2011年12月31日土曜日

29歳の顔

べべすけ、君の両親の平成23年12月30日の顔です。
父の髭面の理由は、この数週間「坂の上の雲」のドラマをテレビで観ていたからです。だから、最近の口癖は、

"ゼット!!!掲げぇぇっっっ!!!"

母の色白の理由は、パス牛乳をよく飲んでいるからです。

伊豆、大室山に登るロープウェイにて。

2011年12月28日水曜日

年の瀬に

いつの時代も、自意識過剰な我々は、自分たちが生きている時代は特別だと思いたがるものです。
自分という個人が社会のなかで特別な存在でありたいと思う感情と脈通じるところがあるものでしょう。
自分が生きている時代で世界が終わるとか、自分は世界の大転換の時代に生きているとか。
自分の死が世界の終末や現在の世界のあり方の終わりであると信じたい人は、確かに一定数存在します。

東北での大震災後、こういう言説は強化されました。
そりゃそうです。
映画「ディープ・インパクト」のような世紀末的映画でしか観られそうもない巨大津波が文字通り町そのものを飲み込んでいくところを目撃した我々は、原子力発電所の破滅的な危機も相俟って、世界はもはやこれまでと同じではありえないとか、世界は変わらなければならないとかいう多くの声を聞かされています。
もちろん、それは、多くの利益団体や既得権益者にとって、自分に望ましい方向に社会を変えるための最大の機会であるという大きな理由もありますが、最初に書いた理由からも、恐らくそれだけでは説明できぬものでしょう。

同じ年に、近代国民国家を真っ先に作り上げた欧州はといえば、終わりそうもない金融危機にのたうち回り始めました。
そして、民主主義が必然的に招導する財政における社会民主主義が、論理的帰結として財政危機に至るという現実を我々は目の当たりにしています。
そして、それが破裂したとき世界がどうなるのか、誰しもが固唾を飲んで見守っている、なんてことはありませんね。

大袈裟に言えば、産業革命以降の世界を形作ってきた技術主義と、資本主義と国家主義のアマルガムとしての大いなるシステムが終わろうとしているという時代認識がかつてないほど強烈に意識された年が終わり、新しい年がやってくるわけです。
だけど、新幹線は去年と同じように今年も年末年始の帰省客をいそいそと大量かつ正確に運ぶし、阿呆な芸能人はハワイに出かけ、大衆はその映像を居間のコタツで観させられるのです。

東北が、日本が、どれだけの損害をこうむったとしても、それは日本人1.28億人全員の生活を変えたわけではないし、まして世界をひっくり返したわけではないのです。

我々はひたすらに終わりなき毎日を生きて行かねば、生き抜いていかねばならぬということです。
年の瀬で区切りがつくものなんて、実際のところ何かひとつでもあるでしょうか。
恋愛、夫婦関係、仕事、戦争、外交交渉。
北朝鮮のミサイル、拉致問題。中国の海洋進出。欧米と日本の債務危機。
すべて、今日のこの日にも大いなる問題であるし、来年の元旦にもそうであるし、恐らく来年の年末にはさらに悪化しているのでしょう。

だから、年の瀬だ年賀だといって、ひたすらに流れていく自分の人生や歴史に、なにか決定的なものが生まれるわけではないし、新しいものが始まるわけでもないのです。

むしろ、これだけの危機の年の後であっても、こんなにも普通に正月がやってくることの異常さに注意したい。
そして、そう思うとき、我々の人生はどこまでも、ひたすらに平凡なものだと思い知らされます。
これだけ破滅的と思われ、実際そう言いふらされる地震や危機の只中にあっても、我々が生きているのは平凡なる日常でしかないのです。

人生に意味などない。そうかもしれません。
確かにあるとは言えない。少なくとも、「俺の人生には意味がある」ということを証明することは絶対にできないのです。
肉親を失った多くの同胞に、そう強く言いたいとも思わないし、それが正しいことだとも思えません。

だけど、そうやって平凡な毎日のなかに一度沈み込んでから、泥にまみれて這い上がってくるところに、我々の命が輝く場所が漸く存在するのだと思います。

人生を、「どうせ終わるものだから」と思って享楽的に生きて快楽主義に堕していくことも、あるいは阿呆な宗教者のように人生に大前提的に意味があると考えて熱狂することも、はたまた自分が他の時代とは異なる特殊な時代を生きていると妄想することも、畢竟、格好悪いのです。

格好良く生きよう。
断固たる決意を持って。

俺のために生きてくれたすべての人のために。俺の後に続くすべての人のために。

すべてを受け入れながら、しかしすべてに反抗しながら。

三谷原基拝

2011年12月23日金曜日

CDGにて

面白い本を読んだ。
小倉恵美子「オオカミの護符」新潮社、2011年。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%81%AE%E8%AD%B7%E7%AC%A6-%E5%B0%8F%E5%80%89-%E7%BE%8E%E6%83%A0%E5%AD%90/dp/4103316918
「社会にとって大切で必要であるけれど、まだ仕事になっていない多くのことがある」という言葉に強い印象を受けた。
その通りなのだ。
どれだけ優秀であっても、誰かが作った仕事をしている限り、どれだけの成果をあげても単なる秀才の域を出ない。
親になる身としては、我が子には「将来どんな仕事をするか?」などと訊くのは絶対しないことにしよう。ばかげている。
ただ、こう伝えるのだ。
「お前は日本を背負うために生まれてきたのだ。しっかりやれ」
こう言っておけば、まさか「職業の名前」で仕事を選ぶような阿呆にはならんだろう。そんな輩ばかり見えるのだが。
ところで、このオオカミ系の新しい本だが、抜群である。
俺が暮らす横浜市青葉区から程近い川崎氏宮前区土橋に昔からある”百姓”(なんで”百”なんでしょうね)の家に生まれた著者は、東急電鉄の大掛かりな開発によって田畑しかなかったこの土地がどんどん見目麗しい先進的な郊外都市になっていくのに戸惑っているとき、ふとオオカミの護符が彼女に目に入ってきたという。
そして、物語は青梅の御岳山のオイヌ様信仰を謎解きに至る。
青梅のオイヌ様といえば、その昔神武天皇東征の折に、このあたりに到着したとき、この地の神が怒って巨大な鹿を神武天皇の前に遣わし道をふさいだときに、二頭のオオカミが現われて神武天皇を導いたという伝説がある。
俺が、去年「狼=大神」というタイトルでこのブログにひとつ記事を書いたのはこの伝説に因る。
こういうふうに歴史を学ぶべきなのでしょうな。
織田信長が毛利ヤノスケに桶狭間で一番の褒賞を与えたとか、真珠湾攻撃のときに山口多聞は第二次攻撃をやる気満々だったとかいうも歴史なのだが、そうではなくて、自分の先祖が何を信じて何を思って生きてきたかということを知ることが、一番大切ではないのか。
そして、そういうことを物語ることが大人の仕事ではないのか。
あぁ、日本昔話を観たい。

TPP。
TPP反対というと、過去数ヶ月の間に何人かの人に「農協守って日本滅ぼすの?」と言われた。
前原さんの洗脳にどっぷりか?
このTPPは、明らかに覇権国家を諦めて帝国主義国家へと舵を切ったアメリカの東アジア・西太平洋政策の根幹を成している。
アメリカは、増大し続ける戦費をまかなえずにイラクとアフガンから撤退し、リビアにはトマホークを控えめに打ち込んだだけで大規模な作戦には参加せず、ムバラクに至ってはだんまりを決め込んでなるにまかせて失脚させた。
金融緩和と量的緩和を史上かつてないほどのレベルで行うことでドルを減価させ、輸出を増やそうと躍起である。
国内で豊富に産出されるシェールガスのために、アメリカはガスを中東から輸入する必要がなくなり、逆にガス輸出国になることすら考えられる。つまり、中東に巨大な軍隊を貼り付けておく必要はもはやない。もっとも、サウード家のアラビアが崩壊して油価が暴騰するところまでは許さないだろうが。
アメリカは、これから、世界全体のことになんでも空母を覇権する超大国・覇権国家であることをやめて、それよりも安上がりで効果的な19世紀的な帝国主義国家になることを戦略として選んだのだ。
この視点でTPPを考えるべきだ。
日本は戦後60年間、ひたすらアメリカに貢ぎ続けた。TPPはその最終装置である。もちろん国内にこのアメリカ勢力と利益を一にしている者(大手製造業、大手商社など)は存在する。その声を代表する新聞(日経)もある。
問題はイランだ。
もしイランが俺と同じように考えているとイスラエルが考えたら、イスラエルはますますイスラエルへの先制攻撃の誘惑に強く駆られるだろう。最近テヘランはホルムズ海峡封鎖作戦を実施するとかしないとか言っていたが、これなどはこういうブラフを言い、行いながら、ワシントンの反応を注意深く探っているのだろう。
アメリカが世界帝国をやめるとき、もっとも危険なのは中東である。東アジアは、将軍様が死んだといってもいまだにアメリカの強大な戦力がグアム・日本に維持されており、すぐに危機にいたるとは考えにくい。
地政学的に言えば、巨大な帝国主義国家は海洋覇権を巡って対立する運命にある。その意味で、大日本帝国とアメリカが戦ったのもマクロの視点から言えば、石原莞爾が言ったように歴史の必然であったし、これから中国とアメリカが対決をしていくのも当然のことだ。サンフランシスコの近海に中国の空母が遊弋することをワシントンが絶対に受け入れられないように、北京も台湾海峡に米空母がスィーと入ってくるのを許すことができない。
で、わが国はどうするのか。

橋下大阪市長と堺屋太一氏の共著(文芸春秋新書だったはず)を読んだ。
すべての組織は、自己の存在意義を肯定することを前提とする、激しく同感である。
だから、行政の側によって既存の行政組織(それがすでに機能していない場合)を改革してどうするこうするなど、できるはずがない。それは、大阪市役所だけの話ではなくて、つまりは日本国家のことでもある。
平松前大阪市長は、橋下氏の「大阪都構想」について、「大阪都?できるわけありまへん!」と見得を切っていた。
喧嘩慣れしていないまじめクンの発想である。
過去たった500年を振り返っても、世界でどれだけの帝国が崩壊し、王様が国を追われてきたことか。俺がいまこれを書いているフランスなどは、王様の首をギロチンでチョッキンと切ってしまった国だ。それが、自由・平等・博愛の国というのだからねぇ。
そういう歴史感覚で大阪や今の日本を眺めれば、「大阪都?できるわけありまへん!」なんて言葉は絶対に出てこないのだ。
「なぜ大阪都構想はだめなのか?」について平松氏は一生懸命語ればよかったのだ。
「これは戦です」と言う橋下氏は、政治の本質を誰よりもよく理解していると思う。
すでに利益を握っているものから奪い取りに行こうというゲリラまがいの戦い方は、すべての革命家が行ってきたことだ。多勢に無勢での戦いを始めたからこそ、革命家は革命家なのだ。
これから橋下人気に中央の怠け者政治家がすり寄って行くだろう。数年後に、橋下総理大臣ということもあながち無茶な想像ではなくなってきた。
時代を維持するのは常識人で、時代を作るのは変人奇人である。
今の日本に必要なのは、破壊である。

チェ・ゲバラの名言。殺されるその瞬間に射手に対して、
「落ち着け、よく狙え。お前をこれから一人の男を殺すのだ」
すごい。
なにがすごいのか。
彼は、別のところでこうも言っている。
「世界の別の場所での不正を自分のことのように思える人になりなさい。それこそが革命家としてのもっとも美しい資質なのだから」
彼は、自分の命を絶とうして狙いを定める射手に対して、自分のことを考えずに、射手のことを考えている。
命が奪われるその瞬間にさえ、「あ、こいつ俺を殺すのに緊張してやがる」と思える男というのは常軌を逸しているのだが、ゲバラはそのレベルの人間だったのだろうと思う。

少し前にスターバックスを設立したハワード・シュルツ氏の本を読んだ。「スターバックス成功物語」。
株主対策という面もあるから、8割りがけで読む必要はあるが、スターバックスがどういう会社になりたいのは気持ちいいいほど伝わった。
世の中、正しいことなどない。いや、あるんだけど。誰もが好き勝手を言ってえらそうにしていやがる。

子供の名前は、女の子なら「三谷原優子」、男の子なら「三谷原国義」とすることに決めた。
ぜんぜん優しくないサッチャーのような女や国の義なんてどうでもいいと叫ぶ新時代の共産主義者になるかもしれぬが、まぁそれはそれでよかろう。
なんせ俺の名前は、「基本が大事じゃろうが」ですから。
ちびすけを抱っこしてショルダープレスをしたりスクワットをしたりするのが今から待ち遠しい。

2011年12月17日土曜日

呆け頭の独り言

こんにちは。

よい天気です。
冬だというのに、南を向いた窓の傍の僕の書斎は、右舷45度からの真冬の温かい陽光が黒のアンダーアーマーをぽかぽかに温めてくれて、ついつい読書をしていると睡魔ーなぜこれは睡”魔”なのでしょうねーに襲われてしまいます。
まったく、こういう休日の昼下がりに、妻が淹れてくれたスマトラの珈琲を飲んでいると、ドイツが南欧のひとたちの生活を破綻させてでもハイパーインフレの悪夢を絶対に避けようとしていることや、アメリカが世界帝国たる目標を捨てて)、代わりに確固たる帝国主義国家としての勢力圏をTPPによって東アジア・西太平洋に作り上げようとしていることや、大王製紙の元会長のかつての香港での豪遊や、東電福島第一原子力発電所の怪しい「冷温停止」や、東北の被災地に訪れた厳しい冬のことなどを、完全に違う世界のことのように思いがちなのは、一体全体僕の想像力の欠如の故なのか、それとも一見したところ明らかな幸福の悪しき結論なのか、よく分かりません。
実のところ、最近の仕事における忙しさによって、頭が多少呆けているようです。暖房のせいでしょうかね。

僕の妻のお腹に僕らの子供が生まれたことが判ってからようやく1か月半が経ちました。
もうすぐ妻の妊娠も五か月目になります。
自分が父になる準備が完全にできたと思って父になる男がいないということは、死が眼前に訪れたその瞬間に、なんの後悔もなく健やかに死ねる確言できる男がいないということと同じように思います。
だけど、それでもみなたまに苦悩呻吟しつつ、たまに悦びに泣きながら、父となり、親父となり、爺ちゃんになり、死んでいくのでしょう。
死に向かう道程に数多ある一里塚の一つが、我が子を生み育てることであるとすれば、確かに僕はこの小さな世界のなかを走る自分の一本道の宿場のうちで、疑いもなく最大のものの一つにようやく到達しようとしているようです。だからといって、そのことが意味するものは僕の個人としての偉大さへの接近でも後退でもないことは明らかですから、僕は自分の子供だけを生きがいとして生きるようではいけないわけです。これは、絶対に正しいことです。
というよりも、生きがいがなければ生きられないという弱い男では生きる価値はないし、さっさと死ねばいい。生きがいなんぞあろうがなかろうが、ライオンはシマウマを襲うし、人間は戦争に向かうのです。

なんと言えばいいのでしょうかね。
僕は、足りぬ頭で自分の子供が生まれるということの意味を、論理的に記したいという欲求を抑えることができないのだろうと思います。
だけど、歌い踊ることが常に論理を超え出て行くように、この世界には確かに論理と科学では捉えきれないものがあって、自分の子が妻の子宮に宿っているという事実そのものが、記述の対象ではないように思います。
別に、それを感動的なことだ!と決めてかかっているわけではないのです。
なぜといって、どれだけ個人にとっては感動的で衝撃的な自分の子供の誕生も、統計的に見れば一つの数字でしかないし、産婦人科の看護婦さんからしたら、僕の子供の誕生は、僕がオフィスからお客さんに電話をして話をすることとさして変わらぬことでしょう。

子供が出来ると、死がそれまでよりも身近に感じられるという体験をした人が必ずいるはずです。
新たな命の誕生の予感はーしかも自分の命を引き継ぐ自分の子供ーは、その反対側にあるもの、つまり自分の死を、とても優しい女性的な方法で僕に突き付けざるを得ません。
新しい世代が生まれ、成長していくことは、必然的に、自分が老い朽ちて骨となっていくことと完全に生物学的に連動しているわけですから。

結局のところ、孤独と死こそが我々にとって最も大切な友人なのです。彼らは、常に僕の側にいて、僕を詰り、中傷し、励ましてくれるのです。
妻と子を、人生における救済者としてしまうところに我々男の最大の過ちがあるのです。そうすることによって、男は男であることをやめてしまうのです。いや、それが幸福であるという選択もあるのでしょうが、それは僕が認める「男」としての生きざまではないのです。
むしろ、彼らは、われわれに生きがいを与えてくれる人たちではなくて、家族という最も近い存在でありながらも依然として渾然一体とはなれぬという現実を我々に明証することによって、我々を叱咤激励してくれる、そういう存在なのだと思います。男は、無意味な人生という当たり前の現実から逃げることなく、その荒漠たる砂漠にビルを建てるように自らの意味を打ち建てる場合にのみ、男たりえるのです。
もし、自分の家族が存在しなくなったときに、打ちひしがれてすべての活力を失い末人のような風貌を曝す弱い男を、どうして妻も子も尊敬して憧れてくれるでしょうか。僕は、弱さの故につながりあう二人の関係を唾棄したい。強さと強さーそれは、互いの死を別個のものとして断固として受け入れて、個人としてこの世界に立ち上がった男女の精神の姿勢ですーで結びついた男と女でなければ、世界に「否!」と喧嘩を売ることができる個人は育てられません。

そう理解するからこそ、われわれは、「他人」である家族を愛してやまないのです。

妻が後でぼそっと言うのですが、「誠実であることは孤独だ」そうです。
ふーむ。

ではまた。
最近ノートに書きためていることを書き連ねようと思います。