2013年10月3日木曜日

雑記

人を愛することと、その愛する人と日常生活を数十年も送り続けていくことは、イコールでつながるものでもないし、前者があれば後者が可能になるというものでもない。
愛憎という言葉があるように、愛深ければこそ憎むこともあろうし、無関心がゆえの家庭円満という事実も俺は知っている。
それを知れば、結婚という、たかだか数百年か数千年の歴史しかないこの社会的制度の関係に他人であった男女が勇敢にも入って行こうとするその時、好いた惚れたというのは空母から戦闘機を射出するカタパルトの推力ではありえても、一度離鑑して空に舞い上がった戦闘機のエンジンになれはしない。
結婚は、人間を研ぎすませるのではなく摩耗させる。だが、川を流れ来った石が、源流に発した時よりどれだけ摩耗し丸くなったといっても、それは一つの自然的事実であり、信長風に言えば是非もないことだ。そう、我々は、早くも遠くまで流れ来たのだ。
しかし、まだ屈従するには早い。河口はまだ見えてはいない。摩耗されることで得られるものがどれだけ多く、それらがどれだけ有難いものであっても、我々はこの事実から目を背けてホームドラマのような分かりやすい幸せの構図に自身を当てはめてパパを演じて見せることなどできはしない。
蟷螂の雄のように、交尾した後は直ちに雌に喰われてしまうという面白い生物もいる。朝から晩まで会社で働き続ける我々現代のプロレタリアート達が疲れ切って電車に佇むあの群像は、交尾の直後に頭から喰われる蟷螂の男に見えなくもない。そこにあるのは非意思的な無私である。無私がある、などといえるのかどうか知らぬが、少なくとも意思的ではない。
明らかなことは、結婚すれ寂しくないなどというのは幻想だということだ。長渕が、「人混みに紛れると尚更涙が出るから やっぱり独りになろうとした」と歌ったように、人生の寂しさは何によっても覆されるようなものではない。逆説的に言えば、だからこそ、結婚は人の一生の価値に対して全く中立的であるといえる。