2012年7月26日木曜日

すべての「本を読む」人への言葉

佐々木中氏の文章なのですが、名文なので引きます。

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われわれは何を論じていたのでしたか。本を読むとはどういうことか、読み書き翻訳するとはどういうことか、ということについてでした。ルターは何をしたか。聖書を読んだ。彼の苦難はここにあります。ここにこそ。どういうことか。
彼は気づいてしまったのです。この世界の秩序には何の根拠もない、ということに。
聖書には教皇が偉いなんて書いていない。枢機卿を、大司教座を、司教座を設けろとも書いていない。皇帝が偉いとも書いていない。教会法を守れとも書いていない。「十戒を守れ」と書いてあるだけです。修道院をつくれとも書いていない。公会議を開けともその決定に従えとも書いていない。聖職者は結婚してはいけないとも書いていない。贖宥状どころの話ではない。何度読んでも書いていないわけです。むしろ逆のことが書いてある。
ルターはおかしいくらいに-「おかしくなるくらい」に-徹底的に聖書を読み込みます。そうお金があったはずもないのに、確か借金をしたんじゃなかったかなぁ、聖書の一部分を大きな余白を取った紙にわざわざ写本してもらって、何度も何度も書き込みをして繰り返し読むということまでしています。ラテン語もギリシア語もヘブライ語も勉強して、何度も何度も読む。データベースで一発検索どころの話じゃない。繰り返し、繰り返し、何度読んでも-書いていない。この世界の秩序には何の根拠もない。しかもその秩序は腐りきっている。他の人は全員、この秩序に従っているのですよ。この世界はキリスト教の教えに従ったものであり、ゆえにこの世界の秩序は正しく、それには根拠があると思っている。みんな。ルター以外。教皇がいて皇帝がいて枢機卿がいて大司教がいて修道院があって、みんな従わねばならない、と。でも、何度読んでも聖書にそんなことは書いていない。
本を読んでいるこの俺が狂っているのか、それともこの世界が狂っているのか。
そういうことです、これは、本を読むということが、いかに恐ろしいことか。
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-佐々木中「切り取れ、あの祈る手を」P.57-59

ふぅ。ふと思ったこと。

人間全てのもろもろの小さな小さな活動の結果ばかりに拘泥しているものは、人間の最高の存在の形式と実際を知らぬものだと思う。
人間は、表彰台でメダルを首にしたとき最も輝くのではないし、まして競技中のプールやグラウンドでそうなのではない。
彼らが最も輝いているのは、絶望し、落胆し、それでも自分の誇りだけのために勇気を以て立ち上がった、まさにあの瞬間なのだ。