2011年3月24日木曜日

ジュラシック・パークと原発危機

先週、業務中にデスクの後ろの会議室のテレビで東京電力福島第一原子力発電所の「原発危機」の推移に注視しながら、1993年に公開された、映画「ジュラシックパーク」を思いだしていた。

スティーブン・スピルバーグの最大のヒット作でもあるこの映画は、最先端のバイオテクノロジーを用いて恐竜を現代に復活・蘇生させ、その恐竜たちをカリブ海のある島に設けられた完全自動化の「恐竜のテーマパーク」で飼いならそうとしたら、暴走する恐竜に人間が襲われるという、恐竜を主役にしたパニック・サスペンス映画である。

この映画のなかで、異様な存在感を見せているのが、映画「インデペンデンス・デイ」(1996)でもウィル・スミスとともにひどく格好付けていたジェフ・ゴールドブラムが演じた数学者、イアン・マルコムだ。
彼は、劇中ではカオス理論を専門とする数学者であるが、大変な皮肉屋で、ジュラシック・パークそのものを自然を模倣しようとする人間の傲慢だとして、こんなもの(システム)は必ず破綻すると主張し続ける(劇中ではその通りになるが、マルコム自身は生還する)。

100万年前から200万年前から知らぬが、我々が火を獲得してからというもの、人類の他の動物との生存競争における発展は、圧倒的だったと言ってよい。最初の火が灯されてから後、我々はひたすらに、我武者羅により大きく強力な火を求め続けてきた。現時点でのその究極の形態が、原子核の分裂及び融合がもたらす途方もない熱であることは言うまでもない。原子力は、一つには最終的な国家意思の実現のための暴力装置として核兵器となり、また一つには我々の便利で豊かな生活を基底的に支える文字通りのインフラとなった。

福島第一原発で、建屋の外壁を吹き飛ばし、白煙を上げて暴れる「原子力」を見ながら、デスクに置かれた俺の名詞に「原子燃料室」と書かれているのを眺めつつ、俺は一人で電流の切れた鉄柵を踏み倒して今まさに暴れ始めんとする、この映画のなかのティラノサウルスを思い出していた。
面白いことにーなどというと不謹慎の極みであるがー、「ジュラシックパーク」においてもハリケーンによって電源が破壊されて稼働しなくなり、恐竜を閉じ込めておくための電機の柵が無効となった。予備電源が津波でやられて原子炉に冷却用の水を循環させるためのポンプが動かなくなった今回の事故と似ていると言うのは勘繰り過ぎか。

さて、ここでようやく主題に入ろう。

恐らく、今度の原発危機が無事に解決に至ったとして、日本はもちろんのこと世界中で原発の安全性についての徹底的な調査が行われるだろう。既にイギリスなど一部の国は政府としてこれを決定している。
だが、この原子力が我々にもたらす危険というものは、そもそも我々が合理的に計算してコントロールできるものなのだろうか。映画「ジュラシックパーク」においては、メスのみの恐竜の群から変異によってオスが誕生したように、原子力が持つパワーというものは、そもそも我々が理性的にコントロールできるものではないのかもしれない。

というのは、世界には現在450基弱の商業用原発があるが、そのほとんどが1989年のスリーマイル島事故以来25年間、安全な運転を行って我々人類に低価格の電気をふんだんに届けてきたのだ。それがあればこそ、我々は寒い冬でも暖かい風呂に入り、肉を焼き、パソコンで友人に写真を送ることができた。その意味で、一日一日を例にとるならば、限りなく100%に近い確率で世界の原子力発電所は運営されてきたといってよいのだ。

だが、問題はここだ。
イチローは、10回打席にたって6.5回凡退してもいい。打率3割5分を打てば普通なら首位打者だろうし、200本安打も確実だろう。だが、原子力発電所は、0.000000001%の確率で起こる事故によって、あるいは数十年の間に一度起こる、450基のうちのたった数基の事故によって、人類に回復しようのない損害を与える可能性がある。これは、確率として絶対にゼロにはならない可能性である。
そう考えるならば、我々は、原子力というものは人間がコントロールできるものなのかどうかという根本的な問いを自らに問う必要があるように思えてならない。
「ウランの行商人が何を言うか!」という叱責は、これを甘んじて受ける。

考えながら書いているのだが、ふと思った。
今回の原発危機というものは、地球上で最大のパワーを有する原子力の暴走と人間の戦いという意味で、自然を自らの「外部」に存在する「対象」として、完全にコントロールできるとする、プラトンに始まりデカルトに至って絶頂を迎えて今も世界(つまり我々を)支配している、西洋哲学の原理に基づく近代文明の破綻の一つの症状として理解するべきではないのか。
津波を防ぐ防波堤を、イスラエルの如くに20mもの高さに築けば、我々は地震・津波・原子力という自然界の猛威を宥めることができるというのは、俺はにわかに信じがたいことのように思える。

それにしても、今回の大震災と津波、それに続く原発危機が我々に教えたことは、原発の潜在的な恐ろしさと同じ程度に、我々がどれだけ原発に依存して生きているかということだ。日本の総電力供給に対する原発シェアは大震災の前でだいたい30%弱というレベルだが、福島の10基の原発が運転を停止したために東京の夜はひどく暗くなった。俺が勤める会社のオフィスも常に消灯している。電車の数もまだ減ったままだ。今年の夏にはエアコンが使えず、猛暑のために亡くなるお年寄りが多数おられるだろう。

悩ましいことは、我々が(すくなくとも俺が)夢想している次世代の「電気社会」は、全て電気によって駆動される予定であるということだ。内燃機関で駆動されていた自動車が全面的に電気で走るようになり、家庭も恐らく全て電気化される。そしてスマートグリッドによって電力会社・オフィスビル・住宅が接続される、そういう未来を我々を想像している。
だが、その大前提は、廉価な電気なのだ。
上で「原発はだめだ」というふうなことを言ったが、「電気社会」を我々が志向するならば、原発を日本だけでも10基程度増やす必要があるかもしれない。

だから、根本的に考えよう。
我々は、原発の問題を克服したからといって、我々の世代が直面している問題から自由になれるわけではけっしてない。原発よりもさらに重大な根本的な問題があるからだ。

俺は、梅原猛が言うように、豊かな文化を永遠に後世へと伝えるために必要な新しい文明の原理は、まだ腐敗しきってはいない日本の文化の奥底にこそ見つけることができるのだと思っている。
農耕牧畜文明の成立以来、我々人類が保持し続けてきた「自然を飼いならす、都合のいいように作り変える」という思想こそが、人類の生存そのものを脅かしているとしたら、人類が選ぶべき残された道はあまり多くはないだろう。
だが、この原発危機を見事に乗り越えて、対症療法的な施策以上のことを日本人が成し遂げて世界に対して新しい文明の在り方を顕示することができるならばー恐ろしく難しいことではあるがー、世界は日本への賛辞を惜しむことはないだろう。

独り言:

無理矢理な因果関係だがね。
リビア攻撃を主導したフランスは、原発大国で、80%の電気は原発が作っている。
その国が、原発危機が起きてから数日後に、世界有数の産油国に対して軍事行動を起こした。
はてさて。