2012年11月24日土曜日

日本より

○四ヶ月ぶりの日本に向かうANAの座席から、アメリカ大陸の大地を眼下に見やりつつ、黄金に煌めくプレミアム・モルツをクピッと飲む。窓から流れては消えて行く五大湖周辺の山並、湖、河川を眺めては、様々なことを思いつつ、ボロボロの「ツァラトゥストラ」をまた開く。馬鹿の一つ覚えを馬鹿にしたら馬鹿をみるよ。
誰にも邪魔されず、しかし珈琲もスナックもうどんも頼めば持ってきてもらえて、読書と思索に耽ることができるこの雲上の空間は何物にも変え難い。
ANA頑張れ!JALなんかに負けるな!

○憲法に「国防軍」を記載するのはだめだ、平和憲法の否定だという公明党と民主党は、国防軍を保有する世界の全ての国をいちいち批判して回ってきたらよろしい。大変な旅ですな。
なんなら自衛隊よりもっと守り重視で、「専守防衛軍」とでもするか?そしたら名称の馬鹿らしさでは、よく侵略をする「人民解放軍」といいとこどっこいだな。

○テレビ事業でこけて興亡の危機にある日本の家電メーカーは、薄型テレビで人々をどう幸せにするか真面目に考えたんだろうか。
韓流ドラマを強い円で安く仕入れて右から左で電波に垂れ流すだけのテレビ局は、もはやテレビの将来になんの希望も持っていないんじゃないだろうか。
日本の薄型テレビに映る韓流ドラマをみるともなくみるとき、怠惰と惰性と現状追認が組織の将来にとっていかに危険なものであるかを痛感する。

○「元商社マン」などと自称してブログを書く人間は、「御國ノ山桜」と自称する阿保よりさらに救いようがない。
なんなんですか元商社マンって。
俺は元高校生だぜ、すげえだろ〜

2012年11月23日金曜日

アメリカの強さ

アメリカやイギリスに、たぶん差別はあるのだと思う。オフィスや街頭の清掃をしているのはいつもヒスパニックだし、ビルの警備員はほとんどの場合黒人だ。

しかし、それでもアメリカは(どれだけたくさんの短所を抱えているとしても)尊敬に値すると最近思う。

米国最大の原発事業者の燃料購買担当の部長級に、韓国からの移民二世がついていたり(関西電力の部長がインドネシアからの移民二世ーということがあり得ると考える人は、あまりに世間離れしている)、黒人の課長が白人女性の上司であることは当たり前だ。オバマさんが大統領になる国なのに何を今更と言われそうだが、これはすごい事だ。
日本などよりはるかに徹底した能力に依存した人事評価の在り方が、より優秀な人間をあるべき立場に押し上げることを可能にし、それが国力の源泉になっている。

ほんの50年前まで黒人は黒人だというだけで法律によって白人と同じバスに乗ることを禁じられていたのだ。
それが、ゆっくりかもしれぬし、高所得のホワイトカラーの仕事は未だに白人が圧倒的多数を占めているとはいえ、着実に変化しているように感じる(数字を出すべきですな)。

そこにあるのは、さらによい社会、国を自らの理想に従って作って行くのだという恥ずかしくなるほどの真っ直ぐな思いだ。
正しいことは何か?ということをこの国の民は問わずいられないのだ。そして、時には正しいと信じることを武力を用いてでも実現しようとしてきた。
これはシニカルな欧州人には、歴史知らずの馬鹿げた楽観主義として片付けられるのだが、それでもアメリカはこの善への止む事なき強い希求をやめない限り、強烈で多様な巨大国家であり続けるだろう。

オバマ大統領の選挙後の勝利演説での山場は、「アメリカの最高の時はこれからなのだ!」というシャウトだった。
数多の問題が山積しているのに、俺でさえ、そうかもねぇと思わされるのは、たぶんオバマさんの饒舌で情熱的な演説のせいだけではないだろう。
アメリカはまだ若い国だ。
初の黒人大統領を得てから4年、この国はいよいよ真の多民族国家になっていこうとしているように感じる。

ルターの名を与えられた革命家であったマーチン・ルーサー(ルター)・キング・ジュニアのような偉人の努力は、こういう形でアメリカの大地に結実しているのだと思う。

2012年11月22日木曜日

ガス喰い3.7L(V6) Mazda 6

夢を語る奴が地獄の扉を開く

いま核兵器廃絶は可能だ!と言っている法螺吹きは、時代が時代なら大東亜共栄圏を築くのだ!と叫んでいたに違いない。
核兵器のない世界が核兵器のある世界より断然安全で安定しているなどと考える根拠は一体全体なんなのだろう。
核兵器が誕生する前から人類はそれはそれは盛大に戦争をしてきた。

次のハイエクの言葉の国家を世界に変えて読んでみるといい。

「国家をこの世における地獄と絶えずしてきたのは、国家をこの世における天国にしようというあの努力以外のなにものでもない。」

フランスが持ち、中国が持ち、アメリカが持ち、イギリスが持ち、ロシアが持つ核を日本だけは、いや、日本は持つことについて議論することさえだめだという人間は、たぶん「日本人は危険な人種だから核兵器を持ったらすぐに北京に向けてミサイルを発射するだろう」とでも考えているんだろう。

核兵器は悪である。
だが、人間社会から悪を一掃してしまえば善だけが残るなどと考えられるのは、あまりに幼稚な議論だろう。
悪も受け入れるから大人なのであって、悪を受け入れても悪に染まらないから大人なのだ。

橋下大阪市長の「核兵器廃絶は無理」発言に対する長崎市長の「ご存知ないのではないか」発言に呆れて。

2012年11月19日月曜日

ニーチェの死生観 2

マーク・ローランヅは、「死が我々にとって悪いことであると考えられているのは、我々が死ぬことによって何かを失うと想定しているからだ」と言うのだが、ニーチェはかく言う。

「死ぬという行為は、一般に畏怖されていることが物語るほど意義あることではなく、また、死につつある者は、彼がここでまさに失おうとしているもの以上に重要なものを、生において多分に失ってきただろう。」

ー『曙光』

言わんとしていることはこうだ。

「死が目の前にやってくるその時までぐうたらしてきた人間が死んで何かを失うだと?気様の生を振り返ってみるがいい。いきなりここから先の人生が仮にあったら自分はもっともっと素晴らしい人間になれるのだーなどとはゆめゆめ夢想せぬことだ。妻がいきなり貴様が死んだ翌日に絶世の美女になることもなければ、貴様のその悲惨なほどたるみきった腹が明日へこむこともなく、上司はこれからも苛立ちの原因であり続けるだろう。これから先まだ余分に生き永らえたとしても、メインのステーキはもう既に残っておらんのだよ。あまりドタバタ騒がぬほうがよい。」

思うのだが、かつての日本の軍人が、「天皇陛下のために死ぬことが当然だと思っていた」というのは嘘ではないと思う。つまり、我々の時代の死への恐怖も、かつての大義のための死の礼賛も、実のところ珈琲と紅茶の違い程度の差異でしかない。我々の時代の死への構え方が正しいわけでもないし、過去は誤っていたわけでもない。死の恐怖も死の礼賛も、作られたものであるから。

キリスト教においては、アダムが神の言葉に背いたので、人間は永遠の生を失い神と離れて生きることになった。すなわち、人間が人間であるというそのことに由来する、あの、原罪。
この原罪の思想は、生を貶めることになった。死後の世界と生の二元論、そして前者を賛美し、後者を蔑み、両者をつなぐ接続点として死を認識するのがニーチェがひたすら批判したキリスト教の基本的な死生観である。この死生観からすれば、死後の魂をありがたがり、生における肉体を軽蔑することは自然なことだ。

マーク・ローランヅは言う。
「狼にとって、死は本当にすべての終わりである。そうであるから、死は狼を支配しない。」

だが、ニーチェは、「人間は死ねば土に還っておしまいよ」という世間でよく耳にする唯物論的な死生観をとるわけでもない。つまり、生きている時は死んでいないし、死ぬときにはもう生きていないから問題なしとはニーチェは言わぬ。
(だから、ニーチェはたまらなく魅力的だ)

ニーチェはここから、死を何か別の異世界への連結点とみなす見方も、死を生から完全に排除して無視を決め込むことも拒否することになる。

そして、登場するのが、そう。
生即死の絶対肯定へ至らんとする、永劫回帰の一側面である運命愛である。

ニーチェが次のように死を瞬間ごとに「死に切る」ことを、語る時、ニーチェは完全に山本常朝(「葉隠」)とほとんど同じ場所に立っている。

「誇らしく生きることがもはや不可能ならば、誇らしく死ぬこと。自発的に選択される死、明るく、喜ばしく、子供たちや立会人の真ん中で遂げられる、時宜を得た死。」

ー『偶像の黄昏』

自殺推奨でないので、ニーチェはこうも言う。俺はこれを読んで一人大笑いした!

「自殺の評判を悪くしているのは自殺者である。ー逆ではない!」

「あらゆる生の瞬間が、同時にまた、死を死に切る決断の場だということ」(新田)というのは、まさに、かつて武家の子供たちが親や教師より叩き込まれた「生死一如」という存在の在り方である。

以上は、新田「ヨーロッパの仏陀ーニーチェの問いー」二章の読書メモです。

独り言

○かつてのモーニング娘もそうだが、アイドルとしての『賞味期限』がくると、「もう君は若くないからさようなら」という代わりに「卒業」という偽善の言葉が使われる。今年プロ野球から解雇された選手にも「プロ野球を卒業」って言ってやったらどうだい。プロ野球のほうがよっぽど健全だな。
アイドルの世界が健全であるはずがないんだが。

○沖縄で今度は女性宅に米海兵隊兵士が住居侵入で現行犯逮捕(11月18日)。北京が若い兵士に金を握らせているといぶかってしまうんだよなぁ。じゃないと、そこまで阿呆じゃないでしょう。アメリケンの軍人さんも。
ともあれ、北朝鮮の強制収容所みたいなものに米軍基地を造り変えてしまえたら、いいのにねぇ。
おぉ、俺が政治家ならけっこうこれ問題発言ですな。
だけど、「自国に他国の軍隊があるのは異常な事態(必ず駄目というわけではなく)」という意識は忘れちゃだめだよ。
ところで沖縄の平和主義者のみなさん!そろそろ自主防衛のことを考えてくれてもいいのでは?これだけ米兵の「侵略」に晒されているのだから!

○アメリカの生活は、たぶんほとんどの日本人にとって快適である。倉敷に暮らし、イオン倉敷で映画を観て、イオン倉敷で本を買い、イオン倉敷で子供服を買い、イオン倉敷のスターバックスで珈琲を飲み。。。という最近の日本の田舎のどこにでもある郊外型巨大モールのある暮らしになれた人にとっては、恐らくなんの違和感もなく住みつけるだろう。必要な英語なんぞほんのわずか。
俺がトックヴィルのように「アメリカって違うなぁ」と思えないのは、単に俺の鈍感の罪の故だけではないと願いたい。

○民主党に投票するのは従来からのコテコテの民主党びいきの人だけだろう。さりとて、かつていかにも弱そうな顔をして首相の座を降りた安倍氏を再び首相に就かせたいと思う人も多くないんじゃないか。俺はそう思う。この選挙は、自民vs民主vs維新というよりも、恐らく自民・民主vs維新という構図になるだろう。実際にはうまく配分されるのかもしれぬが。

○メキシコに今月上旬に行った。チワワが野良犬になって歩いていたので、「さすがメキシコ!」と思った。チワワはメキシコの街。メキシコがこれから成長していくことができるかは、中央=メキシコシティの利権を如何に地方に分配していくことができるかにかかっているように思える。そういう意味では、田中角栄的な利権政治も、確かに戦後の高度成長にとって重要な一里塚だったのだ。今現在有効であるかどうかは兎も角。その意味じゃ、利益誘導政治、マンセー。

○亀田氏曰く、不倫騒動の渦中になる元CIA長官のぺトレイアス氏は、不倫相手とのコミュニケーションを面白いやり方(最新のテロリストの交信方法)で行っていたそうな。
それは、アウトルックの下書きフォルダに伝えるべきメールを残し、それを二人だけの秘密のコードによって互いに閲覧できるようにしていたのだと。メールは送信してしまうと必ず外部のサーバーに残るから。
まぁしかし。ケネディ、クリントンは言うに及ばず沢山の政府高官(というより大統領...)が不倫をしまくっているのがワシントンDCという街だ。ホワイトハウスでの不倫は、ちょっと冒険的過ぎるんじゃないかと思いますよ。

○首相官邸前での脱原発デモでアジ演説もやり民主党首脳部から白い目で見られていた鳩山氏に、安住幹事長代行は、「民主党の公認が欲しいなら党の公約を守れ」と言ったそうな。
もうこうなったら鳩山氏は管氏と組んで「脱原発党」を結成して脱原発デモのなかから候補者を擁立して戦えばいいじゃないか。福島でなら、勝てるかも???

○京大である先生が言っていたことを最近思いだした。
「日本は、百万人に一人の馬鹿が130人いる国です。ところが中国には、1百万人に一人の馬鹿が1300人もいるんですよ!」
博愛主義者と平和主義者も同じ数だけいることを祈り祈り...

○これから法然の研究を始める。

○来週京都に行く。鴨川→賀茂川を散歩してグリル長谷川ででかいハンバーグを食べて、205系統(バス)で四条河原町のBALで買わないといかん日本語の本を買い込む。優子さんが認めてくれればですが!紅葉はどうだろかね。

○人と会うとこういうくだらんことを順不同でバーっと話したくなって、やがて酒も入ると支離滅裂になる。あまりよろしくない悪癖。だからここに書いておこうっと。さて、走ろかね。

フォークランドと尖閣


俺が生まれた年に1982年は、国際政治上の出来事で言うならばフォークランド戦争の年である。アルゼンチン東方の海上に浮かぶ英領フォークランド諸島(アルゼンチン名:マルビナス諸島)にアルゼンチン軍が上陸したことをきっかけとして、「鉄の女」サッチャーは、英国より攻撃型原潜と空母を含む艦隊を南大西洋に派遣した。ミサイル時代の西側対西側、先進国対先進国の戦争ということで、戦術的にも非常な注目を集めた戦争であった。勝利した英国側も600名以上の兵士を失い、アルゼンチンはそれをはるかに超える犠牲者を出した。

この紛争は、尖閣諸島をめぐる日中の対立と一見似ている。
尖閣では未だ戦争が起こっていないことを除けば。

だが、本質的な違いがある。
英国とアルゼンチンの対立は、アルゼンチン側の国内政治上の要因があったにせよ、それはかなりの部分が旧来的な領土紛争がエスカレートしたものとして説明しうる。だからこそ、この戦争の後特に両国関係が悪化してもいない(別にバラ色の関係でもないが)し、再び戦争が起きてもいない。

他方、尖閣は、純粋な意味での領土問題を超え出たものを含んでいる。それゆえに、性質が悪いのだ。

では領土問題を超え出たものとは何か。

人口13億人、兵士だけで数100万人を擁し、15年近く年率10%の経済成長を遂げてきた新興大国中国は、当然のように海洋覇権を求める(これを「当然」と考えるかどうかは、その人の世界観、歴史哲学に大きく依存するもものであることは認めよう)。例えばアメリカが、メキシコ湾やカリフォルニア沖やニューヨークのハドソン川の河口に中国の軍艦が遊弋することを看過できぬように、成長し自信を得た中国にとっては、東シナの海に自衛隊や米海軍の艦船にうろちょろされることはどうしても認められない脅威なのだ。
そうであるから北京は、近代的な外洋艦隊を作り上げようとこの10年間にわたって必死に頑張ってきた。
(海軍というのはだいたいどの国でも持っているのだが、長期間にわたって外洋で大規模な作戦任務を行うことができる海軍を持つ国は多くない。米国、日本、英国はまず間違いなく、次いで仏国、露国。それ以外の国は、自国から遠く離れた海洋において数カ月にわたって艦船を運用する経験やノウハウを保有していない。韓国海軍にしてもその経験はほとんどない。中国海軍は、今まさにこの外洋海軍=Blue Ocean Navyに生まれ変わろうとしている。)

尖閣諸島を日本から奪うことは、中国にとっては、西太平洋の米海軍+自衛隊の圧倒的な海上優勢に対する挑戦という野望にとって避けられぬ道程なのだ。そして、尖閣の次には沖縄が控える。
卓越した海軍軍略家であり、秋山真之がワシントンで師事したかのアルフレッド・セイヤー・マハンが言ったように(「海上権力史論」)、通商国家にとっては海上の支配権は絶対的に必要なものだ。海外からの資源・エネルギーにますます依存し、欧州・日本・米国との貿易により富を得る北京が、その物資の運搬ルートを他国、しかも北京が仮想的とみなす米国の手のうちにあるままでいいと考えるだろうと想定することは、中国人にとってのこの100年の屈辱の歴史を十分に理解しないナイーブな議論である。
仮に尖閣を強奪したとしても中国の西太平洋への勢力伸長は絶対に終わらない。それは終わり得ないのだ。それはあたかも水が高きから低きへ流れるかのごとく、力が外部に膨張し張り出してくる国際政治上の不可避の過程である。

やがて中国と日本・米国はさらに厳しく対立することになるだろう。
国際政治秩序の変更は、多くの場合戦争によって行われてきた。かつて日本が東アジアの地域覇権国として台頭した時には、日清・日露の二つの戦争が地域の国際政治秩序の変更・更新のために戦われた。普仏戦争は勃興するプロシアが分裂していたドイツ諸侯をプロイセン主導によって統一し大陸欧州最強の国家であることを宣明したし、第一次世界大戦は英国の世界覇権に終止符を打ち米国に新帝国としての地位を与えた(アメリカは当初全然やる気がなかったが)。
こういう歴史の意味を我々は十分に理解した上で、尖閣について中国に対しなければならないし、また「尖閣以後」についても戦略・戦術・軍備を備えねばならない。

30日連続で中国の政府監視船が尖閣諸島の接続水域を航行している。
この船は、ペリーの後150年の時代を経てやってきた新たな「黒船」である。それが意味するものは、日本人に「戦ってでも生き残る意思があるのか」という問題、日本人が戦後ひたすら放り投げ無視し続けてきた重大なこの問題を我々に投げかけている。
単に「ある領土問題を如何に解決するか」という次元に還元することはできない。

正しいことを求めても始まらんよ


真理、確かなるもの。
人間はそういうものがないと一日たりとて生きていけぬ動物であるらしい。
かつて人間はそういうものを神に求めた。だからこそ、神、司祭の膝元に屈した。
今は、ファッション雑誌とインターネットとテレビ番組のなかに求めている。
ファッション雑誌に登場するモデルが神の子供のように若い女性に崇められ、インターネット・インフラを提供する会社が急成長し、テレビ会社の社員の給料が最も高給なのはこういうそのことの反映である。人間は教会に行く代わりに携帯電話とテレビから世の「情報」を得て、それに従い、それに適うように振る舞う術を覚えていく。それができぬ人間は、「空気が読めない」だの「変人」だのと言われることになる。昔風に言えば、「異端」というわけだ。
世の中に真なる理、それ以外のものを誤謬としてしまうような唯一の真理があるとか、普遍の確かなるものがあるなどというのは弱さの兆しである。
確かなものなど何一つない。真実など、国家の数だけ、人の数だけ存在する。
そして、だからこそ、革命がこれからも必要であるし、革命は今も可能なのだ。

かつて法然は、比叡の山を降り、「ひたすらに阿弥陀仏を唱えさえすれば、全ての人間は極楽往生できる」と唱えた。1175年のことだ。
当時、中世温暖期を前半と後半に区切る気候悪化の時代だった。それによって洪水、干ばつ、長雨によって各地で飢饉に見舞われ、さらに大地震によって都が大損害を受けた。隆盛を誇った平家も没落し、都では強盗が横行し、世は乱れに乱れた。
そんな時に、革命家・法然は、それまでは貴族・武士などの特権階級に限られていた仏教の極楽への門を民衆に開放することによって弱者を救済し、女性を救済する新たな宗教革命を行ったのだ。この法然の革命は、その後親鸞へと引き継がれ、偉大なる鎌倉仏教の盛華へと繋がっていった。佐々木中氏に倣って言うと、彼は「革命戦争」を行ったのではない。法然は、書き、語った。そして、革命はなされた。
革命は、人が生きるために、人が命を繋いでいくためになされる。それは、なされてきたし、これからも社会が、国が危機に陥るたびになされるだろうし、なされねばならない。

2012年11月12日月曜日

早や11月か


さっきBethesda界隈を散歩していてふと思ったのだが、織田信長をニーチェが知っていたとしたら、ニーチェは信長を彼のいう「超人」だと礼賛したのではないか。ニーチェはキリストの「神は死んだ」と喝破したが、信長は叡山の僧侶を皆殺しにした。
馬に乗りポルトガルのマントを羽織る信長をヘーゲルが見れば、ナポレオンを彼が見た時と同じように「世界精神が目の前を通る」と言ったに違いない。
ところでニーチェの「超人」とは、彼の想像した究極の人間存在の謂いであるが、これは英語だとスーパーマンとなる。なんだか青と赤のあのスーパーマンの姿が想像されて、ちょっと滑稽。


アメリカで本屋は軒並み苦境にあるそうな。理由はもちろんAmazonKindle
そのせいで、減少中の本屋に行ってみるともうすさまじい光景である。
ある大学生らしき20代前半の女性は、専門分野の分厚い本を10冊ほど二人掛けのテーブルに積み上げ、隣のスターバックで買ってきた巨大なカフェラテを机に置き、ノートパソコンを開いて椅子の上で胡坐を書いて熱心にレポートを書いている。
ここは図書館ではなく、普通の本屋である。そして、たまに店員がやってきて、「この本は棚に返してもいいか?」と尋ねると、使い終わった本だけ「はい、これだけ返しておいて。どうも。」という具合で数冊本を手渡す。これを何時間でも机を占拠してやるわけである。
彼女は全然特別ではない。同じことをしている人が周囲にいくらでもいる。当然WIFIが飛んでいる。
つまり、本屋は本を買うところではすでになく、立ち読みするところですらなくなっている。それは、すでに「本を借りられないけど無料でWIFIが使えてそばにカフェもある図書館」になっている。この状況で本屋が必要とする売上を上げることは困難と言うほかない。
まぁ考えれば当たり前の話で、アイフォンを使えばAmazon30秒で本を注文して2日後には送料格安で自宅まで本が届く時代に、わざわざ本屋に行く必要は全然ない。多くの場合、人件費や店舗賃貸料が上乗せされるために本屋のほうが割高なのだから。
とはいえ、それでも俺は本屋ならではの武器があると思う。それは、背表紙をこちらに向けてずらっと陳列することができるあの一覧性と網羅性である。Amazonは確かに俺が過去に購入した本の履歴から俺が興味のありそうな本をいつも推薦してくるのだが、間違ってもマルクスについての新著を紹介してくることはない。Amazonのコンピュータが分析するより俺は幅広いのだよ。俺は丸の内の丸善では、哲学・政治思想関連の本棚は保守主義からマルクス主義まで舐め回すようにチェックするのである。ついでに言えば、近代建築の写真集を30分も眺めていることもあるし、合気道の入門書を一生懸命立ち読みしていることもある。ヘラブナ釣りの雑誌やヤクザ専門雑誌(実話時代)も読む。さらに本屋は図書館とは違って、タブロイド雑誌も含めてありとあらゆる雑誌や新書を雑然と陳列することによって、世相を見事に反映してもいるから、浦島太郎はまず大型の書店に行けば時代錯誤をいくらかは解消できるだろう。
だから、俺は本屋が適正利益を上げ続けられるように、小さな努力でしかないが本屋である程度は本を購入し続けようと思う。レストランがない街や居酒屋がない街に暮らすことはなんともないが、本屋がない街に暮らすことだけはできないと思うから。
物があふれる時代には、本の有難さは忘却される。誰も「本が手に入らない時代」があったことなど想像しない。だが、ほんの500年前、人々は権力に対抗したり教会からの迫害を避けながら、たった一冊の本を全て手で書き写し、読めぬ人に語り聞かせるということをやってきたのだ。そういう「読書」に比べて、我々の「読書」のなんと貧相なことか。
「趣味は読書です。」という人間は阿呆だと思う。物好きで本を読む人間は、娯楽としてしか本を認識できない。自分の人格の外部に本を置いてそれを搾取するかのように漁る。浅ましいことだ。そうして得た情報について知ったかのように振る舞い始めたら、これはもう情報への隷属である。隷属を強いるかのように書店に並ぶあのファッション雑誌。誰に命令されているのか。


生活に思想を与える。俺の一分一秒全てに思想を持たせ、思索の上の断固たる決意の上に生きる。それが意味のある人間の在り方だ。どこに所属しているかなど知ったことか。
何をするか、ではなく。如何に在るか。問題はこれなのだ。


自由が尊いものであるとして、それは何故か。
それは、意思が外部に顕現する場として自由があるからだ。
つまり、自由そのものには価値はない。
サッカー場は素晴らしいプレーを見るために必要であるが、サッカー場だけを見に来るサッカーファンがいないことと同様に。


ニーチェ、狼、永劫回帰、革命。
このあたりがここ18カ月ほどのキーワードなのだが、ニーチェは人間のなかで最も狼的な人間である(マーク・ローランヅ風に言うと)。ニーチェは、商売人にはなれなかっただろうし、詐欺師にもなれなかっただろうし、教師にもなれなかっただろうし(どんな講義になるのか考えただけでワクワクするが)、政治家にもなれなかっただろうと思う。もちろんいい夫や父にもなれなかっただろう(宗教家にはなれただろう)。ニーチェはサルではなかった。
端的に言えば、ニーチェは「ニーチェ以外ではあり得なかった」のだ。狼が、狼以外ではあり得ないのと同じように。存在せるものの本質的な美しさはここにしか生まれない。「私は一個の爆弾である」。いやー、よう分かりますよ。毎日炸裂してますよ。


人間は、醜い。外見が、美しくない。狡賢さが表情に表れているような人間は、特に醜い。
そう思うことが最近とみに多い。
イルカやシャチが高速で海洋を疾駆する姿、南極海をペンギンが滑空するように泳ぐ姿、大空をイヌワシが羽ばたく姿。
他方、ホモサピエンスが机の前に猫背になって神経質そうにカタカタとなにやら叩いている姿、ホモサピエンスが酒を飲みながら酔っぱらってフラフラになっている姿。
野生動物だから動物園の檻に入れられてもまだ見るに耐えるのだが、反対に人間が動物園で檻に入れられたら、見るに堪えない光景になりそうだ(別にヒューマニズム的な意味でこう言うのではない。俺はそれほど人間愛に溢れる男ではない)。
しかし、さりとてゴキブリは美しいとは思えぬ。


妻と子供の関係は特別で、そこに父や夫の入り込む場所はないような気もする。が、それでいいのだと思う。男の役目は安全保障。軍と同じ。軍は、平和が維持されているからといって、「俺のおかげだぜ!すげぇだろ!」なんて言ってはいけない。
妻子と男の間には距離があるし、またあってしかるべきなのだ。いつも妻と子と仲良しの「パパ」になってしまっては男に生まれた甲斐がない。
男はただただ精神と肉体を鍛え続け大人の男になるための訓練を、ひとりで地道に淡々と毎日続けていくのだ。家庭を持ち自己をそこに埋没させていくーしかも自ら進んでそれをやるー男ほど、実は家庭をぶち壊しがちなのだと思う。
時代錯誤の男性優位主義だって?はっはっは。冗談はよしこさん。