2015年7月28日火曜日

死者との邂逅

たまに、横浜の閑静な住宅地の兎小屋に暮らす二人の娘を不憫に思うことがある。それは、俺の所得の故の兎小屋住まいについてではなくて、その閑静な住宅地の非歴史性と死者の不在のことである。

俺がガキの頃ーはや30年も前のことになるわけだがー、姉貴や近所のにいちゃんねえちゃんたちと、小さな祠に控えめな鳥居を備えただけの狛犬様と呼ばれる、それはそれは小さな社でよく遊んだ記憶がある。全国どこでも同じだったろうが、小さいとは言っても自分たちの背よりはうんと高い鳥居の上に小石を乗せることを競って遊んでいた。石が乗せられたら良いことがあると信じていたかどうかははっきりと覚えていないが。
近所の墓も集落の所々に点在していて、そのそばを少年野球の練習の帰りや釣りの帰りにいつも通っていた。民家の隣に墓が並んでいることは当たり前のことだった。祖母は何よりも自分の家の墓参りを大切にしていて、野球の練習の合間に雑草の駆除に、少し離れた墓まで俺がついて行くと、「おじいさん、基君がお墓をきれいにしてくれましたよ」といつも優しく語りかけた。俺としては草むしりをしただけなのに、一度も会ったことがないじいちゃんやいつも怖い顔をしていた曽祖母の顔がありありと思い出され、クソガキなりに姿勢を正したものだ。
家の離れの北側にも、高さと幅と奥行きを合計してと1.5メートルはないと思われる小さな祠があって、祖母はいつもこれの水を替えていたと記憶している。この祠は今もある。
家のなかには曽祖母の額入りの写真やじいちゃんの額入りの写真もあって、もちろんそれらが掲げられている御座敷には恐ろしく古ぼけてはいるが重厚な仏壇と、今にも千切れて破れてしまいそうな「天照大御神」の掛け軸があった。犬養木堂翁や三島中洲先生(山田方谷先生の一番弟子で大正天皇の侍講、河井継乃助先生の兄弟子)の書などがもぽつねんと掛けられていた。
とはいえ、これらは岡山県倉敷市の少し古い家なら当たり前のことで、似たような家の誂えを近所のどこでも見た記憶がある。言わば、田舎ものにとっての1980年代の通常の生活風景と言えよう。

時は流れて四年前の春、俺が妻を両親に会わせるため連れて帰った時、頭のなかでは別に親への挨拶なんてどうでもいいことで、それより「ご先祖さんにはよ報告とありがとうを言いにいかんと」という思いばかりだった。初めての実家への挨拶の時にお墓参り?なんて言われたら、これは世界観と家族観と歴史観についての大いなる齟齬としかいいようないから、その時は結婚はなしだろうな〜残念だな〜とも思っていた。もっとも、自分が選んだ女がそんなしょうもない女であるはずがない、とも思っていた節も確かにある。

で、5月の連休のある日の夕方。何故か北を向いた低い山の斜面にある我が家の墓を二人でざっと掃除し、俺は缶コーヒーのBOSSのブラックを2缶、先祖墓に置いた後、墓に向かって正対、最敬礼をした。「さて、帰ろうかね、ありがとうね」、と妻に言うと、彼女はこう言ったのだ。
「うん、おじいちゃんたち、喜んでくれたかな」と。
それはぶりっ子することが世界トップクラスに苦手な我が妻の、深い真心からふっと漏れ出た感情が言葉になったものであるということぐらいは若い俺にも容易に察せられた。「この人間は、俺よりもさらに強いご先祖さんとの紐帯のなかに生きている、この時代錯誤女...!」、そう確信した瞬間だった。

多少惚気ているようだが、それが目的ではない。実際、妻の両親の実家の鹿児島は大隈半島南部においては、墓はほぼ必ず家屋の側にあって、日参が基本である。毎朝顔を洗うように墓に参る。南国だからか、数日おきに替えられる豪華な赤や黄色やオレンジ色の花がすべての墓を飾っていて、集落のなかで最も華やかなのは実はお墓であるという面白い風景が現在も残る。

翻って俺が現在暮らす横浜市のある私鉄沿線の住宅街には、墓も神社も地蔵さんも何もない。どれだけの家に仏壇があるだろうかとも思う。街には、駅の周辺に幼稚園や保育園、スーパーやクリーニング屋やフィットネスクラブ、本屋や居酒屋があり、まぁ生活するには便利なことこの上ない。そんな街で子供達が遊ぶのは、横浜市がその潤沢な財源で維持している、ありがたいほどに手入れが行き届いた緑の多い公園である。

普通に考えれば、なにも不満の言いようがない子育ての環境に思える。安全で、歩道は広く、暴走族のような輩もおらず、夜は森に彷徨い入ったのかというぐらい静かである。近辺には私立の進学校やインターナショナルスクールとやらも複数あって、先立つ物さえあれば教育についても心配はない。

だが、何かが欠けているーーー俺はそう胸中でずっと感じていたのだ。
それは、自分を生んだ父や母の両親やその親たちが、確かにこの地に生まれ育ち、子をなし、そして死んでいったのだという明白な実感と、クソガキの俺が祖母とともに体験したご先祖さんとの邂逅の場所である。
ここには、死者の居場所はない。いま生きている人間にしか存在しないものとされている社会において、死者たちは居場所を与えられず、遠い空で星にでもなってキラキラ悲しく輝いているんだろう。

自分は何者なのかと20年間問うてきた。未だに答えはありはしない。だが、少なくとも、俺はご先祖さんが必死に命をつないできてくれたことの結果として、この平成の御代に暮ら1人の男であるとはっきり言える。そのご先祖さんか、どこで生まれ、どんな暮らしをしてきたか、わずかばかりだが聞かされてきた。
結局のところ、俺はそれ以上の存在ではありはしないのかもしれない、とも思う。だが、それ以上ではないかもしれないが、それ以下ではけっしてないのだという自負と自信も確かにある。たくさんの人たちが命を繋いできた結果として、たまたま自分という存在があり、その事実にいくばくかの感動を覚えるのあれば、自分とは異なる他者として、死者を分け隔てることはもはやできはしない。

歴史とは、所詮我々が恣意的に解釈した過去の出来事の総体であるかもしれない。だが、教科書の歴史とは別に、手で触れられる自分自身の歴史が存在するのだ。多くの人がそれをまじまじと見ようとしないだけで、死者たちはすぐそばにいるのだ。

上に述べたような祖母との墓参りでの経験を、人によってはなんじゃそれはと笑うことたろう。
だが、大学院時代の京都の夏の夜半、賀茂川の芝生に寝転がって、満月に照らされた北山連峰の稜線を見はるかし、涼しげな虫の声と嫋やかな川のせせらぎに耳を休ませるとき、確かに俺は自分がこの世にやってくる前にも同じように流れ続けてきた膨大な時間を強く自覚したのだ。それは、俺の親父がクソガキだった時間であり、俺の祖父がオシメを曽祖母に替えてもらっていた時間である。
あれは、宇宙的でありながら、これ以上ないほど刹那的な瞬間でもあった。あの賀茂川での体験は、祖母とのあの墓参りと俺という人間の地中深くで時空を超えて深く強く繋がっているのだ。







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