2010年11月6日土曜日

読書は孤独な体験であるという誤解について

読書とは孤独な行いである―。
もしあなたがそう考えているとしたら、あなたは残念ながら途方もなく浅薄な人間だ。そう断言することに俺は全然躊躇しない。
読書とは孤独な行いであると考えることは、読書における他者性を無視するか、意図的に排除している。
例えば、なんらかの情報・知識を記憶すること、まぁこれは受験勉強において頻繁に必要になることであるが、これは多くの場合孤独な行いである。大学センター試験の日本史で100点を取ろうと思えば、794年に平安京が設立されたことだけではなく、その数千数万倍の情報を記憶する必要がある。記憶するのはあなた自身だから、誰もその行いに介入しないし、助力もしない。
だが、読書とはそういうものとは本質的に違う。形而下的に言えば、机に座って書物を開くという行為は受験勉強のような孤独な行いと似ている。だからこそ、「読書=孤独」というおかしな一般通念があるのだろう。
本来、読書とは、自分とは異なる他者がこの世界に存在することを大前提とし、読者とは異なる言葉の用法を以て読者とは異なる(たまに同一でもありうる)思想を紡ぐその他者と直接に関わらざるを得ない、これ以上ないほどの能動的な活動である。
読むということを見下してはいけない。読むという行為を見下すことができるのは、命がけの文章に触れたことがない人間だけだ。そういう「読者」は、2時間で目を通すことができる1500円のビジネス書しか読んだことがないのだろう。そんな本を一万冊読んでも、一冊の真っ当な読書には敵わない。
著者が全人格をかけてものした文章に直接触れる読者の精神が、一体全体どういう理屈で孤独であり得るのだろうか。俺はそんなことは理解しないし、想像もできない。単なる情報の交換・伝達を媒介として他者と「交流」することはそもそも無理な相談なのだ。なぜといって、情報それ自体を保有する者の匿名性は、それが他者に伝達されたとしても未だはぎ取られはしないから。そもそも考えてみればすぐに分かることだが、情報が流通するのは貨幣と同様にその一般性のためである。そうであれば、情報に個性などありはしないのである。個性なき他者?そんな者が存在しえる筈がないではないか!!個性なき他者というのは、空気と同じである。特殊的であるからこそ我は我でありうるし、あなたは他者として存在しうるのだと思う。
話が逸れた。
読む人は、他者の存在を前提として生きる者だ。この他者とは、根本的に理解し合えない敵も当然に含むものだ。読む人が減ったからこそ、他者の存在を許容できぬ狭量な社会になっているのだと思えてならない。世界=自分、そういう極端な自己愛とその反対の個人の不安、そういう矛盾が蔓延っている。