2014年9月3日水曜日

走りながら考えたこと

自分が生まれてきたことを呪うことは残念なことだが、それよりもさらに悲惨なことは自分が生まれてきた意味が分からないと嘆くことだ。
歴史上どんな人間も誰一人として自分自身の意思で生まれてきたわけではないから自分が生まれてきてしまったという事実を呪うこともままあるだろうが、生まれ落ちてから自分で生きる意味を掴み取れないことは多くの場合自分のせいでしかないから自分自身以外に批判の向けようがない。
間違っても自分の子どもがやがて「お父さん、お母さん、私を生んでくれてありがとう」などと言ってくれるだろうなどと期待してはいけない。若い時分には自分の存在の意味不明さに懊悩して自殺を考えるような知的な人間であることを俺は我が子には望む。馬鹿という存在の特権は、あらゆる苦悩から自由でいられることであって、その快適さのためには人はけっこうなものを平気で自覚もなくポイポイ投げ捨てる。
日本語を解するよいになったら子どもにはこう言おう。

「お前の人生はクソにも花にもなる。お前次第じゃ。わしは手伝いはするが、やるかやらんかはお前が決めい。」

まー、わかっとるんだがね。
何がクソか何が花かについて、こいつらとは分かり合えないということは。
それが、とどのつまりは人間は一人であるということでしょう。