2014年5月24日土曜日

人間万人教育者論

組織を率いるということは、つまり人を育てるということである。
組織の栄枯盛衰はその人達に拠るところ極めて大であるから、人を育てる人はすなわち組織を成長させる人である。
だが、人を神ではない人が育てようなど言うこと、そう企むことさえが、人間たる自分の傲慢であるような気持ちは拭えない。
自分の内面をしっかりと睨み続けてきた人間であれば、自分という人間があるべきリーダー像からどれだけ隔たっているかを日々痛感せざるをえないはずだ。
だが、だからと言って、我々は互いに人を育て人に育てられて生きる必要があるが故に、どれだけ自分を見下そうとも自分の他者への影響というものを考慮することなく生きることは許されない。だから、自分を鍛え、教育することは、もはやただ自己の成長のためではけっしてない。そんな近視眼では世界のなにも掴み取れはしない。我々は、社会的存在たる人間であるが故に、自分を支えてくれる人間のために成長せねばならない。

「人間は、互いに肥やしである」

-河井継乃助

と、北新地のスナックで誰かが言ってました。

2014年5月17日土曜日

平和憲法の口語的解釈

「日本人は平和憲法の歯止めがないと自衛とか集団的自衛権だとか言って侵略をはじめちゃう暴力的な国民なんです。だから私たちにはこの憲法が必要なんです。でもみてください、お陰様で私たちは半世紀以上戦争と無縁でしたよ。だからほら、憲法9条にノーベル平和賞をいただけませんか。あ、そうそう、外国のみなさんも私たちと同じように、すぐ自衛だとか言って戦争ばかりする野蛮人なんだからはやく日本を見習って平和憲法を導入してくださいね!」

2014年5月9日金曜日

生命をデザインする技術

今日は、父の話から生命倫理と保守主義のことについて考えてみたいと思う。上空10,000mでのプレモル一缶後の思索というには足りぬ思索だが、ご容赦願いたい。

俺は何人かの友人などに、我が父を「偉大なる平凡人」と言ったことがある。独創的であることとか人と変わっていることとか個性的であることとかに恐らくは生涯一度も関心を持ったことがないような、ジーパンを断固として履かぬ昭和一桁の生まれか?と見間違うような男が我が父である。
「地に足のついた人」というが、この人の場合は地に足がつくどころか、踵から土中深くまで根が生えてしまっているような、そういう趣がある。しかも意識してそうしているというよりも生まれながらにそうであるような。

この親父と先日晩飯を食いながら話しているとき、話が再生医療の話になった。ノーベル賞をとった京都大学の山中教授のIPS細胞とか話題になり過ぎの小保方さんのSTAP細胞などのことだ。

親父はざっくばらんにこう言う。

「人間、生まれてきて、成長して、歳をとって、普通に死んでいく。それが当たりめえ(当たり前)のことじゃろうにのぅ。自分の内蔵を新しゅう培養して作ってそれでふりぃ(古い)内蔵と取り替えて長生きするじゃあゆうてから、誰か"なんかおかしゅうねぇか?"と言わんもんかのう?わしにゃあ不思議じゃのう。」

はっとした。言われてみれば、もっともな話だ。別に親父のいうことが正しいという意味ではなく、「この論点は確かにあるよね」という意味で。

例えば、今の遺伝子工学の知見と技術では、機能しなくなったある内蔵の器官を新しくするために、その人の口内の細胞から培養したIPS細胞から当該器官を作って豚の体内で培養し、これをその人の腹の中の古い器官と取り替えるということはすでに可能であるそうな。そしてこういうことを実現しようと、あるいはこれを商売の種にしようと、ある人は誠心誠意「人々の幸せのために」と思って研究開発を続けているだろう。
確かに、様々な病気を抱えて生きている人が世には沢山いるから、こういう技術の発展が多くの人に幸せをもたらす可能性があることは否定し得ない。
だから、そのこと自体に文句を言うものではない。

しかし、「ジブンノナイゾウヲブタノタイナイデバイヨウシテ、フルイナイゾウトトリカエル」ということを、我々人間が行なっていいのか?どこまでであれば我々は命を作り変えることを許されるのか?という議論は、全くといっていいほどメディアで耳目にしない。
さらに再生医療から遺伝子工学に話を移して先走って言うならば、セックスをして子供を作るということが「蛮行」だと言われる時代さえ、そう遠い未来のことではないかもしれない。どんな性質や遺伝子配列を持つ子供が誕生するか、両性のセックスによる受精ではコントロールしようがないからだ。
九州大学の中山教授は、「文芸春秋」最新刊のなかで、IPS細胞で卵細胞を大量に作成し、試験管内で精子と受精させて一定期間培養してからその「全遺伝子配列情報」を読み取って、好ましくない性質を持った胚を捨てて、例えば「容姿端麗頭脳明晰運動神経良好」な遺伝子を持つ胚だけを母(代理母?)の子宮に移植するということさえ将来は可能になり得るという。これに素直に親指を立てて「イーネ!」と言う人はどれだけいるのだろうか?
2050年頃には、独身の一人娘が精子バンクから「高品質・高性能」の精子を購入することや受精卵のより広範な遺伝子スクリーニングを行うために親が資金提供によって娘を援助するなんてこともあるのだろうか、とも思う。
これを思うと、「婚活」に励む女性が男の学歴や年収などを「スペック」と呼んで値踏みしている現在が、牧歌的なほどにのどかな時代に思えてくる。年収は自分の運や努力でかなりの程度変わるものだから。

良くも悪くも、我々が向かっている未来はこういうものである。
すでに都内の多くの病院が遺伝子スクリーニングを受けませんか?とかなり派手に広告を打っている。
結婚するために公的に保証された遺伝子スクリーニングの書類が必要になるのも近い将来のことだろう。

親父の上の言葉に象徴的に現れているものは、三つある。すなわち、

1.過去に対する敬意
2.急速な現状変更に対する健全な懐疑
3.自然、つまり死に対する謙虚

恐らくこういうことを非言語的な長年にわたるコミュニケーションのなかで受け継いできたが故に、俺は保守主義というものを自分の思索の核として持っているのだと思う。
今にして思うが、生活体験と全く無関係に獲得される思想は、紛い物であろう。
保守主義の根本精神というものは、土着の泥臭い生活意識に根差した庶民の「常識」であると思う。いみじくも、親父の上の発言に、俺はG.K.チェスタトンのあの頻繁に引用される警句を思い出した。

「狂人とは、理性を失った人ではない。狂人とは、理性以外の全てを失った人である」

2014年5月8日木曜日

和食と武士道〜消えゆくもの

新渡戸稲造は、武士の時代がまさに終わろうとしていたその時に、恐らくは日本人が現在までに書いた英語の本のなかで最も美しい英語の文体で、「武士道」を書いた。それは、アメリカを中心に世界の多くの人に読まれた。
いま、日本に新渡戸博士が言ったような意味での武士道を見出すことは困難であると断言したい。昔を美化して今を卑下したくなるのは我々の常であるが、我々はかつて武士が生きるための規範として持ち続けた武士道という特殊な道徳律と実践哲学を、すでにそれ以外の何者かで代用して済ませている。例えば効率性とか、損得勘定とか。まさに商売人の俺やな...

少し前に和食が世界遺産となった。このことは、俺に上に述べた新渡戸博士の「武士道」を想起させる。

今や我々日本人のどれくらいの割合の者が、丁寧に鰹節や昆布で出汁をとった味噌汁を日常飲んでいるだろうか。都内の飲食店は客の舌に訴えるために、ひたすら味付けを濃くし、食品の保存期間を長くしてコストを下げるために化学調味料や保存料まみれの食事をなんの疑いもなく提供し、我々は豚のように美味くも不味くもない中性的な没個性的な料理を囲んでは酒を飲んでいる。コンビニの焼きそばを食べて舌が痺れるほどの化学物質に驚愕したことがある人もいるだろう。

そんな我々日本人の一般大衆にとって、まっとうな和食=日本食というものは「和」「日本」という名前はついているが、すでにどこかノスタルジーさえ感じさせるものになっていはしないか。俺は、明治の時代の日本人が、ちょんまげと日本刀に対して抱いたであろうような感慨を「和食」という言葉のなかに見出さざるを得ない。
武士道も日本食も、それが日本人の生活のなかに確固たる根を持ち生活のなかにそれが溢れていた時には、我々はわざわざそれを生活から引っ張り出して対象化して語り論じる必要なぞなかったのだ。全てのものは、ふんだんに存在する時には存在を意識されないものだ。

街中に溢れるどんな物を使っているか全然不明の1500円のステーキ定食や500円のチーズバーガーセットを毎週のように食べるより、俺は年に一回本物の寿司と千屋牛の炭火で焼いたステーキを食らう。
それ以外は毎日枕崎の鰹節で出汁をとった味噌汁と米と納豆と魚と漬物を気合いを入れて一噛み一噛み味わって食うとりゃええのだ。

ちなみに我が娘のおやつは、小魚やホウレンソウたっぷりの小型握飯、ゴマ、鰹節、ブロッコリー等である。たまに蓬餅なんかも旨そうに食べている。勘違いして欲しくないのだが、両親はこれを全く強制していない。いつからか、棚のゴマを引っ張り出しては小さな人差し指に一粒ずつゴマをつけて食べるようになっていただけのこと。
コンビニの食べ物には寄り付きもせん時代錯誤な娘になるだろうが、奇跡のような美しい肌の女性になるだろう。

現代的食生活、ひいては現代資本主義産業社会へのこのチビっ子の小さな抵抗ーDefianceは、ここから始まる。そこに、革命の萌芽よあれかし。

2014年5月7日水曜日

近所の狛犬様



日蓮の教えである、「一天四海皆帰妙法」。世界の最終的な宗教的統一をなすのは日蓮宗であり、日蓮を奉ずるものは世界に「南無妙法蓮華経」の教えを広めよというのがここに刻まれた言葉の意味です。
石原莞爾の「世界最終戦争論」にも大きな影響を与えたに違いないこの言葉。

〜菊との散歩の道すがら

2014年5月5日月曜日

草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)

コーヒーを片手に高梁川へ。誰もいないはずが、俺が座った岩場の5m向こうに体長1mぐらいの猪が骸骨になっていやがる。

猪曰く、「いやー、船穂の山に長いこと暮らしとったんじゃがねぇ、死ぬるんは独りがええじゃろうと思うてわけえ時分から好きじゃったこの河原に少し前に降りてきたんじゃ。」
山桜、応えて曰く、「やー、そうでしたか。あまり見かけない人だから驚いたな。まぁしかし、僕も遠からず骸骨になるはずですからねぇ。お互いまた生まれるのも倉敷がええですね〜」

なかなか得難い出会いだ。
頭蓋骨を持って帰りたかったが家に置けないだろうからやめた。

春の高梁川の川面を優しく撫でてサラサラと心地よい音を奏でる微風は、猪の骸も俺という人間も区別してはいないだろう。
昂ぶることも気負うこともなく悠然と風に吹かれていればよい。猪の骸の骨の間を風が通り抜けるのと全く同じように、風は俺にも平等だ。

山県有朋銅像 in 萩市



高さは4mを越える堂々たるもの。
戦後日本で戦国時代や幕末以外の軍人がこんな欧州や米国のように堂々たる像になって街中にあるのは極めて稀だ。
山口県人、わけても萩市民には英雄なのだろう。
「長州軍閥の長老」「日本陸軍の父」などなど。

2014年5月4日日曜日

過剰の悦楽〜高校野球


高校野球に充溢するこの無駄!この過剰!

-無駄に短すぎる坊主頭、五輪刈。
-マスカット球場の右翼左翼からこだまする大音声の意味不明なほど大迫力の応援。
-生徒以上に気合の入った一目でそれと分かる強豪校の父兄連中。

こんなものがなに一つなくとも高校野球は高校野球として存続していくであろう。だが合理性と論理では全く説明ができぬ、カタギではない世界に身をどっぷり浸した経験とそこで味わった屈辱は、彼らがやがて人間として大きく成長していくための基礎になる可能性を秘めている。

関西高校の17番の高橋君はよい選手である。
三塁ランナーだった彼は、浅いライトフライでタッチアップで本塁へ生還した。その際に果敢にヘッドスライディングで本塁突入したものだから、膝上から胸まで真っ黒になった。彼は、興奮した審判が"せぇぇえふっっ!!!"と叫ぶそばで、土をふるい落とすでもなく冷静に本塁と一塁の線上に転がっていたバットを拾いに走ったのだ。激しいプレーのなかのこの冷静さ。勝つチームには必ずこれがある。昂ぶっている強いチームはない。
こういう選手が17番を着けているということは、やはり関西が昔も今も変わらず強豪校であることの証明であろう。
今日のMVPは関西の3番、攻撃の主軸を務める右翼手・土井君。変化球も速球も、右へ左へと華麗な打撃を見せてもらった。

これで俺が入場料として支払ったのは500円。Yankee Stadiumで観戦したヤンキース戦の66分の1...。
素晴らしいValue for Money也!

2014年5月3日土曜日

商売人と軍人

「戦争は、政治におけるものとは異なる手段を以てする政治の延長である」

ーカール・フォン・クラウゼヴィッツ

「商売は、戦争におけるものとは異なる手段を以てする戦争の延長である」

ー山桜

であるが故に、商売を行う者が儲けられぬということはすなわち敗北であり、それが究極的に意味するところは我が軍の全滅である。
この商売の当たり前の哲理を体得できるかどうかが雇われ人として生きるか組織内反乱分子として生きるかを確定する。

野球に言うアウトローって、outside low、つまり「外角低め」なんだろうが、out law、つまり「法の外に居る者」とも読める。

2014年5月1日木曜日

電車独り言

◯「勇気と感動をありがとう!」という人に問いたい。あなたはその勇気でもって何か昨日とは違うことをやったか?やろうとしているか?
それとも一瞬だけアスリートにテレビ越しに感情移入して気持ち良くなっただけか?自分はつまみをかじりつつビールを飲みながらソファに座って?
勇気や感動を「消費」してそれがタダであることに感謝する阿呆。

◯「捕鯨は文化だ」という時の文化とは、具体的には何なのかよく分からない。恐らく、この場合「文化」という言葉は非常にNationalisticな意味で使われていて、意味するところは「捕鯨は日本に固有の伝統的文化だから外国はとやかく言うな」ということだろう。
だが、現在日本が行っている捕鯨は「調査捕鯨」である。まさか「調査捕鯨が日本の文化だ」と言うわけにもいくまい。

◯イギリスでは本は無税。消費税率20%のフランスでも新聞への税は2.1%、本は5.5%である。
例えば、せめて学生には本の消費税はゼロにするなどしてもよかろう。
もっとも学生はもはや本を読まぬらしいが。

◯憲法九条にノーベル平和賞を!と言って活動している人がいる。
もしそんな名誉なことになれば、我々日本人は平和憲法を守り抜くために断固たる軍備増強を行わねばならんだろう。
というのは冗談だが、「この素晴らしい平和憲法の素晴らしさを世界中の人々に知ってほしい!」という願いは、俺には「うちの野菜カレーメッチャ美味いから日本中にこのレシピを広めたい!」というのとあまり変わらないように思える。