2010年7月31日土曜日

ふえいばりっとたいむ

ユーチュウブでオバマ氏の演説を流し、シャドーイングしながらのパワー
クリーンとアームカール。

長渕剛「Stay Dream」と自由について

音楽をよく知らぬが、”死”という言葉で始まる歌を、我はいまだこの曲以外に知らぬ。

Stay Dream (作詞作曲:長渕剛)
(http://www.youtube.com/watch?v=Udx_aPLuR_w&feature=related)

死んじまいたいほどの 苦しみ悲しみ
そんなもののひとつやふたつ 誰もがここ
あそこにしょい込んでるもの 腰をおろし
ふさぎ込んでも答えは Nothing!
ぶっ飛ばしたいほどの 怒りや悔しさ
そんなもののひとつやふたつ 殴られた痛みは
TRYへのワンステップ 尽きせぬ自由は
がんじがらめの不自由さの中にある

※くよくよするなよ あきらめないで
Just Like a Boy その痩せこけた 頬のままで
果てしない迷路の中を 人はみんな
手探りしてでも Stay Stay Dream
そう Stay Stay Dream Stay Stay Dream※

ひねくれかけた瞳の ずっとずっと奥にもがいてる
もうひとりの俺がいる 一番怖いものは
勇気だと知った時 自分の弱さに想わず鼻をつまんだ
もうこれ以上先へは 進めない
たとえば挫折が目の前に立ちはだかる
そんな夜は心で 命の音を聞け
たかが こんな自分は!と 一度だけからかってみなよ

(※くり返し)
Stay Stay Dream Stay Stay Dream Stay Dream


誰もが好きになる歌ではないだろう。
どこかのアイドルグループがかつてうたったような、誰もが「もともと特別なおんりーわーん」というような耳に優しいが無益な慰めとは対極にある。

特に、歌詞にある、

”尽きせぬ自由はがんじがらめの不自由さの中にある”

という言葉は、時代に風化することのない金言だ。詩人・渕剛の面目躍如である。
学生時代、正直にいえば、どんな本を読んでも「尽きせぬ自由はがんじがらめ。。。?」と悩むばかりで理解できなかった。今は、体が理解する。
「がんじがらめの不自由さ」とは、「義務」のことだ。
義務。冷たい法律用語と誤解することなかれ。
法律がなかろうが、国家がなかろうが、そんな低次元のこととは全く無関係に、俺や貴様の腹のなかにある、「義務」の観念。「俺は、俺を超える高次の価値のために存在し、俺が暮らす毎日はそのためにある」という実感。それを大切にしよう。我々は、自身のためだけに生きられるほど阿呆ではないし、そんな生き様を誰も望んではいない。死に向かって一直線にあわただしく走り回る我々が、自らの人生を肯定することができるとすれば、それは総体としての人生に、自身を超える価値を与える場合のみであろう。
それを失ったら、人間は終わりだ。目的なき人生なぞ、冷え切って油が浮いたカープラーメンの汁をすするようなものだ。
「自由」という言葉のもつ心地よい響きと、それが実際に我々に与える孤独、苦悩、それを突き抜けてようやく到達する主観的につかみ取られた「義務」。
その義務は、例えば、「親として子を立派に育てること」であったり、「常に最高の料理と時間を提供すること」だったり、「祖国の永遠の繁栄の礎の基たるべく生きること」であったりするのだ。それらは、それ自体として積極的な価値を有するものだ。なんらの触媒を必要としない。(例えば金は、それ自体として価値を持たない)。自分が確固たる価値の上に存在し、それに関連付けられ、そのために生きていると実感を得られれば、我々は腹の底から愉快になれる。そうして初めて、我々は自身の腹のうちに太陽を宿す。そのとき、我々は最早外部に熱狂を求めることを必要とせぬ(渋谷でW杯の試合に熱狂するものの日常は、恐るべき虚無に彩られているのだ)。
貴様の腹のなかの、青く小さく燃える太陽を感じてくれ。
熱く生きるとは、そういう生き方をいうのであって、大勢の友人と毎夜遅くまでぐうたら小鳥のようにさえずることをいうのではない。

俺は、自由というものは、数多ある、我々が行いうる徳のなかで、自分は何れを選択し、何れにその命を燃やすのか、そういう選択の裁量のことを言うのだと信じる。
それは、けっして、「好き勝手になんでもできる」ことをいうのではない。そんな絶対王権主義時代の、消極的な自由の定義にいまだに拘泥していては、貴様の魂は浮かばれぬ。

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

と詠った吉田松陰先生も、長渕のこの詞を正しく理解することであろう。

講談社現代新書が出している、佐伯啓思「自由とは何か」を勧めたい。
小著だが、抜群である。

2010年7月29日木曜日

Escalating Violence From the Animal Liberation Front (暴走する動物解放戦線)

 
"100年予測;を書いたStratoforという民間シンクタンクのHPに面白い記事があった。英語ですがぜひどうぞ。
過激な動物保護主義者のなかには、羊の皮製品の工場を攻撃したり、生物学者の家を爆撃するものまでいるらしい。
これなんか完全に宣戦布告じゃ。

"The arson at the Sheepskin Factory in Denver was done in defense and
retaliation for all the innocent animals that have died cruelly at the hands
of human oppressors. Be warned that making a living from the use and abuse
of animals will not be tolerated. Also be warned that leather is every bit
as evil as fur. As demonstrated in my recent arson against the Leather
Factory in Salt Lake City. Go vegan! - ALF Lone Wolf"

米国だけではない。メキシコでも激しいらしい。日本ではまだ聞いたことがないが。。。
 
こちら、ALF(Animal Liberation Front=動物解放戦線?)のHP。
誰がどう見てもテロリストのものにしか見えませんな。
シーシェパードが可愛く見える。
 
しかし背景が黒というのはやはり渋い。
 
 

写真です。

九州電力玄海原子力発電所

昨日、初めて原子力発電所を訪ねた。烏賊で名高い呼子から車で数分の、九州電力・玄海原子力発電所だ。
現在、沸騰水型軽水炉四基が稼働中、うち一基は昨年からMOX燃料(注)での発電を開始している。
九州電力の昨年の原発による発電は、九電の総発電量の42パーセント。鹿児島は川内(せんだい)の三号基が2019年に運転を開始すれば、この数字は50パーセントまで上昇する。

当たり前だが、警察の交番がすぐ隣にある厳重な警備を突破してから、タービン建屋や使用済み燃料プールを見学できた。
特に面白かったのは、使用済み燃料プールだ。ここには、MOX燃料と使用済み燃料を、ほう酸を含んだ純水のなかに保蔵している。北朝鮮の核開発のニュースの際に、毎度テレビに出てくるあの青くあやしく輝くプールである。MOX燃料も使用済み燃料も、放射能を発するために、水中での保管が必要だ。これらの写真をとることは当然ながら厳禁!!!だった。さらに、これらは容易に核兵器に転用できるから、保管庫内にはIAEAが設置した監視カメラがある。そばの看板には、「国際条約に基づき設置されたカメラであるため、触れることを禁ず」とあった。
この保管庫のなかでMOXを動かすときには、なんとIAEAから立会人が監視のためにやってくるそうな。

写真は、四基の原子炉建屋。手前には、排熱で温める温室。
批判も問題もある原発だが、原子炉一基が発生させる蒸気で回すタービン一基で、佐賀県全体の真夏のピーク電力需要を賄う原子力のパワーはとてつもない。
現在石油ガス大国までが、原発に向かって走っているが、世界は最も危険な"ウラン濃縮"を野心的な国家の指導者から遠ざけておけるだろうか。俺は、これを不安に思う。(下で俺がウラン鉱石に触れていることから分かるように、濃縮されていないウランは安全だ。ウラン235を自然界にある状態の濃度の0.7パーセントから約4パーセントにまで濃縮すると、民間発電用の低濃縮ウランとなり、99パーセントまで濃縮すると、原子爆弾の素材となる。そのため、原子燃料サイクルでも濃縮は最重量の部分であり、世界で四社しか濃縮サービスを提供する会社はない。)

写真をたくさんとりたかったなぁ。

注:MOX燃料モックスねんりょう)とは混合酸化物燃料の略称であり、使用済み燃料中に含まれるプルトニウム再処理により取り出し、二酸化プルトニウム(PuO2)と二酸化ウラン(UO2)とを混ぜたものである。 主として高速増殖炉の燃料に用いられるが、既存の軽水炉用燃料ペレットと同一の形状に加工し、核設計を行ったうえで適正な位置に配置することにより、軽水炉のウラン燃料の代替として用いることができる。これをプルサーマル利用と呼ぶ。





2010年7月28日水曜日

大前研一「民の見えざる手」小学館

半ば読了。面白いと思った要点のみ挙げる。

・大手総合スーパーが互いに安売り競争に走って互いに首を絞めあって成長できない
のは当然だ。彼らは、もはやマジョリティではない「親+子二人」の核家族をター
ゲットにしている。現在日本のマジョリティはすでに単身世帯である。
・金利の上げ下げとマネーサプライの多少によって景気をコントロールしようとする
ケインジアン的な経済政策は、ほとんど無効だ。原因は「グローバル経済」と「サイ
バー経済」。
・2009年12月期の、サムスンの営業利益は、日本大手電機メーカー8社(シャープ、
三菱電機、NEC、富士通、東芝、ソニー、パナソニック、日立製作所)のそれを足し
てもまだ余る。
・デフレデフレと叫ばれる時代にあっても、実は人々は金をつかうところではつかっ
ている。例えば、箱根の2人1泊10万円もするような高級温泉宿の予約は、週末はもち
ろん平日もカップルたちの予約で一杯だ。だが、彼らは必ずしもこういう消費に見合
う所得を得ているわけではない(別に年収が2000万円のものばかりではない)。現
在、このセグメントの消費活動は、生活全般についてこういうふうになるだろう、と
いうものが予見できない。500円の牛丼を食べた人が、フェラーリでユニクロに買い
物にいき、そこで買った1000円のポロシャツをきて1泊10万円の宿に向かうこともあ
る。
・日本人のブランド離れは金がないからではない。名だたるブランドは、そもそもは
「顧客へ最高の価値を提供すること」によってブランドとして成立したのに、現在は
イタリアではなくスペイン⇒ルーマニア⇒中国でのOEM(相手先ブランド製造)へと
進んでいった。大規模なOEMによって、各ブランドの製品はほとんど同じようなもの
を同じようなラインアップで並べるようになった。顧客へ奉仕することを忘れたブラ
ンドに残ったのは、「○ィトン」というブランド名だけだ。
・上のような消費控えの理由は、「いざというときのための備え」だろう。財布か
ら、金利のほとんどつかない預金通帳から、いかに金を誘い出すことができるか?
・えらい勢いで広がっているPB(Private Brand)商品の安さを前面に出した経営戦略は、
諸刃の剣である。「安ければよい」という姿勢は、顧客の顔を見ない商売につながる。
「安価」ゆえに、「価値の低い(安い)」商品ばかりが商品棚に並ぶということ

になりかねない。「価格」と「価値」を混同してはいけない。価値を帰れば(=上げ
れば)、値段を下げずとも商品は売れる。
・ブランドは、安売りをしたらおしまいだ。ソニーはかつて「クオリア」という最高
級ブランドを作ったが、大失敗した。原因は、それまで「ソニーの技術は最高だ」と
思っていたソニーの顧客は混乱し、結果ソニーの売上げが減少した。
・民主党のマニフェストは、人々のニーズや経済低迷の原因を無視した「無駄遣いの
アイデアコンテスト」だ。(上手いこというなぁ。。。)
・不況だの低成長だのといいながら、日本の経済は依然混乱をきたしていない(いま
のところ)。金融危機、財政危機のなかで日本円が買われているのは、海外からみれ
ば日本はやはり「世界で最も安定した国だからだ。(だが、そういうマネーは、日本
政府はいざとなれば国民の資産を差し押さえるだろう、そして日本国民もそれを承知
で国債を買っているのだろうと錯覚している)
・「増税」「税金財源」「外国頼み」はどれもだめだ。
・最近米国企業の人事戦略はおもしろいものがある。一流大学出身者を採用せず、軍
から採用している。それら企業には、AT&T、バンカメ、ウォルマート、ペプシコなど
の超有名企業が含まれる。ジェフリー・イメルトGE会長いわく、「予測不可能の緊急
事態が起きた際に最も早く対応できるのは軍隊でトレーニングをうけた若手のエリー
トだ」。
・国が富むとは、個人個人が生活を楽しんでいることをいう。日本の「一流大学」を
出て、「一流企業」に就職して20年間働いたものが45歳でどれくらの資産をもち、ど
んな暮らしをしているか。欧米と比べてみると、日本人がいかに貧しいかがよく分か
る。(俺にとっても想像は容易だ。あのオランダの豊かさ。)
・老後は長い。「老後なにをしたい?」と尋ねられて、「旅」「蕎麦打ち」「ゴル
フ」「釣り」「山のぼり」だけでは時間が余って余って仕方がない。若いうちからあ
らゆる遊びを必死にやりましょう。

独り言:
ヨドバシカメラ、ビックカメラという以前から都心の駅近くの一等地に巨大店舗を構
えてきた二社に対して、地方郊外型店舗で成長してきたヤマダ電機が最終戦争をしか
けている。
石原莞爾風に言えば、一つが全てを支配して、永遠平和が訪れるのだろうか。でもそ
れって独占ですけど。
テレビ以外に売るものがろくにない電機小売業にとっては、この猛暑は何よりも有難
いものだろう。

ボーナスの日の夜中ドンキホーテで25kgのバーベルを買った。
なんでもっと早く買わなかったんだろう。
パワークリーン、ショルダープレス、ベントロー、フロントレンジ、それからチンニ
ングへ。
これをサ3セットx3日(週)やれば、だいたい3ヶ月で劇的に体は変わる。
とりあえず体重71.5kgを目指す。エレベータを主観的に絶滅させると、あなたのお尻
は上を向きます。間違いないです。暑くしんどいでしょうが。
ただね、100kgの体を毎日ぶら下げて歩くストイシズムに比べれば、俺なんて本当の
快楽主義者であります。
トレーニングの動機なんてものは、「階段を気持ちよく飛び上がりたい!」ぐらいの
ものなのだから。

母校の野球部の衰退。今年の夏は一回戦負けだ。
俺が監督をすれば立ちなおせる!という自信は全くない。だから、批判しようという
気にならないのだが、辛いものだ。

最近のブログへの投稿は粗雑だ。だが、書かないよりはいいと思っている。
特にものを読んでほほぅと感じたことは、すぐに書き出すことで明日言語化すること
が容易になると思う。定着率が圧倒的に高まるだろう。



2010年7月27日火曜日

姉のブログ

 
平和です。心が穏やかに在ることはいいことかなぁと思います。
俺は、世界の悪を一身に引き受けられるような、そういう強い男に憧れる。
倉敷の兄貴に初めてポンヌフで会ったときに感じた迫力と風圧は、凄かったな〜
 
 
 

イランにウランなんかイランからウラン

カナダ産のウラン鉱石です。
普通の御影石にしかみえませんが、核爆弾の大元はこいつです。

2010年7月25日日曜日

ダニエル・ピンク「モチベーション3.0」講談社

人間は、外部的要因(たとえば罰や報酬)以外の要因で行為することがある、しかもその時こそその人は最も「幸福」であり、近代産業的な意味での「生産性」も最大ではないか?というのは僕の学生時代からの問題意識であった。
なぜといって、以前にも書いたが、俺が最も熱心に取り組んだ物事というのは、まったく外部的な要求とか制約とかから自由なものだった。大きなブラックバスを釣ること、誰よりも早いストレートを投げること、それは別にそれができなければ誰かが俺を罰するからでも、それができればお小遣いが貰えるからでもなかったが、ほかのどんなこと(典型的には学校の勉強)よりも必死に取り組んだ。その時に発揮された俺に記憶力には家族はいつも唖然としていた記憶がある。
 さらに言えば、最近はやりの「インセンティブ」という言葉を俺は嫌う。なぜならそれは特攻隊をはじめとする英霊の死地へ赴く動機付を説明することも、まして肯定することもできないからだ。個人の行動の原理を、目の前にニンジンをぶら下げられた馬のごとく理解して、人間を単に損得勘定のみで行為するホモ・エコノミカスに堕落させているようなこの理屈には、昔から論理的には説明できぬ生理的な嫌悪感を抱いていた。
 
 で、この本である。右打ちが非常に上手い(野球です)俺が勤める会社の同期のT君が推薦してくれたので、本屋で見つけて手に入れた。ありがとう。
ピンクの著書は面白いので、ハードカバーで300ページあってもあっという間に読めてしまう。
 ひどく荒っぽく要約すれば、この本の主題はこうだ。

「モチベーション3.0の時代には、人間は生存の欲求からでも、罰/報酬のためでもなく、個人の内在的な動機付により行為する。そして、その時こそ、最も創造的な仕事(=遊び)ができる。」

ということになろうか。つまり、生存への欲求(モチベーション1.0)、罰/報酬(モチベーション2.0)に続く、モチベーション3.0の時代なのだ!ということだ。人間を、単に自己の利害・経済損得のみならず、「人生を自分で管理したい、新しいことを学び創造したい、そして向上して世界に貢献したい」という人間に内在する欲求をもとに行動する」ものとして理解する。

 クリス・アンダーソンが「フリー」という本を書いて数カ月前に大変売れたが、個人が1.0や2.0の理由のみで行為すると考えるならば、ウィキペディアに無償で記事を投稿する人の行為を我々はどう理解できるだろう?不可能だ。
 モハメド・ユヌスに代表されるいわゆるソーシャル・ビジネスの隆盛についても、個人を2.0の時代のように理解していては、とても説明できない。個別企業の利益の最大化ではなく、社会的利益の最大化を目標とするソーシャル・ビジネスは今後ますます増えていくだろうが、これを行う者の動機は短期的な経済的利益のみではないことは明らかである(それを無視したり卑下したりするものではないとしても)。 
 さらに、これまたここ数年大流行の行動経済学の知見も3.0の考え方を支持していると言えるだろう。
人間が、唯一外部的かつ経済的な誘因によって行為するという定説は、すでに過去のものとなった感さえある。

 さらに、行動に対して罰や報酬を与えることは、個人の「自律性」を奪う可能性が述べられているのが興味深い。産業資本主義の時代の、「アルゴリズム的な行動」(たとえば、ひたすらネジを同じ板にとりつける仕事)などには、罰や報酬は一定程度まで有効である。だが、「右脳的な仕事―柔軟や問題解決や創意工夫、概念的な理解が必要とされる仕事―に対しては、報酬はむしろマイナスの影響を与える」そうな。なぜなら、「芸術家にとっても科学者にとっても、発明家や学生、その他すべてのひとにとって、内発的動機付―その活動に興味をひかれ、やりがいを感じ、夢中になれるからその活動をしたい、という原動力が高いレベルの創造性を発揮させるためにきわめて重要」(P.77-78)なのだから。
 これは容易に理解できる。上の例でいえば、「一日の間に締め上げたネジの数に比例して給与が増加する」となれば、労働者は給与の増加を期待する限りできる限り多くのネジを締めようとするだろう。だが、たとえば俺があるケチャップメーカーの広報戦略を立案せよと言われたコンサルタント(相談される人)である場合には、「これだけの成果をあげればボーナスをこれだけ渡そう」と言われても、なかなかよい結果につながることを予見しがたい。この場合の仕事とは、労働と比例的に計算しうるものではなく、“All or nothing”の仕事である。「報酬の存在によって、周囲がみえにくくなり、独創的な解決策を生みだしにくくなる傾向がある」。
ピンクも言うように、「これだけ仕事をすれば、これだけの成果が出る」と容易に想定しうる仕事は、もはや先進国経済においては必要とされないのかもしれない。米国の公認会計士がインドの公認会計士と戦わねばならない「Flat World」な時代においては、「誰でもできる=計量できる」仕事は、ますます発展途上国に移転されるのだから。
 
 仕事=つまらないものという隠された(?)前提の上に、企業における成果主義は成り立っている。仕事それ自体に意義があると会社の全員が感じ、理解しえたならば、個人が必ずしも彼/彼女自身の報酬に拘泥するはずがない。
 ただ、現在の総ての企業の構造(ヒューマンツリー)が、第二次世界大戦当時の各国の軍隊のそれとほぼ完全に同じであるということは、人間=報酬に従って行為するホモ・エコノミカスとして理解し処遇することの簡便さを物語ってもいようと思う。

読了前に思いつくままにざっと書いてしまった。どこかの泡沫政党の月間の機関紙の書評欄にも使えぬものだ
けれど、みなさんの読書の一助になればとても嬉しく思う。

独り言:
「ソーシャル・ビジネス」、「行動経済学」、「モチベーション3.0」、「フリー(オープンソース)」。
この四つは、すべてたがいに強い連関を有していると思う。この四つは今のところ別個に説明されているのだが、なんとかこれらを統合していひとつの新しい産業モデルの登場の意味を言語化することに挑戦したいと思う。
加えて、特に「フリー」だ。面白いのは。原始共産主義の夢ではないが、高度情報化社会(すべての個人が携帯型ツールによって世界中のあらゆる情報・知識にタダでアクセスできる社会)というのは、資本主義社会に住み慣れた我々には予想できない全く新しい時代を招来するかもしれない。

猛暑⇒ビアガーデン売上アップの方程式を理解できないのだが、なぜだ。
想像するに、彼らは、大汗をかきながら同僚や友人と冷え冷えのビールで「かんぱーい!」とやるのが好きなのだろう。つまり、厳密な意味では、高気温と冷たいビールの因果関係は直接リンクしていないのだ。
暑いときは、さらに暑いサウナで一人我慢大会をやるのが一番よいと思う。
暑い時は汗をかくチャンスでもある。

女性の言いなりにならない男。女性の自由にならない男。
そうではない男は、残念な男だ。
残念でない男でありたければ、女性からの尊敬を必死になって獲得せにゃならん。
尊敬も持てない男が、女性に「おれに従え」と言えば、そりゃチワワだってガブリとやるだろうよ。

アーネスト・ゲルナー風に近代産業が近代国家を必要とした(「産業世界では、複数の高文化が発展するが、彼らは一つの教会ではなく、ひとつの国家を必要とし、しかもそれぞれ一つの国家を必要とする」)と理解するならば、先進国が産業社会を脱しつつあるとしたら、これらの国家は一体なんの基盤の上に成立し得るだろうか。俺はわからない。
改めて問いたい。
「日本国家を現在成り立たせている原理とはなにか。」
「国家とはそもそも人間存在にとって根本的に不可欠のものであるのか。」
そして、「現在の社会とは、どういう社会であるのか。」
それを「八百万の神に象徴される大和(大なる和)の精神である」と言ってはいられないほどに、この国は空中分解の危機に接近しつつあるように思えてならない。
俺は、上のような問いが、単なる俺個人の趣味的問答を超える重要性を持つものと信じる。
1960年代には無用の問いであっただろうがね。

車が欲しいと思ったことはない。車を運転したいと思ったことは数え切れないが。
自動車メーカーが販売するのが、工業製品としての自動車である時代は日本では終わった。
今や彼らが売るべきものは、自動車がもたらす”経験”である。

このブログに対して、たまにメールや口頭で感想をくれる方がいる。
忙しいのにいつも読んでくれて、とてもありがたく思っています。
ありがとう。

山桜

2010年7月18日日曜日

佐藤優「"国家統合の危機"に覚醒せよ!」

月刊日本というあまり有名ではない雑誌の最新刊に、佐藤優氏がいわゆる普天間問題について寄稿している。コンパクトだが非常に優れた、示唆に富む小論と思うので紹介したい。
鳩山氏が「海兵隊が抑止力とは知らなかった」という前代未聞の言葉を残して辞任して以降、普天間基地移設についてメディアが大きく報じることは絶えてなくなった。まるで鳩山氏辞任と参院選での消費税増税の争点化
で、この問題は一件落着したかのような感さえあるが、当然ながらまったく事態は改善していない。以下は佐藤氏の論文の要約である。

"日本の陸地面積の0.6パーセントの沖縄に、在日米軍基地の74パーセントが集中している。この不平等は、もはや政治闘争や経済闘争ではなく、沖縄に対する構造的差別を象徴するものとして沖縄の住民に広く認識されつつある。何故か?普天間基地を県外に移設しようとすれば、(徳之島がそうであったように)、住民の反対により実現不可能だ。だが、辺野古周辺に暮らす住民も、移設には反対にしている。どちらも民主主義の原則に従っているから、沖縄の住民の民意も沖縄県外の民意と同様に尊重されねばならない。しかし、東京の政治エリートは、沖縄県内での移設を強要しようとする。これは、つまり、「日本は民主主義国である。沖縄県を除いて。」と権力が言うに等しい。普天間問題は、東京の政治エリートによる沖縄の構造的差別のシンボルとなったために、最早妥協は不可能だ。現在の「沖縄」対「東京の政治エリート」の二項対立が、「沖縄」対「本土」になり、やがて「分離独立権を持つ沖縄人」対「日本人」という決定的な対立の構図に発展しない保証はない。"

俺は、パトリオットである。
人格をかけてここでいうが、ナショナリストである前に、俺はパトリオットであることを深く自覚する(常に対立するものじゃないが。)。だから、「最大多数の最大幸福のために」などと言ってF-15のあの地響きがするような爆音を沖縄に押し付けるということが、正しい(=just)ことだと思えない。
また同時に、冷徹なマキャベリストの視点からも、佐藤氏が主張するように、沖縄が「本土」を敵視し、スペインのバスク、イギリスの北アイルランドになってしまうことは、日本国家の根幹を揺るがす重大な事態であると思う。
恐らく、国家を「安全保障と社会保障を始めとした行政サービスを提供する機能団体」としてのみ理解するものは、ことの重大さが分からないのだ。
家族が、強い感情的/精神的紐帯により初めて価値ある小さな共同体として"機能"しうように、国家もそれを必要とする。国家は社会契約によって誕生しうるものではないのだ。

ヤマトンチュよ、沖縄を夏休みのときだけ思い出すのはやめにしよう。
沖縄は日本なのだ、沖縄は日本の沖縄なのだ。
であるならば、我々は沖縄の幸福と安寧のための武装を開始しようではないか。

山桜

大学生活事始

全ての戦略が、また戦術、作戦が、究極的な国家の大戦略(グランド・ストラテジー)に合致していなければならぬのと同様に、俺が
過ごす時間の分節も、それぞれが俺の大戦略に資するものであらねばならぬ。
普通教育以後、つまり高校に進学する際に、俺がそれからの三年という時間に与えた意味は、野球。チャーチル風に言えば、野球における勝利。他の全てのものを失ってでも獲得する勝利。そういうものに価値があると思い、取り敢えずそれ以外は無価値だと断じた。桑田の「全ては野球のために」という言葉に感銘を受け、食事、休養、その他野球以外の全ての生活の場面は野球におけるパフォーマンス向上に指向された。言わば、20世紀の国家総力戦を戦う国家の如く私生活の態勢を為したわけである。であるから、当時の俺に「勉強しなさい」ということは、昭和17年初頭の"イケイケ"の帝国陸海軍に、「平和が大事だから戦争はやめましょう!」と言うようなものだった。やがて、高校の先生達は、俺の昼食後の"仮眠"を許した。
当時の日本が悪しき従属の平和を求めなかったのと同じように、俺は野球
以外にはなにも必要ではなかった(たまに彼女がいもしたが。)

大学への進学は、単なる無駄と思われた。なにせ、ろくに勉強したことが
なかった。他者に教えられたものを制限時間内に正確に再現することを他人と競い合うことにも、様々な科目の内容にも、何ひとつ興味を持てなかった。だから、当然ながら、「大学にいったらまた勉強させられる、行きたくない。ましてもう十分体躯も成長し独立して生計を立てられるから、親に学費を出してもらってさらに四年間を過ごす必要は全然ない。大
学はいつでもいける」と考えていた。少なくとも高校二年生まではそう
だった。

ところが、ふとしたことで、俺は世界が俺が理解していたものとはひどく異なることを、歴史においてこれ以上ないであろうほどに暴力的なかたちで痛感させられた。そして、無知を恥じ、知らぬ世界を知りたいと思った。人によっては、そう思えばバックパックを背負って世界放浪に出るのだろうが、俺は大学の講義と図書館を目指した。

実際に、その場所に着いてみると、事情は随分違っていた。それまでそれなりに周囲から勉強しろというプレッシャーを受けて来た学生達は、全て
から解放されたかのような優しい表情をしていた。キャンパスはピンクと黄色であった。精神と肉体が「常に振り絞られた弓のように緊張し」(三島由紀夫)ている男は絶滅したのかと思われた。灰色の坊主、しかも、あろうことか、「大学に勉強をしに来てしまった」大錯誤者の坊主頭に、占めるべき場所は絶無であった。
俺が、積極的引篭と後に呼ばれる生活形式に、極めて積極的に突入したのは、自己の外部とのこの気持ちいいほどの断絶の故であった。周りには、日本人であることと同世代であること以上のことを俺と共有する者はいなかった。言葉は通じたが、意思の疎通は常に困難だった。彼等は、意思を保持しなかった。彼等は俺を煙たがり、俺は彼等を恐れた。金持ちたちのセスナの集団遊覧飛行に、一機、目を血走らせたパイロットが操る時代遅れの零戦が紛れ込んでいた。
俺は、無駄な付き合いと俺が独断したものを全て生活から排除した。

俺の愉快な学生生活は、こうして始まった。

山桜

2010年7月17日土曜日

河井継乃介名言集(司馬遼太郎「峠」より)

「まったく華やいでいやがる」(セリフではないが)

「為すこともなくこの世に生き、そして死んでゆく、その覚悟だけはでき
ている。この覚悟のないやつは、たいした男ではない。」

「おれの日々の目的は、日々いつでも犬死できる人間たろうとしている。
死を飾り、死を意義あらしめようとする人間は、単に虚栄の徒であり、い
ざとなれば死ねぬ。人間は朝に夕に犬死の覚悟を新たにしつつ、生きる意
義のみを考える者がえらい。」

「この風が、体を吹き抜けているようでなければ大事はできぬ。....
体はどこにもない。からだには風が吹きとおっている。一個の気だけが歩
いている。おれはそれさ。」

「あたらしい世をひらく者は、あたらしい倫理道徳を創めねばならぬ。」

「よき孔孟の徒ほど、老荘の世界への強烈な憧憬者さ。」

「自然と融けて呼吸しておればよい。死も生も自然の一形態にすぎず、一
表現にすぎず、さほど重大なものではない。」

「なにごとかをなすということは、結局なにかに害をあたえるということ
だ。」

「人間の命なんざ、使うときに使わねば意味がない。...今徳川家
は危機に瀕しておる。三河以来の譜代におあす牧野家の当主としては、こ
のとき敵地へ乗り込みこのとき陳弁せねばなんのための譜代であろう。
世々七万五千石の御禄をいただいてきたのは、この一日のためにある。男
子とはそういう一日を感じうる者をいうのだ。」

「意見じゃないんだ、覚悟だよ、これは。官軍に対して起つか起たぬか。
起って箱根で死ぬ。箱根とは限らぬ、節義のために欣然屍を戦野に曝すか
どうか、そういう覚悟の問題であり、それが決まってから政略、戦略がで
てくる。政略や戦略は枝葉のことだ。覚悟だぜ。」

山桜 

7年前の落書

実家で昔読んだ本をパラパラとめくっているとこんな落書がある。
"特殊部隊員のやうであり、スパイのやうであり、哲学者のやうであり、農民のやうであり、アスリートのやうであり、ビジネスマンのやうな、圧倒的な男に俺はなるのだ。期限は35歳。"
道はあまりに長く、時間はあまりに短い。精一杯頑張るつもりだ。

独り言:
便所飯という言葉がある。大学生のなかには、友達がいない人と思われるのがいやで、便所の個室で昼飯を食べるものがいるそうな。で、いくつかの大学は、「トイレで食事をしてはいけません」と張り紙をしとるらしい。
論点がいくらでもあるのだが、一言言いたい。そんなにいやなら昼飯一食ぐらい抜けばよいではないか。
昼ご飯は必ず食べないといかんもんではないだろう。あるいはカロリーメイトを世界一かっこよく食べることに挑戦してもいいではないか。
いやまぁ、俺の理解を完全に超えている。トイレでご飯はやめましょう。

山桜

2010年7月14日水曜日

環境危機の民主主義的源泉を問う

人間が、生存への確固たる意思を捨てない限り再生可能エネルギーへの大転換は起こり得ません。これは残念ながら絶対的な真実であるように感じています。
なぜなら、現在は民主主義の時代だからです。
産業資本主義がイギリスに成立してから数百年、我々は、我々が現在直面している環境危機を、せいぜいが巨大な生産設備とそれが支える豪奢な人々の生活(昔は馬を一頭=1馬力持つことさえ困難だったのに、現在では先進国の庶民は数百匹の馬を自宅に飼っている)のせいだけにしがちですが、そうではないと思います。僕が政治学の学徒の端くれだからかもしれませんが、環境破壊の原因の一つに人間個人の欲望を是とするアトミックな、つまり原子論的な民主主義論を計上しないことは、間違いだと思います。しかも、民主主義というのは、所詮が「今生きている人間の意見」を問うものでしかない。チェスタトンが「死者には墓標で投票してもらおう」と言ったように、近視眼を回避するための防御装置はなにもないのです。

極論の極論ですが、「多数派の意見が正しい」という悪しき民主主義が継続される限り、「国民は間違った判断をするかもしれぬから政治が独断的にでも望ましい政策を実行せねばならん」とはとても言えません。それは現在にあっては、無理、つまり理(ことわり)が無いのです。民主主義は、絶対王権と同様に市民の無謬を大前提として措定せぬことには成立しえぬものだとすれば、我々が直面している環境危機は、革新的な技術の開発などで克服されるようなものではないのかもしれません。
例えば、馬鹿が10人集まったときに、一人冷静に物事を論じれば変人と言われます。必ず言われます。馬鹿はいつも集まっては踊ります。馬鹿というのは、馬や鹿のように(馬、鹿との会話の経験はないので当て推量もいいところですが)群れのなかで意見を対立させて行う”対話”を決してしないものです。
ですが、大多数派を「大馬鹿者」と無遠慮に切り倒してしまう傍若無人のドンキホーテこそが、この危機の時代には必要なのかもしれません。

個人に自殺の権利がもし認められるならば、人類にも自殺の権利が認められるべきなのでしょうか。それが、多数派の意見ならば、少数派はいかに振舞うべきでしょうか。

「大きな物語」が失われた現在、多くの世界の破滅を描いた映画が発表され、人気を博しています。
僕には、これが、「大きな物語」を求める小さな個人が、地球という「唯一我々が共有する資産」を、人類が一丸となって守らなければならんという明確には自覚さえされぬ深い潜在意識の世俗的発露であるように思えてなりません。インデペンデンス・デイやアルマゲドン(映画)のように、世界が一つになるのは(アメリカが完全に主導し気持ちいいぐらいの「アメリカ万歳」映画なのですが)地球の外部からやってくる危機が故なのかもしれません。そういう意味では、産業資本主義以前の地球には存在しなかったこの環境危機は、“外部的”であるというほかないのです。

地球をぼろぼろにしないと「大きな物語」を再び獲得することができぬというのは、末期癌にならないと生きていることの喜びが理解されないということに類似的です。
知性とは、とるに足らぬことに感動し、歓び、泣くことです。ハイデガーをドイツ語で読んでそれをフランス語で語ることが知性ではない。もちろんそんなものではない!!!
ワンピース(漫画)に感動して泣く男、夕焼けに魂を揺さぶられ、明日の戦いへと筋肉を緊張させている男。そういう男が、かっこういいと思います。
人生は、それ自体で、圧倒的に愉快です。環境と無関係に生きられるとは言いませんが、それでも上司が狼男だろうが蛙女だろうが、そんなこととは無関係に我々の生はあってしかるべきです。それが、我々がつかみとった“自由”というものでしょう。自分の幸福がーーー幸福を求めているのではないですがーーー、もし他人に依って決定されるものだとしたら、僕は自分の人生を嗤うでしょう。
かわいい彼女がいようがいまいが、140kmのストレートを投げて甲子園に行けようがいけまいが、禿頭になろうが髪がふさふさだろうが、それ自体で完全なものだと思います。「何か楽しいことないかな」という人間がやっている「何か楽しいこと」は、おそらく全然楽しくないのだと思うのです。

飲み会から帰宅する田園都市線の最終電車にて酔っ払いが隣の酔っ払いの臭い息にうんざりしながら記す

独り言:

加齢臭を防ぐためのシャツやらなんやらを開発する人は、やっぱり毎日加齢臭の臭いを嗅ぐんじゃろうな。敵なんですから。プロじゃ。ということは、ゴキブリホイホイを開発する人はもしや。。。

小学生100人に、「将来なにになりたい?」と尋ねたら、おそらく5人くらいしか「サラリーマン!」とは言わないだろう。俺はサラリーマンになりたかったのだろうか。自分の人生を正統化するために、俺はなけなしの知性を濫用していないだろうか。別に青い鳥症候群ではない。

誰か見てくれこの矛盾だらけの悪文を。
そりゃ上司から何考えてるかわからんとほめられるはずじゃ。

山桜

2010年7月13日火曜日

2010年7月11日日曜日



姪の藍子。
順調にその容積を拡大しておる様子じゃ。いろはちゃんになるはずが生まれて出てきてみると、母ちゃんが「いろはっていう顔じゃないなぁ」とかなんとか言うて、藍子になった。まぁ、人の名前なんぞ
それぐらい出鱈目に決まるのでしょう(批判しとらんぞ)。
そう言えば、俺が幼いとき、NHKの7時のニュースを眺めつつ日経新聞を読む親父に「お父さん、なんで僕は
基っていう名前なん?」と尋ねると、親父は新聞から目線を逸らしもせず、「基本が大事じゃあろうが」と言い放った。なかなかの名言である。

人は、その与えられた名前で貴賎を決められるほど不自由な存在ではない。
自分に与えられた名前にどれだけの重みと意味を与えられるかは、俺が今如何に在るか、如何に生きている
かにより決まるだろう。要するに気概だ。
王侯貴族の家の出ではないが、御先祖の歴史と、「基本が大事じゃ」という少し変てこな両親の思いが込め
られたこの我が名を、断じて汚すことなく、正々堂々と生きていきたいと思う。

我、我が姪に聞かせる軍歌の子守唄ゔぁーじょんの練習を開始せんとすっ!
真に人生の愉快也。

山桜

2010年7月10日土曜日

in a ぱのぷてぃこん

ベンサムの考案したという「パノプティコン」をいまふと思い出した。

俺がこんなところにあーでもないこーでもないと駄文を書き散らしているのは、考えようによっては、誰もが読めるWeb上ではなくて、自分のデスクトップに保存したワードに書き記したっていいわけだ。
実際、こんな屁理屈だらけの文章を一体だれが読んでくれるのだろう。。。と思いながら毎日書いている。
しかし、パノプティコンに収容された囚人がいつも「見えないだれかに監視されているかも。。。」と不安に思うのと同じように(?)、俺は「誰かが(誰か知らんが)もしかしたら読んでくれるかもしれない!」と淡い期待を持ってレッツノートのキーを叩いている。
けっこう大きな違いなのだ。デスクトップにおいていたら、誰も絶対に読む可能性がない。
でもここでなら、可能的には数千万人だって読んでくれる。
「誰かに監視されている」と思わなければきちんと振る舞えぬ囚人の弱さと、「誰かが読んでくれるかもしれない」と期待しないとこういうことを書き記せない俺の弱さは通ずるものがあるようで、少し厭なのだが、しかし、がんばるぞ。

注:パノプティコン
=一望監視施設。囚人からは監視塔に人がいるかどうかわからないが、監視塔からは囚人を常に監視できる。そのため、囚人は監視の者がおらずとも、「監視されていてもいいように」行動する。フーコーの「監獄の誕生」ご参照です。

山桜

岩井克人「資本主義から市民主義へ」備忘録①

この人は、最近「必読著者」に加えた。必読著者とは、その人の著書が発売されたら本を開くことなく買うということである。
で、おととい、この本を買った。
まだ100ページしか読んでいないが、ついつい平日に3時まで夜更かししてしまうほど面白い。抜群である。最近どんな本でも「抜群である」と評価している気がするが、そんな不安は措くとしても、この本は抜群である。
何が、面白いのか?
備忘録としてとりあえず列挙しておく。眠いので。

①マルクス主義が所詮は歴史的な地平を超えられていないことを見事に論証している。マルクスは、巨大な資本さえあれば、あとは安い労働力によって自動的に利潤をあげられる産業資本主義を、歴史的に普遍性を持つものと理解した。これは、間違いである。19世紀の西欧の資本主義においては、「総資本」と「総労働力」が対立しえた。つまり、資本家は、資本家同士で争うことはなかった。安い労働力は豊富にあり(ルンペンプロレタリアート)、生産設備を備えればとりあえず利潤を生むことができた。つまり、「カネがすべて」の時代だ。資本家無敵の時代だ。
それが、時代を経て、労働コストが高くなると、資本を持つだけでは利潤を生むことができなくなる。その時代には、他社とは異なる特別の製品を開発・生産することができる者のみが生存できる。つまり、資本家は、他の資本家と戦う。このために、「総資本」VS「労働力(プロレタリアート)」という極度に単純化された下部構造は成立しえなくなる。
要するに。マルクス主義は、産業資本主義の時代においてのみ有効なのだ。
(産業資本主義=機械を備える大工場で安い労働力を雇えば自動的に利益が上げられた時代)
ふむふむ。今は、カネがすべてを支配する時代ではない。なぜなら、カネでCreatorのIdeaを買うことは、純粋な意味では、できないから。マルクスも、時代の制約をやはりうけたのだ(そりゃそうだろう)。

②産業資本主義の時代における、”組織特殊的人的資産”の蓄積に適した日本的人事・雇用システムの有効性

③法人の、モノ・ヒトの二面性を奴隷になぞられること(どちらも、所有する主体でありながら、かつ所有される対象である。会社法人は、株主に所有されるが、他方で設備機械を主体として所有する。奴隷は、自身の仕事道具を所有するかもしれない。同時に、モノとして売り買い・所有の対象になる)

④貨幣は、循環論法でしかその意義を論証できぬ。Aさんが鳥肉を買うのに、紙幣をBさんに渡す。Bさんが紙切れでしかない紙幣を受け取るのは、CさんがDさんがこの紙切れを受け取って、その対価物をBさんに渡してくれると“信じている”から。以後、この循環が永遠に続く。つまり、「貨幣は、貨幣であるから、貨幣である」以外になんともいえない。「貨幣は、主権国家が定めるから貨幣である」というのは無効だ。もしこれが正しいなら、アフリカの多くの国で米国ドルがなぜ流通するのか説明できぬ。信頼のない通貨は、誰も持たない。通貨は、通貨がなければ物々交換のために必要な、「需要の二重一致」の要件を排除することができる。それによって、商品交換の可能性は飛躍的に高まった。
ちなみに、基軸通貨は、「通貨の通貨」である。この意味、単純なような説明は容易ではない。

⑤国民国家の成立は、遠隔地貿易ではなく、物理的に有限の圏域における通商により利潤を生みだすシステムが成立したということだ。つまり、ある空間のなかにの「差異性」を見出し、それを商機に転ずるシステムが確立された。商社の典型的な機能は、A地点とB地点での同じ商品の価格の差異を利益化することだが、これに象徴されるように、そもそも資本主義というものは、差異性を喰らいながら成長するものだ。
具体的には、「農村の過剰人口と都市化された大都会」というものだ。1950-1960年代に東北から上野駅に集団就職でやってきた中卒の男女はこれによって説明される。つまり、「中心と周辺における価値体系の差異」故に、資本家は簡単に利潤をうむことができた(資本家が生んでいるのではなく、差異性が生んでいる)。それが、1970年代にもなると、日本全国が豊かになった。つまり、日本国内における「差異性」が減少し始めた。そして、大学に入学するものが人口の50%に達したとき、日本という物理的空間からは、「差異性」が失われ、成長は終わった(1990年代以降)。しかしそれでは資本主義は崩壊するので、新たに「差異性」を作り出す必要があった。1950-60年代は、若者が電車で東京にやってきたが、今度は資本がでかけていった。東南アジア・中国をはじめとする低労働コスト国へ、である。
これが意味するところはかなり多くあるが、ここ20年の中国の年率10%での経済成長もこう考えれば合点がいくだろう。あの国は、沿岸部と内陸部において、恐ろしいほどの「差異性」がいまだ残存している(いた?)。だからこそ、あのような急激な成長が可能であった。

⑥「差異性」を喰らい成長するのが、資本主義であるから、資本主義は当然世界を「Flat」にするほかない。それは資本主義の内在的な運動法則なのだ。だが、ジレンマがある。「差異性」を見つけてそれを食いつぶすたびに、資本主義の危機は深まるのだ。なぜなら、世界を平準化(Flat化)すればするほど、つまり資本主義が成長・拡大すればするほど、資本主義が成長するための栄養=「差異性」は減少するから。そうなれば、資本主義は、無理矢理でも「差異性」を作り出す、捏造するだろう。商社があやしいのは、ここなのだ。
資本主義が、地域・国ごとの独自性(差異性)を破壊するのは、当たり前のことなのだ。
(かといって、では共産主義はそうではないか?と問うのは至極まっとうなことだ)

山桜

2010年7月9日金曜日

自動車のこと

最近日産マーチやVWのポロなどの通常のガソリンエンジン車の燃費がHybrid並みになっている。VWが得意とする小型エンジンをターボで過給して十分なトルクを得るーという方式は、広がっていくだろう。ターボ=スポーツカー=燃費悪というイメージはまもなく消えるかもしれない。
ひたすら大きく・重くなるばかり(そのほうが産業資本主義の成長には適していた。環境を無視できた時代には。裾野が広がりますから)だった自動車は、これから小さく軽くなる。一部の高級スポーツカーだけに使用されてきた超軽量の炭素繊維素材などもこれからどんどん使用されるようになるだろう。だから、諸君、自動車を自分の部屋のように使うのはやめよう。恐竜じゃないんだから。それがどうも地方に行くと、4Lのセダンやトヨタのランド・クルーザーに乗っていると女性にもてるからか、僕の故郷の巨大ショッピングモールの駐車場にもそういう類の車がいつもわんさと停まっている。若い男たちの車である。
車をでかくするよりも、自分の筋肉をでかくするほうがいい。
想像してほしい。真黒の小さなデミオから、180cm・80kgの筋骨隆々のスキンヘッドが、サングラスにタンクトップの黒尽くめのいで立ちで「資本論」を片手に降りてきたら、これはもう革命的なかっこよさである(デミオでは7時間で700kmを走るのは大変なので僕の車はデミオではない)。これは、「”かっこいい自動車”に乗ってかっこよくなる”俺”」ではなく、真逆の発想だ。「”かっこいい俺”が乗るから格好よくなる”車”」である。あくまで「俺」が主人公なのだ。これも、「天上天下唯我独尊」の精神の発露である。
ホンダのCR-Zが売れまくっているのは、必ずしもHybridのスポーツタイプだからではないように思う。それにしてもホンダは宣伝がうまい。主力はミニバンなのにいまだに「ホンダ=スポーティ」のイメージがある。F1もやめたのに。
「手ごろなサイズで燃費がよく、一人でもドライブに出かけたくなる車」というものが長くなかった。1990年代のパジェロなどのRV全盛の時代。その後の、RVの快適性をさらに高めたミニバンの時代。はっきりいって、俺からすると自動車不毛の時代とさえいいたくなる。
都心では若い男は33歳まで結婚しない。さすがに一人でミニバンはいらないし、アテンザ・アコードくらすのセダンでも大きすぎる。だから誰も車を買わない。都心部及び周辺でもひたすら渋滞でありますし。
はっきり言えば、「自動車が生まれたときから側にあった若者世代は、車にもはや憧れはない」というのは、魅力的な製品を作れない自動車メーカーの開発者の言い訳ではないのかと思う。
小さくて軽く、走って楽しい車。そういう車はまだまだ売れる。
そもそも、高燃費のために巨大なモーターを積んで車重を重たくしたり、製造過程での消費エネルギーが増大したのでは、そりゃもはやエコカーではない。三菱零式艦上戦闘機ではないが、軽いことは美徳である。人間だって、重たいより軽いほうがいいのだ。高く飛べるから。
我が意思のままに移動することは、動物としての人類の根源的な欲求だと思う。
自動車を自分で操って、遠くを目指すということは、それほど愉快だ。電車にはない歓びがある。
新幹線は大好きだが、電車のレールがどうしても好きになれない。だってあの上しか走れないのだから。電車は。しかも、電車には時刻表というものがあって、俺の好きな時間に走ってくれない。なんと不便な。
向かう方向が決まっている安心感、それが故の計画性。乗っていれば目的地まで運んでくれる快適性。そういうものを、「今の若者」は好むのだろう。だから、好きでもないことを真面目に受験勉強のために勉強するなんて芸当ができるのだ。
新潟の長岡まで走って行って、「さて、松本城を見に行こうか、それとも金沢まで足を伸ばそうか。それとも初めての山形に行ってきりたんぽ?」と考える時、俺の脳は麻薬を与えられたジャンキーのようになる。どういう状態なのか、科学的な言い方は知らんが、愉快なのだ。腹の底から。目的を持たぬドライブこそが、最も精神を自由にしてくれる気がする。

移動するためだけではなくて、乗る人に「喜び」「幸福」を与えられる車。今だってそういう車はあってしかるべきだ。と言うよりも、あれかし!といいたい。

金曜日の渋谷でのひどい戯言でした。
しかし金曜日の夜の東京の浮かれ方は凄い(=恐ろしい)。
みんな平日はいろいろ大変なんだろう。

山桜

2010年7月8日木曜日

独り言

W杯の最中の日本のメディアの「BBCはこう言った!」「スペインのこの雑誌のある記者はこう言った!」という類の他国の評判を異常なまでに気にし、ほめられれば舞い上がらんほどに喜色満面になるあの様相はなんなのだろう。違和感を感じた人も多いのではないだろうか。
なるほど日本はサッカー後進国だ。二連覇を達成したWBC(World Baseball Clasic)ではないから、“先進国”の日本評を気にかけるのは当然なのかもしれぬ。
だが、それにしてもあれは少し俺には異常に映った。それはおそらく、日本人全般の内心に潜在的に存在する確信の不在だろう。抽象的な言い方だが。何かを評価するには物差しが必要だが、この国には物差しがないのだ。だれかに借りるしかない。
そして、自分の独自の物差しを持たぬことが、サッカーのような日本がいまだ遅れていると自覚される競技についてはあからさまに出てしまうのだろう。

就職活動という変なものがあるのだが、そのなかでもさらに変なものがある。OB訪問というやつだ。この変なもののなかのさらに変なものを実行する学生は少なからずいて、そのうちの変な学生は、決まって変な質問をする。
「山桜さんの御社への志望動機はなんですか???」というのがそれだ。
最初の三人は真面目に答えた。しかしそれが限界だった。四人目の学生さんが同じ質問をしたとき、俺は「僕の志望動機があなたの就職活動、人生についてどういう意味があるんでしょうか?教えてください。」と言った。彼はだまってしまって、少し考えてから、「いや、やっぱり御社に入社する人はどういう考えて入社するのかなぁと思いまして」
全くもって理解不能な言葉である。日本語の文法としては正しいのだが、この発言の裏にある論理を僕は全く想像できないから、この問いへの的確な回答を準備することができない。
それと、会社を選ぶ際に、あるいは面接で「決め手は人でした」という人。そりゃないだろう。
入社して、「人」がやくざかごろつきみたいな人しかいなかったらどうするのだろう。「決め手は人でした」は、実は「御社は人以外にさしたる長所はないですね」と言っているように俺には聞こえる。
俺は、マキャベリズムに徹し、目指すべき目標のためには隣でゴジラが火を吹いていようがそれをやる!という覚悟で仕事をすることが、人間の幸福だと思う。

選挙カーに犬の着ぐるみを乗せて拡声器で騒音をまき散らすこの国の選挙に、永遠の幼稚園国家の真髄を見た。

廣末渉「『近代の超克』論」を読了した。
廣末の本をこれまでに数冊読んだが、最も興味深い本である。
「近代の超克」という言葉が人口に膾炙したのは、昭和17年10月号の「文学会」に掲載された「文化総合会議シンポジウム」をきっかけとする。
廣末は、「戦時下における近代の超克論は、決して京都学派の末流が偶々時流に阿って思いつき的に漏らした迷論といったものではない」という。それは、竹内好に従えば、「いわば、日本近代史のアポリアの凝縮であった。復古と維新、尊王と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、総力戦の段階で、永久洗脳の理念の解釈をせまられる思想課題を前にして、一挙に問題として爆発したのが『近代の超克』論であった」のだ。
いや、ここでは深入りはすまい。ただ、三木清をはじめとする「昭和研究会」(近衛のブレーン集団)に参加した転向左翼の”右翼っぷり”と、大川周明など右の右と見られているものの”左翼っぷり”を目にするとき、昭和のこの時代にあっては、左右どちらの翼のインテリ層にとっても、資本主義の問題(世界恐慌、世界経済のブロック化、通貨切り下げ競争。。。)、東亜の統一という課題(西欧列強に蹂躙されていた東亜諸国)は、支那事変から大東亜戦争への続くこの一連の大騒動と日本の最終的な勝利によってしか克服されえぬものであり、それこそがこの戦争の世界史的意義であると認識されたのであろう。
三木清は、「1927年に上京して後、教壇に立ちながらマルクス主義の論文著作を矢継ぎ早やに発表し、、、昭和5年には共産党に資金をカンパした廉で投獄されるにおよんだ」ほど熱心なマルクス主義者だった。
彼は転向後、こう述べている。
「支那が近代化されると同時に、近代資本主義の弊害を脱却した新しい文化に進むことが必要である。東亜の統一は、欧米の帝国主義の羈絆(きはん)から支那が解放されることによって可能になるのであって、日本は今次の事変を通じてかかる支那の解放のために尽くさねばならぬ(つまりは「戦争支持」である)」
これを読めば、左翼だとか右翼だとかの色分けがもはや無駄であることは一目瞭然と思う。「巨大財閥と軍閥が推し進めた帝国日本の侵略戦争」というのは、戦後に力を得た左の翼の人士が言い触らした嘘である。これに我々は洗脳されてきた。アメリカの洗脳プログラムであった。
それにしても圧倒されるのは、京都学派の一人高坂正あきの次の発言だ。
「今できつつある新しい世界に対して、日本はどういう意味を持たせられているか、どういう意味を実現しなければならないか、すなわち世界歴史の上における日本の使命はなにかという点になると、西洋のどようやうな思想家からも無論教えられるわけにはいかない。そのためには日本人が日本人の頭で考えなければならない。それが現在日本で、世界史の哲学が特に要求されている所以だと思う」
過去の日本人(の一部といってもよいが!)は、かくの偉大であった。世界史に対して日本人は、我々はいかに貢献できるのかを問う。そんな暇人はそうそうおらんだろう。「自分の頭で考える」こと。これほど困難な挑戦はない。誰にも「教えられるわけにはいかない」!!!

山桜

好きなもの

コート:マッキントッシュの塹壕外套(トレンチコート)
2008年に初めて買った。感動的な美しさである。これを買って以来、寒くなるのが待ち遠しい。
高価な買い物だったが、完全に一目ぼれで、見つけてから5分後にはレジでカードを出していた。あと10年は大活躍してくれるだろう。常夏の国には行きたくないものである。ロンドンの霧雨のなかをこれの襟をたてて歩くのだ。渋い話だ。これが似合う男でいたい。そういう、自己を規律せんとする動機を与えてくれるものは、大切だ。

ノート:モレスキンA5判
会社に行くにも温泉に行くにも食事に行くにも(トレーニングに出かける時以外は)常に携帯している相棒ともいうべき落書帳。頑丈で、書きやすく、なにより100円ノートにはない重厚感がたまらない。落書帳を携帯するようになってから、常にネタを探して歩くようになったと思う。内容は、馬鹿げたものから思想までいろいろである。なくしたら悲しい。

ペン:クロス
倉敷の友人がくれた。書き味が優しい。しっとりとした重みがよい。僕の勤める会社はある一定の年齢を過ぎるとみなモンブランだ。なんだあれは。少し前の女子高生のヴィトンの財布じゃあるまいし。本当に一般的な日本人って、白洲次郎風にいえば”ぷりんしぷる”がないと思う。
その他大勢の一般的傾向のなかに、自己の選好を埋没させることほど自己の精神的自立を妨げるものはないと思う。

車:BMW(3シリーズ)
俺の小さな自由を可能ならしめる愛機。ドイツ製造業が生んだ傑作中の傑作。大げさを言えば、ドイツ民族はこの自動車を生んだという事実だけで歴史に対して偉大なる業績を残したとさえ思う。
これ一台で、二日で800kmのドライブも、キャンプも、デートも(軟派ですね)、夜中のかわいい暴走もなんでもごじゃれだ。
真価は高速道路の法定速度を何キロか超えたところで発揮される。金曜日の夜中12時に、首都高を抜けて東北道に入る。道沿いにビルがなくなって防音壁がなくなれば、アクセル全開の合図だ。一気に巡航速度をあげる。窓を全開にして長渕剛のアルバム・フレンズをかける。「このスピードなら2時間で330kmか」と一人にやつく。新橋や渋谷でサラリーマンが脂ぎった顔をてからせて、肝臓を大量のアルコールでジャブジャブにしてたるんだ顔で最終電車に乗るころ、俺は一人北を目指す。目的地は、たまに温泉。たまになにもなし。眠たくなったら(だいたい2時~3時)リアシートを倒してそこに寝袋を敷いて眠りにつく。朝は太陽が日の出きっかりに起こしてくれる。サービスエリアのトイレで顔を洗いコーヒーを飲んでまた走りだす。この時、実にまだ土曜日の朝六時。わくわくするではないか!!!
この車を買った時、納車を待つ愛機の顔つき、たたずまいが、俺にあまりによく似ていたものだから、店員さんに「この車は僕にそっくりですね!」と言ったら、「この坊主はなにを言うとんじゃ??????」という顔をされた。人間同士、わかりあうのはなかなか困難なものだ。

シャツ:フィナモレ(イタリア)
年収が1億円あれば20まいほどまとめて買いたい。少しづつ、じっくり買い足していこう。
大切に製縫されたシャツである。

コーヒー:スターバックスのエチオピア・シダモ(先日これを注文したら「エチオピアが政情不安で輸出されてないんです。。。」と言われた。May peace prevail in Ethiopia)

本屋:丸善(丸の内)
何より専門書、洋書の充実ぶりが素晴らしい。店員さんもプロ意識にも感動する。Webでどんな本でも買える時代だが、本屋で膨大な本の群れを眺めているだけで、実は「読書」していることになる。そういう本屋は、まことにありがたい。そういう本屋には未来永劫繁盛してくれないと困るので、僕はしっかり買います。ブックオフも重宝してますが。それにしても、京都河原町のジュンク堂は、さすがに学生の街だけあって、僕が読みたいような本は充実していたなと思う。
でも、神保町の古本屋のおやじの面白いほどの商売っ気のなさがなんとも好きだ。
ああいう特殊な空気を維持した場所があることは、希有なことだ。神保町ほどエキサイティング(あえての英語)な場所はない、かもしれない。

散歩:賀茂川、高梁川
岡山の高梁川は、夏の夕暮れがよい。船穂に太陽が沈むとき、西の空がオレンジに染まり低い山々の稜線をくっきりと浮かび上がらせる。俺の、数少ない原風景である。
京都の賀茂川は、出町柳で高野川と合流して鴨川となる。下賀茂、北大路の西を流れる。
ここは、日本有数の風光明媚な場所だと思う。僕はその川まで、徒歩3分のところに2年間暮らした。
こんな贅沢なことはなかった。コーヒーを飲むのも、読書をするのも、走るのも、友人と議論をするのも、この川の河原が一番だった。京都と日本が誇るべき川である。

酒:ザ・プレミアム・モルツ
「世界最高のビールをつくる!」というサントリーの執念の結晶。デフレの時代に6年連続で最高販売数量を達成した驚異のビール。「ビールは冷やしてノドで飲む」というスーパードライ的な貧相な世界観への確信犯的挑戦。典型的な「プロダクト・アウト」の商品。
これ以外のビールは最早僕の舌は受け付けません。すぐ赤くなりますが。