2011年3月6日日曜日

勝てば官軍負ければ賊軍。メディアだけは常勝。

エジプトのジャスミン革命でムバラク大統領が辞任する時までの過去10年間で、エジプトの独裁を批判したことのあるメディアが日本に一つでもあっただろうか。
カダフィ大佐の核開発放棄を称えた新聞はあったと記憶しているが、カダフィ大佐の権力の私物化を批判したメディアが日本に一つでもあっただろうか。

今回の一連の中東の大騒動についての報道をみるにつけ、本当にメディアというものはその不可侵性(朝日新聞を批判するのは産経新聞くらいだ)を盾にして分かりやすくて腹に落ちやすい、言うなればパックに入った魚の切り身のような「ニュース」を新聞やテレビニュース番組で大衆に届けるということをしている。それで年収千数百万円を稼いでいる輩が沢山いる。

彼ら自身がここ数週間ずっと報道しているのだが、チュニジアやエジプトやサウジアラビアやイエメンやバーレーンなどの中東の国々において独裁的権力が数十年に渡って支配を続けてきたことは、誰もが知っていたことなのだ。
それなのに、革命とか民主化運動が起きた途端に、「民主主義を求める民の力はたった17日でムバラク独裁を打倒した」と賛辞を送っているのは、どうしても無節操の誹りを免れないだろう。
「世界はこれまでこれらの国の民の置かれた政治的・経済的苦境について報道することを怠ってきた。我々もその例外ではなく、その責任を回避することはできない」とでも真摯に言えないものかと思う。
大相撲の八百長にしても、鬼の首をとったかのようなあのメディアの高揚感といったらない。
「プロレスも八百長をしていた!」と読売新聞あたりが4月1日に一面で報道してくれたら、俺としては抱腹絶倒間違いなしの素晴らしいエイプリルフールのジョークなんだがね。

桃太郎の話じゃないんだから、ある国で独裁政権がまがいなりにも数十年にも渡って続いたということには、それなりの背景なり理由なりがあると考えるべきだ。俺が思うには、中東の場合はイスラム原理主義を封じ込めるために、世俗主義独裁が中東では必要だったのだ。必要悪として、必要だったのだ。

ニュース報道がドラマ化しているように感じるのは俺だけだろうか。善と悪をはっきりと区分して、メディアは正義の側にたって視聴者に分かりやすい陳腐な安物ドラマじみた「物語」を提供する。話し終えた最期に、「なんとかならないものなんでしょうか」とため息をつくあのニュース・キャスターの一言に一々苛立つ俺はそんなに短気なのだろうか?
大衆の側では、それが自分たちにも理解しやすいものだから(頭を使う必要がない)、それ以上自分で考えることもせずに、その説明を覚えては他人に知ったふうに話す。

どんな人にとっても、世界で起きていることを分かりやすく説明してくれる人というのは有り難いものだ。情報に対する餓えが強ければ強いほどそうだろう。
その「需要」に付け込む形で、営利団体としての巨大メディアというものを我々は育てたのだ。
複雑で多様な現実を正しく読み解くためには、時として相矛盾する物の見方をせねばならないはずだ。あるいは、人によって考え方や解釈が全然異なることだってあるだろう。それが議論を生むのであって、本来的な意味での民主政治の根本はこの議論に基づく。

我々は全員で痴呆症を患っているのだ。
我々にとって良いことに、全員が痴呆症なものだから、誰もが正常であると思える。
テレビは見てはいけない。ニュース番組さえ見てはいけない。
世界史と日本史をしっかりと勉強してさえいれば、世界で起こっているほとんどのことは事後的にであっても瞬時に正しく理解できるから、既成の情報に踊らされる必要は全くない。まことに学ぶべきは、歴史である。

独り言:

終身雇用は、賞味期限切れだ。
今日会社のセミナーで学生さん数十人と話してきたが、人生の一発勝負に挑む彼らの悲壮感はみていて可哀そうになるほどだ。
高度経済成長時代は、どの会社も成長する見通しがあったし、誰でもとりあえずは就職できたから、終身雇用が一番よかった。だが今は、経済のパイが国内にあっては縮小している。企業はこれから再編・統合という形で数を減らさざるを得ない。年金負担額も増える。そんな時代に、22歳とか25歳で人生の「勝ち組」「負け組」が決まってしまうのは、不公平に過ぎるし、人材に頼らざるを得ない小国日本がこれから発展していくために著しく非効率だ。何よりも、「22歳のときは優秀だった(優秀に見えた)が45歳の今はなんの価値も産み出していない者」が安穏と高給を貪るようなことがあってはならぬ。それは正義に適わない。自然法則に反する。
弱者を助けようとする優しさこそが、社会を滅ぼす愛であることを知れ。
プチ・ブルジョアどもの特権を剥奪せよ。もっとも、その「特権」たるや、特権と呼べるような代物ではないのだがね。