2012年7月26日木曜日

すべての「本を読む」人への言葉

佐々木中氏の文章なのですが、名文なので引きます。

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われわれは何を論じていたのでしたか。本を読むとはどういうことか、読み書き翻訳するとはどういうことか、ということについてでした。ルターは何をしたか。聖書を読んだ。彼の苦難はここにあります。ここにこそ。どういうことか。
彼は気づいてしまったのです。この世界の秩序には何の根拠もない、ということに。
聖書には教皇が偉いなんて書いていない。枢機卿を、大司教座を、司教座を設けろとも書いていない。皇帝が偉いとも書いていない。教会法を守れとも書いていない。「十戒を守れ」と書いてあるだけです。修道院をつくれとも書いていない。公会議を開けともその決定に従えとも書いていない。聖職者は結婚してはいけないとも書いていない。贖宥状どころの話ではない。何度読んでも書いていないわけです。むしろ逆のことが書いてある。
ルターはおかしいくらいに-「おかしくなるくらい」に-徹底的に聖書を読み込みます。そうお金があったはずもないのに、確か借金をしたんじゃなかったかなぁ、聖書の一部分を大きな余白を取った紙にわざわざ写本してもらって、何度も何度も書き込みをして繰り返し読むということまでしています。ラテン語もギリシア語もヘブライ語も勉強して、何度も何度も読む。データベースで一発検索どころの話じゃない。繰り返し、繰り返し、何度読んでも-書いていない。この世界の秩序には何の根拠もない。しかもその秩序は腐りきっている。他の人は全員、この秩序に従っているのですよ。この世界はキリスト教の教えに従ったものであり、ゆえにこの世界の秩序は正しく、それには根拠があると思っている。みんな。ルター以外。教皇がいて皇帝がいて枢機卿がいて大司教がいて修道院があって、みんな従わねばならない、と。でも、何度読んでも聖書にそんなことは書いていない。
本を読んでいるこの俺が狂っているのか、それともこの世界が狂っているのか。
そういうことです、これは、本を読むということが、いかに恐ろしいことか。
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-佐々木中「切り取れ、あの祈る手を」P.57-59

ふぅ。ふと思ったこと。

人間全てのもろもろの小さな小さな活動の結果ばかりに拘泥しているものは、人間の最高の存在の形式と実際を知らぬものだと思う。
人間は、表彰台でメダルを首にしたとき最も輝くのではないし、まして競技中のプールやグラウンドでそうなのではない。
彼らが最も輝いているのは、絶望し、落胆し、それでも自分の誇りだけのために勇気を以て立ち上がった、まさにあの瞬間なのだ。



2012年7月23日月曜日

ガッツポーズに美はあるか

かつて新渡戸先生は、「武士道は日本に固有の花である」と言った。

昨日の大相撲名古屋場所の千秋楽をみてこの言葉をしんみりと思い出した。

柔道でさえ、いまやJudoと化けてオリンピックで金メダルを取れば誰もが飛び上がって狂喜乱舞する。

人間の感情の発露を自由として認める時代傾向からすれば、横綱と大関の千秋楽の全勝対決を制した大関が、ガッツポーズするそぶりさえせぬことと、そのことを観衆も当たり前のこととして驚かぬことが相撲の驚異的なところだ。
この競技では、勝ち負けよりも大切な何かが未だに大切にされている。もしかしたら、それがゆえに八百長なんぞが起きたのかもしれない。

考えてみて欲しい。
佐々木小次郎と宮本武蔵の勝負の後、勝利した方がガッツポーズなんぞしてくれたら興ざめもいいところだ。
どちらが勝とうが相手の骸に頭を垂れ合掌した後静かに暗闇に消えて行く。
侍の在り方とはそういうものだろう。
ガッツポーズしたすぐ後に油断して刺客に殺されては末代までの恥だ。

勘違いして欲しくないのだが、俺は別にどこぞの古い頑固ジジイよろしく「ガッツポーズなんぞけしからん!」と言っているのではない。
これは美の問題、美意識の問題、矜恃の問題なのだ。

どんなに劇的な勝利であっても、どれだけ万感の思いが胸にあっても、それをぐっと内に秘めて相手に対して敬礼を表す。

世界にたった一つだけそんな競技があり続けたら、日本は過去において日本人が如何にあったを思い出すことができるだろう。チームに一人だけ何があっても顔色を変えぬリーダーがいたら、そのチームはどっしりと安定するだろう。

これを読んで納得がいかぬ人は、2009年の野球WBCの韓国との決勝戦で決勝のタイムリーヒットを打った後の2塁ベース上のイチローを見て欲しい。
俺が何を言っているか分かるだろう。
たまたま野球なのでヘルメットを着用しているから、完全に「勝って兜の緒を締めよ」になっている。

日馬富士関には是非来場所も制して横綱になって欲しい。
彼の武士の如き目の強さは格好良い。ああいうのを格好良いという。綱を締めるに相応しい風格、体格である。

AKB48の選挙は凄い

あれをサラリーマンに喩えて言えば、数千万人という公衆の面前で自分の去年の査定を上司から通達されて今年度の職位を決定されるということでしょう。一般社会の常識を完全にひっくり返して大衆にそれぞれの女性個人の生殺与奪の権利を与え、かつそれを完全に可視化してしまったところにこのビジネスの凄まじさがあります。
彼女たちは物凄いものを晒しています。ボーナスの金額を開示するなんてレベルじゃないでしょう。

アイドルとは偶像。実像たり得ぬ偶像達が巨額の利益を出すにはあそこまでせにゃならんのですな。
もっとも、何を晒しても誰も振り向きもしない男女も掃いて捨てるほどいるというのが世の常ではありますが。

なぜ、今こういうビジネスが生まれ隆盛を極めているのでしょう。
恐らくは、血と肉を求める大衆は、もはや見世物の観客たるのみでは飽き足らず、かつてローマでグラディエーター(剣闘士)達の血の戦いに熱狂した大衆と同じような娯楽を求めているのでしょう。

となると、AKB48というのは一過性のものであるはずはないですから、芸能というものはますますそれに携わる人たちを祭り上げ、貶めるということをひたすらに繰り返すという仕儀になるわけです。
もちろん、これは何もアイドルを含めた芸能人にのみ当てはまることではなく、もとより大衆の投票により選抜される政治家になお顕著なことになるのです。
もっとも、今のところAKB48の選挙とは事なり日本の選挙では有権者一人には一票しか認められておらぬため、ここは大きな違いです。
しかし、それがゆえに有権者、特に数が少ない若者たちは民主主義とはいわずとも選挙というものの現状追認傾向に飽き飽きしているのだと思います。

2012年7月22日日曜日

高校野球「解説」

実況担当アナウンサー:
「解説の山桜さん、さきほどの回天君のバッティングはどうでしたか?」

山桜解説:
「そうですねぇ、ピッチャーの神風君も厳しいコースを攻めているんですが回転君、コンパクトに振り抜いて上手く右方向に持っていきましたねぇ」

(次の打者がレフト前ヒット)

実況担当アナウンサー:
「山桜さん、岡山城北に連打が出ました。」

山桜解説:
「えぇ、神風君の初球の厳しい良いボールなんですが零戦君が上手く打ち返しましたねぇ」

そりゃほとんどが無名の球児だから仕方ない部分もあるだろうが、NHKが全国ネットで放送するんだからもうちいと解説の水準も上げて欲しい。
145kmの速球を投げる投手とそれを打ち返す打者の対決を、「上手く打ち返しましたねぇ」ととぼけていたんじゃ「解説」したことにはならんだろう。

例えば上の回天君の例だと、

「回天君の二球目までのストレートの見送り方が明らかにスライダーを狙っているように見えたんですけど、回天君はスイングスピードが物凄く早いですからスライダーを待ちながらでも神風君の外寄りのストレートに対応できたということでしょうね。一番打者がこういう打撃が神風君に対してできるとなると、この回以降神風君はしんどくなってくるかもしれません。」

なんて言うてくれたら、視聴者も、「それほんまか??」とか「なるほど、そうかもしれんな」とか考えながら観戦できる。
最近の高校野球のレベルはびっくりするほど高い。だから、解説者もしっかりして欲しいものです。

暇な野球好きの独り言でした。

うーん。

まだ桜の幼い頃と同じ感じ。

いじめと平和主義

小学校一年生のとき、いわゆるいじめに遭った。注意深く「いわゆる」をつけたのは、僕は当時それをいじめだと認識せず、一対多の長期にわたる喧嘩だと認識していたからだ。
教室のすべての児童が僕を無視したり、集団で攻撃されたりしたから今の基準で言えばまぁいじめだったのだろう。向こうの意図なぞ知らんけど。

大津市での事件を受けて、いろいろな有名人や教育者が、「いじめはだめだ」とか「いじめている君たち、いじめられる側の気持ちを考えてみて欲しい」などといじめられている子のことを考えているとはとても思えない差し障りのないことばかり言っていやがる。弩級の阿呆。

それじゃだめだ。
俺ならこう言う。
大切なのは、いじめている側に伝えることではなく、いじめられている方に攻撃の意思を与えてやることだ。

「いじめなんかじゃない。君は今小さな戦争を戦っている。やるかやられるかだ。人生最初の生存競争を君は戦っている。だから戦え。」

思えばいじめられて自殺するものは、究極の平和主義者だ。抵抗するでもなく、反論するでもなく、自分なんか消えてしまえばいいと思って死ぬのだから。誤解を覚悟で言うが、国家といい個人といい、究極状況では人を殺してでも生き延びるという覚悟が必要になる。
そして、自分の他者への攻撃を正当なものとして認識するために必要なものは、「自己肯定」と冷静な状況判断(自分に対する「いじめ」はいわれなきものであり、不正義を被っているという社会通念上正当な判断)。

俺は、それを全く教えられず争うこと、戦うことを教えられずにひたすらみんなと仲良くしましょう(「友達100人できるかな♪」って阿呆か?)とだけ言いつけられてきた子らに、戦うことは正しいことなのだと声を大にして言いたい。そして、教室という社会にさえ、悪は存在することを伝えたい。

平和主義憲法では、子どもは我が身を守れないし、国は尖閣を守れない。自分に正しい戦いを認められない国家のなかで、不法な攻撃にさらされながら苦しむ子らが反撃の糸口さえ掴めないでいる。
これを無理矢理なこじつけだという人もいるかもしれぬが、俺には無関係とは思えない。
なんてったって、この半世紀この国では大人たちは子供に、「命がけで戦うべきものなんてありません。みんなと仲良くしましょう。戦いはいけません。競争もいけません。駆けっこも手をつないでゴールしましょうね。」と言い続けてきたのだから。

いつもにこやかに笑っているが、ことに及んでは容赦はせぬという隠された気迫。
これがないとだめだ。
なめられたら終わりだ。
恐れられるか可愛がられるかの二者択一なら迷わず前者を選べ。マキャベリが言わずともこんなことは誰もが知っていることだ。

ちなみに俺に対する無謀ないじめは、俺がその頭目をしっかりと殴り付けてから側にあった椅子で頭をかち割ろうとしたときに完全に終わった。後にも先にも人を殺してもいいやと思ったのはあの時だけだ。「未必の故意」(殺す気はないが殺してしまっても仕方なしという意図)だがもう時効。

この幼少のときの経験は、後に俺が国際政治はジャングルであると考える小さな契機になったかもしれない。
この時先生が仲裁でもしてくれてたら、「世界には国連があるから軍備はいらぬ!」なんて言う頓珍漢になっていたかもしれぬ。

結論:

いじめられっ子よ、戦え。
核兵器とは言わんがサブマシンガンぐらいをやつらの頭に突き付けて空砲を撃ってやれ。君たちの戦いは正しい戦いだ。だから、君たちは絶対に勝たねばならね。負けたらだめだ。どんな武器だって使うがよい。大西郷だって京都では強烈な謀略家でありテロリストだったんだから。
誰かが助けてくれるなんて、おとぎ話か日本昔話かドラゴンボールぐらいのもんだぜ。

あぁ、俺があのいじめに対する時に、確かにひとつのイメージが俺の頭にあった。ドラゴンボールの悟空の父のバーダックがたった一人でフリーザに挑戦してあっけなく殺されたあの壮絶な英雄のイメージ。

治しようのない阿呆。

2012年7月12日木曜日

"感動"も"勇気"も軽いなあ

昨日死んでしまった上野動物公園のパンダ君についての朝日新聞の今日の記事。


川崎市の山桜回天(仮名)さん(30)は有給休暇をとって来園。「パンダに明日も頑張ろうという勇気をもらった」と涙を流し、花を手向けた。献花台と記帳台は25日まで置く予定。


最近も東京都高校野球選手権大会開会式で高校球児が、「皆さんに勇気と感動を与える」と宣誓しとられましたな。

パンダに勇気をもらったという人、観客に感動を与えると誓って宣言する高校球児。

超厚遇のパンダの小僧もいいが今や白骨となり大地に返った福島県浪江町のかつての飼い犬、飼い猫、人々の生計を支えた家畜達。
彼らのことを思い出して合掌して成仏を念じようよ。
高校球児は人を感動させるなんてそんなたいそうなこと考えずに、飯を食わせて育てて今日まで野球をさせてくれた両親に、最後の試合の日にありがとうございましたとそれだけ言おうよ。

俺は週末に我が家に侵入して俺に見つかったが優しい妻のおかげで難を逃れた小さな蜘蛛に共感するところ大であります。

2012年7月8日日曜日

うつ伏せの優子さん

最近は俯せができるやうになりました。
母にさせられとるんですがね。
なんせ太り過ぎのデブ子なもので。

はよ大きくなって高梁川で泳ごうな。



よいアルバムです

Various Artists, the Classic 70(70曲)
iTune store で900円也。

2012年7月7日土曜日

Astana

どことなく昭和35年の日本みたい。
後ろのモスク風のドームは、ヌルスルタン・ナザルバエフ大統領の御宅です。

2012年7月6日金曜日

ホッブズの視点でこれからの世界を眺めると

ホッブズという人がいる。いや、いた。

「万人の万人に対する闘争」というそういう業界ではとてもとても有名な言葉で人間の原初状態を表現し、あくまでも功利的な人間たちは自己の自然権としての自己保存の権利を放棄して他者と社会契約を結び、主権を「リヴァイアサン」に譲渡することにより自らの安全を担保するという、神無き後において主権を備えた近代国家の統治の正統性を原理的に追求した17世紀のイギリスの思想家である。デカルトなどと同じ時代を生きた人らしく、非常に論理的かつ合理的で、人工的な国家論をぶち上げた。
初めて知ったときは、ようもまぁこんな小難しいありそうもないことをくそまじめに考え出したことよ、と思ったというのが正直なところ。
俺のような、「新婚旅行の目的地は霧島じゃ!高千穂じゃ!」というような男には感情的に納得いかぬところがあるのだが。

で、ホッブズの「応諾問題」というものがある。

これは、神も警察も王様もなにもいないとき、つまりある男Xがあなたの妻子を殺したとしても誰もそのXを捕まえないし、訴追しないし、罰を与えることもない。
そういう状況を想定しよう。
(そんな社会があり得るものかと思う人は、想像力が不足していると思うよ)
こういう状況がホッブズが「リヴァイアサン」を執筆した清教徒革命時代のイギリスだったわけだが、こんな状況下で、実際のところ、誰かと誰かが武器を捨てて戦うのをやめましょうという合意がなぜ可能か?という問題だ。
ええい、なんてわかりにくい表現だ。
具体例。あまり現実的じゃない、、、と言わないように!

ジャングルであなたは銃を持って歩いている。
味方はいない。周りは敵ばかりと認識している。付近には他殺死体がごろごろ。
そんなとき、同じように銃を携え一人で徘徊している男に遭遇した。
この時、あなたがボッブズ流に「社会契約」を結ぶには、まず銃を捨てて、この男に対して自分が害を加える存在でないことを証明し、握手をし、契約書を準備し(ジャングルでどうやって?)、そしてサインをしないといけない。
問題だらけなのが分かるだろう。

・銃を捨てたその瞬間に相手が自分を撃ってきたらどうしよう。
・お互い銃を捨てて武器はないと思ったら実はやつは背中に日本刀を隠し持っていたらどうしよう。
・サインをしようとしたときに石で頭を殴られたらどうしよう。
・サインした後に、「こんなものは紙切れだ」と言われたらどうしよう。

疑いまくりである。何一つ信じられはしない。
お互いがこの疑心暗鬼を抱えながら、どうして相手を信頼できるのだろう。

余談だが、これはすなわち核ミサイルを互いの主要都市に突き付けあって確保された相互確証破壊に基づく米ソ間の「平和」の原因でもある。つまり、相手がどれだけの核による先制攻撃を仕掛けてきたとしても、絶対に残存し得る核戦力(典型的には常に海中深くに潜む戦略核ミサイル原潜)による報復攻撃によって敵に耐えがたい損害を与えられる力を維持することによって初めて、冷戦期間中の米ソの「相手が先に撃ってきたら」という上と同様の(火力のレベルはだいぶ違うが)リスクに対応していた。

つまり、だ。
全くの原初状態を想定する場合、「最初の合意」というものは原理的にあり得ない。
なぜなら、社会契約を結ぶためには、「互いが互いにとって狼ではない」という合意が必要だからだ。狼と狼は契約を結ぶことが出来ないのだ。主従関係だけ。

そうであるから、主権は社会契約によって創造されるのではないというのが正しい。

このことの、現代的な意味の一つを考えてみたい。

現在は契約社会である。
何かしらんが、「契約書」というものに合意内容があってそれにしかるべき人が署名なり捺印を押していれば、とりあえずその合意は守られるという雰囲気をこの4年間商売の世界に身を置いて常に感じてきた。
「こんな紙切れで何百億円がね~」と不思議に思いながら。

だが、このビジネスにおける契約も、人間のやることだから、上のジャングルで遭遇してしまった人間同士の疑心暗鬼を捨象することはできない。
すなわち、契約書の実効性と適切な履行を担保しているのは何か?という問題を提起したいのだ。

答えは、軍事力(警察力含む)である。

あなたにお金を払うべきはずの人がその債務を履行しないとき、それをあなたに代わって強制執行して例えば不動産などを差し押さえてくれるのは国家の機能であり、これに実力で対抗しようとする人には(あまりないが)警察力が行使される。この人が(例えばメキシコのギャングのように)重武装の悪者であれば、軍隊が投入されるだろう。
逆にあなたが自身の力で不法行為状態をなくそうとすれば、これまた国家が実力を以て介入してくる。
あるいは売上高50兆円を超える巨大石油企業と新興国が油田開発の契約にサインするとき、巨大石油企業の本国が抱えている軍事力は、この新興国にとって常に潜在的に契約履行を常に促進している。

そう考えると、冷戦終焉後の1990年代~2000年代において、世界の通商が質・量ともにとてつもない速度で成長したことの背景に、アメリカが世界中の海に遊弋させる巨大空母の存在を思わざるを得ないのである。
よくもわるくもアメリカという国が、恣意的ではあっても世界の警察として全ての海を支配し、地上のどこにでも大規模な火力・戦闘員を投射できたということは、世界が無政府状態ではなかったということを意味している。その世界はアメリカに都合のよいように当然作られていた(それ自体はよいことでもわるいことでもない)のだが、そのルールに従う限りは基本的に合意は守られるという期待が持てた。
余りに当たり前な議論だが、ポルトガル・スペイン・オランダの各海洋帝国の後に、本格的に資本主義が世界に拡大していった過程が、大英帝国の世界への大拡張の時代と一致しているのは全く偶然ではない。

仮に上記がある程度正しいとすれば、これからの時代において通商は、グローバリゼーションはどう変わっていくのだろうか。変わらないのだろうか。
俺はアメリカのの軍事力に部分的にでも対抗しうる軍事力を有する国家が台頭することは、通商関係を根本的に変えてしまうだろうと思う。
投資家が中国の空母に敏感になる理由はこれで十分だろう。

イスタンブール空港、トルコ航空ラウンジにて。
ケバブが旨かったです。
ご馳走様。

ついでにトルコという国について。
トルコ人の顔には歴史が凝縮されているかのようだ。
僕が今日飛んできたカザフスタン(出発地)は、30%をロシア系が占め、それ以外はタタール系、ウズベク系、モンゴル系などたくさんの民族がいるが、それぞれがまじりあって「カザフスタンの顔」を作り出してはいない。あくまでも、「あなたは何系ね」という顔つきの人たちが顔を寄せ合って暮らしている。
トルコは、世界地図とトルコ人の幾人かの顔を見合わせてみれば、たぶん誰もが「ははぁなるほど」と納得するはずだ。

周辺3000kmに所在する民族の代表的な顔のサンプルを合成してコンピュータグラフィックスで作り出すと、たぶんトルコ人のような顔になるだろう。
ブルガリア、イラク、イラン、グルジア、シリア、ギリシャなど多くの民族を抱える多数の国と国境を接し、数千年に渡って文明の交差路であり続けたこの国は、同時に長期にわたって現在のトルコをはるかに越える広大な地域を支配した、オスマントルコ帝国を受け継ぐ国でもある。

だが、帝国であれば必ず混血が進むといえるわけではない。大英帝国でも大米帝国(?)でも、黒人と白人の結婚の比率は非常に小さいと聞く(大統領は混血だが)。
そう考えるとき、トルコがイスラム圏に極めて少数派である民主主義国であることの合点がいく。
大きなオスマントルコという「民族」を歴史を有するが故に、民主政治を実現できるのかなと思う。

が、よう知らんので深入りはここではやめよう。
機内でDaniel Yergin, "Quest"を読もう。楽しみだ。

では、また。

2012年7月3日火曜日

意思的な運命愛ってなんですか


意思的に生きようとしないことは、ニーチェの運命愛とは全然関係がない。ニーチェは、無気力な敗北主義者を畜群の一匹としか見ない。

だが、意思的に生きるということは、自分に与えられた環境を破壊すること、或いはそこから離れ去ることを必ず要求するわけでもない。

そうであるから、我々の存在にとって問題はこうだ。

"形而上学的には永劫に回帰し続ける終わりなきこの世界で、他方で形而下的には絶対的な虚無=死を存在の前提として孕んだ我々は、この運命を如何に「愛し」ながら、同時に意思的に生きることができるのか"
これである。

意思的なる運命愛。
ニーチェが描いた超人が必要とするものはこれであり、これだけだ。

だが分からん。そんな存在の在り方があり得るのか?運命愛というとき、運命は容易に現状追認・肯定するだけの正当化の道具に貶められはしないか?意思は、運命を破壊しようとするから意思たり得るのではないか?

人間の人生観を分ける大きな心構えとして、次の二つがあげられる。

ひとつ、「どうせ人は死ぬ。そうであれば、毎日を面白可笑しく楽しく暮らせられればよい」

ひとつ、「どうせ人は死ぬ。そうであれば、必死に生きてこの世界に生きた痕跡を残したい」

このあまりにありふれた人生観のうち、ひとつめは運命愛が堕落し腐敗したもので、ふたつめは意思によって人生を切り拓かんとする主体である。
勘違いしてほしくないのだが、俺は後者が前者に優越せる生き方であるなどと言いたいのではない。そうではなくて、この二つは二卵性双生児にすぎぬと言いたいのだ。
つまり、命の無意味を前者は忘れようとしており、後者は同じ前提から意味を自ら作り出そうとしている。
大した違いであるはずがない。ともに自らの無意味に自縄自縛されている。

だが、人間はかくも退屈で窮屈な存在なのか?
命は、意味を与えられる対象などではなくそれそのものが意味ではありえないか?

ふぅ。
最初の問いに戻ろう。
我々は、運命を愛しつつ意思的に生きねばならない。
それは、たぶん、生死一如ともいうべき自分の命の意味など考える暇が全然ない瞬間を生きることだ。獲物を追う狼、昼寝をする狼の生きる瞬間である。

本当の意味で真摯に考えることを覚えたら、つまり趣味としての「教養」以上の思想に触れるようになると、あまりもう生き方の選択肢は多くない。
思想は、考える暇のない所には生まれない。
だが、真の思想は、常に考える暇などあり得ぬ厳しい環境においてその人を追い詰めることによってしか体得されない。

あぁ、なんと無駄な思索か。10年前からなんか進歩したんかい。
進歩だって?なんだいそれは。

渋谷発の田園都市線にて記す

明日からカザフスタン。
なぜかイスタンブール経由。


2012年7月1日日曜日

桜咲き桜散れども桜花再び咲けやまた散るために

鷺沼公園の見事な桜。
2012年4月。

桜とは、日本人の無常観、つまりニーチェの永劫回帰を最も美しく鮮やかに象徴している。
桜の下で花見をして、永劫の回帰を忘れてしまう人間は阿呆だな。


高梁川(2011年10月)

あなたの原風景は何ですか。
僕はこれです。



転勤のお供

来る8月から実質的に初めての外国暮らし。
世界の首都たるWashington D.C.なので、そちら関係の本はやはり置いていけぬ。

・佐々木中「切りとれあの祈る手を」
・佐々木中「野戦と永遠」
・マーク・ローランズ「哲学者と狼」
・高山岩男「世界史の哲学」
・和田、金、高崎編「金大中獄中書簡」
・J・L・フロマートカ「なぜ私は生きているか」
・高坂正尭「国際政治」
・高坂正尭「世界史のなかから考える」
・北畠親房「神皇正統記」
・西田幾多郎「哲学概論」
・F・Fukuyama 「歴史の終わり」
・F・Hegel 「歴史哲学講義」
・Max Weber 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
・三宅白光「和気富士」
・林ただ夫「わが命月明に燃ゆ」
・E・H・Carr「What is History?」
・E・H・Carr「The Twenty Years of Crisis」
・孫子「The Art of War」
・ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」
・佐藤勝解説「新約聖書」
・広松渉「マルクスと歴史の現実」
・宇野弘蔵「経済原論」
・Friedrich List 「政治経済学の国民的体系」
・頭山満「頭山満言志録」
・Henry Kissinger 「外交」
・Harold Nicolson 「外交」
・Alfred T. Mahan 「海上権力史論」
・John F. Fuller 「制限戦争指導論」
・Carl Clausewits 「戦争論」
・Liddell Hart 「戦略」
・Edward Lutwak 「戦略」
・土山実男 「安全保障の国際政治学」
・石原莞爾 「最終戦争論」
・Claude Levi Strauss 「野生の思考」
・John Rawls 「正義の論理」
・島田謹二 「アメリカにおける秋山真之」
・司馬遼太郎「峠」
・新渡戸稲造 「武士道」

目標:

1.アメリカという新興国家の行動原理と内在的論理を実地において把握し理解すること。特に、それが自国といかなる形式と本質において異なるかを把握すること。
2.語学力を完璧なものとして、米国人と米国人の完全に通常の会話に普通に参与できるようになること。
3.米国各地を訪れて、アメリカの内情を正しく把握すること。
4.米国における、日本・欧州・中国の観方を把握し、それが日本からみた日本や日本からみた欧州・中国の描写とどれだけ異なっているか、または同じであるかを把握すること。
5.信頼するに足る、批判し合える友人を得ること。


ドライブ行くぞ〜

チャイルドシートはKurruto NT2 Proudです。