もっと言えば俺が深夜に読書や執筆をしていたら塩だけのおむすびに野沢菜の山葵漬けを添えて持ってきてくれるような女性がいいなぁ。
そんな人いないて?
はっはー、「あきらめたらそこで試合終了だよ」。ね、安西先生。

最近、けっこう恥ずかしい話をかいとると思う。
年明けからはね、もうちょっと硬派にいこうと思いますよ。ええ。


2010年12月23日木曜日

映画、時代劇、そして戦争(と独り言)

平和は大切だ。戦争は最悪だ。

巷にはそういう言説が溢れているのに、映画も時代劇も戦争や戦闘を描いたものばかりだ。
今ならNHKが日露戦争を描いた大河ドラマ「坂の上の雲」を放送しているし、正月にもなにかしら戦国武将の大河ドラマが放送されるのだろう(大河ってどういう意味?)。時代劇だって血は飛びはしないが、基本的にはスケサンカクサンが敵をばったばったと打ち倒す。

素朴な疑問がわいてくるではないか。

「俺のことを戦争好きとか軍隊好きとか右翼とか言う人が多いけど、実はみーんな戦争が大好きなんでしょう?隠してるだけなんでしょう?」

という疑問が。

まぁそれはそうだ。
仮に映画・小説・漫画・詩・音楽その他一切のものから戦争や戦闘を排除してみればいい。
我々の文明そのものが内から崩壊していくに違いない。

実は上の俺の問いはただ挑発的に言っているだけで、皆戦争好きでもなんでもない。
ただ、「守るべきもののためにすべてを犠牲にすることの尊さ」を、誰もが知っているのだと思う。
つまり、戦争も戦闘も原因ではなくて結果であることを皆知っている。
何かの尊い価値をつかみ取ること、それを守ること、その命がけの努力の一部に、戦争や戦闘があるのだ。
そして、「尊い価値」というものを、最もあからさまな形で表すのが戦争だ。
だから、表現者は、常に戦争を表現しようとする誘惑に駆られるのだろうし、思想家は戦争について考えることをやめられはしない。

と、映画「ロビン・フッド」を観て思った。
ちなみにこの映画、ハゲは皆悪役。ちょっと気分悪くなったねぇ。

独り言:

2010年の中国での新車販売台数は1800台に達するらしい。2000年に記録された米国の1740台を抜いて、一国としての販売台数では史上最高。世界全体の約四分の一を占める。当然日本は縮小している。2011年の日本の新車販売台数は、446万台程度。今年から1割も減少する見込み。

米国での投入から四年、トヨタのFJクルーザーが日本に導入された。商品として非常に魅力的だ。
スーツを着てこれに乗ったら冗談にしかならないが、スノーボードやスキーを楽しむ遊び人達には最高の道具でありおもちゃになってくれると思う。
トヨタは、「トヨタ=おじさん(レクサス=もっとおじさん)」のイメージを払拭しようと必死のようで、このかわいらしいデザインオリエンテッドな四輪駆動車に期待するところは大変大きいらしい。
だが、いかんせん大きすぎる。4LのV6を積んで、価格が320万円くらいから。
日本の若者は多くが貧乏で(だって年功序列のシステムが残っているから20代は皆金なんてない)、皆車より電車のほうが便利という時代だ。かつ未婚率はかつてないほど高いために、誰も大きな車なぞ求めていない。地方で売れる車の圧倒的多数が軽四なのだ。
だから、さほどの起爆剤にはならないのだろうと思う。都会などではクリエイターだとかデザイナーだとかのデザインに関心のある人たちが御洒落のために乗るだろう。地方でも若者は買うと思うが、残念ながら新車ではなかなか売れないはずだ。
これをもう少し小型にして(たとえばクルーガーとかRAV4とか)のサイズにして、2.0-2.5Lくらいのエンジンを積んでこのデザインならば、よく売れそうな気がするんだけどなぁ。

日産のリーフが発売された。リチウムイオン電池を大量に搭載した、日本メーカー初(海外メーカーの事しりません。。。)の市販型EVである。8時間のフル充電で、約200kmの走行が可能という。価格はだいたい300万円。すでに日本で今年度の販売目標の6000台、米国でも2万台の予約がそれぞれ入っているそうな。
航続距離の短さと、充電インフラの未整備という逆境にあって、EV覇権を奪いに出たゴーン日産に市場の神は微笑むか。
今ほど大手自動車会社経営者に英断が求められている時代はないだろう。今一番面白いのは自動車会社である。これまでの成功体験を覆して新しい自動車を、インフラもないなかで造って売っていかないといけないのだから。それはつまり、次世代が求める新しい市場を造り出すということだ。

羽田空港近くの城南島海浜公園にたまに行く。
飛行機を観るためだ。それと思索にふけるために。
羽田から上がってくるB747が自分のほうに向かって、どでかい図体に付けた四発のエンジンを最大出力にしてぐんぐん上昇し、市街地上空をさけて海上に針路をとり、やがて雲の彼方に消え去っていく。「シ―スパロー(西側諸国で使用されている個艦防御用の対空ミサイル)ならあそこは届くんじゃろうか?」などと考えているのが楽しい。自衛隊(軍隊一般)ってすごいよな。20km先(もっと?)を飛ぶ航空機を確実に撃墜できるんだから。俺はそんなことできません。
そういえば、宝塚の四年間も、宝塚から西宮を流れる武庫川のほとりで伊丹から上がってくる飛行機を何時間も見上げていた。
民間航空機は、のんびりしていて五月蠅くないから、じーっと眺めて思索するには最適だ。
これが戦闘機となると、爆音とその格好よさに引き込まれてしまってなにも考えられなくなるから。あと嫉妬と。

日本ではEVやハイブリッドが次世代の自動車!のようによく売れているが、ガソリンエンジンは死んでいない。例えば、アイドルストップ付のBMW 320iのMTモデルは、モード燃費がなんと18.4km、ATモデルでも16kmに迫る。俺が前乗っていたE46 モデル(AT)は、せいぜい9.8kmというところだったから、、1.5倍近い燃費効率の改善がたった7-8年の間に達成されたことになる。VWはもっとすごい。必殺の「小型エンジン&ターボ&直噴」が奏功して中国を中心に売り上げはロケットのように伸びている。1.4Lの直噴ターボで170PSをたたき出しながら高速道路で20km/l以上走るというのだから、そりゃ売れるはずだ。
マツダの次世代エンジン”スカイアクティブ”に期待する!マツダのためだけではなくて、内燃機関を愛する車好きにとっては、自動車=EVになってしまうことはちょっと悲しいことなのだ。だから、BMWとマツダよ、がんばってください。

いよいよインフレの時代に入りつつあるような気がする。
牛丼屋の価格競争をみて「デフレだなぁ」と言っていたら、そのうち身ぐるみ奪われる羽目になるだろう。
金の価格は11月に1400ドルを超えた。もちろん史上最高値だ。
通貨に対する信用不安が、強まっていることの証拠である。

               (http://goldprice.org/gold-price-history.htmlより)

アメリカがこれだけ金融緩和&量的緩和を行ってドルをすりまくっているのに、そうならないと考えるほうがおかしい。現在のコモディティ価格の軒並みの上昇も、日経新聞風に言えば、「力強い中国を中心とした新興国の経済成長にけん引され」ていることになるのだろう。しかし、その中国やその他の経済が世界同時金融緩和・量的緩和によって生まれたマネーが加熱させているだけのバブル状態にあるとしたらどうだろうか?
いつの時代も、経済が成長している限りはそれを礼賛する言葉だけが飛びまわる。それが破綻したとたんに、「根拠なき熱狂」にされてしまう。
「中国の経済成長がいつまでも続く」という暗黙の大前提の上に、ぎりぎりの状態でなんとか小康を保っている世界経済は、中国の”バブル”が崩壊したらどういう状態になるのだろうか。
それは、リーマンショックどころのものではないと思うのだが。
実物資産がものをいう時代だ。
みんな、車を買いましょう(嘘です)。
みんな、ウラン鉱山を買いましょう(本当です)。
最近の米国10年物国債の金利上昇については、①財政悪化(米国の財政赤字はすでに13兆8000億ドル)によるリスクプレミアムの上昇が要因とするものと、②米国経済に対して投資家が抱いていた過度な悲観主義の修正による、実体経済に見合った金利水準への復帰という異なる見方があるようだ。
不勉強で、分からん。勉強しよう。


「ある意味おもしろい」という人がいたら、かならずこう尋ねよう。
「どういう意味でおもしろいのですか」と。
それに瞬時に答えられないものは、”人物”ではないと判断してよい。


自分が有名であることをいいことに、さして面白くもない自分の日常生活を切り抜いて「あれ食べた~あそこ行った~」とブログを書いている一群の阿呆芸能人とそれを読む大衆がいる。

2010年12月19日日曜日

女性の色気の本質

胸だ!お尻だ!などという安居酒屋の阿呆のおしゃべりをしようというのではないから御心配なく。

俺は、大きな胸や大きなお尻の女性が最も色っぽいのではないと思う。最も、と注意深く言ったのは、「それが全然色っぽくない」というほどに俺は不正直な男ではないからだ。それは確かに男にとっては、女性”性”としての魅力であろう。

だが、肉体的な色気というものは、残念ながら、没個性的なのだ。なぜなら、粗っぽく言えば、それは”モノ”だからだ。
例えばある女性の胸が大きくて、唇がぽってりしているからセクシーだねというのは、ある男がフェラーリに乗っているからセクシーだねというぐらい、実は論理的におかしな話だと思う。
フェラーリがセクシーだということは言えるだろうし、その持ち主がたまたまセクシーだということもあり得るのだが、「フェラーリに乗っている=セクシーである」という方程式が成立するはずがない。
この場合、セクシーなのは、彼女の胸や唇であって、”彼女自身ではない”。
つまり、その胸や唇は、誰のものであってもいいわけだ。別に”その彼女”自身のものであることが重要なわけでは全くない。付け変えることができるわけで(だから豊胸手術なるものがあるわけだ)、彼女の人格とは無関係なのだ。
そうであるから、俺は肉体的な色気というのは没個性的だと思う。
没個性的なものに惚れるのは、非常に難しい。ほとんど不可能だ。だってありふれているのだから。我々は、砂浜の一粒の砂に惚れることができない。
どれだけ色っぽく見える女性も、肉体の表現においては、あくまでその一般性を打破することができないということだ。しかも、恐ろしいことに、それは年を重ねるごとに”モノ”としての魅力を失う運命にある。

本当に男を惚れされる女がいるとしたら、それは肉体的で一般的な彼女の特徴と無関係な、彼女の人格に色気を漂わせる女性だろうと思う。
こう言うと、「なんだ、優しくて気立てのいい女の子とでもいうのだろう」と言われそうだがそうではない。
彼女は彼女自身であり、ほかの誰でもないということ、そのことに男は惚れるのだ。どうやっても彼女を他と同一視できない特別ななにか。彼女からそれをひっぺがして他人に付け替えることができないもの、そんなことをしたら彼女という人格が完全に消滅してしまうというほどの、精神的存在としての完全性、独立性。それに由来する純粋性。純粋なものは、一滴の異物にさえ汚れる。男が守るべきは、この女性の純粋性以外にない。
逆に言えば、これ以外に男が女に惚れることなぞ出来はしない。男にとって最も大切なことは恋愛ではないのだから。

ここ数十年の日本(というより世界というべきか)の女性の洋服が、どんどん肌の露出を大きくしてきたことの背景には、人格の没個性化があるように思えてならない。
つまり、個性個性!という教育が、却って皆がフランス製のバッグを抱えて似たような洋服を着ているという極めて没個性的な人格なき人格の大群(畜群と言ってよかろう)を産み出した。
人格において色っぽさも艶っぽさも持たぬ彼女らは、男を引き付けようとするにはもはやミニスカートを穿いて胸を強調した洋服を着るしかないではないか。そしてその「モノ」への注目を彼女という「人格」への注目と誤解することなしには、おぼろげな個人はアイデンティティを持ち得ないのだ。
男は男で、女性以上に畜生道をまっしぐらに地獄へ向かって走る輩が多いのだがね。
悲しいお話だ。



今年最後のイカリング〜

2010年12月18日土曜日

頑張れば救われる、だと?

左よりのメディアに登場する左がかった知識人や、それに知ったかぶってうなづくコメンテーターやキャスターや芸能人が、「真面目に働いているのにこんな暮らし(たとえば、”派遣”のいつ職を失うかもしれぬ立場で、夫の年収250万円と妻のパート代で子ども二人を養うという暮らし)しかできないのはどこかがおかしい」と言うのをたまに聞くことがある。特に格差社会という言葉が流布し、「年越し派遣村」が日比谷公園に出来た時などはよく耳目にした。

がんばっていれば救われるとか、がんばっていれば必ず成果が出るなどというのは、あまりに幼稚な欺瞞だ。がんばったら成果が出ないと我慢できないような子どもは、何事を達成することはないだろう。

俺はそのことを、野球に教えられた。
野球というのは、ーほかにも似たような競技はあるだろうがー残酷なもので、練習すればするほど下手になるということが十分にある。
見る人が小学生のキャッチボールを30秒見れば、その子が中学校で野球をやめる子なのか、甲子園に出る高校のレギュラーになれる子なのか、六大学でスターになれる子なのか、ある程度は分かる。つまり、野球は先天的なものが99%を占めるスポーツであり、そこにおいては事後的な努力が実際のパフォーマンスに個人が期待するほど現れにくいという意味で残酷であり、だからこそ大人なスポーツであると思う。もしかしたらこれはスポーツ全般に言えることかもしれないが、野球においてはこのことは甚だしい。
たとえば漫画スラムダンクに登場する、海南高校の宮益という選手がいる。彼は、バスケットの強豪高校の部員でありながら、高校でバスケを始め、身体は小さく、スピードもない、つまり取り柄はない。その彼は、遠めからのシュートにすべてをかけて練習し、やがて海南のベンチのなかで神に次ぐシューターの地位を得るまでになった。
残念ながら、甲子園で勝とうというレベルの野球においては、こんな美談はあり得ない。脚がはやいだけで守れなくて内野手にはなれないし、肩が強いだけで打てなくては外野のポジションはとれない。
小学校一年生の時から12年間ほとんど野球漬けの暮らしをした俺は、このことを皮膚感覚として知悉するようになったのだと思う。
だから、「がんばっていれば必ず成果が出る」などという儚い幻想からは常に自由だった。がんばっているのに打てない打者、ストライクが入らない投手(俺だ俺)、そういう苦しむ姿をいやというほど間近で見てきた。
俺は自分なりに必死の思いで野球に取り組んだのだが、それは、「がんばれば必ず成果が出る」と俺が思ったからではなくて、「成果がでない可能性もある、下手をすればもっと球が遅くなる可能性もある。だけど、これに取り組まない限り俺が城東の1番を背負って甲子園で勝つことはできない」と思ったから、やったまでのことだ。

実際の経済社会においては、がんばれば救われるなどということはあり得ない。がんばらなくても、大金を稼ぐものはたまにいるし、数十年がんばってもなにも成し遂げられない者もいるだろう。
恐らく、メディアが言う「がんばれば救われる」「がんばっている人は救われるべきだ」というのは、実際とは反対の言説を言いふらして”失敗者”を慰めているだけなのだ。慰めているだけで、彼らに具体的な努力を行うことの必要性を説いていないという意味で、非常に悪質なのだ。権力を批判しているようでありながら、格差を固定化しようとしているようにさえ見える。
だってそうだろう。
自分の息子が、がんばっているが成果がでない、結婚しようにも妻に食べさせる稼ぎもないとなれば、俺が親であれば「お前のがんばり方はおかしい」というだろう。
宮益は、ひ弱な身体で牧や仙道のような選手になろうと”努力”せずに、自分にとって可能性のあるたった一点にかけてそこを追及したのだ。これこそが、真の「頑張る」ということで、闇雲にマスターベーション的に「がんばっています」という者が「救われるべきだ」などというのは自然界の競争原理を歪めるものだ。

これまでの日本(過去60年の日本)では、たぶん皆「がんばれば救われた」のだ。
巨大な自動車、電機などの裾野の広い産業が膨大な雇用を生みだし、フォーディズムよろしく国内需要の増大はそのまま労働者の賃金上昇につながった。
今、すでにその時代は終わった。一人一人が、自分が生き残るための方策を自分自身で考えて、社会にでるまで十分な準備をしておかなければ、仕事はあっという間に中国やベトナムに飛んで行ってしまうだろう。資本は一瞬で国境を超える時代なのだから。自動車がインドネシアやタイで造られる時代なのだから。厳しい時代のように見えるが、それは視点が10-20年程度の枠しかないためであって、人類の数万年の歴史をみれば、会社に就職した時点で定年までの賃金とその後の年金が保証されているー真面目に「がんばっていれば」ーというのが異常なほど幸運な社会であったとみるべきなのだ。
そんな時代なのに、小学校から大学まで、日本の子どもたちは競争から隔離され、なんとなく親と同じような暮らしができるのだろうという有りもしない夢想のなかで親の資産を食いつぶしながら大切な十代、二十代前半を過ごす。そして、社会に出てから、定昇しない賃金や残業カットに”何かが違う”と悟る。その時にはもう遅いのだ。世界の敵を相手に彼ら(俺ら)はあまりに幼稚でひ弱だ。

だが、こう言った後で、それでも俺はこう言いたいと思う。
「がんばれば救われる」というのは大嘘であるけれども、「がんばらなくては救われない」ということは未だ多くの場合真実であるということを。
そしてこう付け加えたい。
成果が出るとか出ないとかいうことは、全然本質的な事柄ではなくて、常に俺や貴様の”幸福”は、絶望を予見しながら目標に指向される死にもの狂いの努力のなかに、気まぐれに顔を半分覗かせるぐらいのものだということを。

もっとも、がんばればがんばるほどに成果をだしてしまう秀才という一群が世には存在するのだろうがね。


独り言:


・最近陰謀論がはやっているようだ。副島隆彦の本がやたらと平積みされているし、最近では雑誌でも「世界を支配する誰それ」というものに、RothchildやらGoldmansachsの名前が出ている。不穏だ。

・文芸春秋の2011年1月号の「弔辞」が面白い。特に佐藤優が米原万里に読んだ弔辞は最高だ。

・本気で遊べない男はつまらん。仕事に本気になれない男と同じくらいつまらん。
俺が今勤めている会社では、「遊ぶ」というと、「合コンにいって女の子とイチャつく」ことや「友人と毎夜飲み歩く」ことが「遊ぶ」ことであると考えれるほどに男どもの想像力が劣化していて、これではこの会社に未来はないだろう。男の遊びは、まぁいろいろあるのだろうが、どこかしら孤独を必要とするものでなければだめだと思う。そうでなければ、遊びという大切な時間のなかで己を研磨することができないからだ。
集団のなかでニコニコしている自分に対する警戒心ほど大切なものはないと心から思う。

・よい温泉につかっていると、「あぁ、母親のお腹のなかはこんな感じだったのかな」と思うことがある。暖かくて、優しくて、心が落ち着く。地球に数万年も抱かれ続けた温泉が、地球のパワーで地表に押し上げられたものならば、確かにそう感じさせられても不思議ではない。人間の体は、地球に存在する物質でしか造られていないのだから。

・「パワースポット特集」が組まれた雑誌を読んで、実際にそこまでいって「パワーをもらえました」と言える人がいるから、怪しい宗教が人間の歴史と同じ長さの歴史を持つ羽目になる。まぁ、自分で自分のやることを決められない人間は、何時も暇で退屈しているのだ。暇と退屈は、無教養人と奴隷の特権である。

・右の翼で国思い左の翼で民思う両の翼で空を翔け行ってみせましょ地獄まで

・松井冬子という有名な日本画家がいる。その人の画集の帯の言葉。

「意識の孤独を解き放ち、客体化するための手段としての可能性を美術家は握っている。美術家は、多くの主観的孤独にある視覚言語を見て、感じ、また、新たに造り出す。(中略) 自動的に他者の排除を行う運命にあるという点に於いて、美術家はナルシシストでなければならない。(中略) ナルシシズムは美術家の武器である。」
(松井冬子画集 一、河出書房出版社)


2010年12月16日木曜日

今年の5冊

第一位:ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」新潮文庫
この本と「自省録」が俺のこれからの“バイブル”になっていくだろう。

”何から自由である、というのか?ツァラトゥストラはかかることには、何の関心も寄せぬ!ただ、なんじの瞳に明るく告げて欲しい、何のために自由であるか、を。”
”なんじら、今日にして孤独なる者よ、隔絶せる者よ。いつの日か、なんじらは一つの集団となるべきだ。相互いに選びいずるなんじらの中より、選ばれたる民族が発生すべきだ。かくして、この民族の中より、超人が発生すべきだ。”


第二位:佐々木中「切りとれ、あの祈る手を」河出書房出版社
「夜戦と永遠」の著者の少し簡単なほう。しかし内容は目からメダカ。
この下の文章に勇気をもらってしまう俺は阿呆だろうか。いやいやいや、超弩級の阿呆を目指しますよ。

”・・・これが、ニーチェ自身がいう「未来の文献学」ということです。彼はこういう意味のことを言っている。いつかこの世界に変革をもたらす人間がやってくるだろう。その人間にも迷いの夜があろう。その夜に、ふと開いた本の一行の微かな助けによって、変革が可能になるかもしれない。その一夜の、その一冊の、その一行で、革命が可能になるかもしれない。ならば、われわれがやっていることは無意味ではないのだ。絶対に無意味ではない。その極小の、しかしゼロにはならない可能性に賭け続けること。それがわれわれ文学者の誇りであり、戦いである、と。” (P.206)

俺は、99%の人に”受け入れられる”言葉ではなく、1%の世界を変えるであろう人間の魂を揺さぶる言葉を吐きたいと願う。


第三位:マーク・ローランヅ「哲学者と狼」白水社
今年は寅年ではなく狼年である。疑いようがない。
自身がともに暮らしたオオカミの話をするなかで、ヴィトゲンシュタインだのジョン・ロールズだのホッブズだのニーチェだのの哲学者の思想を語るこの男は、真の思想家の凄まじさを俺に痛感させてくれた。思想や哲学というものは、近代西欧に啓蒙主義が誕生して以来、「人間はいかに他の動物と異なるか?」を論じてきた、あるいは、それを自明の前提としてきた。「人間は理性的だ、特別なのだ!あぁ嬉しいな」という風に。
それを、この男ときたら、「そんなものは本質的な違いであるはずがない」と一蹴してしまうのだ。これこそが、思想と呼ぶに値するものだ。「我々はみな”幸福ジャンキー”だ」というくだりは本当に爽快である。だって、幸福が人生の目標であるならば、我々の最終地点である死によって、我々の目標への未達は既に決定されているのだから。そんなわけはないだろう。「人生で一番大切なものは目標とか目的だとすると、その目的が達成されたとたんに人生にはもはや意味がなくなるのだ」。

”希望は人間存在の中古車販売員だ。とても親切で、とても納得がいく。それでも、彼を信頼してまかせることはできない。人生で一番大切なのは、希望が失われた後に残る自分である。最終的には、時間がわたしたちからすべてを奪ってしまうだろう。才能、勤勉さ、幸運によって得たあらゆるものは、奪われてしまうだろう。時間はわたしたちの力、欲望、目標、計画、未来、幸福、そして希望すらも奪う。わたしたちがもつことのできるものすべて、所有できるあらゆるものを時間はわたしたちから奪うだろう。けれども、時間が決してわたしたちから奪えないもの、それは、最高の瞬間にあったときの自分なのである。”(P.216)
”幸福は、オオカミにとっては、同じことの永劫回帰(ニーチェさん、出番ですよ!)に見出される。時間が環なら、「二度とない」はない(永劫に回帰し続ける)。したがって、オオカミの存在は、生を喪失のプロセスとみる幻想をめぐって打ち立てられているわけではない。”(P.236)
”真の幸福は、いつも同じであるもの、変わらないもの、永久不変であるものにのみ存在する”(P.237)


第四位:高山岩男「世界史の哲学」こぶし書房
近代西欧の似非の「世界史」に対して、真の世界史的世界を導くものは我が国日本であると喝破したこの高山岩男。世界規模の思想家であると思う。もっと読まれてほしい。
実際のところは、所詮日本人が生きている世界を支配している”言辞”というものは、西欧、もっといえば、白人たちのものなのだ。彼らの陰謀をどうのこうのという低俗な議論ではなくて、彼らの気宇壮大な論理とエゴイズムもたぶんに混じった博愛主義と強欲に対して、彼らに真っ向から日本の思想を武器に立ち上がろうとしたのが高山だ。

”歴史的個人は最も強烈な個性を持つ意思的・行動的主体である。と共に、それは時代の趨勢を以て自己の運命と自覚せる勝義の歴史的人間である。そして歴史的個人は歴史的趨勢に生きることによって、却って歴史を超出せる永遠に接し、強烈な個性に生きることによって、却って絶対の普遍性を実現する”(p.464)


第五位:司馬遼太郎「峠」新潮文庫
司馬遼太郎の傑作。滅びの美学をこの小説に見出すものは愚鈍だ。
佐藤優の「正義は必ずある。しかしそれは複数個ある」という言葉を、司馬遼太郎は河井継乃助を描くことで証明した。かっこういいのだ。女好きの継乃助が。女好きなのに、かっこういいのだ。

”「志ほど、世に溶けやすくこわれやすくくだけやすいものはないということだ」
そのように継乃助は思っている。志は塩のように溶けやすい。男子の生涯の苦渋というものはその志の高さをいかにまもりぬくかというところにあり、それをまもりぬく工夫は格別なものではなく、日常茶飯の自己規律にある、という。箸のあげおろしにも自分の仕方がなければならぬ。物の言い方、人との付き合い方、息の吸い方、息の吐き方、酒の飲み方、あそび方、ふざけ方、すべてがその志をまもるための工夫によってつらぬかれておらねばならぬ、というのが継乃助の考えかたであった。”

2010年12月15日水曜日

農地争奪戦争、「ランドラッシュ」新潮社

戦争をしてまで人間は何を守ろうとするのだろう?
これが、俺が戦争について考えることをやめられなくなった原因の一つだ。
郷土愛だったり家族愛だったりするのだろうが、今夜は人間をもっと唯物論的に眺めて、最近あまり騒がれないあることについて考えてみたい。

あることとは、食糧のことだ。

人間は、自分でエネルギーを作り出せないから、他の生物・植物を食らって生きている。
金があれば買って食べるだろうし、なければ飢え死にしたり強盗したりもするだろう。

2050年の日本の独立と繁栄という目標に対する障害物は多々あるのだが(そりゃもうありすぎるほどだ)、その中でも世界的に最も重要な変数は、やはり人口であると俺は思う。
英語のPopulationという単語に同じ含意があるのか知らぬが、人の数を意味する時に我々が「人の数」ではなく「人の口=人口」という言葉を使っているのは何か示唆的である。
恐らく、有史以来、人間にとって最大の課題とは、「どうやって米を(パンを、ジャガイモを)食べるか」ということだったのだと思う。だからこそ、穀物を蓄え始めると同時に政治権力が誕生したのだ。

さて、人の口、人口。
現在68億の世界人口は、2050年には90億にまで達する可能性がある。
世界の”口”を満たすための穀物需要は、これに比例して爆発的に増加し、同21億トンから30億トンになる。人口の増加のみならず、”肉食”の段階にますます多くの人々の暮らしが入りつつあることも穀物需給を逼迫させる。中国人13億が、一人当たりアメリカ人と同じ量の牛肉を食べる時、世界は武器を手に取り食料争奪戦争を戦うのだろう。

世界の国のなかには、将来の穀物の不足、つまり「食べられない」という事態を回避するために積極的に「食糧安全保障」政策を推し進めている国がある。また、当然ながら、私企業も将来の膨大な需要に目を付けて世界の農地に手を伸ばしている。

タイトルに書いた本は、世界の国や企業が、外国の農地(ランド)を求めて走り回っている(ラッシュ)している現状をドキュメンタリー風に記したものである。土地が走り回っているわけではなく、人間たちが「ランドにラッシュしている=ランドラッシュ」である。
この本の16-17ページで紹介されている、国際NGO「グレイン(本部はスペイン)」が発表した「2008年食料・金融安全保障のための土地争奪」というレポートによると、ランドラッシュの最近の現状はこんな具合だ。

”食糧危機と金融危機が同時に発生することによって、新しいグローバルな土地争奪が始まった。食料を輸入に頼る国の政府が、食料生産のために海外の広大な土地を手に入れようとしているのだ。他方では、深刻化する金融危機のなかで、企業や投資家が海外農地への投資を重要な収益源とみている。その結果として、肥沃な農地の私有化と集約化が進んでいる。このグローバルな土地争奪によって、世界各地で小規模農業と農村の暮らしが姿を消してしまうかもしれない”

国際食糧政策研究所(IFPRI、http://www.ifpri.org/)は、2009年4月のレポートで、

”土地や水が不足し、しかも資金が豊富な食料輸入国、例えば湾岸諸国は海外農地への投資に最も積極的である。また、多くの人口を抱え、食料安全保障の面で懸念を抱える国々も、海外での食料生産のチャンスを欲しがっている”

と述べている。同レポートによれば、サウジアラビア・カタール・リビア・中国・韓国・インドなど、20カ国が食料確保のために広大な農地を海外で既に入手したという。これらの海外農地は、主にスーダン・エチオピア・パキスタン・フィリピン・カンボジア・トルコ・ウクライナなどの、生産コストが安く、かつ土地と水が豊富な途上国に向けられている。

覚えている人もいると思うが、最近ニュースで「食糧危機」という言葉が使われたのは2008年である。豪州での干ばつなどが原因で、大豆の価格は2006年9月から2008年5月頃までに3倍に、小麦の価格は同時期に2.7倍に、トウモロコシの価格は3.5倍にまで急騰した。
2012年の春ごろに、ラーメン一杯が2700円になって、プリウスが800万円くらいになっている感じだ。
この時に世界を戦かせ(おののかせ)、ある国や企業をランドにラッシュせしめたものが、世界の穀物市場の崩壊だった。穀物市場の崩壊というのは、穀物生産の国の輸出規制である。中国・インド・ロシア・ブラジル・アルゼンチンなどが、輸出規制を行い、国内市場へ穀物を届けることを優先した。この時、食糧はいつでも市場で買えるという自明のルールが崩れ去った。そして、国々は、自分自身で食糧を確保せねばならんと海外農地の拡大に走り始めた。

これが、この本が最初に説明してくれるランドラッシュの発端である。

例によって食糧安全保障にもさしたる国家戦略を持たぬ我が国の隣には、長期的な戦略を立てて海外農地の獲得に邁進する国がある。

大韓民国。

李明博大統領は、就任間もない2008年4月15日、こう述べたそうな。

”穀物の75%を輸入に依存している我が国は、このままでは深刻な危機に陥るかもしれない。根本的な対策を立てないといけない。”
「南北統一後」を視野に入れ、わが民族7000万が生きるための対策が必要なのだ

一回でもいいから日本の首相からこんな言葉を聞いてみたいものだ。
2009年6月3日に開催された、「海外農業開発事業団会議」の総括として、韓国政府は次のように記している。

”2030年までに穀物消費量の50%に対して安定した供給網を確保する。国内自給率25%に加え、自主開発率(海外農場)25%を目標とする。”

国内で生産するのと同量を海外で生産するつもりだそうだ。現在ロシア沿海地方には、韓国の農業企業7社が進出している。2008年12月30日に発表された韓国政府の海外へ進出する韓国企業の支援策は強力である。支援額は、各社事業費の最大70%、金利は1.5%である。特徴的なのは、「韓国政府は、企業が開発した農作物を適正で合理的な条件で国内に搬入することを命じることができる」とされている点だ。食糧危機の際には、これらの企業は韓国政府に「適正な価格で」穀物を販売することが義務付けられたのだ。

韓国がここまで食糧安全保障に懸念を抱いているのは、好調な自動車・IT・電機などの輸出産業の栄達と表裏一体の関係にある。
1998年のアジア金融危機で、韓国政府はIMFの管理下に置かれるという屈辱を味わった。その後の韓国政府は、程度の差こそあれ、各財閥に大胆な事業再編を課して選択と集中を加速させた。少数の巨大メーカー(現代自動車、サムスン電子など)の寡占市場を国内に作りだし、それらが海外市場で外貨を稼ぐという貿易立国として生き残る道を選び、国内市場を広く開放することを選択したために、海外からの安い農作物によって国内農業が壊滅的な打撃を受けたのだ。
だが、ここで手をこまねいていなかったのが李大統領だ。輸出によって稼いだ外貨で以て海外農地を獲得すれば、食糧危機にも耐えられるというのが韓国の食糧安全保障における大戦略である。

不思議な時代が到来しようとしている。
飢餓に苦しむアフリカの貧しい国の広大な農地を経営するのは中国人で、そこで働くのもはるか東からやってきた中国人。そこで作られた膨大な量の大豆は港から巨大な船に乗って波濤を越えて中国へ送られる。農地の近くでは、きれいな水も食糧もない...地元の民は餓えている...
ランドラッシュという、資本の原理がむき出しになった大資本家による農業経営と国家政策としての海外農地取得というものが惹起しかねないのは、新しい植民地支配に他ならない。

ここまで長く書いてきたのは、自分の備忘録のためというのが第一だが、皆に将来の日本人の胃をどうやって満たすのか?という根本的な問いについて考えるきっかけを与えたかったというのもある。僭越ながら。
この本の中で、商社への言及がやはりある。日本への穀物輸入の最大なるものは総合商社という一群の会社である。だがそれは、残念ながら、目先の利益に囚われざるを得ない営利団体の限界を痛々しいほどに鋭く描写している。詳しくは、是非この本を手にとってみて欲しい。

この本は、小説を読んでいるようにも読める。ハードカバーで250ページほどだが、3時間もあれば読み終えるだろう。この時代に生きる人間が常識として知っておくべき情報や驚くべき事実が沢山盛り込まれている。必読の文献である。

飯を食べるためには、稼がないといけない。
だが、金があっても食べるものがないと生きてはいけない。
食糧だけではない。これからは水をめぐる戦争がやがて起こり始めるだろう。
昔ある友人に、「日本の農業を壊滅させたのは商社だ」と言われたことがある。
「日本の小麦の何%はうちが持ってきている」などという呆けた東京の商社マンの言葉なぞ聞こえもしないはるか遠くの田舎では、恐らく数十年の昔、海外からの安い農産物に敗北し、伝統的な小規模農業を継続できなかった人々が沢山いるのだ。このことが日本の地方の景観を壊滅させた一つの要因であったことは紛れもない事実であろう。

この本でも大きくとりあげあれている、青森県津軽の農家・木村愼一氏が登場する映像がYoutubeにあった。
この人は、「欧州のパンかご」と言われる(言われた?)ウクライナで大豆の栽培に挑戦している気宇壮大な日本人だ。ウクライナで米を作ることまで考えているそうな。

独り言:

最近よく思うのだが、ある職務に対する誠実さや真面目さと、それが世界や日本のために真に正義に適っているかという問題は全く別次元のことだ。
例えば、料理人が「お客さんが『おいしい』と言ってくれるのが嬉しい」と感じることは、真っ当なことで、正義に適っている。だが、覚せい剤の常習者に覚せい剤を届けて「お客さんが『これがなかったらどうにも始まらんよ、有難う』と言ってくれるのが嬉しい」というのは、当たり前だがふざけた話だ。
(これは一つの俺の価値判断である。覚せい剤=悪というものはね)
一人の商売人の端くれとして思うのは、本当に正義に適ったものやサービスでしか、莫大な利益は上がらないし、そこで働く者も真に幸福ではありえない。そこで得る収入の多寡など関係ない。 
正義と言ったが、いつの時代だろうが、世界のすべての人を幸福にしてしまう仕事などないのかもしれない。Ipadができれば失職する人がいるだろう、新たな仕事が生まれる影でね。
必要なことは、自分の仕事、自分の売っている商品やサービスが、どの範囲の人々をどれだけ幸福していして、あるいは誰にとって不可欠のもので、またそれがどの人たちに害を与えているのかを、特殊な時代性や地域性をできるだけ捨てて、十分に考えることだ。現在=流行に沿うのは誰もがする。そうではなくて、過去の数百年と未来の数百年の真ん中に自分をぽつんと寂しく置いて、そこであるべき将来を見通す者のみが、偉大な経営者と呼ばれるのだろう。
それがなければ、国家や企業の大戦略というものは形成されるはずがない。
指導者に歴史観が必要である所以である。

それにしても、李明博大統領はすごいことを言う。
戦争しようかという北と統一して、その後に「わが民族7000万が生きるため」の施策を断行する。これが政治家だろう。指導者だろう。
来年皆さんに月何円御配りします!と言っているどこかのくたびれた首相、頑張れ、いや、頑張ろう。国民のレベル以上の政治家は絶対に生まれないのだから。
もっとすごいのは、韓国の上に書いたような政策が、沢山の批判にさらされていながらも、それを甘受して意思するところを貫こうとしているところだ。意思なのだ、人間は。意思こそが、華なのだ。意思なき人間は猿以下なのだ、無駄に知恵だけあるという意味で。詳しくは「哲学者と狼」をご参照下さい。

これからは、いやこれまでも、国家は政治的共同体でありながら、同時に経済的共同体であったのだ。
そうであれば、経営の能力がなくば一国の宰相なんぞ務まりはせん。河井継乃介の”米のトレード”で大もうけをした金で日本に当時日本に3機しかなかったガトリング銃を買ったのであるし。
そう思って会計学の本をちらちら読んでいるのだが、あまりに面白くないので、表紙に大きく「日本を経営する」と縦書きした。すると、少し読むのに気合が入るようになるから人間なんて単純なものだ。

2010年12月8日水曜日

好きな言葉、独り言

"How many things apparently impossible have nevertheless been performed by resolute men who had no alternative but death."

-Napoleon Bonapart

"
War is an ugly thing, but not the ugliest of things: the decayed and degraded state of moral and patriotic feeling which thinks that nothing is worth a war, is much worse.
A man who has nothing which he is willing to fight for, nothing which he cares more about than he does about his personal safety, is a miserable creature who has no chance of being free, unless made and kept so by the exertions of better men than himself. "

-John Stuart Mill

「春風を以て人に接し、秋霜を以て自らを慎む。」

-佐藤一斉

国家をこの世における地獄と絶えずしてきたのは、人々が国家をこの世における天国にしようとしてきた、あの努力以外のなにものでもない。

-F・ヘルダーリン

戸高一成編「秋山真之戦術論集」を読んでいる。
完全に時勢に乗ってしまった。
当たり前だが、射撃も雷撃も索敵も航法もなにもかも海軍では数学と物理が分からなければ理解できない。そりゃそうだ。海の上を互いに動き回りながら数キロ先の敵艦に砲弾を直撃させよういうのだから。俺は数学物理が大の苦手なので、海軍戦術の細かいところになるともう大変である。でも分からないと本を閉じるのは悔しいのでグーグルで検索しつつ読んでいる。

ところで自分で作った予算を澄まし顔の正義のヒーロー顔で「仕分け」とった人たちと、それを糾弾しないメディアってなんなんだろう。この国は存在自体が茶番のような国になってはいないか???

恐らく今の日本は世界で最も「死が遠く」にある社会だと思う。端的に言えば、平均寿命は世界トップで
戦争は60年間一度も戦っていない。餓死者の死体が街に転がっているということもまだ聞かない。公開処刑も当然ない。我々が死に直面するのは、ほとんどの場合病院だけだ。
それなのに(つまり、”それだから”)、この国は世界で最も悲惨な殺人事件が起きる国の一つであるだろう。
親が子を殺す。子が親を殺す。兄が妹を殺す。殺して遺体を切り刻む。そして、何よりも子が死んだ親の弔いをしない...これは、人間という社会的存在である動物の本性の崩壊としか言いようがない。
「命は地球より重い」と言われたこの国の薄っぺらいヒューマニズムは、単に個人の欲望を是認する物質主義と精神性の堕落以外のなにものでもない。
ローマ消滅の最大の原因はゲルマン民族の侵入ではなくて、つまりは国内の退廃だったのだろう。
我が祖国日本は、国が国として存在するために必要なものを総て失いつつあるように思えてならない。

記憶せよ

記憶せよ、12月8日。

この日世界の歴史改まる。
アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる。

否定するものは彼らのジャパン、眇(びょう)たる東海の国にしてまた神の国たる日本なり。
そを治(しろ)しめたまふ明津御神(あきつみかみ)なり。
世界の富を壟断(ろうだん)するもの、強豪米英一族の力、我らの国に於いて否定さる。
我らの否定は義による。
東亜を東亜にかへせといふのみ。

彼らの搾取に隣邦ことごとく痩せたり。われらまさにその爪牙(そうが)を砕かんとす。
われら自ら力を養ひてひとたび起つ。
老若男女みな兵なり。
大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
世界の歴史を両断する。

12月8日を記憶せよ。

-高村光太郎


2010年12月5日日曜日

イランから始まる核ドミノ

読売新聞によると、2008年5月にエジプトのムバラク大統領は、米議員団に対して「イランが核武装するならば、我々も核兵器開発をすすめざるをえない」と伝えていたそうな。ウィキリークスの暴露によって明らかになったことだ。
実は、世界政治において最も重大な危機は、朝鮮半島ではない。実際、朝鮮半島で戦争が起こっても、それはあくまで朝鮮半島の戦争で終わるだろう。そこでどれだけの損害が出るとしても。
世界的規模で重大な問題は、やはりイランなのだ。
イランの核武装は、どうしても周辺国の核武装を惹起する。エジプト、サウジアラビア、トルコ、etc。
インド、パキスタン、イラン、サウジアラビア、エジプトというベンガル湾からアラビア海・ペルシャ湾・紅海・地中海東部に至る地域のこれらの国々が核武装に走る(当然ながらこれら一部はすでに核兵器保有国だ)ことの意味は、どれだけ重視してもしすぎることはないだろう。
だからこそ、オバマ大統領も2009年9月に、イランに対して「どんな選択肢も排除しない」と武力行使の可能性もこそっと仄めかしたのだ。
重大な問題は、イランの核兵器開発が北朝鮮に、北朝鮮のミサイル開発がイランに渡ることだ。
世界にとっては最悪の"Win-Win"なのだ。
やがて中東で危機が訪れるかもしれない。その時、我が国はどう対応するべきか。
今のうちから熟慮し、準備しておこう。
ここでもやはり、5年先に注目されるのは、(アメリカは当然として)中国の目論見である。

ところでWikileaksというのは危険なメディアだ。
各国のIntelligence活動に支障が出るからというのはもちろんそうだが、それだけではない。
「情報垂れ流しですから正しいかどうかはご自分で判断してくださいね~」という時代がついに到来した。すべての情報は電磁的に接続されたWeb上で閲覧可能になるのだが、過去においては、「この情報は正しいだろう」という判断が事前になされていたのだ。たとえば新聞社やテレビ局によって。それがいいかわるいかは別にして。それが、これからは、限りない量の情報が怪しげなものから一見正しそうなものまで全部ごちゃまぜで一般大衆の目に届けられる。
恐ろしい時代だが、ここにビジネスチャンスを見出すものは多いだろう。





くじらの肉

いわしクジラの刺身を食べた。
刺身というものの、実態はクジラの生肉だ。血が滴っていた。
血が滴る肉を食べるというのは、動物としての俺を強くしてくれそうな気がするし、それだけではなくて「この血は海で潮を吹きあげていたクジラという生き物の肉なのだな」と実感する。
くじらさんに感謝。うまい唐揚げになってくれた鶏さんに感謝。
ありがとう。
君たちの肉を絶対無駄にせんようにしっかりトレーニングをするからね。

さはさりながら、クジラは現在極めて政治的な動物になっている。日本が調査捕鯨を行っていることと、捕鯨に反対する勢力が世界には存在するためだ。
これについては、いずれきちんと調べてからここで書く必要があるだろう。

今日のトレーニング:

チンニング:5 reps x 6 set
ベントロー:10 reps x 3 set
プッシュアップ:20 reps x 3 set
シュラッグ(35kg):20 reps x 2 set
フリー・スクワット:50 reps x 1 set
ジャンピング・スクワット:20 reps x 1 set
アームカール(35kg):10 reps x 2 set
ショルダープレス(35kg): 10 reps x 2 set
デッドリフト:(35kg) : 10 reps x 2 set

”結婚するやつはばかだ。結婚しないやつはもっとばかだ”

-バーナード・ショー

”幸福は、幸福であるかどうかを問題にしないときのことをいう”

-芥川龍之介





2010年12月4日土曜日

歴史と名前

我が名は基、もといと読む。同じ名前の人には会ったことがない。
名前の由来はよう分からんが、親父によると「基本が大事じゃあろうが」らしい。
俺の名前について話したいのではなくて、今日は時代錯誤者らしく昨今の子供の名前について若年ジジイ代表として一言もの申したい。

今日の読売新聞朝刊によると、2010年生まれの男の赤ちゃんの名前ランキングは次の通り。
一位から順に。

大翔(ひろと)
悠真(ゆうま)
翔(しょう)
颯太(そうた)
歩夢(あゆむ)
颯真(そうま)
蒼空(そら)
優斗(ゆうと)
大雅(たいが)
颯(はやて)

なんと申しますか、そんなに最近の親は息子に空を飛んでもらいたいのか風になって欲しいのだろうか。だから「千の風になって〜」という歌が流行ったのか知らん。あるいは親父の「風に乗って飛び去って現実から逃避したい!」という潜在意識が息子に風だの翔ぶだのの名前を与えていると言うのは皮肉だろうか。歩夢(夢が歩く、or夢と歩け?)クンにいたっては、70歳になったときどう考えても恥ずかしいだろうと思うのだが...
全国の歩夢さんごめんなさい。

名前は個人的なものではないと言ったら、首を傾げる人がいると思うが、俺は俺の名前は俺だけのものではないと思う。
まず、我々には姓がある。それは過去に俺と同じ姓を持ち生きた人がいたという歴史を証明している。
姓に続く名は、連綿と続く一族のなかで、俺という人間を個人として確立せしめるものだ。それがなければ、俺は独立した個人たり得ない。

親が子に名を与えるとき、親個人の思いは当然強く働く。それは当たり前のことだ。だから、名は好き勝手に決めていいもので、人様の子の名に文句を言う意味が全然ないかというとそうでもない。

俺は、上記のように名前は俺のものであり、家族のものであり、広く一族のものだと考える。だから、俺は自分の子に名を与える際には二つの点を考慮するだろう。
まずは、俺の感覚からして美しく壮健な響きがあり、かつ表意文字である漢字の名を与えるだろうから、俺の「我が子よかく生きるべし」という思いが伝わるものがよい。二つめに、俺は、その名が200年前においても、また200年後においても通用する時代普遍性を持つものかどうかを検討する。つまり、歴史を背負える名かどうかを考慮する。
我が義兄の国オランダは、おもしろい国で、大麻もマリファナも合法なくせに名前の付け方については相当頑固で保守的だ。
兄貴の名はArendというのだが、この名前は彼の父方のお爺さんの名前なのだ。男の子には、父方の祖父、女の子には母方の祖母の名前を与えることがオランダの慣習であるらしい(「最近はだいぶ変わってきたけどね」by Arend)。これは個人に名付けの自由を与えない制度だが、他方で、先祖と自身を同じ名前で繋ぐという非常に有意義な制度だと思う。Arendのお爺さんがArendならば、当然Arendのお
爺ちゃんのお爺ちゃんもArendだったわけで、ご先祖様がいきなり身近に感じられる。
支配の正統性を相続する必要があった鎌倉時代以降の将軍や武将が、ほとんどの場合親から一字を貰っていることは、時代を繋ぐために必要な制度だったのだ。

人間の柱は、彼が身体的に宿した歴史の縦軸と、現在を生きる同世代(今を生きる人々)との横軸によって形成される。縦軸は尊敬、横軸は連帯。

以上からお分かりのように、俺は最近の名前というのはどうも歴史から乖離し過ぎじゃないかなぁと思っている。多少お茶目をするのはよいのだろうが。程度の問題なんだが。ひいお爺ちゃんあたりにきかせたら、びっくりするような名前ってかっこいい名前ではないだろう。

俺自身は、上で言った二つの規準に、”大地性”を賦与した名を息子には与えたい。息子には空を飛んでもらう必要はない。自分が生まれた土地にまずしっかり根を生って、そこから世界を平らげる、そういう男になって欲しい。田んぼに力と書いて"男"なのである。
その点、基という漢字は、どっしりと”土”が一番下でで構えている感じがするし、何より基=Foundation, Basementである。

ついでに友人の御爺様からいただいた有り難い歌を開陳せんとすー

三谷原丈夫備前和気爽やか皇国の基御先祖護らん

(みたにはら ますらおびぜん わけさやか みくにのもとい みおやまもらん)

Bon weekend!





国防の論点

日本人が誇りある国家を維持するために必要な、将来のために議論すべき安全保障政策における論点:
あくまでも、「将来のために」であるから、たとえば「日本には戦闘機を空母から射出するカタパルトを作る能力がない」などと批判せぬように。それはとりあえず枝葉のことだ。
今般の朝鮮半島危機への対応について、自民党などの野党は「危機管理がなっとらん!」と民主党政権を批判していたが、根本的な国防についての議論が、これだけ重大な事態が起きた後でさえ始まりそうにない。この国は、正しく、ヤバい。

一つ、徴兵制を導入すべきか否か
一つ、現有の限定的な対地攻撃能力に加え、潜水艦発射型および水上戦闘艦発射型の対地攻撃ミサイルを保有すべきか否か
一つ、航空母艦を導入すべきか否か
一つ、核兵器及びそれを運搬するシステム一式を導入すべきか否か
おまけ、憲法を改正し、自衛隊を「日本国海軍、空軍、陸軍、(海兵隊)」とすべきか否か(議論の余地なしと認む)

俺は6年前からずーーーーーっとこれらを言い続けてきた。
ある時などは、姉貴から、「核兵器を持ったら核兵器で攻撃される!」と意味不明かつ歴史的にもなんら立証されていない頓珍漢極まりない暴言によりヒステリックに非難された。(あれは少しショックだった。俺は大まじめなのに家族にさえ理解されぬ!と青臭く自虐的になったもんだ)
(事実:歴史上、核による攻撃を受けたのは、核武装していなかった日本のみ。最近では、核実験をした北朝鮮は生き延びて、核兵器を持たなかったイラクのフセイン政権は打倒された)

で、上のように言うは何故か?

・日本は民主主義の国だ。平等な国だ。少なくとも建前は。
であるならば、国防の責務は総ての国民が平等に分担してしかるべきだろう。だから徴兵制を敷くべきかもしれない。議論の余地は十分にある。

・対地攻撃能力を保有しない国は真の意味で「抑止力」を持ち得ない。弾道ミサイルによる攻撃に対する報復攻撃を単独で行えないならば彼我の間に相互抑止は成立していない。
戦闘を、「我が意思を相手側に強制することを目的としておこなわれる実力行為」と定義するならば、意思的・能動的に運用しうる打撃力こそが抑止力の本質であり、抑止力こそが軍事力の中核とされるべきである。
今日の戦争においては、その極めて高精度の兵器投射能力とそれが依存する情報ネットワークへ重要性と脆弱性のために、核兵器ほどではないにしても、先制攻撃を行う側が極めて有利に戦争を戦えるのではないかと思う。
クラウゼヴィッツのいう「絶対的戦争」は蘇るのか。それとも、これから東アジアで起こりうる戦争とは、政治に従属した、政治の手段としての戦争にとどまるのか。我々は、大局的な視点からこれを推察し以て将来の国防の備えとなさねばならぬ。

・近隣の大国が空母を運用することは時間の問題だろう。米海軍のレベルに至るには未だ数十年を要するとしても。空母艦隊が持つ戦術・戦略上の意義とはなにか。
それはまず、圧倒的な空間支配能力であり、次に対地攻撃能力を伴う兵器システムが海上を自由に移動しうる機動性である。海上を自由に移動する空母は、その名の通り航空機を搭載する。米軍の空母一隻には30機程度のF/A-18スーパーホーネットが搭載されているが、この戦闘攻撃機による行動半径は実に数千キロに及ぶ。同時に空母は、多くの対地・対水上攻撃用の兵器運用のための海上移動基地とも言うべきであり、沿岸国からしてみれば、敵性国の空母が近海に遊弋するということは、自国の隣に突然敵の航空基地ができてしまうようなものだ。巡洋艦・駆逐艦からなる艦隊と、米海軍の空母打撃群はこの点において同じ「船」であっても決定的に異なる。だからこそ、米国は世界のどこにでもいつでも空母を派遣できる態勢を未だに維持しているし、有事があればワシントンのオバマ大統領は、「一番近い空母はどこにおんねん???!!!」と尋ねるのだ。

・中国、北朝鮮、ロシア、アメリカ、日本は四つの核兵器保有国に囲まれている。この状態にあって、「日本は唯一の被爆国だ」と言う奴はクレイジーだ。あってはならぬことだが、もし三度目の悲劇が起きたとして、それでもその人は「日本は唯一の被爆国だ」と言えるだろうか?
最大の問題は、「核武装すべきだ」と言った途端に、この国の政治家は政治生命を脅かされることになるということだ。それが自由な民主政治の国のあるべき姿か?政治に教義も至上の法典もない。
守るべきものは、我らの国の未来。たとえそれが悪魔との契約を必要とするものであったとしても、この目的の為に、あらゆる手段は道徳的である。

今の日本は、戦前戦中の「天皇陛下万歳」と「鬼畜米英」を「平和憲法万歳」と「核兵器廃絶」に置き換えただけなのだ。
何も変わってはいない。何も。(誰の真似でしょう?わかるかな~)



2010年12月2日木曜日

やること。

完全に気が早過ぎるのだが、昨日落書き帳に書いたのでここに書いてしまおう。

来年やること!

一つ、八丈島の砂浜で野営
一つ、横浜港で60cmのシーバス
一つ、標高3000m以上で野営、朝日を見ながら上半身裸で腕立て
一つ、BMWでバックで100km/h走行(映画"トランスポーター"のJason Stathamのイメージ)
一つ、BMWでのサーキット走行(目指すは220km/h)
一つ、欧州縦断BMW暴走の旅(The Netherlands ⇒ Miditerraniean、イタリアでLamborghini Gallardoのパトカーに速度超過で捕まってオマワリさんと仲良く記念撮影)
一つ、秋田の鶴の湯温泉2連泊
一つ、サイパン・グアム・テニアン顕彰・慰霊の旅(8月)
一つ、錦江湾で桜島を見上げながら"桜島"をアカペラで歌う
一つ、山田方谷先生についての全著作精読

楽しみだ。

昨日のトレーニング:

チンニング:5 reps x 5 set
ベントロー(35kg) : 10 reps x 3 set
プッシュアップ:20 reps x 3 set
シュラッグ(35kg) : 20 reps x 3 set
フリースクワット(0kg) :50 reps x 1 set
ジャンピング・スクワット:20 reps x 1 set
ショルダー・プレス(35kg):10 reps x 2 set

昨日の夕食:

・わかめうどん一杯
・リンゴ一つ
・ドライバナナ一袋
・ヨーグルト
・プロテイン

筋肉をチワワ2匹分増やす!!!
目指すは燃費最悪の身体!!!
将来は60歳で140km/hのストレートと125km/hのチェンジアップを放る変な爺!!!
高齢化社会を肉体的に乗り越えるのだ。
50mを7秒で走る爺だらけになればいいわけだ。