2013年10月20日日曜日

最近の優子さん



平成25年観閲式予行

本日10月20日、陸上自衛隊朝霞駐屯地にて。
キュラキュラキュラキュラと地を震わせてやつらはやって来る。
写真は上から順に、10(ヒトマル)式、10式、で、74式戦車。
1輌で、2.0〜2.5Lのセダン(例えばBMW3シリーズ)30〜35台分の重量があります。1回搭乗せんといかんなぁと思います。

さて、11月3日は入間基地で航空祭です。ブルーインパルスも飛びます。望遠レンズ買おうかな。

2013年10月14日月曜日

Unidentified Flying Object

日本で車を持つととても貧乏になる

自動車を一度でも日本で購入し、さらにそのあとにアメリカで(別にアメリカでなくともいい)車を購入した経験がある人は、日本人がいかにべらぼうな金額をただ車を所有し乗るためだけに支払っているかを痛感するはずだ。

日本で車を買うと、購入時点で、

消費税、自動車税、自動車重量税、自動車取得税

を支払わないといけない。これが車種によっては十万円を優に超えてくるのはみなさんご存知の通り。
消費税はまぁいいとして、「自動車税」のほかに「重量税」と「取得税」が並ぶのは一体全体何なんだろうと思わずにはいられない(調べりゃいいんだが)。
例えば洗濯機を買ったときに、「洗濯機重量税を払え」と役所に言われたら誰か支払う人はいるだろうか?電動歯磨きを買ったときに「電動歯磨き取得税を払え」と言われて支払う人はいるだろうか?

おまけに、これだけ自動車が壊れなくなった時代にも、これまでと全く変わらぬ車検制度がある。「君たちの運転している車が安全かどうかは僕たち(役人)がしっかりと責任をもってチェックしてあげるからしっかりお金を払いなさいよ」というわけだ。
なんだそれは。

さらにある。車を運転するのをお上に許してもらうために免許をとるのにも平気で30万円という金額がかかってくる。

さらに高速道路は有料。
これは仕方がないが、都心部では月数万円の駐車場代の負担。
ガソリンにも1L辺り53.8円の税金が乗せられる。

これらのコストを全て賄って余るほど日本人の平均所得が高ければいいのだが、日本人の平均給与は15年間下がり続けてきた。

そんな状況を全く無視して、「近頃の若者は草食系。金を使わず若い男が車に興味さえない。ゆゆしきことだ。」というような言説は、馬鹿げている。この日本でこれから家族を作ろうとする、年収が500万円以下(圧倒的多数だが-)の20代が、車を購入して維持することは何をどう計算しても経済的に合理性がないだろう。増税だし。
例えば、年率5%で今後15年間確実に給与が増加していくと想定できれば話は別だが、そんなピカピカの優良企業は少数派である。

それにさらにもう一つ付け加えるならば、日本車にはブタか猪のような箱型のミニバンか計四自動車しかなく、心踊るようなクーペもセダンも日本メーカーは作ってはこなかった。

なんとか車を買ってドライブだーと土曜日に東名か中央高速に乗ったはいいが、待ち構えているのは都心をでる車の群れの大渋滞で、真夏であればここを抜け出るだけで大仕事という感じ。日本人が有給休暇をとらずに祝祭日にみんな一斉に遊びに出掛けることから起こる一つの喜劇だろう。40㎞の渋滞に突っ込んでいける辛抱強さというのは、真正の弩Мとしかいいようがない。

もう一ついうと、日本での中古車販売価格はべらぼうに安い。アメリカに比べると。

帰国してから車をまだ買っていないが、まぁたぶん買わないと蕁麻疹が出そうなのでたぶん買うのだけど、どうやったって経済合理性からは日本の都会で車を持つことは説明できない。
なので、経済合理性以外の「駆け抜ける歓び」をもたらしてくれるBMWが今回も候補の筆頭だ。娘が5月30日だから、型落ちの530iなんてどうかなーなんて考えるのが楽しい。シルキーシックス。

と、まぁこう見てくると、まるで車を持つことをよってたかって罰しているようにしか見えないではないか。自動車産業で飯を食べている人は国内で500万人を優に超えるというのにだ。
明らかにこの税制は、自動車がぜいたく品であった時代の遺物である。倉敷で自動車なしで生きていけというのは、実際上不可能な要請である。自動車は、21世紀の今、多くの場合必需品の一部である。

本当に恐ろしいことは、ほとんどの日本人がこういうコストを当たり前のこととして認識している節があるということだ。それはどういう意味で当たり前なのだろうか。そんなことないんじゃないだろうか。



カプセルホテル

先日、カプセルホテルに泊まった。
新橋駅から少し歩いたところ。朝5時に行くと、満室御礼。サラリーマンが深夜まで飲んでタクシー代をケチって5000円であそこに泊まってるんだろうか。

風呂に入りつつ空くのを待ってカプセルに泊まってみると、けっこう便利で快適なのだ。しかも秘密基地的なワクワク感もないではない。iPadとiPhoneはWi-Fiにつなげられたから、狭いカプセル内でも通話ができない事以外は通信にも全く問題なし。風呂はでかくて清潔、サウナもあった。ホテル予約世界最大手のHotel.cmによると、2013年7〜8月の間に東京にやってきた外国人観光客を対象に行われたアンケートでは、新宿駅前のカプセルホテルが9位にランクインしたそうな。日本独自の超効率的な"ホテル"は外国人の眼を引くのだろう。

Wikipediaによると、日本で(というより日本にしかないが)カプセルホテルを発案したのは大阪でサウナなどの経営に携わっていた中野幸雄氏。 未だに使用され続けるカプセルユニットを設計したのは、カザフスタンの首都アスタナの街をデザインするなどした著名建築家の黒川紀章氏である。

トロイラスという会社によると、カプセルホテル市場は、「1979年頃に組成され、推定市場規模は500億円。推定カプセル数は全国で約50000、カプセルホテル件数は約500。近年は全国的に新規設立が殆どない衰退産業。宿泊市場での売上高構成比0.05%と典型的なニッチ市場であり、大手資本は皆無。このため継続・戦略的な設備投資は見受けられず、市場変化に未対応の経営が大勢を占める」。東京都産業労働局によれば、カプセルホテルの約半数は東京都心に集中しているので、東京には約250のカプセルホテルがあることになる。

はて。
本当に衰退産業なんだろうか。
トロイラスが言うように、衰退産業だと決めつけてリノベーションをやろうとしなかったから衰退してきたんじゃないのか。
こう思うのは、この業態があまりに尖っている、あまりに特殊だからだ。中庸ではないものは、用い方次第で必ず光ると思う。

例えば、これまでの「男、サラリーマンのための簡易宿!」というイメージを捨てて、例えば東南アジアからやってくるミドルクラス層の観光客を狙えば、ビジネスの機会は大いにあるような気がする。普通のホテルより居心地がよいとは言わぬが、寝ることについてはとりあえず問題はないわけで、宿泊費を場合によっては3分の1にまで圧縮できるのであればこれを合理的な選択肢と考える人は沢山いるだろうし、近未来的な面白さをこの超効率的なカプセルの寝床に与えることは可能だろう。旅先では普通外食をし、その後街の酒場でちびりとやるわけで、ホテルに帰ったら明日のルートをiPadで確認して寝るだけ、というのが観光客の実態だろう。ビジネスホテルさえ過剰と言える。
LCC(格安航空会社)と手を組んで、「ジャカルタと大阪の往復チケット200ドル!3泊のホテル代は150ドル!」なんて企画を打ち出せば、けっこう需要は捕まえられそうだ。

などと...考えて調べると、すでにあった。考えることは皆同じか。
日本最大の観光地、京都のホテル、ナインアワーズ
悔しいから今度泊まってみよう。

ところで、亀田製菓の柿の種の「梅しそ」味が旨い。
非常に、旨い。
残業の新たな友になりそうな予感。



Domesticatedされてましてロデオはモ〜無理です。
え?俺のことですか?

2013年10月13日日曜日

浮気も慰謝料も笑いのネタよ

久しぶりにこの時間にテレビを付けたら、法律のお笑い番組をやっている。
弁護士に与えられた問いは、

「夫が、妻の親友、妻の妹、子どもの学校の担任の先生のいずれと不倫をした時に、妻が得られる慰謝料は最も高くなるか?」

こんな番組が22時前に、お笑い番組として放送されて言い争う弁護士たちを芸人が茶化して笑う。
これに違和感を持たぬ人はかなり視点がいまこの瞬間に拘束されている。麻痺しておる。
タブロイド週刊誌とまったく変わることのないお笑い番組たち。
電波利権を独占して有名大学卒業証書付のおバカさんたちはなーにをやってんだろうか。
歪んでるよナー

バカはバカ以外を駆逐するんだろうか。

口悪いて? 
ウム、然り。

雑記、本当に雑な記

100円均一ショップという業態が世に現れてから久しい。なぜ1000円均一や10000円均一の店は登場しないのだろうか。いや、しているかもしれぬが、少なくとも大衆の耳目に触れるような形では現在存在していない。

仮説①:日用品や小物類を含めて、100円近傍で販売可能な商品は多々あるが(実際品揃えには驚かされる)、単価がその10倍、100倍となると商品数が少なり、「均一ショップ」が対象に出来る市場が極端に小さくなるため。

仮説②:そもそも『100均』という業態は、「なんでも100円で買える」という謳い文句でもって客にアピールしているのであって、現在の物価においてそれが1000円や10000円になれば消費者への訴求力は減少するため。つまり、「100円」という価格に絶対的な重要性がある。

仮説③:安価な商品であれば、より高価な商品に比べて海外への生産工程のアウトソースが容易であり、減価低減が図りやすく、より確実。三菱自動車がインドネシアで車を生産する時代に何を?と言われるかもしれぬが、例えば1000円のTシャツをバングラデシュで製造することと、100万円の自動車をバングラデシュで製造することを考慮すれば、Tシャツという安価な製品のほうがより安い労働力を使いやすいということは明らかだ。


②が正しいとすれば、我々消費者は、「150円のタワシと50円のペンを買うよりも、100円のタワシと100円のペンを買うほうがいい」と考えているということになる。
また、②からは、インフレの時代には、100円均一ショップという業態が存在しがたくなるということが分かる。例えばブラジルのように金利が10%以上もあるような国では、今日の100円の価値の商品の価額は1年後には110円になっているのであり、1年毎に「100円ショップ」は「110円ショップ」になり、「121円ショップ」になっていかないといけない。デフレの時代にこの業態が誕生したのは、自然なことだ。
①の仮説からも、同じことが言えるだろう。
しかし、「なぜ1000円均一ショップがないのか?」の説明にはなっていない。「均一ショップがなぜこの20年で急成長したのか」の説明にはなっているけど。

③については言ってはみたものの、あまり確信なし。もう少し研究が必要と認む。


なんなんだろう、この無意味な考察は。


ふと窓の外を見ると、道路の向こうにセブンイレブンがある。
夜通し煌々t電気を付けてても無駄だよねぇ。ここ(横浜市)だからまだいいけど、田舎の夜中なんて人は来ないところも多いだろう。
ところで、ブルーカラーの仕事をしている人たちも真面目に夜勤の導入を検討するべきだと俺は思う。
俺のように欧米の市場が相手という人は、オフィスを出てからも電話だのメールだのに追われているはずだ。それなら、あっちが寝ている間(つまりこっちの朝ー昼)はこっちも寝て、ロンドンが開く夕方から仕事をすればいいのだ。そんな仕事ではなくても、例えば「真夏は夜のほうがはかどる」という人はいくらでもいるはずだ。例えば16時から12時まで勤務するとかね。
そうすれば、少しでも朝夕のあのクレイジーな満員電車は少なくなるだろうし、昼間に使う電気量も減る。昼と夜の電力需要の高低によって、過大な設備容量が必要となっているがこれも少しは減る。
なんというのかなー。いまの日本社会(日本だけじゃないが)の組織の在り方って、江戸時代が終わってから全国民をひとまとめにして頑張って「国民」を作り上げたあの150年前の時代からメンタリティとしては全く変わっちゃおらん。戦争を皆でやって負けて、そのあとは皆で商売をしたということであって、生活スタイルも何もかも、休暇までみーんな一緒だ(なんでこんなに祝日ばっかり必要なんだろう)。
皆で一緒に。仲良く皆で。
そういうMind-setに25年前から明確な嫌悪の情を抱き続けてきた。
はっきり言っておくが、キャンプとドライブは一人で行くもんである。それが最も素晴らしいものだ。


さっき妻が娘に、「優ちゃん、そんなことだれもしてないよ。やめなさい。」と注意していた。
これ、間違いである。
誰もしていないからダメなのではなく、会津十戒が言うように、「ダメなものはダメ」なのである。
善悪というものが断固としてあるということを教えてやって、その善悪をそれでも乗り越えようという意思を持つ人間に育ってもらいたいのである。おぉ、なんかニーチェっぽいな。
教育者(そんな存在がまだあり得るとして)一番やってはいかんことは、教育を受けるほうに対して自分以外の者の言動や自分以外のものの権威を持ち出して話すことだ。それは簡単で安易なやり方なのだが、すぐさま自分の教育者としての立場はなくなるだろう。あの戦争の時代に、天皇陛下の権威が神のごときに高められたのは、国家権力の幹部達が、維新の元勲たちのような権威をもはや失ったがために、天皇陛下の権威にすがったからではないかと俺は思う。
だからこそ(?)、俺の親父は、俺がドラゴンボールをテレビで見ているときに帰宅して、何も言わずにNHKのニュースにチャンネルを変えて、「なんでそんなことするん?」と尋ねる幼い俺に対して「7時からはNHKのニュースを見るもんじゃ」と意味不明な理屈を述べたのだろう。あれは、親父自身の、他の誰もものでもない、断固たる意見の表明だった。
親は子供に嫌われることを恐れてはいけない。少なくとも、親父がそれを回避しようとしたら、子どもはフニャフニャ人間になってしまうだろう。あの時俺の要求を受け入れてドラゴンボールを見させてはくれなかった親父に、俺が今少し感謝しているというのは、俺が31歳になったからなのか、それとも人間らしくなってきた娘を持ったからなのか知らん。

冗長過ぎだな。
夜風が気持ちいいもんだから。
宝塚でも下賀茂でも、こうやって誰も目にもとまらぬ文章を朝4時まで本を何冊も開いては書いたもんです。
明日は休み、明後日も休み。
だが誰かに与えられた休みを喜ぶようでは俺は奴隷だ。
休みだからと休んでいるうちは、イチローにはなれぬ。
明日何をするか。明後日何をするか。
どうせ死んだら死ぬほど休めるんである。



2013年10月12日土曜日

ミドリムシ


そういえば、伊藤忠商事という会社がこのユーグレナという会社に出資しているというのを食堂の張り紙で見た気がする。

「世界のなかで、自分ほどミドリムシのことを真剣に考えている人間はいないという確信」

こういうことを言えない自分を恥じる。
ビジネスで世界を変えたいと思っている人は是非手にとってみて欲しい。

ミドリムシ=学術名ユーグレナは、植物と動物の中間にあるような生き物で、高い光合成能力を持ちながら、同時に動物の栄養素も兼ね備える。著者の出雲氏が成功させた屋外大規模生産は、工場地帯であってもプールがあれば建設可能であるため、事実上世界のどこでもこれを建設することが可能。
さらに、ミドリムシから精製される油はジェット燃料に非常に適していて、JXグループが既にジェット燃料の研究開発でこのベンチャー企業と提携している。

http://www.amazon.co.jp/%E5%83%95%E3%81%AF%E3%83%9F%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%82%B7%E3%81%A7%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%95%91%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E6%B1%BA%E3%82%81%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82%E2%80%95%E2%80%95%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E7%99%BA%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%80%8C%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%8A%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%81%A8%E3%81%A6%E3%81%A4%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E6%8C%91%E6%88%A6-%E5%87%BA%E9%9B%B2-%E5%85%85/dp/4478021821



新聞広告

今日の朝日朝刊の紙面は40面。
このうち、一面全てを広告が占めるページがなんと15。ページの下四分の一に何ページにも渡って挿入されている広告も足し合わせれば、実質的にはこの新聞の半分は商業用の広告である。しかも、その広告ときたら、小林旭の歌謡曲集とか、誰が買うの?というものが多い。果たして昔もこうだったか少し図書館で調べる必要があるが、たぶんこうではなかったんじゃないかと思う。読むところがほとんどないのである。
加えて朝日だけに、残り20ページの多くが、イデオロギッシュな朝日新聞の匂いがプンプンする紙面である。たまに国際面で良い記事もないではないが。

新聞という紙の媒体であること、巨大な購読者を未だに保持し続けていること(例えば欧米の主要紙の購読者と日本の大手新聞のそれは文字通り桁が違う)から、紙媒体での広告が有効な消費者を狙いたい企業の広告費がガッポリ入るというわけだ。
しかし、こういう広告といえば大新聞の紙面広告を読むというような人間、広告と言えば紙の広告というような人間はすでに大いに減少しているし、今後もひたすら減るのみである。
そのようなときだからこそ、新聞社は、広告で儲けるという安易な道をとるのではなく(あるいは同時にでもよいが)、民主主義を担う言論機関としての役割を明確にするべきだ。

情報そのものには価値などもはやないのだ。独占的に情報・ニュースを提供してきた大新聞のビジネスの構造は、実際のところこの半世紀変わり映えしていない。しかし我々が情報・ニュースに触れる方法とそれが我々に届くまでの速度、またそれを我々自身が発信する能力の有無は、過去と今を決定的に隔てている。

150円で買った新聞の半分が広告であり、その広告は俺には全然価値がないから実質的には75円のものに150円を支払ったわけだ。残りの75円分の情報も、おそらく60-70%はコンビニに行くまでもなくWebで閲覧することができただろう。コンビニまで行く時間コストも含めれば、75円の新聞の価値はかなりゼロに近くなる。
こう考えると、紙面の半分を広告で埋める半独占産業の巨大新聞会社の社員の給与が抜群に高い理由がよくわかる。

2013年10月6日日曜日

艦上攻撃機「彗星」、或いは完全なる午睡



「企業参謀」

狭いエコノミーの座席で大前研一「企業参謀」を読む。こんな本を30歳で書いたとは。
問題を把握すること、それを分析すること、対応策を優先順位をもって提示し、それを分かりやすく論理的に説明すること。いま自分にチームのなかで求められている仕事そのものであるように思う。
第三章(戦略的思考方法の国政への応用)を読むと、マッキンゼーが単なる企業コンサルタントではなく、国家戦略立案も請け負うことができる戦略コンサルタント企業であることがよく分かる。つまるところ戦略的思考とそれによる決断とは、他者に説明不可能な曖昧さや「なんとなく」という不可知の領域を徹底的に排除していく思考過程とその自然な結論と言える。
最も大切なことは、それにより導かれる結論が常に状況に対して最適であるということではなく、ある結論に至るまでの思考過程と熟議によって、クラウゼヴィッツが「戦場の霧」と呼んだような状況における不確実性に対しても、冷静かつ合理的に対応できるということのように思える。また、戦後の検証と反省も、ある決定に至る過程が判然としていればより容易であり、次戦のための教訓が得られるだろう。
なぜこの結論に至ったのか、この結論以外の選択肢をとらなかった理由は何なのか、そもそも我々の目的は何なのか。いかなる状況変化がその戦略にどのような変化を要求するのか。
毎日俺が仕事でイライラしてしまうのは、このことをチームで明示的に共有できていないからなのだ。ま、俺が未熟なんだけど。
こういう思考パターンは、恋愛でも安全保障でも当然使える。

2013年10月3日木曜日

雑記

人を愛することと、その愛する人と日常生活を数十年も送り続けていくことは、イコールでつながるものでもないし、前者があれば後者が可能になるというものでもない。
愛憎という言葉があるように、愛深ければこそ憎むこともあろうし、無関心がゆえの家庭円満という事実も俺は知っている。
それを知れば、結婚という、たかだか数百年か数千年の歴史しかないこの社会的制度の関係に他人であった男女が勇敢にも入って行こうとするその時、好いた惚れたというのは空母から戦闘機を射出するカタパルトの推力ではありえても、一度離鑑して空に舞い上がった戦闘機のエンジンになれはしない。
結婚は、人間を研ぎすませるのではなく摩耗させる。だが、川を流れ来った石が、源流に発した時よりどれだけ摩耗し丸くなったといっても、それは一つの自然的事実であり、信長風に言えば是非もないことだ。そう、我々は、早くも遠くまで流れ来たのだ。
しかし、まだ屈従するには早い。河口はまだ見えてはいない。摩耗されることで得られるものがどれだけ多く、それらがどれだけ有難いものであっても、我々はこの事実から目を背けてホームドラマのような分かりやすい幸せの構図に自身を当てはめてパパを演じて見せることなどできはしない。
蟷螂の雄のように、交尾した後は直ちに雌に喰われてしまうという面白い生物もいる。朝から晩まで会社で働き続ける我々現代のプロレタリアート達が疲れ切って電車に佇むあの群像は、交尾の直後に頭から喰われる蟷螂の男に見えなくもない。そこにあるのは非意思的な無私である。無私がある、などといえるのかどうか知らぬが、少なくとも意思的ではない。
明らかなことは、結婚すれ寂しくないなどというのは幻想だということだ。長渕が、「人混みに紛れると尚更涙が出るから やっぱり独りになろうとした」と歌ったように、人生の寂しさは何によっても覆されるようなものではない。逆説的に言えば、だからこそ、結婚は人の一生の価値に対して全く中立的であるといえる。