2011年3月31日木曜日

許されなくてもやるからテロだろうが

変なものを置く人がいるもんだなぁと思ってつい写真をとった。

つまみ出し吊るし上げたれテロリスト渋谷の平和守らんために

とでも書けばいいのに。

2011年3月30日水曜日

長い独り言

思えばこのブログは全てが単なる俺の独り言なんだろうけど。

トータス松本氏(ウルフルズのヴォーカル)が、テレビCMで「日本は強い国、日本の力を信じてる」と力強く言う。プロサッカー選手が世界中から飛んで帰って来てチャリティ・マッチを行う。トヨタの豊田社長が「東北の物作りを復興させる」と宣言する。
素晴らしいことだ。
全く素晴らしいことだ。強く明るい言葉で、誰か一人でも励まして鼓舞できればと思わない人間は今いないだろう。管首相も地震が起きた直後に言っていた。「日本は過去に何度も国難を乗り越えてきた」と。

だが、冷静に考えてみると、実際のところ過去と比べても我が国の置かれた環境はさらに厳しい。それは、大震災が起こる前から存在していた事実である。人智を超えた大津波や原発事故に目を奪われて、頑張って復興に日本国民一丸となって取り組めばやがて新しい祖国が力強く立ち上がると考えるのは楽観的過ぎる。

比較として、大東亜戦争に敗北した直後の日本と現在とのを国際関係の視点からみてみよう。
1945年、日本軍が連合国に無条件降伏(軍の無条件降伏であって、国家の無条件降伏ではない。ポツダム宣言には、ちゃんと「日本軍の降伏の条件は左の如し」とある)、1951年サンフランシスコ講和会議で主権回復、国際法上の戦争状態の終結。この頃我が国がおかれた環境は、次のようなものだ。

1946年3月には、早くもチャーチルが米国フルトンで「鉄のカーテン」演説を行い米ソの対立激化に警鐘をならした。米国の数年間の核兵器の独占は、1949年のソ連初の核実験により破られた。
そして1950年6月には、日本と目の鼻の距離の朝鮮半島で、北朝鮮軍が大韓民国への侵略を敢行し、国連軍としての米国が大規模に介入することになった。要して言えば、過去100年のうちで最大の危機にあった戦後の焼け野原状態の日本は、ーまことによく言われることの繰り返しだがー米ソという核兵器を獲得した超大国の世界規模での対立の最前線において、米国の側に与し、米国の庇護を受けられる絶妙の地位にあった。
朝鮮で戦争は起きているが日本は静かに掃海艇を出すのみで(のみ、ということが初期の海上自衛隊の方に対して失礼であることは知っている)、むしろ朝鮮戦争特需で国内は好況に沸いた。その後の経済発展も、基本的には米国が日本を東アジア・西太平洋の重要な橋頭保として維持するという国家戦略の恩恵を十分に受けた。国内の共産主義・社会主義勢力の存在を対米外交のカードとして用いて、軽武装・経済重視により外貨を稼ぐという20世紀後半の日本の「大戦略なき国家経済戦略」は、米ソの世界中での対立の間隙をついた大変巧みなものだったと評価できよう。

国内経済的には、経済のファンダメンタルは力強かった。 1945年には7000万人程度だった人口は、1970年までの25年間に1億人に到達した。自動車化が進んでいなかった都市に自動車が走り始め、国土は高速道路と幹線道路でつなげられた。テレビ・冷蔵庫・洗濯機の「3種の神器」が必須の家電になり、あらゆる製造業はひたすら設備投資を行い生産力を増強した。経済が縮小することが考えられない時代が数十年間続いた。その時代のなかで、日本からの輸出は爆発的に増加し、1980年代後半には米国との間で深刻な貿易摩擦を生むまでになった。

こう言うからといって、俺は親父や祖父の世代の努力を無視したいのではない。「たまたま国際関係と経済ファンダメンタルがよかったから」などと言いたいわけではけっしてない。だが、3.11の前の日本国家の危機と言えば誰もが想起するかの戦争後の環境と、現在の日本を取り囲む環境は、まったく違うことだけは確からしい。

日本の唯一にして最大の同盟国・アメリカのGDPはかつて世界の半分だったが今はせいぜい20%程度というところだ。アメリカがこれから徐々に世界中での軍事的プレゼンスを後退させていくことは、あの国の財政赤字のレベルからしても不可避のことのように思う。そうであればこそ、中東・北アフリカはあんなことになっている。核兵器も米ソだけが保有していたものが、今は米英ロ仏中に加えてパキスタン、インド、イスラエル、北朝鮮にまで拡散した。それ以外の破滅的な大量破壊兵器及びその運搬手段も、悪いことに国家ではないテロリストにさえ入手可能になった。
さらに、勃興する中国はますます西太平洋への野心を露わにし、東南アジアでも鉄道敷設や海軍港建設(ミャンマー)に余念がない。今年中に空母保有を公式に表明しもするだろう。

経済的には、韓国・台湾を始めとしたアジア諸国は、かつて日本が無敵を誇った自動車・電機産業で猛烈に追い上げている。そのうち日本人の家にはSONYや東芝ではなくLGやサムスンのテレビが置かれるようになるだろう。日本の製造業は、国内を後にしてより安い労働力を求めて海外へと飛び去り、若者は親が蓄えた資産で食いながら恐るべき就職氷河期のなかで戦っている。企業は生産要素を世界中に求めるようになり、先進国ではデフレが常態化して賃金は耐えることのない下落圧力を受ける。

福島県の一部の土地や水が放射能で汚染され、東京電力の経営が傾き、電力料金はさらに高くなることは必定だ。原発の稼働停止と国民の反原発センチメントは、資源なき日本が安い電力を手に入れるために必要条件である原発の稼働を妨げ、新規建設は途方もない逆風を浴びるだろう。高い電気料金と九州・東北・関東での停電の恐れから、さらに国外へ生産拠点を移す企業が増えることだって十分に考えられる。

我々は、何が必要としているのか。
革命だ。
革命と呼べるほどの変革だ。
それなしに、日本がどうして救われるか。もはや高度経済成長期の幻影にうつつを抜かすこともできないし、今の借金漬国家財政が継続可能であるはずもない。
新しい産業は、真に人類史的な要求に合致したもであるべきで、そこに我々が目を向けないならば日本人は不幸な衰退の道をたどるだろう。
いや、そもそも「産業」が存在する必要があるのか。

最近、日本人が世界に対して背負う道徳的かつ文明史的な義務について毎朝考えている。頭でっかちの大法螺吹きと言われても、それが今俺がなすべきことだと思う。そんな話でも面白いと言って聞いてくれる人が世界にはいてくれるかもしれないから。誰もしないことを真面目にやる。それが一番大切だ。誰かが俺と違うことをやっているなら、それも素晴らしいことだ。同じことをやる必要は全くない。

独り言:

仏の不藤からいまメールがきた。「突然勉強せなあかんことが増えて困っておる。」まったく同感だ。中東に革命の嵐が吹いていると思ったら欧州がリビアに戦争をしかけた。イエメン・バーレーンもやったるでとエリゼ宮の主は鼻息が粗い。いつかのホワイトハウスの茂君のようだな。シラク時代が懐かしいと愚痴をこぼすフランスの知識人は多いことだろう。東のほうでは1000年に一度の地震で1万人以上の方が亡くなり原発事故は終息の見込みさえなく東京は常に電気不足で夏の大停電がささやかれる。
世界最大の民間電力会社が国有化されるという噂も飛び出す。日本のエネルギー・電力安定供給はこれから重大な試練を迎える。電力会社の再編が始まれば、商社の再編がないと考えるほうが阿呆だ。
世界が終わるとは思わない。今のこの時代は、特別な時代だとも思わない。だが、世界が確実に変わりつつあるただなかに俺らはいま在って、そのことを意味を正しく理解しなければ生きていくということさえも難しくなってしまうだろう。
来月中国の不動産バブルが弾けて、ポルトガルがデフォルトを宣言して、ベネズエラにまで中東の革命熱が飛び火して、さらに北朝鮮で将軍様に対するクーデターが起きてドンパチを始めたら、世界は終わりはしないが確実に変わる。俺らが想像できないほど激しく。
想像せよ。ありとあらゆる可能性を。今日と同じ明日が来るという幻想のなかに生きてはいられない。明日は、人類の終わりの日ではないが、今日とは全く違う日であるかもしれない。ただし、忘れてはいけない。変化こそは常に最大のチャンスであって、変化なき社会を求めるのは意思薄弱などこかの坊ちゃんだけだ。

あぁ、やってしまった。寝ぼけながら書くと、いつも無駄に長いね。悪文にお付き合いいただき、どうも有難う。こんな出鱈目な文章であっても、それでも書き残せば、「おぉ、こいつ頭整理できてないな」と皆には分かるだろうから、それだけでもいいと思っている。
このブログを読んでくれる皆の幸せを、毎日一回だけ祈っている。

おやすみなさい。


2011年3月27日日曜日

野球好きな人、どうぞ。

http://www.youtube.com/watch?v=2B6mOO_PWYM&feature=related

たまにYoutubeで最近の投手の投球フォームをジーっと眺める。で、「ははぁ、ここ変えよったな」とか「ダルビッシュはなんでそんなに力入れとんじゃろ?」と突っ込む。野球オヤジの道楽だ。

球界に、ストレートを投げることについて無上の才を与えられた投手がいる。
相当な野球好きじゃないと知らないだろうと思うが、ジャイアンツの中里篤史投手。
2000年の3月に城東高校のグラウンドで(vs春日部共栄)このストレート(たぶん140‐143kmhぐらいだったんじゃないかと思う)で、バットとボールが30cmは離れた無様な三振を喰らい、「あ、こりゃ敵わん」と思った。より正確には、「どうあがいても適わん」と思った。天と地がひっくり返っても俺にはこのボールは投げられん、そう思った。
(負け惜しみだが、「彼にはこのブログは書けんだろう」という超弩級の阿呆の自負はある)
彼のストレートを見ていなかったら「俺もまだまだ」とかなんとか言いながら大学でも野球をしていたかもしれない。それはそれでとっても楽しかっただろうけど。
でも、この映像をみると、本当にとんでもないストレートを見させてもらったんやなぁと思う。
バッターが三振すること以外を想像できない驚異のストレート。
投球フォームは美しく、まったく無駄がない。
空対空ミサイルのように飛ぶストレートにバッターが空振りして審判が「バッターアウト!」というところまでが、既に決定された一連の芝居のようだ。
彼は、かつての投手だった全ての少年が憧れたストレートを投げる素質を天から与えられた、稀有な人間なんだと思う。

同い年、ジャイアンツでの活躍を祈る!


2011年3月26日土曜日

That's what we should actually be doing!

同じ仕事をしている友人からの、熱いメール。
勝手に掲載させていただく。あまりに嬉しかったから。同志を得たような気持ちになったから。

I knew energy means a lot to the country, though working here I was only able to think that people are just doing this for their own profit rather than for the country, always a question to me why I should be working here. But as you say, I start to feel that we can make more out of this job in means of national energy, and that's what we should actually be doing!

(俺も、エネルギーというものが国にとって重要であるということはわかっていた。分かっていたけど、あそこ(=会社)で働きながら、この人たちはただ単に利益を上げることのみのために仕事をしていて、国のためになんか働いていないんじゃないかと思っていた。でも、基がいうように、俺もいま思う。俺らの仕事は、国にエネルギーを供給するというもっともっと重要な仕事だ。俺らはまさにそのためにこそ働くべきだ。)

小さな小さな、たまに骨の折れる仕事の積み重ねが、国を支える。
常識的な普通の国民の毎日の努力の積み重ねが、連綿と続くこの国を支え続けてきたし、これからもそうだ。小さな個人のどんな仕事であっても、必ず天と繋がっている。
我々の仕事は、誰かに有難うと言われる仕事ではない。安定的に資源・エネルギーを供給することが我々の任務であり、利益はそのための手段だ。
それはあまりにあって当然のありふれたものだから、誰しもがガソリンがあり電気が街に灯ることを当然のこととして受け止めてきた。俺にしてからがそうだった。

別に1950年代の「商社マン」のロマンを持とうなどとは言わぬ。
だが、我が友よ、我々が「金儲けのためだろう」と諦めない限り、我々の仕事は天下国家に資するところ尋常ならざるものだ。それだけは信じていいはずだ。それを信じればこそ、真に偉大な事業は成し遂げられ得るのであって、そもそも仕事とは金儲けのためだと思っている人間は、金儲けさえできはしない。
そのために我々は一致団結して戦いたい。
これからも、我々のこの国家的な任務が終了することはないのだから。

数人の友人に伝えたい。
俺は、皆が自分の勤める会社が数千億円の利益を計上し、たかだか数千万円の年収を貰えるだけで満足できるほど欲のない人間ではないことを願う。
我々が欲するものは、もっともっと巨きなものであるべきだ。
虚無主義者の快楽よりも、革命家の絶望を、俺は選びたいと思う。


2011年3月24日木曜日

ジュラシック・パークと原発危機

先週、業務中にデスクの後ろの会議室のテレビで東京電力福島第一原子力発電所の「原発危機」の推移に注視しながら、1993年に公開された、映画「ジュラシックパーク」を思いだしていた。

スティーブン・スピルバーグの最大のヒット作でもあるこの映画は、最先端のバイオテクノロジーを用いて恐竜を現代に復活・蘇生させ、その恐竜たちをカリブ海のある島に設けられた完全自動化の「恐竜のテーマパーク」で飼いならそうとしたら、暴走する恐竜に人間が襲われるという、恐竜を主役にしたパニック・サスペンス映画である。

この映画のなかで、異様な存在感を見せているのが、映画「インデペンデンス・デイ」(1996)でもウィル・スミスとともにひどく格好付けていたジェフ・ゴールドブラムが演じた数学者、イアン・マルコムだ。
彼は、劇中ではカオス理論を専門とする数学者であるが、大変な皮肉屋で、ジュラシック・パークそのものを自然を模倣しようとする人間の傲慢だとして、こんなもの(システム)は必ず破綻すると主張し続ける(劇中ではその通りになるが、マルコム自身は生還する)。

100万年前から200万年前から知らぬが、我々が火を獲得してからというもの、人類の他の動物との生存競争における発展は、圧倒的だったと言ってよい。最初の火が灯されてから後、我々はひたすらに、我武者羅により大きく強力な火を求め続けてきた。現時点でのその究極の形態が、原子核の分裂及び融合がもたらす途方もない熱であることは言うまでもない。原子力は、一つには最終的な国家意思の実現のための暴力装置として核兵器となり、また一つには我々の便利で豊かな生活を基底的に支える文字通りのインフラとなった。

福島第一原発で、建屋の外壁を吹き飛ばし、白煙を上げて暴れる「原子力」を見ながら、デスクに置かれた俺の名詞に「原子燃料室」と書かれているのを眺めつつ、俺は一人で電流の切れた鉄柵を踏み倒して今まさに暴れ始めんとする、この映画のなかのティラノサウルスを思い出していた。
面白いことにーなどというと不謹慎の極みであるがー、「ジュラシックパーク」においてもハリケーンによって電源が破壊されて稼働しなくなり、恐竜を閉じ込めておくための電機の柵が無効となった。予備電源が津波でやられて原子炉に冷却用の水を循環させるためのポンプが動かなくなった今回の事故と似ていると言うのは勘繰り過ぎか。

さて、ここでようやく主題に入ろう。

恐らく、今度の原発危機が無事に解決に至ったとして、日本はもちろんのこと世界中で原発の安全性についての徹底的な調査が行われるだろう。既にイギリスなど一部の国は政府としてこれを決定している。
だが、この原子力が我々にもたらす危険というものは、そもそも我々が合理的に計算してコントロールできるものなのだろうか。映画「ジュラシックパーク」においては、メスのみの恐竜の群から変異によってオスが誕生したように、原子力が持つパワーというものは、そもそも我々が理性的にコントロールできるものではないのかもしれない。

というのは、世界には現在450基弱の商業用原発があるが、そのほとんどが1989年のスリーマイル島事故以来25年間、安全な運転を行って我々人類に低価格の電気をふんだんに届けてきたのだ。それがあればこそ、我々は寒い冬でも暖かい風呂に入り、肉を焼き、パソコンで友人に写真を送ることができた。その意味で、一日一日を例にとるならば、限りなく100%に近い確率で世界の原子力発電所は運営されてきたといってよいのだ。

だが、問題はここだ。
イチローは、10回打席にたって6.5回凡退してもいい。打率3割5分を打てば普通なら首位打者だろうし、200本安打も確実だろう。だが、原子力発電所は、0.000000001%の確率で起こる事故によって、あるいは数十年の間に一度起こる、450基のうちのたった数基の事故によって、人類に回復しようのない損害を与える可能性がある。これは、確率として絶対にゼロにはならない可能性である。
そう考えるならば、我々は、原子力というものは人間がコントロールできるものなのかどうかという根本的な問いを自らに問う必要があるように思えてならない。
「ウランの行商人が何を言うか!」という叱責は、これを甘んじて受ける。

考えながら書いているのだが、ふと思った。
今回の原発危機というものは、地球上で最大のパワーを有する原子力の暴走と人間の戦いという意味で、自然を自らの「外部」に存在する「対象」として、完全にコントロールできるとする、プラトンに始まりデカルトに至って絶頂を迎えて今も世界(つまり我々を)支配している、西洋哲学の原理に基づく近代文明の破綻の一つの症状として理解するべきではないのか。
津波を防ぐ防波堤を、イスラエルの如くに20mもの高さに築けば、我々は地震・津波・原子力という自然界の猛威を宥めることができるというのは、俺はにわかに信じがたいことのように思える。

それにしても、今回の大震災と津波、それに続く原発危機が我々に教えたことは、原発の潜在的な恐ろしさと同じ程度に、我々がどれだけ原発に依存して生きているかということだ。日本の総電力供給に対する原発シェアは大震災の前でだいたい30%弱というレベルだが、福島の10基の原発が運転を停止したために東京の夜はひどく暗くなった。俺が勤める会社のオフィスも常に消灯している。電車の数もまだ減ったままだ。今年の夏にはエアコンが使えず、猛暑のために亡くなるお年寄りが多数おられるだろう。

悩ましいことは、我々が(すくなくとも俺が)夢想している次世代の「電気社会」は、全て電気によって駆動される予定であるということだ。内燃機関で駆動されていた自動車が全面的に電気で走るようになり、家庭も恐らく全て電気化される。そしてスマートグリッドによって電力会社・オフィスビル・住宅が接続される、そういう未来を我々を想像している。
だが、その大前提は、廉価な電気なのだ。
上で「原発はだめだ」というふうなことを言ったが、「電気社会」を我々が志向するならば、原発を日本だけでも10基程度増やす必要があるかもしれない。

だから、根本的に考えよう。
我々は、原発の問題を克服したからといって、我々の世代が直面している問題から自由になれるわけではけっしてない。原発よりもさらに重大な根本的な問題があるからだ。

俺は、梅原猛が言うように、豊かな文化を永遠に後世へと伝えるために必要な新しい文明の原理は、まだ腐敗しきってはいない日本の文化の奥底にこそ見つけることができるのだと思っている。
農耕牧畜文明の成立以来、我々人類が保持し続けてきた「自然を飼いならす、都合のいいように作り変える」という思想こそが、人類の生存そのものを脅かしているとしたら、人類が選ぶべき残された道はあまり多くはないだろう。
だが、この原発危機を見事に乗り越えて、対症療法的な施策以上のことを日本人が成し遂げて世界に対して新しい文明の在り方を顕示することができるならばー恐ろしく難しいことではあるがー、世界は日本への賛辞を惜しむことはないだろう。

独り言:

無理矢理な因果関係だがね。
リビア攻撃を主導したフランスは、原発大国で、80%の電気は原発が作っている。
その国が、原発危機が起きてから数日後に、世界有数の産油国に対して軍事行動を起こした。
はてさて。


高い?安い?

世の中には値段の高いものと安いものがある。それは確かにある。
缶コーヒーをあるコンビニが明日の朝500円で売っていたら、確実に全ての人が「高すぎる!」と言って買うことはないだろうし、トヨタのディーラーがプリウスを100万円にしたらこれはすぐに売り切れるだろう。

だが、世の中には値段があってないようなもの、より正確に言えば、誰も高いか安いかわからないようなものが存在していて、かつそれを売買することは多くの場合、上に書いたような価格の高低が明らかに認識されている場合よりも、ビジネスとして利益につながりやすい。

考えてみてほしい。
次のものの値段が高いか安いかを判断できる人が世の中にどれくらいいるだろうか。

・ある会社が倒産する(債務不履行に陥る)ことのリスクの値段(クレジットデフォルトスワップ=CDS)
・心臓移植手術の施術料
・原発事故が起こった後のウランの値段

当然ながら、この記事は、上記の三つのうちの三点目について俺が今日ふと思ったことから書いている。

ウラン(U3O8、いわゆるイエローケーキ)を売り買いするとき、市況が安いと見れば買うし、高いと見れば売る。これはお猿さんでも分かる簡単な理屈だ。安い時に買って高くなってから売ること、高い時に売っておいて安い時に買い戻すことで利益を獲得できる。
だが、今度の原発事故のような事態ともなると、「市場の合理性」とか「神のみえざる手」とかいうものは、どこかに吹き飛んでいってしまったように感じる。

例えばウランの市況価格は、東日本大震災が起こった3月11日にはポンド当たり$68.00だったのだが、それが3月15日にはなんと$50.00まで下がった。どんな下がり方か分かりやすくいうと、日経新聞が突然160円から110円になったり、BMWの5シリーズが700万円から突然500万円になったりするような、そういう暴落である。
暴落はいいとして、こういう非常事態において、市場はある取引価格が「高い」のか「安い」のか判断することができない。それでも取引がなされるのだから、取敢えず買主と売主はいるわけだ。

ウランの価格が$50.00まで下がったときに、買う人はこう考える。
「ここが価格の底だから、ここで買っておけば先で値上がり分を利益にできる」。
他方、$50.00で売る人は、こう考える。
「ここからさらに$40.00まで下がるから、$50.00で今売っておけば$10.00の利益を確定できる」。

この場合、高いも安いもない。ある市況価格を「高いと思っている売り主」と「安いと思っている買主」がいるだけだ。市場参加者の、完全に主観的で根拠薄弱な思い込みだけだ。ここでは、合理性など全然機能していない。
面白いことに、リーマン・ショックに至るまでの数年間に(その後もそうだが)莫大な額のボーナスをもらっていた大手投資銀行のビジネスマン達は、多くの場合こういう商売をしていた。こういう商売というのは、一般人からは価格形成過程が判然とせず、高いのか安いのか判断することが非常に困難な市場での取引ということだ。最近、「史上最大のぼろ儲け」という本で、ジョン・ポールソンという人が、一年間にどうやって150億ドル(1.2兆円)を稼いだかということについて書かれている。この人がなにをやったかというと、サブプライム・バブルに皆が踊っているときに「逆張り」をした。つまり、サブプライム・バブルがはじけたら債務不履行に陥る会社のリスクを「ロング」(買い持ち)した。それによって、実際にバブルがはじけて多くの会社がデフォルトに至り、彼は途方もない利益を上げた。
(もちろん、CDSを取引することができる地位にあったトレーダー・投資家は彼だけではないのだが)
だが、考えてみてほしい。我々のような普通に暮らしている人の中で、「会社が倒産するリスクの値段」について考えたりしている人はごくまれだろうし、そもそもそんなものが市場で取引されていることを知らない人も多い(少なくとも我が母と倉敷の姉は絶対に知らないと断言できる)。
じつのところ、資本主義が高度化すると、価格競争が激化して利益率は低減していく傾向にあり、巨大な利益を上げようとすればどうしてもこういう「超ニッチ」なマーケットに参入したり、あるいはそのマーケットそのものを作る必要があるのだろう。

歯医者にいっても、いつも思う。施術後に、「3500円頂戴いたします」と言われる。それが高いのか安いのか、誰か調べて値引いたことがある人がいたら教えてほしいものだ。もちろん、診てからでないとどんな医療サービスを提供することが適切であるのかが判断できないという意味で、ユニクロが洋服をたなに並べるような商売を医師ができないということも分かるのだけどね。

結論:

世の中には、値段のつきにくいものが沢山あって、そういうものの売買を生業にすることができたら多くの場合経済的には豊かに生きられる確率がそうでない場合に比べて高くなる。証券トレーダー、医師、弁護士、住職、その他。
さはさりながら、世の中には「絶対に値段がつけられないもの」がある。「つけにくいもの」ではなくて、「絶対に値段がつけられないもの」だ。心当たりのある人はたぶんいい人生を生きている。
これから我々が重視するべきは、これだ。

独り言:

最近社会的にも私生活でも信じられないようなことがー良いことも悪いこともー続々と起きていて、まともに読書を行う時間も思索にふける時間もなくブログが悲惨な状態になっていた。現実と空想の境目が漠然として、自分の身体の現実感覚が麻痺していくような浮遊状態とでも言おうか。
こんな時だからこそ意味ある言葉を紡ぐことが大切なのに、本当に不細工だと思う。
挫折はある。大事なことは、中断しても再びやり始めることだと思う。


2011年3月19日土曜日

決死の特別放水隊よ!

祈ろう。
あなたが信じるなにかに対して祈ろう。
命をかけて、任務の完遂に邁進する自衛官・警察官らの無事と作戦の成功
を祈って、少しだけ目を閉じよう。彼らの家族のことを、毎日少しだけ思
い遣ろう。
彼らが戦っているのは、米海軍の空母がかわいく見えるほどに危険な巨大
原発である。
「彼らの仕事だからやって当たり前」などと言わないで欲しい。僕もあな
たも、「危険をかえりみず任務の完遂を期す」と宣誓したことはないはず
だ。
彼らは、まさに任官の際に宣言した通りに、「危険をかえりみず」命令に
従い、黙々と命懸けの任務にあたっている。
英雄は、常に、命知らずの責任感の塊である。
一人の小さな日本人として、万感の思いを込めて、最大の敬意と真実の祈
りを最前線の彼らまで届けたい。
命を捨てて戦地に赴く彼らに我々が手渡すことができるのは、栄誉と熱誠
だけなのだから。

2011年3月14日月曜日

「誰かのために」ではなくて

2030年の夏。

俺は、美しい東北地方の田園風景の中を、一人愉快に散歩している。

太平洋沖であがった旨い魚を囲炉裏で食らい、地酒に酔いつつ中国からやってきた旅行客との会話を楽しんでいる

19年前の悲劇を逞しく乗り越えた東北は、次世代の日本の地方分権の象徴として、また最先端の完全循環型社会の世界初のモデルとして力強く成長している。

海岸線に平らな住宅地と工業地帯が密集せず、ここでは超高速の最先端ユビキタスネットワークに全ての家庭から接続できる。人々は、間伐が生き届いた豊かな森林の側にまばらに暮らし、それに隣接する肥沃な田んぼと畑を耕している。必要なエネルギーの殆どは、再生可能エネルギーによって賄っている。走っている車はすべて燃料電池車だ。子供たちは自宅から32インチのスクリーンに映る9,000km離れた場所にいる先生に向かって覚えたばかりの万葉集のなかのいくつかの和歌を諳んじている。母親は、それを見て微笑みながら、焼き立てのラスクと紅茶のおやつを準備しているー。


今、こんな希望を持つことは、はっきり言って不謹慎なようにも思える。

だが、恐ろしい死神が我々の頭上から微笑んだとしても、我々の希望だけは奪えはしない。

我々が、危機にあって明日への希望を抱くのならば、また我々日本人が、断固として死者を胸に抱いて被災者のために行動するならば、我々日本人にこの試練を乗り越えられない理由などあるはずがない。


この小さなブログが、何かの、誰かの役に立つことを切望する。



≪義援金を直接寄付する場合≫    
義援金は詐欺サイトもあるので要注意。信頼できる募集窓口を選ぶべき。
各募集窓口からは赤十字と各県の災害対策本部に寄付されるケースが多いが、
災害対策本部、赤十字自身も今後自らのホームページで義援金を募集予定なので、
窓口が信用できないなら直接これらに寄付することも可能。 

日本赤十字社
http://www.jrc.or.jp/


≪義援金をカードのポイントを換算して寄付する場合≫  
自分が保有しているカードのポイントを義援金にする手段。

T-Pointによる義援金
TSUTAYA、ファミリーマート、ドトールコーヒー等で使用しているT-PointカードTログイン。1ポイント=1円  
http://tsite.jp/


Yahoo!ポイントによる義援金
Yahoo!にログイン。1ポイント=1円  
http://volunteer.yahoo.co.jp/donation/detail/1630001/index.html

・ワールドポイントによる義援金(開設予定)
三井住友VISAカードのポイント。
Vpassにログイン。 
ワールドプレゼント200ポイントを1,000円に換算。200ポイントを1口として、最高50口(50,000円換算)まで。
http://www.smbc-card.com/mem/vps/index.jsp

JCBのオキドキポイントによる義援金(開設予定)
http://www.jcb.co.jp/pointservice/pdf_list_2011.html
からログイン
http://www.jcb.co.jp/pointservice/pdf/11_pdf/11okidoki_44.pdf
の日本赤十字社の番号00190723を入力。
1ポイント5円の寄付。



2011年3月6日日曜日

勝てば官軍負ければ賊軍。メディアだけは常勝。

エジプトのジャスミン革命でムバラク大統領が辞任する時までの過去10年間で、エジプトの独裁を批判したことのあるメディアが日本に一つでもあっただろうか。
カダフィ大佐の核開発放棄を称えた新聞はあったと記憶しているが、カダフィ大佐の権力の私物化を批判したメディアが日本に一つでもあっただろうか。

今回の一連の中東の大騒動についての報道をみるにつけ、本当にメディアというものはその不可侵性(朝日新聞を批判するのは産経新聞くらいだ)を盾にして分かりやすくて腹に落ちやすい、言うなればパックに入った魚の切り身のような「ニュース」を新聞やテレビニュース番組で大衆に届けるということをしている。それで年収千数百万円を稼いでいる輩が沢山いる。

彼ら自身がここ数週間ずっと報道しているのだが、チュニジアやエジプトやサウジアラビアやイエメンやバーレーンなどの中東の国々において独裁的権力が数十年に渡って支配を続けてきたことは、誰もが知っていたことなのだ。
それなのに、革命とか民主化運動が起きた途端に、「民主主義を求める民の力はたった17日でムバラク独裁を打倒した」と賛辞を送っているのは、どうしても無節操の誹りを免れないだろう。
「世界はこれまでこれらの国の民の置かれた政治的・経済的苦境について報道することを怠ってきた。我々もその例外ではなく、その責任を回避することはできない」とでも真摯に言えないものかと思う。
大相撲の八百長にしても、鬼の首をとったかのようなあのメディアの高揚感といったらない。
「プロレスも八百長をしていた!」と読売新聞あたりが4月1日に一面で報道してくれたら、俺としては抱腹絶倒間違いなしの素晴らしいエイプリルフールのジョークなんだがね。

桃太郎の話じゃないんだから、ある国で独裁政権がまがいなりにも数十年にも渡って続いたということには、それなりの背景なり理由なりがあると考えるべきだ。俺が思うには、中東の場合はイスラム原理主義を封じ込めるために、世俗主義独裁が中東では必要だったのだ。必要悪として、必要だったのだ。

ニュース報道がドラマ化しているように感じるのは俺だけだろうか。善と悪をはっきりと区分して、メディアは正義の側にたって視聴者に分かりやすい陳腐な安物ドラマじみた「物語」を提供する。話し終えた最期に、「なんとかならないものなんでしょうか」とため息をつくあのニュース・キャスターの一言に一々苛立つ俺はそんなに短気なのだろうか?
大衆の側では、それが自分たちにも理解しやすいものだから(頭を使う必要がない)、それ以上自分で考えることもせずに、その説明を覚えては他人に知ったふうに話す。

どんな人にとっても、世界で起きていることを分かりやすく説明してくれる人というのは有り難いものだ。情報に対する餓えが強ければ強いほどそうだろう。
その「需要」に付け込む形で、営利団体としての巨大メディアというものを我々は育てたのだ。
複雑で多様な現実を正しく読み解くためには、時として相矛盾する物の見方をせねばならないはずだ。あるいは、人によって考え方や解釈が全然異なることだってあるだろう。それが議論を生むのであって、本来的な意味での民主政治の根本はこの議論に基づく。

我々は全員で痴呆症を患っているのだ。
我々にとって良いことに、全員が痴呆症なものだから、誰もが正常であると思える。
テレビは見てはいけない。ニュース番組さえ見てはいけない。
世界史と日本史をしっかりと勉強してさえいれば、世界で起こっているほとんどのことは事後的にであっても瞬時に正しく理解できるから、既成の情報に踊らされる必要は全くない。まことに学ぶべきは、歴史である。

独り言:

終身雇用は、賞味期限切れだ。
今日会社のセミナーで学生さん数十人と話してきたが、人生の一発勝負に挑む彼らの悲壮感はみていて可哀そうになるほどだ。
高度経済成長時代は、どの会社も成長する見通しがあったし、誰でもとりあえずは就職できたから、終身雇用が一番よかった。だが今は、経済のパイが国内にあっては縮小している。企業はこれから再編・統合という形で数を減らさざるを得ない。年金負担額も増える。そんな時代に、22歳とか25歳で人生の「勝ち組」「負け組」が決まってしまうのは、不公平に過ぎるし、人材に頼らざるを得ない小国日本がこれから発展していくために著しく非効率だ。何よりも、「22歳のときは優秀だった(優秀に見えた)が45歳の今はなんの価値も産み出していない者」が安穏と高給を貪るようなことがあってはならぬ。それは正義に適わない。自然法則に反する。
弱者を助けようとする優しさこそが、社会を滅ぼす愛であることを知れ。
プチ・ブルジョアどもの特権を剥奪せよ。もっとも、その「特権」たるや、特権と呼べるような代物ではないのだがね。

2011年3月5日土曜日

ブログ風ブログ

首相動静(3/5)
0900、起床
0903、風呂
0938、トレーニング(40mダッシュ x 8、懸垂、腕立て、フライングランジ、その他)
1040、たまプラーザの本屋で雑誌を斜め読み。「就活本」市場の拡大はすさまじい。就職できない学生を公営の就職斡旋会社で雇ったらやっぱり共産主義なのかね。
1123、寮に戻る
1205、カフェで新聞熟読、日記、パンと珈琲
1315、寮で読書(「国家債務危機」、「ローマ帝国衰亡史」)
1540、神保町へ「ド・ゴール回顧録」「真珠湾作戦回顧録」(源田実)「ケレンスキー回顧録」を買いに行く
1625、神保町の大雲堂書店で「ド・ゴール回顧録」を手に取るも、惹かれるものすくなく、購入せず。
御茶ノ水駅近くの丸沼書店で「ケレンスキー回顧録」を取り置き願う。「真珠湾作戦回顧録」「暗黒日記」(清沢)「石原莞爾試論」(平岡)を合計5350円で購入。
1715、九段下のスターバックスで源田実「真珠湾作戦回顧録」を読む。昭和十二年の時点で、海軍内に「空中兵力威力研究会(空威研究会)」なる勉強会が存在したことに驚く。だが戦艦主兵思想(所謂「大艦巨砲主義」の根拠も、日本海海戦がもしなかったしても、なかなかに強力だったようだ。それは、次の数字によっても明らかだ。実効性を無視した場合だが。
「当時の日本海軍の主力十艦-長門型二隻、伊勢型二隻、金剛型四隻の持つ主砲を合計するならば、40サンチ砲16門、36サンチ砲80門、合計96門である。これらの主砲が一斉に火を吹いて、一分間に一発の割合で射撃するならば、わずか30分の間に2,880発の800キロないし1,000キロの主砲弾を送り込める。命中率をわずか5パーセントとみても、この間に敵の同型艦十隻を撃沈できるのである。
もし、これを水平爆撃でやるとなれば、命中率を10パーセントとみて1,600機の攻撃機を要し、約30隻の大型空母を準備しなければならない。」(P.71)
こう数字でまくしたてられれば、なるほど戦艦主兵の漸減邀撃作戦が、最期まで幅を効かせることになったのも、むべなるかなと思う。
例えば、戦艦「大和」が搭載した91式徹甲弾は重量が1,460kg(俺の車より10kg軽い)ある。これを大和が900発搭載した場合、主砲弾だけでも1,314,000kgという膨大な砲弾を抱えられる。これを(実際にはあり得ないが)一分間に一発の速度で前後9門の主砲が全力射撃した場合、100分間の間に99式艦上爆撃機(爆装310kg)のなんと4,238機分の砲弾を敵に指向できる「計算」になる。
小さな飛行機よりも、「浮かべる城」のような艟艨を目にすれば、これこそ護国の主なりという気分になったのだろうなぁ。
ともあれ、陸軍は詳しくないが、海軍には明治の秋山、昭和の米内や井上を始めとして魅力的な将星がまことに多い。でも石原莞爾は海軍にはいない。


1855、寮に戻る。家事。

1945、読書。ブログ。

そうそう、ケレンスキーというのは、ロシアの革命家のアレクサンドル・ケレンスキー。10月革命に敗れてフランス、後にアメリカに亡命してからもKGBから監視されていたそうな。1970年没。

これを読もうと思ったのは、中国の現在の共産党独裁政権というものは、過去数百年の中国の歴史からすれば全然特異なものではなくて、真の始皇帝のそのもっと前から大陸で彼らが行ってきた権力闘争の一つの結果であると思うから。ふ?

ケレンスキーの回顧録を読むための仮説は、「ソビエト革命というものは、社会主義革命ではなくて社会主義革命という看板を担いだレーニン・ボルシェヴィキによる、通常の政治闘争における一つの勝利の結果に過ぎない」ということ。まぁ、そりゃそうなんだろうけど、読んでみないと分からんことって多いからね。

ある平凡な土曜日のこと。なんとも漢字だらけな一日だ。

贈与私論

マルセル・モースの「贈与論」はまだ読んでいないのだが。
雑誌「GOETHE」に村上龍がごく短いエッセイを書いている。ときどき面白い。
今回のエッセイは彼のあまり親しくもない女性の友人から差出人不詳でドラえもんの目覚まし時計(だったはず。。。)が送られてきて、それを彼が爆弾と勘違いしてしまって云々という話で、結論としては「贈り物は恐ろしい。それによって人と疎遠になることだってある」ということだった。

さて。

数年前から、プレゼントというものについて俺は拘りがあって、今夜はそれについてちょっとお付き合いください。

俺自身におけるプレゼントの等級は、次の通り。

第一等:相手がそのプレゼントをもらうことを全然期待していかったのだが、もらってみて「なんて素晴らしい!」と言われるもの
第二等:相手がそのプレゼントをもらうことを期待してはいなかったものの、相手は自身がそれを欲していることを知っていて、「なんで私がこれを欲しいのを知っていたの?」といわれるもの
第三等:相手がそのプレゼントをもらうことを期待していて、かつプレゼントをもらう前に既にあなたがそのプレゼントを自分に渡してくれるであろうことを予想しているもの
第四等:金

少々説明が必要なりと認む。
第一等のプレゼントは、言ってしまえば「需要を贈り主が作り出す」ようなものだ。
相手がそれを欲しがっていない、もしかしたらそれについて知らないという場合にーマーケティング風の言葉づかいをすればー、潜在的な需要をつかみ取ってそれを渡すのだ。これは、相手に対する最も深い理解を必要とすることは言うまでもなかろう。「あぁ、私はこういうものを手に入れておけばよかったんだ」という気付きさえ与える。このプレゼントは至極である。

第二等のプレゼントは、「2週間前に外苑前のCORNESの店の前を通った時に君がベントレーを欲しそうに眺めていたから」と言いつつキザな男がベントレーの鍵を彼女に渡すものだ。この場合は、相手の需要が潜在的ではなく、既に顕在化しているものの、その現れ方は第三等のようにあからさまではないので、これに気が付くことは容易ではないかもしれない。

第三等のプレゼントは、恐らく世間一般で最も頻繁に贈り贈られているつまらんプレゼントだ。「クリスマスのプレゼントは何がいい?」「コマツの290トン積載の超巨大ダンプカーがいい!」というあの会話から生まれる、巷の恋愛ゴッコに巣食う資本主義者どものいい銭のタネである、あれだ。

第四等のプレゼントは、最も純粋な価値の提供の方法である、Goldである。現金は政府がなくなれば紙切れであるから贈り物をするなら、あるいはもらうならば通貨よりもGoldにすべきである。

プレゼントをするときに、楽しくないと意味がないと思う。
相手が欲しいと思っているそのものを買って相手に渡すという行為は、なんなのだろう。
それに対して相手が「ありがとう」と言ってくれるのは、①あなたがそれを買うために土曜日に4時間デパートを歩きまわったから?②少ない20代の給料から相手へのプレゼントのための「経費」を捻出したから?
思うに、①の時間的コストを考慮しても、相手が欲しいものを素直に渡すことは、②の単なる金銭の贈与とさしたる違いはない。なぜといって、この時代の日本に暮らしていれば、何物かを手に入れるために必要な時間的肉体的コストなぞ、ほとんど完全に無視できるからだ。だから、「欲しいものをわたす」プレゼントは、形式的にどうであれ、贈り主と贈られる相手の内心はどうであれ、実際には単なる金銭の授受以上のものではない。

ーと、大学か大学院の頃に考えるようになった。そういうわけで、プレゼントというものを貰うのも渡すのも大嫌いになった。「何か欲しい?」と尋ねられて「ノーラン・ライアンの肉体」と答えたこともあった。

ところが、人間やればできるもので、頭を使うとプレゼントというのはお互いにとって素晴らしいものになりえるものだということも分かった。それが、第一等のプレゼントに他ならぬ。そのためには、少なくとも贈る相手について、次のことをじっくり考える必要がある。

・どういう家族構成か。
・どんな人生を生きてきたか。
・どういうことに興味を持っているか。
・どんな洋服が好きか。
・どんな街が好きか。
・どんな遊びが好きか。
・どんな食事が好きか。
・どういう仕事をしているか。
・休日はなにをしているか。
・どんな本を読んでいるか。
・どんな人と付き合っているか。
・どんな道徳観を持っているか。
・どんな世界観を持っているか。
・人生においてどんな夢や目標を持っているか。
・彼・彼女自身が気づいていない長所はなにか。
・現状に満足しているか。
・これからどんなことをすればもっと素晴らしい人間になれるか。
・ともに素晴らしい世界を後世に譲り渡すという世界的なプロジェクトの協働者として、世界のために今何をなすべきなのか。

これぐらい考えれば、相手が誰であってもーもちろんギャンブル性は残るのだがー、第一等のプレゼントを渡せる可能性が生まれてくる筈だ。
ところで贈り物をするときに俺が得る最大の対価は、このギャンブル性と、それが見事に相手の潜在需要を探り当てた時の何ともいえぬ嬉しさである。
天の邪鬼なのか、相手が期待していることをするというのが敵前逃亡と同等に格好悪いことであると思えてしまう。相手の期待には断固として沿わない、だが、それをはるかに上回るものを贈る。これが、互いにとって最高のプレゼントである。
「相手が欲しがっているものを贈るのが相手のためになる」なんていうのは、贈り主の単なる怠惰だろう。そりゃ楽だろうよ。それを選択したのは相手であって、貴様ではないのだから。決断を貴様はしていないのだから。「なんでこんなものを?」と言われるリスクをとって考えるから、プレゼントはいつも我々の娯楽なのである。

余談だが、Iphoneなんてものは、「消費者の需要」にAppleが対応する形で作ったのではない。大多数の折り畳み式の携帯電話を5年前に使っていた人は、「画面がこれの二倍くらいあってインターネットをもっと快適に閲覧出来て、クラウド上に保存した情報にどこからでもアクセスできて、アプリが数万も使えるような、そんな電話があればいいのになぁ」などとは考えていなかったはずだ。せいぜいが、「もう少し携帯のカメラの写真がきれいになればいいのにな」ぐらいのものだろう。
その消費者の需要に従っていたら(第三等のプレゼントに相当)、IphoneもIpadも誕生することはなかった筈だ。

一つのプレゼントであっても、禿頭になるぐらい考えて考えて考えて、挙句に思いつきでヒョイっと贈ったものが、けっこう喜ばれたことが過去にあったので、自慢げに以上にように書き記した。


2011年3月3日木曜日

北方領土とアメリカ

今夜は虎ノ門でロシアのウラン会社と会食だった。
当然ウランの話もするのだが、先方が防衛関係の仕事をかつてしていた人で、北方領土について非常に面白い話が聞けた。

氏曰く。

「ロシアが恐れているのは北方領土の『沖縄化』だ。日本があの四島を領有している分には特に問題はないが、日本というのはアメリカと軍事同盟を結んで空軍司令部(横田)と海軍司令部(横須賀)と陸軍司令部(座間)を本州に置いて世界有数の米空軍の海外拠点(嘉手納)をアメリカに渡している国だ。ロシアは、北方領土のいずれの島にも強力な米軍が置かれることを看過できない。だから、もちろん去年の尖閣事件での日本政府の及び腰もあって今北方領土に最新鋭の装備を配備して軍事力を強化している」

これはどこの誰も言っていないと思う。正しいかどうか100%確証はないが、興味深い説明ではある。
と、いうことは?
日米同盟を廃棄したら北方領土は返ってくる???
なんちゃって。どこかの共産主義犬みたいなこと言って吠えたりはせんよ。

独り言:

金本位制が復活したら、世界はどうなるんだろうか?とふと考えた。
不勉強で即座に回答できぬ。

常につながっていることを求める動物がいる。この動物は、周りに同じ群の仲間がいないことに堪えられない。

核兵器の照準を互いの首都に向けあって、漸く均衡が保たれるという冷戦の遺物は未だに健在だ。
誰が言ったか忘れたがー俺もこれにはひどく賛同するのだがー、「我々は核兵器を廃絶できるだろう。核兵器を上回る破壊力を持つ新たな兵器を手に入れたときに」という言葉がある。
過去数年間、「次の戦争はどういう形態になるか?」について考え続ける中で、あまりさしたる回答は出せていなかった。なぜといって、核兵器(水爆=核融合爆弾)の破壊力はそれほどまでに恐ろしいからだ。広島や長崎にアメリカ人が落としやがった数キロトンの素朴な原爆の悲惨さを伝えるだけではもはや現在の核兵器の恐ろしさ、破壊力の甚大さを正確に伝えることはできない。
で、最近読んだのが陰謀論とも悪名名高い(?)この本だ。

ジェリー・スミス「気象兵器・地震兵器・HAARP・ケムトレイル」成甲書房 2010年

誰かが、気象をコントロールして局地的な大雨を降らせたり、電磁波に人為的な圧を与えることで地震を引き起こしたり、また津波を引き起こしたりすることができるなどと言えば、笑いの種にしかならんだろう。
だが、2002年8月にロシア下院がHAARP(米国の高周波能動オーロラ研究プログラム=High-Frequency Active Auroral Reserch Program)について、次のような報告を行ったことは、事実である。

”米国は、HAARPで、新型の複合的地球物理学兵器の開発を進めている。この兵器は、高周波で地球近傍の媒質に影響を与える可能性があり、(兵器としての)質的な変化は 刃物から銃火器、あるいは通常兵器から核兵器への進化に匹敵する。この新型兵器は、地球近傍の媒質に直接影響を与え、兵器の一部にするという点において、旧来の兵器とは異なっている”
(前掲、P.24)

さらに、アメリカ自身が言っていること。

”先進技術に投資して、それらの技術を軍事利用する方法を精力的に開発することにより、2025年、我が国の航空宇宙軍は「気象を掌握」できるようになる。これにより、戦争当事国が従来は不可能だった方法で戦場をデザインすることが可能になる。これは紛争の作戦全般に大きな影響を及ぼす可能性があり、すべての未来にもかかわってくることである。本稿の目的は、未来の気象改変システムを利用して軍事目的を達成するための戦略の概要を示すことにある”
(1996年にロナルド・フォーグルマン空軍参謀長に提出された米空軍大学によるレポート「空軍2025」、前掲、p.38-39)

なんの話やねんと思うだろう。真っ当な反応だ。知って楽しくなる話題でもない。
だが、ゲーテの「人生は征服のための戦争である」という言葉を目にするとき、気象さえも我が物として戦争の道具にするということぐらいのことは我々は平然とやってしまうだろう。


2011年3月1日火曜日

量的緩和という経済爆弾。低金利の誘惑。

仮説か。暴論か。

亜米利加が日本のようなデフレに陥ることを防ぐためにQE2(量的緩和第二弾)で今年中盤までに60兆円のドルを市場に放出。
構造的なデフレ状態にあるアメリカ(や日欧などの先進国)に投資機会はもはやなく、過剰マネーは新興経済国・資源国へ流入。
新興経済国などの多くは自国通貨をドルにペッグしており、交易条件悪化を防ぐために自国通貨売り、ドル買い介入を行う。
自国通貨売りによって新興経済国などでは、過剰マネーが膨張し不動産などの資産インフレ(バブル)を生み国際商品市況を高騰させる。
(これが中東の最近の騒動に少なからぬ影響を与えていることはいろいろと報道されている通りだ)
これを防ぐためには、新興経済国政府は利上げと為替の切り上げをせざるをえないが、これをやると経済成長が鈍化し、資産インフレが急激に冷やされればバブル崩壊という悪夢もありうる。
そのため、結局新興経済国は、ブラジルのように自国への先進国からの資本流入を制限しない限り(もっともそうしてしまえばグローバル経済からある程度孤立することになるのだが)、利上げ・為替切り上げを避けられない。

米国FRBのバランスシートは2008年の末から約二年ほどで2倍以上に一気に膨れ上がった。その分のマネーが市場に(つまり世界に)放出されたということだ。
「また陰謀論か」と言われそうだが、彼らの思惑がどうであれワシントンのQE2が北京に対して持つ破壊力は甚大だ。
中国には現在8000万戸もの空家のマンション(投機目的で購入されたもの)があるというほどのバブル状態にあるが、これを崩壊させられれば中国の国力は一気に減衰する。

中国にまでついに飛び火した「ジャスミン革命」が、中国バブルの崩壊によってさらに刺激されるならば、北京政府の政権は危殆に瀕する可能性もあるだろう。

日本がかつての$1=360円から現在の80円にまで円が切り上がる過程で、どれだけの努力をして高付加価値産業へ移行してきたか。中国がもしこれを日本と同じように行えないのならば、中国は利上げも為替切り上げも行うことができず、「一流の二流経済国」として弱い元に頼って元を刷りまくるという破綻への道を歩むしかないのだろう。

思うのだが、インフレにおいては借金をしやすい。だから、新たな産業が生まれやすい。一文無しの若者が大借金をするリスクが小さいからだ。
デフレは、既に金持ちになった人にとって都合がいい。彼らは借金をする必要がなく既に金を十分持っていて、なおかつそれを預金口座に預けておけばその価値が増大するからだ。
デフレというのは、政権にとっては悪くないのだ。
給料が減っても吉野屋で280円でとりあえず飯は食べられるし、不動産や株式を大量に保有していない限り資産が減耗することもない。何よりも、日本のようなGDPの200%もの負債を抱える国にとっては、デフレ=低金利というのはなによりも財務当局の心を宥めてくれるものだろう。金利が1%であれば、そりゃ借金もそんなに怖くはない。

だが、低金利によって本来死ぬべき、役目を終えた企業がマーケットから退出しないという悪弊はもっと注目されてしかるべきだ。日銀がどれだけ量的緩和をしても、日本のデフォルトの確率がどれだけ高まっても、銀行は国債を購入し続けることの最大の理由は、単純に新たな資金需要がないからだ。そして、資金需要がないということは、つまり新しい産業が生まれていないということだ。

おかしいだろう。
この日本の財政状況をみれば、どう考えても長期金利が1.5%というのは異常だ。
低金利というのは近視眼的に見れば非常に甘い誘惑なのだが、それが故に抜本的な財政改革はさらに遅れ、それが遅れれば遅れるほど、「日本の財政破綻」がもたらす災害は大きくなる。
数年前、財務省に勤める友人が、「銀行は国債を買い支えるしかない。だって国債が暴落すれば彼らは倒産する」と言ったことがあるが、もしそうなら御の字だ。今はまだ民間の貯蓄が政府の借金を優に上回っているが、これが逆転するときー例えば、上記のような新興経済国の金利上昇によって先進国と新興経済国の金利差がさらに拡大し、国内の資金がより高い利回りを求めて海外へ流出する場合ー、国内の銀行はどうやって日本の国債を買い続けるのか?市中銀行の代わりに日銀が国債を買い進めるならば、それが意味するところは誰もが知っているインフレだ。

頭の整理のためでした。