2010年11月30日火曜日

福武總一郎氏の話を聞いて考えたこと

11月27日の夜、Bennesse会長の福武總一郎氏の話を聞く機会があった。
立場のある人なので、総てのメモをここに公開(というほど大規模なブログではないが)することはできないが、特に俺が伝えたいと思うところは備忘録として残しておきたいと思う。
長いので、時間のあるときに読まれたい。

・日本の人口は減少し始めたのに、東京の人口は増えている。日本では、未だに「大きなもの」がいいという価値観が保存されてしまっている。滅びる前の恐竜のようだ。
・Harvard Business Schoolを全く評価していない。金儲けのため作戦をひたすら事例研究で勉強している。
・会社は一人ではできぬことを志を同じうするものが集まって実現する場所だ。だから、その目標に一致できぬものは出ていけと父(福武哲彦氏)に言われた。
・プリミティブ(原理的な)なことを深く、いつも考えることがなにより大切だ。なんのため生きるのか、なんのために働くのか、人生とは何ぞや、云々。
・この日本に未来なぞない。絶対にない。リーダーも生まれない。こんな借金だらけの国にした者たちに対してどうして若者は怒りをぶつけて行動しないのか理解できない。
・この国の教育は最悪だ。明治以来、日本の教育は「強い個人」を作ることを怠ってきた。強い個人なくば民主主義は機能しない。東京の官僚にすべてを決められておかしいと思わないのか。
・東京の人間はPassiveだ。”楽しいもの”が身の回りにたくさんあるから、ほっといても退屈はしないからだ。東京に幸福はない。
・会社は、売上や利益の大きさは兎も角、社会から尊敬される存在でなければだめだ。
・ゆっくりとやってくる環境危機に誰も本気になっていない。集団ゆで蛙だ。エコで金儲けを企む者は多いが。
・電気自動車普及委員会の会長を務めている。この会の代表幹事は岐阜県各務原市の改造電気自動車製造メーカー”ゼロ・スポーツ(http://www.zerosports.co.jp/index.php”の中島氏。現在世界に9億台走っているガス車を、電気自動車で置き換えるには時間がかかりすぎる。ガス車を電気自動車に改造する方法なれば、安価かつ迅速に電気自動車への切り替えが可能だ。
・幸福に生きるためには、幸福なコミュニティが必要だ。
・宗教なぞよりも、自分の祖先を敬え。自分の家族の墓を大事にしない奴はクソだ。それは自分という人間に柱がないということだ。そんな人間はどうにもこうにもしようがない。
・お代は幸せの対価。金を儲けたいと思うなら、どうすれば人を幸せにできるかを寝ている時も考えろ。そうでなければお金は自分のところには来ない。

地位のある人の特権の一つは、当たり前のことを平然と偉そうに言えることだ。それは特権だ。
上の羅列のなかにさして新しい情報なぞない。だが、自身で事業を劇的に拡大・発展させた人がいうのと、サラリーマンが赤ら顔で講釈を垂れるのとではやはり判然と違う。そこにはかつての実行の影が常にちらつくために、それが迫力となって言葉に力を与える。

この人物の反骨心、権力、中央に対する反骨心はものすごいものがある。未だに本社はBenesseの東京ではなく岡山にあるし、現代アートで世界的に有名になった直島も瀬戸内海の小さな島だ。彼曰く、「あれが東京にあっては意味がない」。

ポンヌフに向かう車中で親父と話をした。水島の三菱自動車がコルトなど小型車の生産をインドネシア(だったはず)に移管する。これで、親父の推定では5000人の規模で仕事を失う人がでる。俺が勤める会社の従業員+1000人である。家族5人なら2.5万人。ついに倉敷にも、日本の国際競争力低下のさざ波は大波となって押し寄せてきた。瀬戸の海はいつも穏やかなのに。

前グーグル・ジャパン社長の辻野氏が、著書「グーグルで必要なことをみんなソニーが教えてくれた」のなかで、カルロス・ゴーン氏と面談をした際のゴーン氏の発言についての記載がある。ゴーン氏は、「(日産の社長に)就任したときは、問題があまりに大きいので、これは大きなチャンスがあると思った」と言ったそうな。
この理屈で言えば、また日頃倉敷出身の俺が東京で感じていることを言えば、東京こそが茹で蛙だ。美しく着飾り、壮麗な邸宅に住みながら茹であげられる蛙だ。
街にはピカピカに磨かれたジャガーやBMWの旗艦車種がごろごろ走り、フェラーリやベントレーも少なくない。日曜日に丸の内や表参道や六本木に行けば、「あぁ、日本はまだまだ豊かだな」と誰でも思うだろう。また、多くのグローバル企業が本社を置き、一部上場で数千人規模の大企業はリーマン・ショックから立ち直り概ね堅調な様子だ。だからこそ、日本の若者は地方を捨ててこの東京に淡い夢だけを手にやってくる。要するに、東京にはまだまだ富があるのだと思う。

このことは、東京を日本で最も保守的な街にしているとは言えないだろうか。
東京で衣食住と教育・医療に困らない生活をしたければ、大企業に就職するのが最も安定的で堅実だ。世界的に見ても、トップレベルではないが、ある程度の生活水準(あくまで、”ある程度”だ。あるべき程度ではけっしてない)は望めるだろう。
それが分かっているから、就職活動中の大学生は、大手企業を目指す。大手企業は東京にあるから、東京に彼らはやってくる。

日本の繁栄の20世紀後半は既に終わったのに、その幻想にすがりついているのが、霞が関の官僚達や大企業の”エリート社員”だけではなく、最も革命的であるべき学生たちであるという事実。
そう言っている俺が、日本でも恐らく最も保守的な大企業に勤めているという絶対的矛盾。切腹ものだ。
自己を否定できぬものが世界を否定することは不可能であり、世界を否定することなしに世界を変革することは不可能である。そして、現在の日本は、真の意味で変革されないならばただ没落しゆくのみ。
次代を作る新しい思想・哲学は、以上の理由から、地方からしか出てこないだろう(ベンチャー企業は東京が一番多い!などと呆けた批判をせぬように)。違う言い方をすれば、東京はかつての江戸幕府だと思っておけばいい。たまに優秀な人材を輩出するものの、総体としてはやはり守旧勢力なのだ。そういう一派に自己否定を要する革命なぞできはしない。
そして、幕末と異なり、地方からでてきた新しい思想は、これからは東京を経由することなくいきなり世界へ向かうのだ。東京は無視されるべきだ。福武氏が東京ではなく直島をモダンアートの島として再生したように。そしてそこに多くの人々が世界から押し寄せているように。それができるだけのインフラが、既に整いつつある。以前述べた、格安航空会社もその一つだろうし、”フリー化”もその一つしあげられるだろう。名古屋と東京を500kmhのリニアで結ぶために必要な数兆円の一部の地方に分配して、日本の地方都市へのLCCの乗り入れを促進するべきだ。
中央がすべてを差配するという明治以来のこの国の支配形態こそ、我々が打倒しなければならないもので、それに抗うものが何者であるのかということが、最近おぼろげながら見えてきたように思う。

まとまりのない駄文に付き合わせてしまい、申し訳ない。

独り言:

会社で「お前浮いてるよなぁ」とたまに言われるのだが、俺からしたら彼らがどぶの底に沈んでいるのである。「どぶのみずみんなで浸かればいい湯だな(5・7・5)」という塩梅で、彼らは全然それに気が付いていない。悲しく惨めだ。


2010年11月28日日曜日

倉敷で遊ぶ

新幹線の車窓からぼんやりと風景を眺めている時間がたまらなく好きだ。
もうちょっとゆっくり走ってくれてもいいのに。だからリニアは俺いらない。
今週末は岡山で福武総一郎氏の話を聴くのと面白い人たちに会うために一カ月ぶりに帰省した。

このブログでほんのすこーし人気者の藍子さん。
まだピアノは俺のほうが上手いな。ふっふっふ。
大好きな~♪大好きな~おいしいブドウのパン食べよ~♪
みーれーどー、みーれーどー、どーどーれーれーみーれーどー♪
なら、俺は弾けます。
朋子(姉貴)のピアノの伴奏で軍歌(出征兵士を送る歌)をある朝早くに(いつかの正月の朝)歌っていたら、母親が「ドドドドドドドド」と階段を下りてきて、「右翼がおるんかと思われるがっ(思われるでしょう)!!」と言うと、側にいた典子が冷静に、「ここにおるが(いるじゃない)、右翼」と言って皆で大笑いしたことがあった。あれは面白かった。孫たちの出来の悪いコントを見て、お婆ちゃんがニコニコ優しく笑っとった。
藍子にも軍歌を沢山教えてやろう。で、小学校一年生のかわいい女の子が何気なく「守るも攻むるもクロガネの~♪」と歌っているというのが面白いですなぁ。
ちなみに誤解されると困るのだが、俺は右翼ではない。長渕風に言うと、「右だの左だのと五月蠅ぇんだ!俺はただど真ん中をまっすぐ生きたいだけじゃいっ!!!」。
右の翼も左の翼も両方大きくないとね、大空は飛べん。


今日の昼食は両親と典子と藍子さんと兄貴のお店でいただいた。
メタボ気味の娘さんは前菜をペロッと平らげました(うそピョン)。


俺は一人だけステーキ定食~じゃのうて、ステーキランチ。
牛さんをいただいて猛牛になりましょう。角生やして突進しましょう。
丸くなるのは棺桶に入るときで十分じゃ。


最後に初登場の兄貴と姉貴。あ、チビちゃんは肩車してもらっとるね。
なんだか幸せそうな家族ですね。
ちなみに、Pont Neuf=新しい橋 ⇒ 新橋。
東京の新橋駅のガード下に、ポンヌフという立ち食い蕎麦屋があるのだが、まだ食べたことはありません。
俺の大いなる野望を語ろうか。
40年後くらいに、たまに山から降りてきて(ツァラトゥストラみたいに)、Pont Neufで結婚式と誕生日や結婚記念なんかでPont Neufに来てくれた(俺の店じゃないのだけど)人の為に長渕の歌をアカペラで歌うこと!ふっふ、オーディションに受かるように頑張るぜ。


あと三日、半島で何も起きないことを祈る。
周辺事態法と自衛隊法をしっかり読んでおかないと。



2010年11月27日土曜日

死刑の意味を問う

裁判員裁判で二度目の死刑判決は、犯行当時18歳であった少年に対して宣告された。
宮崎家石巻市で起きたこの悲惨な事件の犯人は、かつての彼女の家に押し入り、彼女の姉と友人の2人を殺害して1人に重傷を負わせた。

法学士の浅薄な議論だから刑法の専門家に突っ込まれることを覚悟して、以下述べる。

近代系法には二つの拠って立つ原理がある。一つに、応報刑論。すなわ ち、刑罰は、過去に他者に対して不正な行為をなし以って損害を与えたことに対して苦痛を与えるためのものとする考え方だ。ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」というわけだ。
いま一つが、教育刑論。すなわち、犯罪者を犯罪に走らせしめた反社会的な性格や特性を是正することを目的として刑罰をは与えられるという考え方だ。

論理必然的に、後者の教育刑論の立場をとれば、未成年の犯罪者は高齢の犯罪者に比べて更生の余地が大きいと判断されるので、死刑判決は出しにくいということになる。今回の判決が社会的インパクトのある判決として注目されていることの背景はこれである。たとえば朝日新聞の今朝(2010年11月27日)の朝刊は、次のように社説で言っている。

「成長の途中段階にある少年は、教育や環境によって大きく変わる可能性を持つ。その特性をどう評価するか。」

もちろん、応報刑と教育刑の関係は絶対的対立の関係とは言えない。潜在的な刑事犯に対して刑罰という苦痛の可能性による抑止力を維持しつつ、同時に実際に事犯が発生すれば犯人に対して教育刑論的に対応して更生を図るというのがだいたいの先進国の刑法及び刑事訴訟法の運用のされ方で
はないかと思う。

俺自身は、かなりさっぱりと応報刑論に"親しみ"を覚える。もちろん俺は保守主義者だから、社会が異端者(サリンを撒こうとするとか地下鉄に爆弾をしかけるとか、そういうレベルの異端者)
に対して教育・指導を行い以って更生を目指すことは当然と思う。しかし、だからといって、"やられたらやりかえす"という秩序維持の大原則がないがしろにされてはならない。私刑(リンチ)が禁止されている近代国家では、国家が唯一の刑罰の執行者である(=国家は暴力を正当に行使する権限を独占する)。

ここ数年、犯罪被害者の裁判への参加ということを耳にすることが多いのだが、俺はこれは違うと思う。 違うというのは、正しくないという意味だ。
国家は、独占的に刑法を警察と検察という実力で以って運用するのだから、国家は犯罪被害者を判決に至る過程に関与させるべきではない。国家がなすべきは、かつては被害者(及びその遺族)が加害者に対して私的に行った復讐(=私刑)を被害者に代理して実現することだ。

勘違いして欲しくないのだが、ここにおいて国家が担う役割は、単に特定の事案における被害者感情の慰撫などではけっしてない。それは結果に過ぎない。
国家がなすべきこと、国家にしかできないことは、「他者に対する不正な侵害は許されない」という法
律以前の道徳律が、実効性あるものとして存在することを最終的に担保しつつ、それを国民に顕示することなのだ。
死刑の意味もまさにここにある。
「人を殺しても、最悪でも無期懲役だ」という社会よりも、「人を殺したら自分も"応報に"殺される可能性がある」という社会通念が共有された社会のほうが健全であると俺は考える。国家が暴力を独占する限り、我々国民は私的に復讐することができないのだから、この徳律を維持するためには、国家は死刑を放棄すべきではない。

従って、当然ながら俺は死刑賛成派であるし、また未成年と65歳の殺人犯にさしたる違いを見出す者ではない。裁判員制度云々は兎も角、今回の判決は画期的なものとして全面的に支持する。

2人殺しても生きているべき人間とは、神なのか?悪魔なのか?

(「冤罪で死刑が執行されたら取り返しがつかない」と死刑を否定する人がいるが、それは死刑だけでの話ではないだろう。冤罪で無期懲役になる可能性だってあるし、それも十分に人生にとっては破滅的だ。冤罪の可能性があるから無期懲役をなくそうという人はいないし、冤罪の可能性があるから強制猥褻罪をなくそうというのも無理な(理が無い)話だ。)



ひとりごと@新横浜

本木雅弘と福山まさはるの俳優としての格差はすごい。単に顔の作りが違うだけではない。
ラストサムライの真田広之は、男でも惚れます。"立てぇーいっ!!!"
最近、新聞か雑誌で俳優ランキングをしていたのをみた。映画監督や脚本家の投票で。間もなく第二部が始まる坂の上の雲で正岡子規を演じる香川照之の評価が一番だった。俺は昔の大河ドラマ秀吉の竹中直人の唾や鼻水を飛び散らしながら、渡哲也演じる信長に「おやかた様っ!」と叫ぶ姿をよく覚えている。日本一の俳優だと思う。

リドリー・スコットとラッセル・クロウの映画"ロビンフット"が楽しみだ。ハンスジマーの音楽だといいな。グラディエイター以来のコンビか?ラッセル・クロウといえば、どこかのホテルでスタッフを殴っておいて言ったのが、「世界中の(ホテルスタッフにいらつかされている)ビジネスマンを代表して殴ってやったのさ」。
少なくとも俺はいらついてないよ。

いじめ。一生消えない心の傷。
そんなわけあるかい。莫迦も休み休み言え朝日新聞こら。60歳のじじいがアストンマーチンからおりてきて50年前のいじめが...なんて言うたらその場で即身成仏させたるわ。
小学校の時、ある男の子を一日に三回泣かして先生にひどく叱られたことがある。集団でのいじめではない。小学校という場所は、"泣いたもん勝ち"なところがあって、不思議だった。「こいつは俺という
敵を前にして泣けば先生が助けてくれると思うとるんか??」と思った。思えば俺は昔からそういう"権力的なるもの"は大嫌いだった。フーコーみたい。

そうそう、アストンと云えば。
長渕剛が2ヶ月前に黒のAston Martin DBSを買ったらしい。 詳しくは雑誌Engine1月号。まぁ、わしのほうがようにあうんじゃけど。今はまだ全然似合んのじゃが。今俺がDBSに乗ると森蘭丸が赤兎馬に乗っているぐらい不細工だろう。
14年後。ありありと想像できる。
富士の空挺部隊か?という風な男が迷彩柄のカーゴパンツに黒のティーシャツ(全部ユニクロ)のちょび髭坊主頭で、爆音鳴らして沼津あたりに1200円の寿司を食べに走る姿を。お供は椿(狼、体重76kg)。

数年前からカフェのカウンターなどコーヒーをもらうときにニコリと笑って「ありがとう」と言うようにしている。この時相手の目をみて言わないとだめだ。最初は恥ずかしかったが、30が近づくにつれ段々と慣れてきた。
ありがとう。この言葉はなかなか重たい言葉で、きちんと使えば伝えられた人の一日をハッピーにしてしまうこともある。実際、俺はしょっちゅうそんなことがある。なんという単純脳。
だから、相手のハッピーな一日を願いながら朝7時にマックで"ありがとう"と言う。一人の他者をすこしだけハッピーにできたならば、俺が豚や牛を捕食して生きる一日には意味があると思うから。

男は顔だ。その顔があれば、周りの人間が安心する、隣の女性も安心する。そういう顔付でなければならん。まして日本の総理大臣は、危機にあっては日本を安心させる顔付でなければならん。永い平和が、危機にふさわしい男の顔を男から奪い取ってしまった。
首相が11月23日の夕方にやるべきだったのは、ぶらさがりの記者会見ではなくて、日の丸を掲げた記者会見の会場で、堂々と「国民のみなさんにまず申しあげる。心配は無用です。我が軍はこの事態をうけて直ちにデフコン3を発動し即応態勢を整えました。日本領土に飛来するどんな航空機や船舶に対する備えも万全です。勿論油断は禁物でありますが、我々は状況をきちんと把握しコントロールしています。新たな情報が入手されれば、適時適切にお報せ申しあげる。」

2010年11月26日金曜日

Ipadが欲しい!

Ipadを買いたい。
うーむ、買いたい。

おもな使用目的は読書と蔵書。
6畳の寮の部屋における本の量というのは知れている。大学教授ほどの蔵書があるわけでもないが、生活に支障を来すぐらいの分量になると、やはりこの狭い部屋に暮らす身としては「買いたいけど置く場所が...」などと考える破目になる。そういう人はたぶんけっこうな数居る筈だ。

で、自分で最近作った本棚などをじーっとみていると、「これは電子書籍化してもいいだろう」という本もなかにはあるのだ。たとえば、漫画。たとえば、雑誌。たとえば、2時間で読めるビジネス書。その他小説などいろいろ。
じゃあ、全部電子化できるかというと、俺はそれはできない。今読んでいる佐々木中「野戦と永遠」なんて、おそらく最も電子書籍に向かない部類の本じゃないかと思う(俺が読みなれないだけ?)。「世界史の哲学」は汚しながら書き込みしながら読んで、格闘した後を筆跡として留めておきたい。
他方で、漫画は完全に電子書籍と親和的だと思う。漫画「ジパング」、「バガボンド」、「沈黙の艦隊」でかなりのスぺースを占領してくれているのだが、こいつらが厚さ1cmもないIpadに入って行ってくれたら、これはかなりの空間が生まれるだろう。

例えばハワイに4泊でのんびりぐうたら旅行に行くとする。この場合、今の俺なら読むべき本を数冊(4泊ならたぶん20冊くらい)を持っていく。この場合、絶対に漫画を持っていくことはない。30巻あるうちの5巻だけ読むのも面白くないし、重すぎる。のくせに、あっという間に読めてしまう。
Ipadがあれば、これが完全に変わるだろう。Ipadと読みたい本20冊だけを持っていけば、本を読んで頭が疲れた時に、ホテルのテラスで久しぶりにドラゴンボールを42巻全巻を読破する...などというこの上ない贅沢もできてしまう。
おぉ、これぞ現代文明の利器。
たぶん、Ipadを持ち歩くというのは、本屋を常に携帯しているようなものなのだ。その利便性と収納力は想像を絶するものがある。簡単な本や漫画・雑誌を携帯すること、あるいは即座にWeb上で手に入れること。ちゃんと使えば「時間を買う」ことができる。

「Ipadで漫画読むだけ?」と言われそうだが、まぁそこはいろいろ拡張できるだろう。
思うのは、あの重たい(いまキーを叩いているレッツノートを買った時には、「なんと軽いのか...」とびっくりしたのだが)ラップトップを持ち歩いたり出張に持参するのがどうにもスマートではないということだ。
もっといえば、そのうちにIpadのような薄型軽量の情報デヴァイスを持っていれば、もはやオフィスなんぞに行かずとも仕事が済んでしまうという仕事がこれからどんどん増えてくるだろう。また、そうならなければ、情報科学技術がなんのために誕生し発展したのかが分からない。人間が使いこなして自分がより快適に暮らすためにこういう技術はあるのだから。
孫正義氏も言っていたが、パソコンなんてものはそのうちなくなるのだ。Ipadはその始まりのように思う。だってなんなんだあの立ち上がりの遅さは。腕立てが30回ぐらいできてしまう。
少なくとも、家庭に大きなデスクトップやラップトップというのは、今では当たり前だがそれもなくなるだろうと思っている。

そういえば、Ipadではないが、Iphoneで俺の残業は確実に減った。つまり自由時間が増えた。
まずオフィスの外でも会社のメールを読めるので、面倒なブラウザからWebmailを開くということが不要になった。自然、「まだアメリカが明かない(ビジネスアワーになっていない)からもう少し会社にいよう」と残っていたのが、今はすたこら会社を出てスタバで読書をしながら必要なメールに返信するということができるようになった。いま画面の割れたIphoneが隣にあるが、今現在会社のメールが28通入っている。これまでだったら、土曜日の朝や日曜日の朝にWebmailでIDとPasswordを打ち込んでみていたメールが、携帯電話のメールを閲覧するように読める。必要があればそのまま返信するか電話をするし、なければ放っておくか、忘れてはいけないものをメモに残す。
土日の間にだいたい150通くらい受信するメールを、これまでは基本的には月曜日の朝に会社で読んでいた。朝8時30分から。今は、9時30分に出社するが、メールにはすべて目を通しているから、会社に到着した瞬間に、「そういえばあれですけど」と話ができる。土日のいつ読んでいるかというと、まさに細切れの時間。電車を待つ5分間とか、待ち合わせ予定時間前の2分間とか。

さらに。
Googleカレンダーとアプリ”Refill"があれば、紙の手帳は完全に無用。
数か月前からIphoneにこのアプリを入れて、予定を管理している。これは、Googleカレンダーとサーバーで勝手に同期してくれるから、とんでもなく便利だ。朝会社の机につき、最初にやるのはOutlookを開くことではなく(上述のように、メールは会社に着くまでにすべて目を通している)、Googleカレンダーを開くこと。
一日の予定をざっと見て、なんとなく19時に退社かなーとめどをつける。Googleカレンダーは机にいる間は常に開いておいて、上司から「これいつまでに頼むわ」と言われたら、「はい」と言う前にその日付に「北朝鮮に向けてトマホーク発射」と記入する。Remindのメールも適切なタイミングをセットしておけば、とりあえず俺がそれを忘れていてもGmailが一週間前とか3日前にメールとスクリーン上のポップアップで思い出させてくれる。
会社でやらないといけないことなんて覚えていられないので(覚えていたくもない!)、これは本当に重宝している。しかも、それをIphoneで休みでも帰宅中でも見れるというのが、なんとも快適だ。
また、紙の手帳はなくしたら終わりだが、Iphoneを紛失したところでGoogleカレンダー上にすべての情報は残っているから、新しいIphoneを買って同期すれば全く同じ状態に復帰できる。

長くなった。
俺なんぞまだまだIphone初心者なんだが、スマートフォンをテレビゲームとネットサーフィンだけに使うのは本当に宝の持ち腐れだと思う。



2010年11月16日火曜日

「そこにもうあるわけだよ」

先週水曜日、珍しく同僚と仕事のあと食事にいった。
「一杯いくか?」というやつだ。結局二人でスーパードライの瓶を90分ほどで4本飲んだからアサヒ嫌い(別に朝日新聞嫌いとは没関係)の俺にしては飲んだほうだろう。

実は、楽しかった。
面白い話が聞けた。もっと言えば、有り難い話だ。
この同僚は、俺より年は6歳ほど上で、商売の経験でいえば俺とは雲泥の差がある。彼は俺を赤子としか見ていないふうだ。
彼は、今の会社に移ってくる前はある厨房機器の卸売会社に勤めていた。作業着を着てMTの軽トラで都内を中心に関東を縦横に走り回る日々だったそうだ。
彼がこういうのだ。

「あのな、仕事してたらな、よく電話がかかってくるだろ?
マンションを買って資産運用しませんか?っていうやつだよ。俺の前の仕事ってのはあの電話をしてくるおっさんと全然変わらなかったね。
相手が仕事中だってのをよーく知ってるわけだ、やつらは。でもってマンション投資の勧誘なんてあやしいなぁと思われるのだってあいつらが一番よく知ってるよ。それなのに完全にだめもとでいっつもああいう電話をしては朝から晩まで断られ続けてるわけだ。俺の一年目なんて完全にそうだったよ。どこに飛び込んでも帰れだのうるせーだの。。。だってありふれてるんだから。誰から買ったって一緒なわけだよ。それをなんでクソガキのよく知らない俺から買うかって話だよな。。。
でもな、なんて言うのかなぁ...マンションだろうが冷蔵庫だろうがな、作っちゃったわけだよ、そこにもうあるわけだよ、『はいこれいらないから捨てますよ~』ってわけにはいかねぇんだよ。だったら俺がそれ売るしかないじゃん。頑張って売るしかないでしょ?」

これって、商売の真髄であるなにかに触れていると思った。
経済学的に言えば、需要が在って、それに対応する供給が在る。しばしばバランスが崩れることはあるが、そこは価格メカニズムが働いてやがて均衡点に至る。しばしば曲解されるA.スミスの「神の見えざる手」の差配も畢竟こういうことだ。
だが、現実はそんなモデル的な美しさとは真逆だ。供給が需要を超過して「作っちゃった」場合には、それをどうやって売って金を回収するかは、中小零細の企業にとってはそのまま生存問題に直結することもあるだろう。
彼は、そういう世界で商売をしてきた。変な言い方をすれば、「売れるはずがないもの」を売る努力を数年に渡って遂行してきた。だから、彼がする仕事には常に「これで俺は金をもらっていいのか」という意識が如実に現れる。金を稼ぐことの困難を知ればこそ、金を受け取ることについて誰よりもストイックにならざるを得ないのだろう。そこに、その商品以上の価値を自分が追加できるかの否か。それができなければー彼の言い方ではー「自分の食い扶持さえ稼げねぇ」ことになってしまうのだ。
社会人3年目が今更こんなことを言うのもいかがなものかと思うが。

さっき渋谷の宮益坂を表参道のほうから下りながら、ふと思った。

「そこにもうあるわけだよ」

という言葉。俺らの人生ではないか。
俺の人生も貴様の人生も、気が付いたときには「そこにもうあった」。それは捨てることができるものではなかった。

俺らのうちのだれ一人として、この世に「よし!1982年の4月9日に三谷原という変な名字の家の長男として生まれよう!名前は基でよろしく!」などと決定して生まれるのではない。自分では何の意識もなく、なんとなくという意識も持たぬまま、自我なくこの世に生を享け、やがて自己と世界を発見する。
なんという非合理性だろうか!!!合理的であると措定された近代的個人は、そもそもその誕生の是非さえ自分では決定できなかった。自分の存在如何について決定権を持たぬ存在が、生において合理的であろうはずがない。だって俺という精神は、「そこにもうあるわけだ」から。俺が選んだのではないのに。

しかし、俺はこの非合理性に対して真正面から向き合って立ち向かう真剣を振り回すような生き方にしか、生きるべき時間は存しないと確信する。自分では、如何ともしがたい、コントロール不可能な事実を諾として受容してその内において限界まで頑を張る。そういう愚直な生き様によってしか、我々はこの「そこにもうあるわけだ」という非合理の罠を打ち破って成長していくことはできないように思う。

「自分では、如何ともしがたい、コントロール不可能な事実を諾として受容してその内において限界まで頑を張る」というのは、そのまま神風特別攻撃隊の英霊の生き様ではないか。

士農工商の「商売人」であっても、よく特攻精神を堅持して戦い続けるならば、特攻隊員もどきにはなれるのではないかという淡い希望にほくそ笑みながら、赤ら顔は外苑前から銀座線に乗り込んだ。

独り言:

衛星探査機「はやぶさ」が宇宙から粒子を持ち帰ったことが快挙だそうだ。何を持ち帰ったのかと思えば、100分の1mmの粒子が数千...
だが、現代の科学技術を以てかかればこれだけでも宇宙誕生の初期の状態を解明する(「宇宙誕生の初期の状態を解明する」?????????)ことができるそうな。
頓珍漢にはどうにもチンプンカンプンだが、夢のある話ではあるようだ。
ちなみに最近よく売れている「宇宙は何でできているのか」という本はさっと読めて面白い本でした。
死ぬまでに一度は必ず宇宙に出て地球と遠い宇宙を眺めたい。俺が60歳まで生きられるなら可能になるだろう。数百万円で行ける時代が来るだろう。楽しみだ。目茶苦茶楽しみだ。
その時貴様はようやくその狭量なナショナリズムを克服できるだろうって?阿呆は寝て言うがよろしい。俺は宇宙のどこに行こうと日の丸を背負っていくだろう。日の丸は日本の旗でありながら、俺の旗でもあるのだから。

「対人戦闘用意よし」。



2010年11月14日日曜日

パンダとくらげ

尖閣諸島をめぐる数ヶ月間の問題は、現在中国の漁船と巡視船との衝突ビデオをYoutubeに投稿した海上保安官の逮捕如何をめぐって注目されている。
数週間前の検察の中国漁船の船長釈放について、「検察が政治的判断をしては法治国家ではない!」という批判は、まぁそのとおりだろう。
だが、対中国の安全保障・外交力というより大きな視点から見ると、問題の本質はそこではないと思う。
「法治」が貫徹していること以上に大切なことは、政治の側の意思と、その意思を断固として遂行する覚悟を国家のリーダーが示すことだろう。誤解と批判を覚悟で極論を言えば、「法」がきちんと整備・運用されずとも、プラトン的な哲人政治家が統べる国では「法治」は必ずしも必要ではない。
現在の日本には「法治」も「人治」もないのだ。それは国家が弱体化しているということだ。今の日本は、過去百数十年の間に醸成された一群の既得権益が統べる国なのだと思う(既得権益を内蔵しない権力なぞあり得ないのであろうが)。日本という国のクラゲのごときフニャフニャの政権が牙をむき出しにした凶暴なパンダと穏やかに笑う白頭鷲(アメリカの象徴)の間で太平洋の西の方をフラフラと漂っている。たぶん世界からそういうふうに見られているのだろう。
他方で中国には、当然「法治」はないが少なくとも「人治」はある。無茶苦茶であるとしても。
「あれは那覇検察の判断でありますので」などと首相が責任を回避していては、たとえ今回の事件において検察がきちんと中国人の船長を起訴立件したとしても、それでは不十分だ。国家の意思を示すことが首相の最大の仕事であり、それ以外はその他閣僚・官僚の仕事だろう。
ペリーの黒船に動揺して右往左往したかつての江戸の幕閣と、一隻の小さな漁船のタックル(にしか見えません)に動揺しまくって挙句に検察に責任を押し付けようした事なかれ主義の現在の日本政府が、よく似ている。ロシアも完全に足元見てるしね。


それでも俺は日本の将来を楽観している(俺の将来は達観している)。
我々は、近代西欧の世界制覇に対して唯一「否」を突き付けて鉾を手に立ち上がり世界史の大転換をもたらした国である。大敗北のあとにも、物質主義に偏りながらも経済成長で世界を瞠目させた。
この国は、危機の際には必ず他の政治共同体とは異なる我々独自の精神的自主性の復興が行われる。
それは、必ずしも中国との対立関係にのみ我々を導くものではないだろう。中国の巨大な国力に間近
で影響されながらも、それを受容して日本という国の精神的自主性を維持・扶養することが、我々が後世のためになすべき最大の貢献であり、先輩達に対して負う責任の履行である。


今回の事で可哀そうなのは映画「海猿」の製作に携わった人たちだ。実際にマイナスの影響があるかどうかは分からんが、少なくとも興業にプラスの影響はないだろう


独り言:


「一方で経済の世界性を要求しつつ他方で国家の自足性を要求するとき、国家がその領土内に於いて能う限り自主性を保つべき領土的拡張の要求を抱き、一個の自足的世界性を持つような帝国を構成しようとする意図に出ることは当然の傾向である」

-高山岩男「世界史の哲学」p.323

恋愛とは、第一に孤独からの盲目的逃避であり、第二に自己愛への間接的隷属であり、そして第三に肉欲の道徳的充足である。

-俺 (あぁ、皆に喧嘩を販売してしまった)


紅葉のキャンプ、のはずが。

キャンプのシーズンは10月と11月。これは定説です。疑うべくもないことです。
大学のサークルのにわかキャンパーもいないし、バイカーの集団の宴会に悩まされることもすくない。虫も少ないし、なにより汗をかかない。夜の寒さも焚き火のお供だ。
おまけにこの時期は、紅葉が見頃、のはずだったが今回は外した。まぁ暗くなれば同じことだ。


渓流に浸かって夜の出番を待つプレモル。風呂に入ってるみたい。


焚き火をしながら珈琲を飲みつつ本を読みたいからキャンプをしているようなもんだ。昨晩は終わりつつある「世界史の哲学」を200ページ弱読めた。別に屋外に寝ることが特別好きなわけではない。夜の闇と静寂と寒さ、これが必要なのだ。都会にはどれ一つとしてない。都会の夜は明るく(あるいはわざといやらしく暗く)、五月蠅く、温かい。

昼食:シイタケ・チキンラーメン、バナナ3本、珈琲2杯。
夕食:豪州産ステーキ990g、セロリ1房、角切り餅4個、バナナ3本、プレミアムモルツ500ml、珈琲一杯。


ついでに帝国海軍五省を張り付けて格好良くなったMoreskin6号。




2010年11月12日金曜日

缶コーヒー

大学に入ってから、河原やカフェで読書をするのにどうしても手放せなくなったものが、珈琲。
今なら、例えば、どこぞの山に走りに行くぜ!というときは、車に小型バーナーと珈琲豆を積んで行くのだが、かつては屋外で珈琲となれば缶コーヒーしか選択肢がなかった。

20歳で関学に入学してから約9年、恐らく俺個人の類型消費量は数百本(千?)に達するはずだ。

怖るべきことは、俺が口にしてきたこの数百本の様々な缶コーヒーのなかで、一本たりとも「ぬるいなぁ」とか「これは熱すぎる」と感じさせるものがなかったということだ。我々は(少なくともさっきまでの俺は)自販機で缶コーヒーを買えば、たとえば熱い缶コーヒーならば、掌で握り締めるには熱すぎるがさはいえ触れることもできない熱さではないという、あの絶妙な適温を当たり前のことと思っている節がある。だがこれはすこいことだ。 ちょっとした機械文明時代の職人芸とでも呼びたい。

気温が3度のときも33度のときだってあるし、自販機に搬入したばかりということもあるだろう。単純に自販機が気づかれぬまま故障 しているということだってあるはすだ。 それでも、常に同じ。常に同じ”パフォーマンス”。これこそプロの仕事だ。しかも玄人っぽく、全く目立たない。

たぶん、このクソッタレ資本主義というものは、数限りないこういう見えないプロフェッショナルの仕事を生み出すことで社会を支えているんだろうと思う。そりゃイチローは確かにプロだが、イチローだけがプロなわけでもない。そういう隠れたプロを思い遣り(思い遣り=遠くを思うこと)、いい気分になった。が、俺はプロではないな。

街や田舎に乱立する自販機を、とてもいとおしくなど思えぬが、こう考えてみると自販機もそれを管理する飲料メーカー(?)も、たいしたものだなぁと、銀杏並木のとなりの人気のないベンチに座りながら考えた。 とても日本人以外にはできぬ芸当だと思う。外国に自販機がない理由の一つかもしれんね。

おぉ、どこからか「すごいのは自販機だろう」というニヒリストの声が聞こえてきた。

さぁ、今週は山で焚き火じゃ(キャンプ)。寒いから薪はたっぷり必要だが、できる限り現地調達を旨とすべし。

今日買った本:

佐々木中「夜戦と永遠」以文社 2008年

みんなよい週末をお過ごし下さい。



2010年11月11日木曜日

てがみ

掴まり立ちをした姪への手紙。
姪はね、なんとGmailアカウントを持っているんです。
アップするかどうか逡巡したが、まぁ人の悪口じゃないし、よかろうと決めた。



あいこへ

こんにちは。

これをきみがよむのは、なんねんさきのことだろうか。
きみはきょう、うまれてはじめてじぶんのちからでたちあがった。2010ねん11がつ8にちのことだ。
おれはみていないがね。
あねきから「そくほうにゅーす」がとどいて、おもわずにやついてしまった。
きみのちちうえさまもははうえさまも、じじさまももばばさまも、きみがげんきにおおきくなってくれることがなによりもうれしいようだ。おっと、もちろんひいばばさまだってそうだ。
おれもそうだが、きみもたいそうしあわせだ。おれはこうたいしだったそうだが、きみはおひめさまだ。おやばかぶりではあなたのはははなかなかだれにもまけないだろうよ。


でもね、あいこや。
しあわせにうまれついたものは、まじめにいっしょうけんめいにいきて、しあわせをほかのひとにもゆずってあげよう。それがきみのしあわせになる。
せかいからあいされたきみならば、せかいをあいせないはずがない。たとえそれがどんなせかいであってもね。だっておれらのせかいじゃないか。おれらのくにじゃないか。おれらのかぞくじゃないか。ほかのだれのものでもない。


これからきみは、ながいながいじかんのなかで、”すうせんまんぽ”でも、”すうおくほ”でも、そのまだぷにぷにのあしであるくだろう。そのながいみちがうつくしいものであるのかどうか、いまはまだおれはすこしだけふあんだ。
でもね、しんぱいはむようだ。きみをいのちがけでまもってくれるひとがせかいにはたくさんいる。きみにほほえみかけてくれるひとがせかいにはほしのかずほどもいてくれる。
きみのおとうさんはりくぐんのぐんじんさんみたいだし、きみのおじさんはかいぐんのぐんじんさんみたいだ。きみのおかあさんはきみがうまれてからかくじつに”わらいじわ”がふえた。
きみがあるいていくながいみちのほとりには、いろとりどりどりのはなたちがたえずかおっているだろう。
ねがわくは、きみが、そのおおくのはなにきづき、みなとよろこびをわかちあえるうつくしいこころのもちぬしであらんことを。
ほれほれ、わかるかこのぷにぷにむすめ。

きみがだんだんにんげんらしくになっていくのがおれはとてもおもしろい。

きみはそのうちおれのことを「はげおじさん」なんてよぶのだろうね。
まくらことばは、「せかいでいちばんかっこいい」はげおじさんでよろしくたのむぜ。いいこにしてたらたまにはAston Martin DBSにのせてやろう。たまにはニーチェについてかたってやろう。
いまはしっかりおちちをのんでしっかりねておくがよい。しっかり"のう"をせいちょうさせておきなさい。

おれのはなしはむずかしいぞ。みみからはなげがとびだすほどだ。


もとい



2010年11月8日月曜日

人間の間に生きるとき

天山温泉湯治郷での昼飯は麦とろと決めている。
箱根の紅葉は来週-再来週が見頃でしょう。
これを食べる時のイメージは、信長の桶狭間直前の清州城での湯漬け。


下記は、ツァラトストラが彼が孤独を愉しんだ山(洞窟)に久しぶりに戻ってきて語る言葉。

「われ人間の間に生くるとき―、つねに、控え目の真理を以て、愚人の手と痴呆の胸を以て、また憐憫のあまたの小さき虚偽を以て、生きていた。
彼らの間にあるとき、われは仮装して座っていた。かれらに堪えんがために、すすんで自己を誤解していた。また、われみずからに『なんじ、愚かしき者よ、なんじは人間を知らぬ!』と諭していた。
人間の間に生きるとき、人間は人間を忘れる。すべての人間には、あまりに多くの前景がある。―遥かをみはるかし遠くを求むる目は、ここにあってはその用をなさぬ!
かれらがわれを誤解したときも、愚かしきわれは、己を宥恕する以上にかれらを宥恕した。われみずからに対して峻酷なるに慣れ、しばしばこの宥恕の故にわれみずからに復讐した。
毒ある蠅にさされ、多くの悪意の滴によって穿たれし石のごとくに空洞と化しながら―、われはかれらの間に座って、みずからに説いた、『すべての小人らはかれらの卑小に罪はなし』と。
なかんずくわれは、おのれを『善き者』と呼称する輩を、こよなき毒を有する蠅と知った。かれらは邪意なくして刺し、邪気なくして偽る。このかれらが、いかにしてわれに対して―公正でありえたろうぞ!」

―ニーチェ「ツァラトストラかく語りき」下巻、P.90-91

社会に出て仕事をするようになって二年半。
自身の成長は皆無だ。「お疲れ様です」を午前中から言うことに25%ほど抵抗がなくなったぐらいだ。
だが、たった3年前にこれほどニーチェの言葉が脳髄を震わせることは想像できなかった。
最近ニーチェニーチェと五月蠅いが(俺が)、まっこと、心酔しかけている。惚れちゃいかんがね。



2010年11月7日日曜日

空腹と走れ!

最近、腹を空かせている。
ろくに仕事の出来ないへなちょこサラリーマンでも解雇にならない有難い(?)会社に勤めているので、毎日の食事ができず腹を空かせているわけではない。
つまり、意図的に腹を空かせている。

今の日本の社会(都心部)は、異常だ。
人間が誕生してから20万年、昼夜を問わずいつでもなんでも食べ物を手に入れることができる環境というのは、どんな物差しで測ってみても、異常だ。日本と同等の先進国においてさえ24時間開店のコンビニなんてものはないという国も少なくない。(だが今日の目的はコンビニが蔓延するこの状況の是非について語ることにはない。蔓延なんて言うてしまったが)
その結果、我々は、「腹が減った⇒何かを食べる」ことが当然だと思っていないだろうか。残業している時に空腹を感じれば、近くのコンビニとかファーストフード店で食べ物を手に入れられる。我慢する理由なぞない。小腹が減った時のために開発しました!という風な食品がとりわけコンビニに膨大に並べられている。こうなれば、我々が当然のことだが、空腹を感じる時間は少なくなる。
俺は、説明できないのだが、このことは生物としての人間を弱くしているように思えてならない。
考えてみてほしい。
確認されている最古の農耕は、中国において15,000年ほど前に行われていたという。
つまり、人類の誕生から15,000年前までの十数万年の間、人類は、「腹が減った⇒コンビニ」ではなくて、「腹が減った⇒狩り(猪がいるといいですね!マンモスを倒せたら何日ぐうたら?)」という暮らしを生き延びてきたのだ。その人間が、この21世紀初頭の日本では、いつでもどこでも鶏の唐揚げだろうが肉マンだろうがパスタだろうが食べることができる。このことの意味は、けっして軽くないと思う。

さはさりながら。
仕事をする平日に腹が減ってはなかなか集中できぬという事情がある(実験済)。
だから、お勧めはやはり土日だ。
まず、金曜日の夜は水とプロテインだけを摂る。ついでに銭湯のサウナで大汗を書き新陳代謝を上げる。そして、「腹減った~」と言いながら就寝。土曜日の朝、昼も珈琲と水しか口にしない。
毎日真面目に三食きちんと食べている人は、これで土曜日昼3時にもなれば、けっこうな空腹感を感じるはずだ。で、大切なのはここから。

この空腹常態で、筋肉が分解されるのを覚悟で(我々の身体は低血糖状態で運動を行うと、筋肉(=たんぱく質)を分解してエネルギーを得ようとする)、トレーニングを行う。
今週末の俺の場合は、アップダウンのある5kmのコースを時折75%ぐらいのダッシュを混ぜつつ、走る。その後、懸垂・腕立て、それから少々瞬発系のトレーニングを入れる。すると、面白いことに気が付くはずだ。空腹を完全に忘れるのだ。さっきまでひどく空腹だったのに。
そりゃそうだろう。腹ペコの子どもライオンに獲物をせがまれた母ちゃんライオンがトムソンガゼルに飛びかからんとする時に、空腹もなにもないだろう。昔右手の中指の爪がパックリ割れて血まみれなのに、問題なくピッチングを続けられたことがある。人間=動物は、ちゃんとできているものだ(試合後に号泣するほどの激痛に襲われた)。
だいたい90分間ぐらいのトレーニングを終えて、食事をとる。当然ながらやはりたんぱく質が主体となる。イメージだけで言えば、1,500kcalくらい一気に摂る。理想的には、ササミ・卵白などで十分なたんぱく質を補い、新鮮な果物と根菜で身体を整えたい。ここまででだいたい土曜日の「食事+トレーニング」が完了。そのあとは実はプレミアムモルツを一本空けつつニーチェを音読するという怠惰な夜を過ごしたりもする...赤ら顔で。

いかがだろう。
この機械化文明の恩恵を当然のものと思って二本足では走ることもできない動物園の肥満動物に堕落したくない戦闘者のあなたは是非一度お試しを。
身体が若返って元気になるのを実感できるはず。
なにより食欲という欲求さえ自身のコントロール下における自分に自信が持てるだろう。
空腹のときのほうが、戦闘的なんだよね、人間って。ライオンと同じで。頬のこけた奴には注意するべし。


独り言:

日本シリーズ盛り上がってますな。
だけど放映権料に依存したビジネスモデルはもはや成り立たんでしょう。
アメリカがあの国土で一つ(二つ)のリーグでやれるのだから、台湾韓国日本中国でトップリーグを12チーム、セカンドリーグを12チームぐらいにして、Asian Professional Baseball Leagueぐらいでやれば楽しい。野球版大東亜共栄圏?うーん、Maybe。



2010年11月6日土曜日

読書は孤独な体験であるという誤解について

読書とは孤独な行いである―。
もしあなたがそう考えているとしたら、あなたは残念ながら途方もなく浅薄な人間だ。そう断言することに俺は全然躊躇しない。
読書とは孤独な行いであると考えることは、読書における他者性を無視するか、意図的に排除している。
例えば、なんらかの情報・知識を記憶すること、まぁこれは受験勉強において頻繁に必要になることであるが、これは多くの場合孤独な行いである。大学センター試験の日本史で100点を取ろうと思えば、794年に平安京が設立されたことだけではなく、その数千数万倍の情報を記憶する必要がある。記憶するのはあなた自身だから、誰もその行いに介入しないし、助力もしない。
だが、読書とはそういうものとは本質的に違う。形而下的に言えば、机に座って書物を開くという行為は受験勉強のような孤独な行いと似ている。だからこそ、「読書=孤独」というおかしな一般通念があるのだろう。
本来、読書とは、自分とは異なる他者がこの世界に存在することを大前提とし、読者とは異なる言葉の用法を以て読者とは異なる(たまに同一でもありうる)思想を紡ぐその他者と直接に関わらざるを得ない、これ以上ないほどの能動的な活動である。
読むということを見下してはいけない。読むという行為を見下すことができるのは、命がけの文章に触れたことがない人間だけだ。そういう「読者」は、2時間で目を通すことができる1500円のビジネス書しか読んだことがないのだろう。そんな本を一万冊読んでも、一冊の真っ当な読書には敵わない。
著者が全人格をかけてものした文章に直接触れる読者の精神が、一体全体どういう理屈で孤独であり得るのだろうか。俺はそんなことは理解しないし、想像もできない。単なる情報の交換・伝達を媒介として他者と「交流」することはそもそも無理な相談なのだ。なぜといって、情報それ自体を保有する者の匿名性は、それが他者に伝達されたとしても未だはぎ取られはしないから。そもそも考えてみればすぐに分かることだが、情報が流通するのは貨幣と同様にその一般性のためである。そうであれば、情報に個性などありはしないのである。個性なき他者?そんな者が存在しえる筈がないではないか!!個性なき他者というのは、空気と同じである。特殊的であるからこそ我は我でありうるし、あなたは他者として存在しうるのだと思う。
話が逸れた。
読む人は、他者の存在を前提として生きる者だ。この他者とは、根本的に理解し合えない敵も当然に含むものだ。読む人が減ったからこそ、他者の存在を許容できぬ狭量な社会になっているのだと思えてならない。世界=自分、そういう極端な自己愛とその反対の個人の不安、そういう矛盾が蔓延っている。



完全な人間

母たる女性こそ、人間という生物のうちで最も美しいのだと思う。つまり、彼女は、吠えることも唸ることもなく冷静に鹿を殺す狼なのだ。
彼女にとって世界は、完全な身体性と即時性を持って常に彼女の側にある、否、彼女と世界を区別するものは最早存在せず、彼女即世界の関係が成立し、主客二分論は止揚される。
これに対して男は、自分の卑猥な自己顕示欲と性的欲求の混入した支配欲に動かされ、これがために仕事に励み身体を鍛える。まるで、女性に受容されざれば自身が存在すること能わざる者であるかのように。陥穽は此処にある。
女性との関係ー殆どの場合それは性的関係を伴うーによって大方の男は世界に受容される。それは彼らが望むことである。しかし、このことによって、男は世界内存在(注)として、謂わば世界に包含されてしまう。かかる上は、彼は世界を批判することはできない。世界内存在が、「世界」を変えることはできないし、破壊することもできはしない。
俺は、女性の優しい砂糖によって世界という苦い対象を甘くして、そのなかに自己を没入させることで得られる幸福を拒否する。俺は、その道が幸福であるか否かに関心を払うことなく、世界外存在たるべきだと信じる。俺は、集団登下校を拒否する。おぉ、異教徒の聖夜に色めき立つ畜群よ!

「私は、ここに立つ。私には、ほかにどうすることもできない」

-マルティン・ルター
ハプスブルグ帝国皇帝カール五世のヴォルムス国会の召喚に応じて

(注):ハイデガーがいった「世界内存在」ではない。単純に、in or outと考えられたい。

追伸:

「自分や自分の作品を退屈だと感じさせる勇気を持たない者は、芸術家であれ学者であれ、けっして一流の人物ではない」

-ニーチェ



武田知弘「ヒトラーとケインズ」

少しまえどこぞの本屋で、帯に「なぜ冷静なドイツ人がこの独裁者に従ったのか?」と書かれた本を見た。
戦前戦中は軍=加害者、国民=被害者という後味のよい善悪二元論に歴史を還元したくなるのは、その社会全体の痴呆の始まりか。

さて、この本は、ヒトラーの経済政策とケインズの経済思想・主張を比較したもので、その類似点を強調することでナチスに新たな光を当てようとしている。同時に、それが大恐慌(1929)後のハイパーインフレ(マルクの価値は1兆分の1になった)をいかに克服し、工業大国ドイツを成長させて国民に職とパンを与えたかについて述べている。

端的には、「ナチスの経済政策は効果において素晴らしかった。アメリカのニュー・ディールは失敗したが(アメリカの景気が本格的に回復したのは1941年以降)。そして、それはケインズがさまざまな著作などで主張したことと基本的に一致した政策であった。」ということを言っている。

俗に言われるケインジアン政策とは、「不況期には、政府が財政出動を行って有効需要を創出し、以て失業を減らすべし」という政策だといえる。リーマン・ショック後の世界経済の動揺・低空飛行のなかで、数多くの政府が行ったことはまさにこれを地で行くものだった。
ヒトラーがドイツ帝国の総統として全権を掌握した1933年、ドイツは世界恐慌により大打撃を受け600万人以上の失業者を抱えていた(失業率34%)。経済破綻といってよい。
ヒトラーは政権奪取の3ヶ月後、有名なアウトバーンの建設を発表した。ドイツ全土を全長1万7千キロの高速道路(いまだに一部は速度無制限!あぁ、なんて甘美な響きだ)を6年間で建設するというものだった。このアウトバーンの建設に始まり、住宅建設、都市再開発などのきわめて積極的な公共投資(ヒトラーは当時は財政赤字をものともせずに16億マルクの国債を発行した)によって、わずか3年間で失業者を100万人にまで減少させた。経済は順調に回復し、1936年のGNP(国民総生産)はナチス政権誕生以前の最高であった1928年を15%も上回ったという。
この時期、同じく世界恐慌により崩壊した米国は、ニュー・ディール政策を1933年から行うも1938年の時点ではいまだに800万人の失業者を抱えていた。

さまざま特徴のある経済政策を行ったナチス政権のなかでもヒトラーの公共投資戦略は非常に現在にあっても示唆的だ。ヒトラーは、高額所得者・大企業に対する増税を行い、それを公共事業の原資とした。かつ、公共事業費は、労働者に厚く分配した。要するに、高額所得者・大企業の金を労働者に分配したということだ。観念的に「平等が大切!」だからこの政策が正しいというのではない。
なぜ、労働者の取り分を厚くする必要があったのか?
それは、単に公共事業(地方に橋を作る道路を作る、例えばね)を行うだけでは、それは地主層や大手建設会社を潤すことはあるが、彼らは相対的に労働者よりも大きな富を既に保有しているために、公共事業による収入増=消費につながらない。だが、失業していた労働者にこの収入が分配される場合、彼らはどうしても消費にその収入を回さざるを得ない。つまり、ヒトラーは、増税によって金持ちの資産を吐き出させて、それを公共投資によって有効需要に還元してから労働者に分配したのだ。それによって、眠っていた富が市中に動き出すようになり、経済が活性化した。ナチスは、公共事業を受注した企業にナチス党員(SS?)を送り込み、業者が労働者にきちんと収益を分配しているか監視を行った。
(翻って日本の公共事業ときたらどうだろうか?)

著者は、ヒトラーとケインズの社会に対する見方(それを経済思想と呼んでいるのだが)について、両者の根底には、「とんでもない格差社会を作らない」という意思(=当為)があったという。例えば、ケインズは、1917年に母親に宛てた手紙でこう述べる。

「戦争がこれ以上長引くことは、・・・これまで我々が慣れ親しんできた社会秩序の消滅を意味するえあろう・・・残念ですが、私はこれを全面的に悲しいとは思いません。金持ちがいなくなることはむしろほっとすることです。それより私が恐れることは、(国民)総貧困化の恐れが生じることです」。

ちなみにケインズは、イートン校からケンブリッジ大学という典型的なイギリス特権階級の教育課程を経ている。他方で、ヒトラーは、1940年11月、ベルリンの軍需工場で行った演説で次のように述べた。

「現在の資本主義の経済原則では、国民は経済のためにあり、経済は資本のためにある。しかしわれわれは、この原則を逆転させた。つまり、資本は経済のためにあり、経済は国民のためにある、ということだ。別の言葉でいえば、何より重要なのは、国民なのだ」

政治とは、夢を語ること以上に、限界的な決断を行うことだ。つまり、有限的資源(このパンを二人で分けることはもはや不可能だがどちらかが食べないとどちらも死ぬ!)をいかに配分するかについて、暴力を背景に決断して実行することが政治である。そうであれば、政治を行う者の精神は、どれだけ頑丈であってもそれに過ぎることはない。なぜといって、政治とは人間の活動において唯一の合法的のみならず、「正しく」人を殺すことができる活動なのだから。
しかし、その頑丈さは単なる不感症が故であってはならない。過敏なまでに、対立せる諸個人・諸集団にとっての死活的利益を「理解」しながらも、それを裁断していくための断固たる「信念」を持つ者だけが、政治を行いうるのだと思う。

「覚悟だぜ」