2013年8月23日金曜日

帰国

8月28日に日本に帰国します。
また「花の都・大東京」(長渕剛)で暮らします。
皆に東京その他で会えるのが楽しみです。
敬礼

2013年8月18日日曜日

戦時個人賠償

◯カナダと日本の共通点、国旗の色が紅白といふこと。カナダも昔はニュージーランドやオーストラリアと同じように、ユニオン・ジャックが旗の中に入っていたらしい。なんでなくしたのだろう。Quebecへの配慮か?でもフランスの国旗も赤青白の3色なのに。
両サイドの赤が青になっても不細工だし、真ん中のカエデの葉を青には絶対できんな。
あの真ん中のメイプルツリーのおかげもあって、メイプルシロップはやたら高いのに外国人に売れるんだろう!すごい戦術だ。違うて?
ちなみにカナダの国章にはユニオン・ジャックが入る。
日本の国章は菊の御紋。「戦艦大和をはじめ多くの軍艦の艦首についていた菊の紋章を日本人がパスポートに付けているのは我が国への挑発だ!」なんてお隣さんから言われませんように。

◯某総合商社が朝方勤務へのシフト!と言っている。メディアでも沢山取り上げられた。朝早くに出社したお猿さんじゃなくて社員さんには餌のバナナと残業代を出すそうな。
オフィスでの仕事は9-17時で終わらせて結果を出しませう。朝は座禅と瞑想か読書に充てたい。

◯カナダは仏語と英語の2つが公用語。だから?か知らぬが、大道芸人も火のついたトーチを一輪車に乗りながらジャグリングしつつ、仏英両語を行ったり来たりするのだ。一人だけではなく。すごいなー徹底しとるなーと思った。

◯友人の知人が、DCのある韓国料理屋を、「My name is タケシマ」と言って予約をしたらしい。でも特段変わりなくサービスしてもらえたそうな。

◯新日鉄住金が、戦時の徴用を巡る裁判で最高裁での敗訴が確定したら賠償金を支払う意向であると発表した。 この企業の判断云々の前に、日本人はなぜこの韓国の過去の条約を全く無視したこの好き放題に対して怒らないのか。財産請求権は最終的に解決されたと国家間で合意したものを平然と反故にする隣人。ここでこの企業が個人賠償に応じれば、中国からも同じ声が上がるに違いない。

アメリカと宗教

アメリカの根本を支える宗教を、「宗教からよむ『アメリカ』」の著者・森孝一は、「アメリカの見えざる国教」と呼ぶ。プロテスタントを最大勢力としながら、これにユダヤ教、カトリックを信仰する者を含めた国民の大多数の「見えざる国教」が、WASP、黒人、富裕層、貧困層などを束ねる役割を果たしてきたという。アメリカは、イギリスに対して反旗を翻しはしたが、けっして神に対してはそうしなかった。

アメリカの大統領就任式をみれば明らかなように、戦後、政教分離を間違えて理解した日本と違い、アメリカのConstitutionは、宗教の存在を前提として成っている。ここでConstitutionとは憲法でなく、アメリカの国体、或いは国柄(Nationhood)と言ってもよい。自由と民主主義という御題目は、単なる世俗的な政治信条である以上に、神がかりの崇高さを付与されて論じられていることを否定する人はいないだろう。
ワシントンが「見えざる国教」の開祖であるならば、リンカーンはこれを解釈し直し、連邦を守り、そして凶弾に斃れた殉教者である。その系譜に黒人として初めて大統領になったオバマ氏は連なっていくのかもしれない。
そう考えれば、オバマ大統領の、教会で牧師が行う説教のような演説にもなんとなく合点がいく。森が言うように、アメリカ国民は元首たる大統領に、精神的指導者たることを期待している。その大統領のイメージは、かなり牧師のそれに近いはずだ。

数年来考えてきたことであるが、アメリカではこれからこの「見えざる国教」というものの立場が劇的に変わってくる。多数派であった「白人・プロテスタント」は徐々に少数派になっていく。真の坩堝になっていく。
それに加えて、プロテスタント内部でも、聖書をどう解釈するかという問題は極めて重大だろう。
同性婚の権利を人間の不可欠の権利だと信じる西海岸の若者と、結婚は異性間のみでしか許されないと信じるテキサスの初老の夫婦の意見の相違は、「多様性を重んじよう」という気楽な言葉で片付けられるものでは全くない。多様性のなかに何を含めるべきかという議論なのであって、多様性という言葉はどんな主義主張の牙を抜いて放り込んでおける四次元ポケットではない。自由の国アメリカが、あれほど国旗にこだわるのは、たまに異様に思えるほどこだわるのは、プロテスタント国家という出自にも原因するのだろう。

"Christianity's Dangerous Idea"の著者・Alister McGrathは、マルティン・ルターの宗教改革の時代から、プロテスタンティズムの歴史的起源と知的基盤は、聖書の解釈権を権威(=ローマ法皇)から奪って個人にこれを与えたことに由来しており、従ってそもそも多様性と摩擦を内在的に孕むものだという。

世界最強国アメリカは、世俗国家ではない。そして宗教がこの国の外交と内政に及ぼす影響は、日本人には容易に理解し難いほど深いものであるようだ。
であるならば、これからアメリカの「見えざる国教」がどう変わっていくのか。そもそも存在し続けるのか。支配階級の宗派であったプロテスタントがこれから如何に変わっていくのか、如何に分裂するのか、はたまた統合されるのか。
これらは単なる学術的な問題である以上に、政治外交に関わる者には大切な問いであるように思う。

ご覧の通り、これから勉強しますという宣言です。
レベル低いなぁ。もう30年も生きてこれだよ。何してたんでしょうか。

人民解放軍、「東風31A」を試射

「自衛隊を国防軍にしたら周辺国を刺激する」という人は、日本人を数百万人単位で殺す"実力"を人民解放軍が保有していて、その改良に余念がないというこの事実になぜ懸念を持たないのだろうか。
憲法9条を改正し、集団的自衛権を行使する日本の国防軍よりも、核ミサイルを持つ独裁国の国家ではなく共産党が保有する軍隊のほうが平和的だというのだろうか。
以下、記事全文。
中国が先月24日、最新型の大陸間弾道ミサイル(ICBM)「東風31A(DF31A)」の3回目の試射を行った。中国国営紙『環球時報』電子版が、米国のオンラインメディア『ワシントン・フリービーコン』の報道を引用して16日に伝えた。
 DF31Aは射程1万1200?1万2000キロで、核弾頭を搭載して米国全域を攻撃できるミサイルだ。2009年10月の中国建国60周年記念式で初めて公開された。
 ワシントン・フリービーコンによると、中国は昨年8月と11月の2度にわたり、山西省五寨のミサイル基地から西方の砂漠地帯に向けてDF31Aを発射している。今回も、同じ基地から移動式ミサイルランチャーを利用してミサイルを発射した可能性がある、という。中国はDF31Aミサイルのランチャーを計15基保有している。
 中国は昨年から、核能力を引き上げるため大々的な核ミサイル試射を進めている。昨年7月には複数個別誘導再突入弾頭(MIRV)化された「東風41(DF41)」ミサイルを試射し、翌8月には新型の潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)「巨浪2(JL2)」、改良型ICBM「東風5A(DF5A)」などを相次いで発射した。

2013年8月17日土曜日

映画「226」



○セックスの低年齢化について批判的に論じられていたかと思えば、今度はセックスに関心のない若者たちなどと言って草食系だの絶食系だのと、これまた批判的に言われる。若者の実態は、江戸自体から、あるいはそれよりはるか昔から変わらんさ。メディアが金を儲け、サラリーマンは赤提灯のネタの一つにしているぐらいのもんだろう。

○アルバイト店員が、店で馬鹿なことをしている姿を写真に撮りこれをSNSに載せたものだから閉店に追い込まれる弁当屋やファーストフード店がでてきた。ニュースを読むと、彼らの一部のものは「面白いことをやろうとした」らしい。「面白いこと」についての想像力のなさに唖然とする。

○昨晩「226」という映画をYoutubeで観た。2.26事件を扱った映画である。1989年。出演する俳優の豪華さったらない。竹中直人もホテル支配人の梅宮辰夫もいいが、鈴木貫太郎侍従長の妻を演じる八千草薫の一瞬の美しさに見惚れた。八千草薫は映画「宮本武蔵」でおつうを演じているんだな。こりゃ是非観ないと。
映画としてはあまり面白いものではないが、歴史の勉強にはなるかもしれない。が、もう少し昭和一桁の、東北地方の娘たちが身体を売らねば生きられなかった時代を丁寧に描くべきだったろう。赤誠に燃える反乱軍の思いも、前提知識がなければ単なる「天皇教」に狂った暴走軍人にしか見えないだろう。



Bostonにて

虎の子はジャングルに、熊の子は森に、土竜(もぐら)の子は土中に生きることを宿命付けられている。

我々人間は、いや人間の子は、何を宿命として生まれてきたのだろうか。
生産の効率化と利潤の最大化によって特徴付けられる資本主義経済社会だろうか。
国家という団体が政府を持ち、ほぼ強制的にこの団体への帰属を要求される政治システムだろうか。
地球を支配する万物の霊長としての責任だろうか。

もし旅という道楽に我々の思想にもたらす何かしらの意義があるとすれば、それは自分の現在の環境=世界は、けっして虎の子にとってのジャングルではないということを体験できる可能性だろう。東京からNYCに行くのはインドネシアのジャングルからボルネオのジャングルに行くのとさして変わるところがないが、世界には我々がいかに「現在とは違う仕方で存在し得るのか」を示してくれる文明が山ほどある。近代主義的な人類学者のように電話を使ったり車に乗ったりしたことがない人を見て面白がればよいというのではない。

自分の現在の環境=世界が、唯一絶対の世界であり、従って自分はその世界とそのメカニズムに従う他ない存在であるという諦めは、我々の精神を毒する。俺は内心において常にこれを拒否し続けるだろう。
世界を隈なく旅しても、遺跡や都市を、動物園のライオンや猿を見るように自分の「外」にあるものとしてしか見物できないのでは、旅から得られるものは日本より安く買えたポーランド製のルイ・ヴィトンぐらいだろう。
世界は広く、我々は多様である。
だからこそ、俺は日本に拘るのだ。

「わが命月明に燃ゆ」を旅路で読む。
自分がいかに愚劣な人間であるかを痛感する。

Boston のPubにて酔っ払いが記す

韓日関係の「最後の一線」

朝鮮日報の8月16日の社説から抜粋。
北朝鮮の新聞の社説と言われても、あまり違和感がない。


「今の日本は、「世界第1」で自信満々だった1970-80年代の日本ではない。内では長期不況と高齢化から抜け出そうと必死になっており、外では中国の台頭という事態に直面して国家の進路をめぐり議論が繰り広げられ、混迷状態となっている。極端に右傾化し軍国主義的侵略史を美化する勢力が、こうした状況をとらえて勢力を増しつつある。しかし日本の政治家は、韓日関係がある限界を越えた場合、本来の場所に戻る復元力を喪失してしまうという事実に留意すべきだ。そんな事態が現実になったら、それは韓日両国の不幸にとどまらず、北東アジアを再び地雷原にしてしまうも同然だ。」

この記事は外交的である。メッセージを伝えようとしている。
「平和の誓いを新たにしよう」としか言わぬ日本の新聞の社説よりはましだ。
敢えて地雷原などと刺激的な言葉を使ってはいるが、「ある限界」について述べることは注意深く避けている。また韓日関係の「本来の場所」と言いながら、それがどこにあるのかについても全く触れていない。

ここから読み取れるのは、ー少なくともこの記者はー韓国として日本に歴史問題で絶対に譲らぬという姿勢は見せなければならないと考えながらも、事態をさらにエスカレートさせ抜き差しならぬ関係にまではできないという遠慮である。
韓国のメディアや政治家などが、これらについて具体的に論じ始めたら、彼らが事態を一つエスカレートさせることを選択したと認識する必要がある。


京都の北は涼しいかね

2013年8月15日木曜日

正義と平和

エジプトでまた沢山の血が流れるかもしれない。欧米のニュースはエジプトにかかりきりだ。「正しいこと」を求めては血が流される。正しくないことを求める邪悪な人間たちの血だけが流れるのであれば、まだ救いようがある。

ニューヨークの自然史博物館には、T.ルーズベルトの「正義か平和かのいずれかを選べと問われれば、私は正義を選ぶ」という言葉が入り口に刻まれている。なぜ自然史博物館にルーズベルトのそんな言葉が?というごもっとも問にはここでは触れぬ。

正義があるのか、就中(なかんずく)ある政治的共同体の全員が同意できる正義が存在するのかということさえ、大いに議論できる論点だろうが、これも今日は触れないでおこう。

疑いもなく、正義と平和の問題は数千年に亘り政治指導者を悩ませてきた問題だ。なぜなら、この問題は究極的に解決することが絶対不可能な状況において問われるからだ。

沖縄の一部の人は、「基地があるから戦争になれば最初に攻撃される」と言う。しかし、それでは基地のない沖縄にある国が侵略攻撃をかけてきて、無血で占領に成功した時、その犠牲となった、「攻撃されていないにもかかわらず、他国を軍事力で以て威嚇、攻撃、または他国領土を占領しないこと」という最低限の「正義」は誰も気にもしないのか?

さりとて、河井継之介の北越戦争のように、自らが信じる正義のために戦い、結果その土地の民に塗炭の苦しみを与えてしまうことに対しても、指導者は当然に結果責任(マックス・ウェーバーの責任倫理)を負う。

究極論として「他国の侵略を受けようが、支配されようが、民主主義も自由も日本語も何もかも奪われようが、戦って死ぬよりはいい」という絶対平和主義もあり得るだろう(ガンジーの平和主義はこれとは違う)。
ここまで言わずとも、北越戦争の結果を知っている我々は、河井継之介は北越戦争など戦わずにさっさと官軍に靡いていればよかったのだと考えることがないではない。この考えを現在に敷衍すれば、「侵略の歴史を否定して再軍備を計る日本などという国と政府はなくなり、中国共産党政府かアメリカ合衆国政府の統治を受ければいい」という理屈もあり得る。

平和主義は、正義を志向しないという意味で、非・正義論なのではなく、「生存と安全以上の価値はない」という異常なまでの「生存と安全」の重視とその他の価値に対する軽蔑を含んでいるという意味で、無・正義論なのだ。非・正義主義なら「これは正義に非ず」と言いうるが、「生存と安全以上の価値はない」という社会において正義はその存在そのものが「無い」。

日本の平和主義憲法は、常に正義ではあり得ない。なぜなら平和と正義は多くの場合、一致することはないからだ。
もし仮に、「自分たちはあまりに馬鹿なので正義などと言いながらまた侵略戦争を始めてしまうんです」と言う人がいるならば、もう日本に民主主義はいらないし、誰か他の民族の独裁権力に支配されればよかろうと思う。

恐るべき、加奈陀

実は初めての一人での海外旅行。出張とは、当たり前だが、違う!

モントリオールは驚くべき、驚くべき街だった。たった一日の滞在だが、それでも俺の受けた印象と実態はそれほど変わらないだろう。

○丸一日モントリオールに居て、朝も昼も夜もそれなりに出歩いたが、街中でも駅でも港でも一台のパトカーも一人の警官も見なかった。DCから来た人には特に驚きだ。あれ。昨晩交通事故現場に止まっていたのはあれはパトカーかな。

○街中で地図を広げてどこへ行こうか考えていると、必ず誰かが「道わかりますか?」と声をかけてくれる。

○丸一日街にいて、車のクラクションを全く聞かなかった。ローマや北京から来た人は特にこれに驚くはずだ。

○街が美しい。モントリオールの旧市街地は北米(=アメリカ、というイメージ)ではなくフランス北部の田舎街のようだ。石畳と煉瓦や石造りの古い建物を、鮮やかな花たちが彩る。街を歩き、カフェのテラスで珈琲を飲みつつボケーとしているだけで十分。

○不機嫌そうな人が少ない。ニコニコしている人はとても多い。DCはイライラした顔の人が多く、東京は疲れ切った顔の人が多い。

大袈裟なようだが、たった一日の滞在で、アメリカのどの街、欧州やアジアの緒都市に対しても感じなかった愛着をすでにカナダという国、その街と人々に対して抱いている。
昔、日本に滞在経験もあるポール・クローデルというフランス人の外交官が、「私にはどうしても滅びて欲しくない一つの民族があります。それは日本人です」と言った。今、どうしても滅びて欲しくない国にカナダを挙げる人は世界中に多いだろうと思う。

だが欠点とも言えぬ欠点が二つある。
まず、風景が美しいので長距離の電車のなかで本を読む気になれないことだ。今日は読書はもう諦めてカメラを膝に置いている。
もう一つは、幾分平和に過ぎるような気がする。偉大な思想家や起業家はなかなかこの国からは生まれないかもしれない。

Quebec Cityを目指して電車は一路北を目指す。
あー。あんまり早く着かないで欲しいな。ゆっくり、ゆっくり。

「読むことが、単なる知見の移動に終わってはならない。」

ー佐々木中

読むことが、情報の取得でしかないならば、世の中のすべての本は本質的に携帯電話のパッケージにくっついているマニュアルに等しい。
100冊の本を読むのは、100冊分の知識を得るためではなく、そのうちのたった1冊に自分を変革してしまうような強烈な本があることを知っているからだ。

しかしそれは、現在の自分と客観的な目標との間を橋渡しするようなものではなく、自己を動揺させすべての偶然性に遭遇し、その上で主観的に特定の立場を力強く選択することだ。
だがそれは再び破壊されよう。そうして紆余曲折を経て、大河が数千キロを蛇行しながら様々な養分を河口に運ぶように、「すべてのものに豊かにされ」(パオロ・ツェラン)て、やがて我々は海へと至るであろう。
そして、その時には、はるか山奥の源流で新たな水が静かに地中から湧き出でているであろう。

川と命の連鎖のこの強烈なイメージは、俺がどれだけの時間を高梁川の畔で、またその流れの中で過ごしたかを示すものだ。
またそれは、自己と世界が分離してから間もないかつての俺にあっても、ーいや、だからこそー俺の潜在意識に終生消えることのない記憶を残した。多少戯画化されているような気もするし、そうでもないような気もする。

いつも河の側に在りたいと思う。できれば、賀茂川。鴨川ぢゃないよ。

Van Houtte Bistro, Montrealにて記す

2013年8月13日火曜日

中韓を挑発する安部政権?



世界のFTの記者が「靖国には戦犯の遺体もある」と書いてはいけませんな。靖国には御魂以外になにもありゃしません。ひどい不勉強だ。 
731と数字が入った飛行機に首相が乗ったから、731部隊のことを思い出させて中韓を挑発したんだなんて、たいそうな想像力だ。 
しかし、世界ではこう解釈し、それのみならず有力紙にこのように書いてしまう人もいる。Public Diplomacyは戦いである。 
一つの救いは読者の冷静で常識的なコメント。 
写真も同記事より。


ドミノピザのCMに感動した

昨晩、ホテルでテレビを観ていた。家にテレビがなく、仕事でホテルに泊まる時はだいたいホテルの部屋には寝るためだけに帰るので、あまりアメリカのテレビを観たことがない。なのでやたらと新鮮だった。

CMのなかで、ドミノピザのCMが流れ出した。
宅配ピザのCMなので、「これだけてんこ盛りで、10ドル!コールナウ!」みたいな分かりやすいが芸のへったくれもないCMだろうと思っていたら...違ったのだ。

そのCMでは、深夜のオフィスで袖を捲って議論を戦わせるビジネスマンや一人で机に向かう作家(?)の映像が流れ、ナレーションがこう入る。

「アメリカが偉大なイノベーションを生み出す時、ピザはいつもそこにありました。」

これが真実かどうかは重要ではない。アメリカ人の多くが、恐らくピザを片手に勉強したり、プロジェクトの締め切りに間に合わせるために遅くまで同僚と働いたりという経験があるのだろう。そういう人には必ずグッとくるCMである。
ピザ屋がピザだけを売っていてはだめなのだ。このCMが訴えているのは、「ピザとともにあった時間」である。

そしてこのCMはこう終わる。

"Looking forward to see what you do next."

意訳すれば、「ピザをほうばりながら、皆がこれからどんなことをやってみせてくれるのか」かな。
「10ドルはあと3時間だけ!コールナウ!」よりどれだけスマートであることか。

さすがアメリカ。良くも悪くも物語らせたら世界一。

さー、明日はCanadaはMontreal!

核兵器は「絶対悪」なのか

広島市長が言ったそうな。「核兵器は絶対悪」。

仮にこの命題が正しいとしよう。
単純な疑問が浮かぶ。絶対悪とまで言われる核兵器を作り出した人類は、核兵器と同様に絶対悪ではないのだろうか。絶対悪ではない存在が、絶対悪を生み出すことはできるのだろうか。それとも人類のなかの一部の極悪人が核兵器を生み出し、今も運用しているのだろうか。

残念ながら、違う。
核兵器を生み出したのは、アメリカ合衆国の最高の頭脳たちであったし、これに続いたいくつかの国の核技術者や政治家のなかに、世界を破滅させようとした人もいなかったと思える。家族を持ち、友人と酒をたまに飲む、広島市長と何ら変わるところのない普通の人間だったはずだ。
仮に核兵器が絶対悪であるのならば、核兵器を廃絶するためには人類はどんなことでもなすべきではないか?
T.ルーズベルトは、「もし正義と平和のいずれかを選べと問われれば、私は正義を選ぶ」と言ったが、絶対悪の核兵器を根絶するために、どれだけ平和を破壊しても仕方がないということになりはしないか。もし平和のために存在を許容できる程度の悪であれば、最早絶対悪などではなく、相対的な悪である。

思想的立場として、核廃絶を訴える人の気持ちはよく分かる。だが、この発言は単なるワイドショー向けの内容空虚な妄言としか言えぬ。

この市長の演説では、非戦闘員に対する核兵器による無差別爆撃を行ったアメリカ合衆国に対する批判は全くない。
この人は、「戦争なんだから東京大空襲で市民が10万人焼き殺されようが原爆が落とされようがアメリカを批判することはできない」とでも思っているのだろうか。
アメリカの戦争犯罪を忘れてはならない。それは今同盟関係にあることとは無関係のことだ。

NYC, 5th Ave, 35th stのスターバックスにて記す



空中給油機導入へ 独島上空で90分戦闘可能=韓国 (朝鮮日報)

なんとも気合が入っておられるやうだ。


【ソウル聯合ニュース】韓国の防衛事業庁は12日、海外から空中給油機を導入することを決めた。主力機のF15KとKF16戦闘機の作戦遂行時間を大幅に延ばす方針だ。

 韓国軍は1兆ウォン(約868億円)以上の予算を投じ、2017年から2019年に4機の空中給油機を導入する。来年10月に機種を選定する予定で、候補機種としてはエアバスのA330MRTTやボーイングのKC46・767などが挙げられている。

 空中給油機を戦力化すると、戦闘機の作戦時間が1時間以上延び、独島上空などでの長距離作戦が可能になる。燃料を満タンにせず、ミサイルなど兵器を搭載することで、攻撃能力も高まると期待される。

 独島の上空でKF16は約10分、F15Kは約30分しか作戦を遂行できないが、空中給油を受けると、KF16は約70分、F15Kは約90分作戦を行える。

 空中給油機は米国や英国、フランス、ドイツなど約30カ国が運用している。韓国より国土面積が小さいイスラエルやシンガポールなども保有している。2008年からKC767空中給油輸送機の導入を推進した日本は2010年に4機を配備した。4機を追加導入する予定だ。

恐竜に戦争では勝てるだろうけど

幼い頃の恐竜に対する憧れは、やがて彼らに対する嫉妬に変わった。地球を支配した時間の長さにおいて、ヒトは恐竜たちにまだまだ遠く及ばない。恐竜たちが地球に王者として君臨すること実に1億5千万年(もちろん諸説ある)。我々ヒトの祖先アウストラロピテクスが誕生したのが6百万年前。アウストラロピテクス誕生から今日までの歴史を人類は、あと25回繰り返さないと恐竜には追い付けない。永劫だな。永劫回帰だな。
このヴェロキラプトルの獲物を切り裂くための恐ろしげな爪と、いかにも素晴らしいランナーであることを思わせる均整のとれた体躯。

しかし、アメリカみたいにどこでもWIFIになるかな日本も。

ニューヨーク自然史博物館にて記す

2013年8月7日水曜日

我以外、皆師であるならば

○どうでもいいことに熱中しているかのように毎日を生きていると、次第に「どうでもいいこと」と「そうではないこと」の区別がつかなくなり、最後にはそれらを分け隔てようとする意識もなくなってしまう。
レトルトのカレーを5年食べ続ければ、それは立派な"カレー"の味になる。さりとて、カレーでなく"カレー"であっても、何もないよりはよいことだと考えがちあることに我々の試練がある。虚偽の熱中なぞに屈服してなるものか。

○松下幸之助翁は、「我以外皆師である」と言った。これを逆に考えてみる。すると、我々は、皆師たることを期待されていることが分かる。教師という職業に就いた者はもちろん、プロ野球のコーチも、商社の課長も、ヤクザの若頭も、自衛隊の連隊長も、誰かの親も、皆が皆、誰かにとっては師であることが当然期待されている。別に何かを教えることが教育だとは思わぬ。自身の人格をさらけ出して、俺はこう生きている、貴様はどうだと問うてやることが最も得難い教育であると思う。今はそんなものは流行らんのだろうが、最もよい師は必ず極端である。12年間の野球生活のなかで俺が得た最大のものは、生き様が服を着て歩いているような男に若くして出会えたことだと思う。誰にでも好かれようとして、誰にも何も伝えられないというのは世にありふれた喜劇である。

○アメリカにはすべてがある。しかし無常観だけがない。この国では吉田兼好も西行も居場所は全くない。秀吉の「浪速のことも夢のまた夢」なんぞ誰も分からんだろう。まぁ、世は儚いなぁなんて呟いているような人間は、欧州にじーっと留まっていたんだろう。オバマ大統領の、「アメリカの最高の時代はこれからやってくる!」という言葉。アメリカ人以外には誰もよう言わんだろう。大人はこれから最高の時がやってこようがこまいが一生懸命に命を繋いでいくのである。

宗教は終わらない

もうすぐ帰国

○オバマ大統領の演説の真似もできるしチャーチルさんの真似もできるが、チャーチルさんの言葉をオバマ大統領のあの抑揚のついた元気なトーンで話すのはかなり難しい。チャーチルの演説はイギリスの天気のように陰鬱なんだが、恐ろしく気合が入る。

○"In my country, as in yours, public men are proud to be the servants of the State and would be ashamed to be its masters."

ーチャーチル
1941年12月26日、米国議会での演説で

○石原莞爾に欠点があったとすれば、それは彼が自分の行動の他への影響をよく考えられなかったことかもしれない。満州事変を主導した石原は、明らかに中央無視、下克上、独断先行の昭和の日本陸軍の悪しき風習を作った。その最大の理由は、満州事変が全体としてあまりによく計画され、関東軍の電光石火の攻撃で中国東北部の重要拠点を瞬時に占領し満州国の建設にまで至ったからだ。この事変の大成功を受け、石原はこの後中央の要職である陸軍作戦課長、作戦部長へと出世していく。石原が満州を離れて東京にいた時、中国本土と東北部を分離しようとする工作がうまく行かず、挙句に1936年には国共合作によって反日の統一戦線が中国にできた。この問題の解決のために、石原より若い、より過激な陸軍将校が、5、6年前の石原と板垣による満州事変を思い出し、1937年の柳条湖事件の後は一気に戦線を拡大していったであろうことは容易に想像できる。だが、彼らには、石原のごとき透徹した戦略眼はなく、中国との戦争はただちに全面戦争へといたりやがて泥沼化していくことまでは予見できなかった。柳条湖事件の直後に石原本人が、事件の不拡大方針を伝えにわざわざ東京から新京の関東軍司令部を訪ねたことは歴史の皮肉である。石原自身が、たった6年前には中央の以降を全く無視して満州を我が物としたのである。仮に石原が1931年に満州でなしたことが、指揮命令系統を逸脱した暴挙であっても、結果がよければすべてよしとすることもあり得ただろう。しかし、その後に彼を中央で出世させたことは、後の帝国陸軍に遺恨を残したように思う。人事と論功行賞の難しさである。

○フェイスブックは2ヶ月で終了。食わず嫌いが正しいこともあるという典型である。ブログは、誰にも読まれないだろうが、フェイスブックはほとんど強制的に「友達」に俺の記事を読ませるところがある。だから皆「楽しかったー」「美味しかったー」などを載せるわけだが、寂しがりや以外には、純粋に徒労である。