2011年1月30日日曜日

正統性と民主主義~中東政変に思う~

エジプトでの民主化を求めるデモ隊と警官隊の対立が過激化している。すでに死者も100人以上に上っている。当局は首都カイロでのインターネット接続を封じた。カイロ中心部には現在軍が戦車と装甲車を展開している。
エジプトという国の過去半世紀の歴史は、国民の軍に対する信頼を醸成してきた。自由将校団の中心人物であったナセル元大統領による1952年のクーデターによって1953年に共和制に移行、その後の一連のイスラエルとの戦争を経て国軍は、国家鎮護の要たる地位を得た。
現在のムバラク大統領を筆頭に、歴代4人の大統領は皆軍の出身だ。この点は、国軍への支持が圧倒的なタイ王国と似ている。

犠牲者まで出すほどに先鋭化しつつあるこのアラブの大国の政変に、いよいよ国際社会は憂慮の意を表明し始めた。ダボス会議での話題はエジプトの政変に集中し、米国のスティーブン・チューエネルギー庁長官は、石油価格高騰の可能性に言及し、またイエメンなど周辺国でのデモも勃発し始めた。なによりも、北を向いてはイスラエル、レバノン(ヒズボラ)、パレスチナ、西を向いてはイラクにイランという「問題国家」を多く抱え、世界でも極東アジアと同じくらいに火種がブスブスと燻っているこの地域で、自らを「アラブの盟主」を以て任じるエジプト国家が弱体化し不安定化することの意味は計り知れない。

今最も神経をぴりぴりさせているのはアブドラ・サウジアラビア国王だろう。
この国は、アラビア語の国名を直訳すれば「サウード家のアラビア王国」を意味する。
シナイ半島と紅海によってエジプトと繋がる世界最大の産油国は、国名の通り、中世欧州的な絶対君主制国家である(北朝鮮民主主義人民共和国というバカげた名前より遥かに正直で好ましい)。
何度もこのブログで言ってきたが、自由・民主主義の本家たるアメリカの中東最大の同盟国であり、最大の石油輸入先は、この時代遅れも甚だしい絶対君主制国家である。

独裁という政治体制は、中国を見れば明らかだが、有利な点を多く持っている。
独裁権力というのは、選挙や反対派との調整などの手筈を限りなく少なく、速やかに権力の意思を実力(=警察力と軍事力)を背景に実行できる。いみじくも、今朝の日経朝刊に、先日日本国際の格付けを下げたS&Pの小川隆平ディレクター(なんじゃいぢれくたーって)が、「(日本政府の財政健全化の目標は)あってないようなものだ。政権が代われば『誰が言った目標なのか』と言うだろう」「3年間で3回も選挙に勝たないと国会をコントロールできない日本の政治制度そのものが財政再建にはネガティブ」と言っている。

では、独裁がいつもどこでも素晴らしいものかというと、そんなことはない。
なぜなら、それは、多くの場合統治の正統性について疑義ありとされるからだ。
民主主義の最大の長所は、「選挙民による選挙により選ばれた政治家が、選挙民の付託を受けて政治をいわば代行する」という擬制が成立していることだ。つまり、どんな政権も、形式的な民主主義の手続きに従う限り、その統治の正統性はまず肯定される。それがどれだけ機能不全に陥った末期的な政権であったとしても、その政権をクーデターによって打倒しようという動きが日本でなかなか出てこないのは、これが理由と考えてよい。日本の政権がどれだけ阿呆でも、そこではこの政権を批判する国民が国会議員となり首相となる可能性が保証されている。このことの意義は小さくない。

独裁権力にとって、検閲やインターネットの規制などによる情報の遮断やデモ・表現の自由の制限などと同様に大切なのは、即物的な国民生活の保障である。つまり、衣食住が充足され、適度な娯楽が提供されていれば、人間は飼いならされる。
中東に世界の70%の原油が埋蔵されていることと、この地域に独裁国・非民主主義国家が居並んでいることは全然偶然ではない。例えば、原油以外にほとんど何の産業もないサウジアラビアの一人当たりGDPは、日本や韓国などにはまだまだ及ばないものの、原油価格如何によっては$20,000近くにまでなり、これは台湾と比べても遜色のないレベルだ。もちろん世界第2位の経済大国となった中国などは比べ物にならない。
同じ独裁国でもアジアの東の北朝鮮が、サウジアラビアなどとは異なり無茶苦茶な瀬戸際外交を続ける必要があるのは、まさにこれが理由だ。あの国には富がない。その代わりに敵が必要なのだ。敵と戦う将軍様ーというわけだ。

こう考えるならば、独裁権力が、その富を国民に配分できなくなったときの脆弱性というものは民主的に選択された政権の比ではない。粘り腰はきかない。
これから食糧・エネルギー・資源価格の高騰が、世界的なインフレという形で進行するだろう。
外貨準備が比較的豊富な中東諸国が、すぐさま政治経済的な危機に陥ることは考えにくい。だが、世界的にも膨大な若年人口を抱え、裾野の広い産業を持たない中東独裁国家にとって、これからの5-10年は常に危機をはらんだ政権運営を迫られよう。

今回のチュニジア、エジプトの政変は、これまでの中東諸国の危険な国家群を支配してきた権力構造の”終わりの始まり”ないのかもしれない。


2011年1月29日土曜日

また妄言...

S&Pが日本の国債の格付けを一つ下げ、ダブルAからダブルAマイナスとした。
これについて、管首相がのたまった。

「そういうことには疎いので」

知らないことがあるのはいい。
首相は全知全能であるなど誰も期待していない。そうある必要もない。

だが、日本のリーダーが自国の国債を大手格付け機関が格下げしたことについての感想を聞かれて、
「そういうことには疎いので」と言ってしまえる言語感覚は、政治家として常軌を逸している。異常だ。
あの人は日本の国債の信用について、何かしら考えるところはないのだろうか。

多くの海外メディアでも言われているが、この格下げは日本の財政状態如何によるものというよりも、いよいよ停滞してデッドロック状態の日本の政治の指導力に対する不信感と警戒感の表明として理解すべきだ。上の首相の発言は、面白いことにこれの証左となっているではないか。

Had I been, 三谷原首相 would have said as follows:

「現在の我が国の財政状況からすれば、残念ながらこの格下げに批判の余地はない。だが我々の方針に変わりはない。財政再建と経済成長を実現することは、我々の不退転の決意だ。」

常識的でありきたりだが、ヘナチョコサラリーマンの俺でもこれぐらいはパッと言えるぞ首相。
しかし、管首相の顔付き、「決意」という言葉が本当に似合わん。

寒いから箱根でお風呂入ってこよっと。
夜は寮の食堂で日本代表の試合じゃ。

Bon weekend!




日の丸・君が代訴訟

日を毎日読むべきだなと思うのは、こういう記事を読むときだ。

「日の丸・君が代通達合憲」

詳しくない方のために引用する。(朝日新聞1月29日付朝刊一面)

入学式や卒業式で、日の丸に向かっての起立や、君が代の斉唱とピアノ伴奏をしなければ処分するとした2003年の東京都教育委員会の通達を巡り、教職員約400人が従う義務がないことの確認を求めた訴訟の控訴審判決が28日、東京高裁であった。都筑弘裁判長は、一審・東京地裁が、通達は思想・良心の自由を定めた憲法と「不当な支配」を禁じた教育基本法に違反して無効だとした判決を取り消し、通達は合憲と判断した。
一審が都教委側に命じた1人につき3万円の慰謝料支払についても請求を退け、教職員側が全面敗訴した。教職員側は上告する方針。
教職員側は、天皇制をめぐる歴史観などから起立や斉唱を拒否した。しかし、高裁判決は、「『日の丸・君が代は国家神道の象徴である天皇を賛美する』という考えは誤りだ」という発言を強制するものではなく、個人の歴史観を否定しないとした。さらに、全国の公立高校の式典やスポーツ観戦では一般的に起立・斉唱が行われていることを例示。「通常想定され、期待もされる行為で、教職員が特定の思想を持つことを表明するような行為ではない」と述べ、憲法19条が保障する思想・良心の自由の侵害にはあたらないと判断した。
さらに「日の丸・君が代が国家神道と不可分な関係にあるとは認識されていない」とし、キリスト教徒である教職員の心境の自由も害さないと判断した。

3面の社説ではこうだ。後半部分を引用する。

判決理由からは、国民一人ひとりが大切にする価値や譲れない一線をいかに守り、なるべく許容していくかという問題意識を見出すことはできない。
「誰もがやっているのだから」「公務員なのだから」と理屈を並べ、忍従をただ説いているように読める。
それでいいのだろうか。
私たちは、式典で国旗を掲げ、国家を歌うことに反対するものではない。ただ、処分を課してまでそれを強いるのは行きすぎだと主張してきた。
最後は数の力で決まる立法や行政と異なり、少数者の人権を保護することにこそ民主社会における司法の最も重要な役割がある。最高裁、高裁とも、その使命を放棄し、存在意義を自らおとしめていると言うほかない。
ー中略ー
今回の高裁判決が、こうした息苦しさを助長することのないよう、社会全体で目を凝らしていきたい。

阿呆である。有名大学卒業証書付きのサラリーマン・ジャーナリストが、既得権益にしがみついて毎度のように駄文を社会に垂れ流している。それを買っている俺だからどれだけ批判してもよかろう。なんちて。

法学士なのに憲法学の議論をかなり忘れてしまったのだが、まず、「内心の自由」は「それが”内心”に留まる限りにおいて、”絶対的に”保障されるべき」ものであるはずだ。
つまり、「内心」が行動に表れる場合、かつそれが公的な事柄に関わるものであるならば、それは「絶対的に保障される」わけではなく、一定の制限を受ける。
加えて、少数者は少数者であるという理由だけで保護されるべきではない。
多数者が絶対に正しいというのと同じぐらい、少数者=マイノリティーを保護されるべき被抑圧者とみなして公権力の正当な行使を批判することは、戦後日本の「反体制派既得権益者群」の常套手段であった。
そもそも、「国民一人ひとりが大切にする価値や譲れぬ一線」が、式典における起立での君が代斉唱で破壊されてしまうというのはどういうことだ。分からん。
「都から給料をもらっておいて、都の公式の式典で日の丸に敬礼せんとはなにごとだ?」などと低俗右翼の批判はすまい。
だが、素朴な疑問として、それほどこの日本を嫌悪するものが、日本の未来を担う将来の国民を教育する立場にあるというのは一体全体どういうことだ?思想的な葛藤に苦しんで夜も寝られんのじゃないかと心配してしまう。
クジラの捕鯨船に乗りながら拡声器で「捕鯨反対」を叫ぶのはやめよ。
あなたには日本を捨てる自由がある。ユニクロと同じように。別にあなた以外には日本の未来を担う教師たるべき者は沢山いる。

これは理屈の話ではないから、論理でもって俺は彼らを論難する意図を持たぬ。
これは、この日本社会が、どういう基盤の上に成立している共同体であるかという根本的で感情的な議論に最終的には行きつく問題だ。それは、国家社会をゲゼルシャフト=利益共同体とみるか、ゲマインシャフト=感情共有体とみるかの違いによる。

先週、韓国海軍の特殊部隊が海賊を射殺して自国船を救ったという報道があった。
かたや日本では大新聞が、「日の丸と君が代を強制してはならない」とほざいている。
国家の姿勢=姿の勢いの違いは明らかだ。
ベネディクト・アンダーソンが言ったように、国家は想像の共同体だ。だが、我々が生みだしたものの中で、一つとして我々の想像の所産でないものが史上あっただろうか。
原始共産主義社会、空想的社会主義、科学的社会主義、スターリンのソ連共産主義、アメリカの自由・民主主義社会・・・すべては人間の脳みそと物語が作り出したものだ。それは、すべて想像から、人間の意思に源流を持つ。
だから、日本国家は君が代を持ち、日の丸を持つ。我々は、生まれながらに日本人ではなく、日本人に”なる”のだ。
そして、俺はこの祖国は(断じて最近の”政権”のことではない!)は、忠誠に値する国家であると信じている。いや、信じたいのかもしれない。

国家といい家族といい、「有り難い」ものなのだ。
すなわち、「有ることが難しい」ものなのだ。
国家はその一体性を堅持し皆が幸福に暮らせるように絶えず努力せねばならんし、家族は顔を合わせて食卓を囲んで話をするべきだ。それは放っておけば崩壊していく儚いものだ。
日本人は、国家がなくなるということは、本当のリアリティをもって想像できないのだ。
この国がなくなったことは事実上ないし、国土で他国との戦闘が行われたこともない(元寇?)。おまけに腐った平和が65年も続いた。
それが欧州大陸の諸国や中国となると、全然違う。
彼らにとって、国家とは、育み、守らなければ消滅するか滅ぼされてしまうものだ。実際に彼らの歴史は侵略し、侵略され、滅ぼし、滅ぼされの血塗られた歴史だ。現在のEUを観ても、「まぁ数百年ひたすら殺し合って最終的に大戦争を少し前に二回やったんだからね」と思わされる。
そんなわけで、彼らにとって国旗に対する敬礼は紳士淑女としての最低限度のマナーである。

長くなった。
とりとめのない文章だが、載せておこう。



日本代表と日本ー希望と幻想ー

たまプラーザのスターバックスでレッツノートを叩いている。
Ipadを買おうかと思ったが、京都時代に毎日メッセンジャーバッグに入っていた”let us note”はまだまだ使えるから大事にしようと思う。無線ルーターを部屋に忘れてしまったのでEvernoteに書き残して帰宅してから投稿することにしよう。

26日の深夜、寮の食堂でサッカー日本代表の試合をみていた。
アジアカップ準決勝、対韓国戦である。
いつも通りの「死闘」だとか「運命の~」だとかいう言葉があまり多くなかったのがよかった。
試合は皆さんご存じの通りで、韓国をPK戦で降した日本は今日か明日か忘れたがアジアカップをかけて洪水で大変なオーストラリアと戦う。

サッカーをよく知らない。生でろくに観戦したこともないし、自分でプレーすることは全くない。
にもかかわらず、この試合は面白かった。
日本はボールをもったいぶって最後列のラインで横に回すということをせずに、どんどん前へ、つまり敵のゴールに向かってまっすぐにボールを運び、そして駆けた。献身的に走り回る選手たちのチームでないとできない、観ているほうが走りだしたくなるようなプレーが随所にみられた。
ゴールを奪いにいく、そのための攻撃。その意思が明確であり、その方法論が共有されている軍ほど強力な戦闘組織はない。
最短距離で目標に攻撃力を指向し、スペースを見つけて敵よりも迅速に機動する。軍隊における戦術論のシンプルさとサッカーにおけるそれは同じだ。
個々の選手で言うと、左サイドを素晴らしいスピードで駆けあがって後半同点に追いつく一点目を演出した長友などは、彼を観るためだけにスタジアムに足を運ぶ価値があると思った。

今回アジアカップを獲得しようがしまいが、アジアのサッカーにおける日本の地位は変わらない。
すでにアジアにおける日本代表というのは、韓国と並んで頭一つ抜け出ている地位にある(もっとも今大会での何度かの苦戦が示すように、実力は伯仲しているが)。
で、アジアを超えて世界に出た時、日本の実力はせいぜい昨年の南アフリカW杯での結果の通りなのだろうと思う。
つまり、世界の16位~25位程度ということだ。
経済において第三位の日本のサッカーは、世界経済で言えば韓国のはるか下、恐らくイランとかタイとかベネズエラと同じくらいだろう。
だが、だからこそ、日本代表のサッカーは、既に日本が失ったなにかを感じさせる。

それは、希望だ。

村上龍は、かつて「希望の国のエクソダス」のなかで、主人公であるポンちゃんに、国会でこう言わせた。
あまりにも有名なセリフなので、恐らく皆知っているだろう。

「この国にはなんでもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない。」

作家、物書きの才とは、いつの時代も現象を分析することではなくて、そこから意味を汲み取り表現する力のことだが、この平易な小学一年生にもすぐに理解できる日本語で、やがて来る(もう来た)日本の将来を言い当てた村上龍は、矢張り異才である。
(俺のようにいつも冗長にあーだこーだと言っている話が長い奴はだいたいたいしたことない、かもね)

日本代表の各選手たちは、日の丸を背負い、国を代表して戦うという栄誉に浴している。
だが、彼らの生活は、日本という国に依存しているわけではけっしてない。
彼らはあくまで個として自らの肉体と技術だけを頼りに、日本で、また多くは世界に出て強力な敵と戦っている。
生まれた場所や国籍や名前や肌の色が全く(であってほしい)考慮されない、平等だが果てしなく厳しい大自然の生存競争のなかに身を置いているのが彼らだ。
彼らの多くは、例えば本田圭佑がよく言うように、強い上昇志向を持っている。彼は今モスクワでプレーしているが、やがてはマドリッドの世界最大のクラブチームで数十億円を稼いでみせる、そういう野心を持っている。それは、「世界に自己を認知させる」という、マズロウの馬鹿げた五段階欲求説を無視した、人間だけが持つ、形而上の意思だ(自ら死闘に挑むものは、生命の安全よりも名誉と誇りを重んじていると言うことに一体なんの誤りがあろうか?そしてそういう人間が存在したことを以て我々は自らの歴史の栄華としたのではなかったか?神風特攻隊を想起せよ)。
もっと上手くなりたい、もっと強くなりたい、もっとたくさん稼ぎたい、もっと強い奴を打ち倒したい。
本田圭佑に、どこぞの頭のなかまで真っ白な政治家のように「一番じゃなきゃだめですか?」と尋ねようものなら無回転のブレ玉が120kmで飛んで来て炸裂しそうだ。

人間の幸福にとって、恐らく「いまどうあるか」ということよりも「未来において自分はこうある」という希望、それへの意思のほうが決定的に重要なのだ。どれだけ「この瞬間のみを生きる」と禅者が言ったとしても、彼は恐らく明日の自分の存在を予想しているだろう。

日本代表のサッカーには、希望がある。
世界のトップ5位のブラジル、スペイン、オランダなどの一等国を、やがて打ち倒すのだという意思であり、希望だ。W杯に出ることが普通のこととなり、欧州リーグで多くの選手が活躍するようになった今、これはもはや単なる願望ではない。
それは、大日本帝国も、平和主義日本もかつて持っていて、今は失い、今度は中国やベトナムの民に譲り渡したものだ。
我々日本人はーかつて日露戦役を日本人が文字通り国を挙げて応援し、その勝利に酔いしれたようにー、自分たちの国のサッカー代表に、かつて持っていた希望という幻想を重ね合わせているのかもしれない。もはや、サッカーというゲームのほかに、日本人が一体となりえるような「大きな物語」は存在しない。

現在の日本にあって、これを読んでくれているほとんどの人が、恐らくある程度まで生活の保障がされた場所において生活の糧を得ているはずだ。それが悪いことだとは言わぬが、それが我々にもたらす悪影響は銘記されるべきだろう。
それは、我々から生物本来の強さを奪う。いや、生物本来というの正しくない。生き残り、子孫を残すべき強い個体の強さだ。
幸せを目指して、豊かさを目指して、日本は頑張った。だが、豊かになったが、幸せはどこかへ飛んで行った(今豊かさも飛んで行こうとしている)。
甲子園に行くことよりも、甲子園での勝利のために夜な夜な今井ワールド(御免、城東野球部にしか分からない)で血管を浮き上がらせて70kgのジャンピング・スクワットをしていた時のほうが、実は人間が生きるべき豊穣なる時間であったのかもしれない。

マーク・ローランズも「哲学者と狼」でたびたび言っているのだが、幸せを軽視する勇気を持とう。
それは幸せな今を放棄することではななくして、ただ俺に現在の安定と安寧に充足せず、人生においてなすべきことへの挑戦の可能性の道を啓(ひら)くものだ。
そして、幸せであろうがなかろうが、ひたすら戦い続けるという意思を以て、自らの生命と人格の華としよう。恐怖から逃げずに敢然と戦い、記憶されることもなく散った幾千万の英霊のことを俺は絶対に忘れない。祖国から遠く離れたジャングルで、どれだけ無残に死んだとしても、その死に(生に)自らの意思が凝縮しているならば、また他者の期待が芳醇な香りを放っているならば、その死は「死にゆく者」の祝祭としての死であるだろう。
200年の後世において、俺や貴様を評価する人は、俺が幸せであったかどうかを判断の基準にするだろうか?
否、そうではなく、俺や貴様の意思と生きざまと行動のみで判断してくれるはずだ。
世界は、俺の幸せなど求めていないし、俺は世界にそんなもんをよこせとは言わぬ。
ただ、俺は欲する
狭く険しい茨の道であるが、最も正しく、どこまでも未来へと続く悠久の道を。
その道を俺は、仲間と共に血反吐を吐きながら団子虫のように進むであろう。

人生に必要なもの、それは幸福でも金でもなく、壮烈な物語ただ一つである。


2011年1月26日水曜日

渋谷の奴隷

異様な光景が、街の中に溶け込み誰もがその側を何も感じることもなく通り過ぎる。
人間の看板のことだ。
東京の都心では、人間が看板を抱えてある場所にじっと立っている(座っている)、そういう場面に出くわすことは普通のことだ。誰も驚きはしないし、最早都心の雑踏の風景の一部になっている。

俺も一人の労働者だ。マルクス風に言えば、俺自身の労働力以外に売る物を持たない。つまり俺は労働商品として資本家に搾取されている、とまぁ、こうなるのだろう。
だが、たまに深夜2時のタクシー帰宅があろうが、土日出勤があろうが、俺は資本家に搾取されているとは思わない。たまに期待されているとさえ傲慢にも思う。(たしかに投資家にとって商社のエネルギー部門は高い利潤率を期待できる数少ない投資先ではある)
俺の小さな小さな仕事のうちには、恐らく個人としての成長の可能性もあるであろうし、もちろん同じ職場や顧客との意思の疎通、対立、紛争、葛藤がもともと前提されている。その意味で、少なくとも俺が今関与している職場は、バラ色ではないとしても、極めて人間臭い、人間らしい仕事ではある。少なくとも資本の奴隷の仕事ではないと思いたい。俺は、あくまでも俺という人間として仕事をするなかで、失敗したり成功したりしている。

翻って、今この瞬間もこれを書いている渋谷のカフェのすぐそばで看板を持って真っ赤なウィンドブレーカーを着て路上に立っていたあの小さな女性はどうだろうか。

彼女がしていること=仕事は、「そこに立っていること」だ。
ザッツイットだ。ナッシングモアだ。それだけで”サンキューベリーマッチ”だ。
彼女は、看板なのだ。
彼女は、そこに立っているとき、彼女自身ではない。
彼女はモノになってしまっているのだ。
さすがに俺の仕事でもここまで底が抜けた没個人性はない。あなたの仕事もそうだろう。
あなたがいなくても明日も会社は何事もなく動くかもしれない。だが、あなたの後に来る人は、あなたよりも仕事がよくできるかもしれないし、できないかもしれない。完全に同じではあり得ない。
マルクスは、モノとしての「労働力」しか労働者は提供するものがないために、資本家の絶えざる搾取に遭うと言ったのだが、これにならって言えば、彼女はモノとしての労働力を提供するどころか、彼女自身がモノそのものになってしまっている。看板になってしまえばいいのだから、そこで失敗して叱られることさえないだろう。そもそもそこに人間間の意思の疎通が予定されていない。

おぉ!資本主義社会において、人間は看板になれるほど自由である!

恐ろしいことは、誰もそれに異を唱えたり怪訝の目を向けないことだ。まぁ、彼らをモノとして見ればそれも当然というべきか。俺はかなり異常なことだと思うのだが。
「彼らは合理的に消費カロリーが最も少ないアルバイトを選んでいるのだ」とでもいえるだろうか。
馬鹿げている。自分の意思が働く可能性がない仕事もアルバイトも遊びも人間交際も、すべて無駄と断じて構わない。だってそれは奴隷だろう。自分の意思に発しないすべての行為から、人間の成長が生まれることはない。自分の意思に元を発する大失敗ならば、数年数十年の後には偉大な教訓となって自分の肥しにさえなるだろう。

勘違いしないでほしいのだが、俺は、看板と成り果てた人=現代の奴隷に憐れみなど持ってはいない。
彼らは公権力から救いの手を差し伸べられるべきだなどとは思わない。
俺は、競争こそが生物としての人間の本性に合致していると思う。誰もが「日本に住んでいる」という事実だけで、最低限の生活を保障されるべきとするベースインカム制度の導入なぞ、まさにこの世界を天国にしようとして地獄にしてしまうくだらん努力の最たるものだと思う。というより、日本人は皆きちんと暮らせないとだめだが北朝鮮の民はそうではないという国粋主義なぞ唾棄すべきだ。ロールズの「無知のベール」の議論にはここでは触れずあえて粗っぽく言うが、ヨーイドンでスタートしたなら、どれだけ速く遠くまで走るかは個人の意思と能力の問題だろう。
言いたいことは、資本主義という我々が現在自明のものとしているものは、人間を看板にしてしまうほどに乱暴なものだということ、そして、人間が看板になっているのを見てなにも思わない人間というのは、馬鹿ではないとしても、この時代の日本に拘束され過ぎではないだろうか。これを世に近視眼という。
五万年前の人類も、350年前の江戸時代の町衆も、なかなか容易には彼女が看板になっていることを理解できないだろう。俺は理解できない。だから、正直なところ、資本主義に責任転嫁するしかないなぁ...という思いもないではない。

それとも、社会には、「看板を持って立っているだけなら楽に稼げていいな」と邪気なく考える人が存在するのだろうかね。
世には、理解不能なことが多い。まことに。


2011年1月16日日曜日

独り言

小学生のころ、反省文をよく書かされた。
ドッヂボールをわざと敵の顔面にぶつけたとか(疑わしきは被害者の利益に...)、ウシ蛙を授業中に女子生徒の頭に乗っけたとか、よくあるクソガキのかわいい仕儀に対して、大学でセクト闘争をしてきたのか知らんが小学校の教師どもは俺に自己批判の反省文を書けというのだ。
まこと遺憾ながら、当時の俺は文章で格好つけるということを知らなかった。本を全然読んでいなかったためです。
だから、どこにでもありそうなことを書いて、終わらせていた。
「A君は痛かったと思います。ごめんなさい。もうしません。」
「Bさんは突然大きな蛙を乗せられて気持ち悪かったと思います。ごめんなさい。もうしません。」
今ならば、今ならばだ。
けっこうおもしろい反省文を書けるような気がする。
いや、分からんよ。
でも、15年前よりは、「あぁ、この子はそんな気持ちであの子の頭に蛙を乗せたのか」と読者を感動させるような反省文がかけるかもしれないと思う。


「いつが最も格好良い自分でありたいか?」と自問した。
回答は、「誰にも見られていない自分が最も格好良くなければいかん」。
人と一緒にいるときに格好良くあるべきであるのは当たり前。
そうではないとき、つまり誰も見ていない時に、俺は何をしているか。それが大切だ。
だって、人前では目茶苦茶格好つけるのに、一人の時は油断しているという男は、最前線にたって上官も部下もいなくなったら一人で白旗掲げた投降してそうではないか。
一人でいるときにも、格好良い格好悪いを決めるためには、他者ではなく自己のうちに「美醜」と絶対的基準を持っていなければならない。格好良いか悪いかは、俺が決めるのであって、俺以外の何者でもない。そうでなければ、一人でいるときに最も格好良く在ることはできない。


今朝の読売新聞によると、昨年12月の韓国海兵隊への入隊志願者は、募集977人に対して3488人。競争率3.6倍(昨年は2.6倍)。
北朝鮮との戦争の蓋然性がひとまず低まったとはいえ、高度の緊張状態にある今、真っ先に敵の銃弾の中に飛び込んでいく海兵隊への志願者が増えたことを、中央日報などは、「我が国の若者は素晴らしい」と湛えているようだ。
だが、ここには韓国の日本と同等かそれ以上の格差社会というものが背景にあるのではないか?と思える。具体的な数字を出さずすまんが、あの国は言うまでもなく世界一受験競争が激しい国で、「いい大学」から「いい会社」(ポスコ、現代自動車、サムスン)に入れば勝ち組だが、そうでなければ負け組という構図がある。そういう中で、社会の下層にいると自任している若者が、国家の危機に立ち上がる!という正義感に駆られるという心象はよく理解できる。


俺がプロ野球選手だったとしよう。
大事な試合で完封勝利をあげて、ヒーローインタビューの御立ち台に呼ばれた。
「最後にファンの皆様に一言!」と言われたときに、俺が言うのは次。(あぁ妄想癖)
「えーと。別に僕を応援してくれなくてもいいです。応援されなくても野球を必死にやります。
なんだけれども、そうやなぁ、今日みたいに、また皆で僕らの試合を見に来て下さい。で、じーっと見ててください。今日よりもっともっとワンダフルな試合を、プレーを絶対に見せるから。ハリウッド映画や歌舞伎なんかよりはるかに面白い野球を見せるから。だから、楽しみにしててください」
「また応援よろしくお願いしまぁあああす!」よりゃよっぽどいいような気がするのだが如何。


宅島徳光氏の言葉

そう遠くない昔のことだ。
俺の親父が生まれる少し前、俺のお婆ちゃんが美しい乙女であったころ、こんな強くて優しい男がこの国には居たのだ。はっきり言って、民族の、国民のレベルというのは70年弱でここまで変わるものかと思わずにはいられぬ。悲観的過ぎかね。
俺は、これを始めて読んだのがたしか9年前だったかと思うが、激しく泣いた。
泣かずに読めるかこんなもん。

-故郷の美しい田園風景の向こうに、小さな子供たちが海軍士官の制服を見つけてペコリとお辞儀をしてくれる。それに感動して燃え上がる24歳海軍少尉の魂。
分かる、分かるぞ。俺には分かるぞ。そこらへんの1982年生まれの言うことはよう分からんが、あんたの仰ること、痛いほど分かるぞ。

男が、女に向かって「あなたが好きだから―」と言うのはまぁいいとして、それが「あなたより大切なものなどない」となったらもう終わりだ。そんなことを言う男と付き合っている女は悲惨だが、それに気が付かないのもまた幸せの一類型と言えるから寝た子は起こすなグーグーグー。


はっきり言う。
俺はお前を愛している。
しかし、俺の心の中には今ではお前よりもたいせつなものを蔵するようになった。それは、お前のように優しい乙女の住む国のことである。
俺は、昨日、静かな黄昏の田畑の中で、まだ顔もよく見えない遠くから、俺達に頭を下げてくれた子供達のいじらしさに強く心を打たれたのである。
もしそれがお前に対する愛よりも遥かに強いものというなら、お前は怒るだろうか。
否、俺の心を理解してくれるだろう。ほんとうにあのような可愛い子供達のためなら、生命も決して惜しくはない。自我の強い俺のような男には、信仰というものが持てない。
だから、このような感動を行為の源泉として持ち続けていかねば生きていけないことも、お前は解ってくれるだろう。
俺の心にあるこの宝を持って、俺は死にたい。
俺は確信する。
俺達にとって死は、疑いもなく確実な身近の事実である。

宅島徳光 20年4月9日戦死 24歳

福岡高校から慶応大学に進むも、戦況の悪化に伴い学徒出陣で海軍航空隊に入営。
昭和20年4月9日、宮城県の松島基地から出撃し、金華山沖上空で散華した。



民主主義の片思い

数十年間守り続けた「世界第2位の経済大国」という看板を、昨年我々は中国に譲り渡した。
中国の「改革開放」以来の年率10%以上での20年以上の急成長が我々に見せつけた、我々が認めたくない一つの事実がある。
それは、「経済成長のためには、必ずしも民主主義が必要ではない」ということだ。

冷戦というのは、とどのつまり、経済における集産主義と自由主義の対立、政治における民主主義と共産主義の対立であったと言える。「社会しか存在しない」という偏屈者と、「個人しか存在しない」という偏屈者同士が核ミサイルを喉元に突き付け合って睨み合うという異常な時代であった。
1989年に冷戦が崩壊してからというもの、楽観的な世界観がさまざまに語られたのだが、その基盤的な世界観というものはこうだ。

「歴史において、自由と民主主義が最終的に勝利した。悪しき共産主義はもはや過去のものとなり、これから世界は最終的な自由と民主主義に向かうことになる」

米国のブッシュ大統領が、イラクに侵攻した2003年以降、大量破壊兵器がそもそも存在しないことが判明してからもことさらに「自由と民主主義がイラクにもたらされた」(それやったら先にサウジを“解放”したらんかい)と言い続けたのも、冷戦崩壊後の楽観主義者ー経済における自由(市場)主義と政治における民主主義が両立することを疑わず、むしろそれをドグマ(教義)として崇めるものたち=いわゆるネオコンーにとっては「自由(経済)」と「民主主義」は、両立可能であるというよりも、密接不可分なものとして認識されたからだ。

だが、既にこの幻想は打ち砕かれた。
かつてのワシントン・コンセンサスは鳴りをひそめ、いまや世界の大多数を占める「非民主主義国(誰の基準で?)」の少なくない国々が、中国を経済発展のための戦略的パートナーとして認めるようにさえなってきた。金は出すが口は出さずの中国は、マフィアのような国々にとっては付き合いやすい国であるだろう。アフリカや中南米の、欧米が距離を置く諸国への北京の浸透の仕方は圧倒的である。
そんな時に、米国はと言えば、過少な需要を補うためにITバブル以降は金利を下げて住宅購入への融資を拡大し、銀行や証券会社などはそのローン債権を証券化してゴチャゴチャの高利回り債券として世界中に売りまくった。挙句に、主要銀行がバタバタ倒産するわGMが破綻するわというてんやわんやを演じ、最後には「アメリカは社会主義国になったのか?」と思われるほどの巨額の公的資金を銀行・自動車メーカーに注入した。

経済成長は、民主主義を忌み嫌ってはいない。
だが、民主主義を愛してはいないのだ。
必ず必要な伴侶というわけではけっしてない。

では、反対はどうか。
民主主義にとって、経済成長はどういうものであるか。
これを問うことには、重大な今日的意義があると思われる。

民主主義(Democrasyは、正しくは「民主政治」と訳されるべきだ。Aristocracyを「貴族主義」と訳す阿呆はいないだろう)は、いかなる基準においても近代の所産たる政治システムである。
為政者ではなく国民に主権があると擬制するこの政治システムは、強力な先進国が採用しているために不磨の大典のごとくに祭り上げられるが、現在にあっても全くもって一般的とは言い難い。
なぜか。
それは、それぞれの国の国力と密接に関わる。
欧米を中心とした「先進国」が、自由主義経済体制を採っていることと、多くの場合それらの国々がOECDに加盟し相当に豊かであることとの間には、強い関係がある。
豊かな社会・国にあっては、死活的な利益をめぐる諸利益団体間の争いは、相対的に穏やかなものであると考えられる。例えば、高度経済成長期以降の我が国にあっては、社会党が野党として存在したし、大学では「資本論」を携えた学生が沢山居たのだが、「日本経済はこれからさらに発展する」という展望を誰もが抱けたために、社会に存在する利益団体の利益の相克・対立は、抑制可能な範囲を出るものではなかった。もちろん、日本においては池田勇人の「所得倍増論」や田中角栄の「列島改造論」に象徴されるように、「全国民を豊かにしよう」という国家意思が存在したことは言うまでもない。
だが、それを行うだけの未来の経済成長があればこそ、この時期において我が国は、日米安保条約を巡って国会が紛糾するようなことがありながらも、概ね「民主主義」は機能していたと評価できる。たとえそれが自民党の年寄り達による密室政治であったとしても、である。

我々は、歴史において、一人立ちしたかに見えた民主主義が、それを作った国民の手で葬られるのを目撃してきた。
第一次世界大戦後の好景気のなかで迎えられた大正デモクラシーの時代のあとの、昭和恐慌・世界恐慌を経て、大日本帝国は軍部に強大な権力を与えて満州への進出によって資本主義的生産力のはけ口を見出そうとした。
ベルサイユ条約で天文学的な賠償金を課されてハイパーインフレに陥ったワイマール・ドイツでは、当時最も先進的と言われたそのワイマール体制そのもののなかから、ヒトラーという絶対権力者が登場したのだ。

富を配分することができない場合、すなわち、「このパンをAさんに渡せばBさんが餓死する」という極限のゼロサム状態に国家が陥った場合に、民主主義はその機能を停止する。
だがこのような場合であっても、未だ「パンをAさんかBさんかどちらかに渡す」かを決断して、実行する必要がある。この決断と実行をなすために、日本においては軍部に国民は大きな期待を抱き、ドイツにおいては国民は国家社会主義ドイツ労働者党を躍進させたのだ。

つまり、民主主義は、機能するための要件をそもそも抱えており、それがなくなれば機能しない。
しかもそれが、なかなか実現しえない全国民のある一定レベルでの平準化された豊かさを要求するがために、未だに民主主義国は世界的にはMinorityである。アメリカが世界の多くの国に「民主化して自由化しろ」と言っても簡単にはほとんどの国がうなづかないのはこの理由による。

民主主義という女は、経済成長という男に惚れて、「あなたのことが好き!」と言うのだが、経済成長という男は民主主義という女に対して最近どうもそっけない。
民主主義という女は、経済成長さんが側に元気でいてくれないと窒息してしまうので、必死に財政出動を行い金融を緩和して最近病弱な経済成長さんを励ましている。それなのに経済成長さんは別のタイプの彼女を見つけてきてしまったようだ。
これでは民主主義という女は、永遠に経済成長に片思いをするほかない。

くだらん擬人化にさしたる意味はないのだが、民主主義の危機はこれから本格化するであろう。
日本の過去10数年間の政治とは、畢竟、上に述べた政治におけるゼロサム状態のなかで、人気取りにしか芸のない低レベル政治家達が、必要な決断を先送りしながら小康状態を保ってきたというだけのものだ。
これから、日本における階層間の対立はさらに先鋭化するであろう。椅子取りゲームの椅子の数は、確実に減少している。
この時に求められる指導者とは、これまで日本には存在しなかったような巨大な人物でなければならぬ。
自分の命に僅かでも愛着がある者では、この文字通り命がけの政治を行うことはできはしないのだ。
これからの政治家に求められる力とは、価値について語る雄弁だ。このことは、マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」が非常によく売れたことと無関係ではない。
配分することができない場合には、誰かが、貴様でなければ誰かが、誰かを捨てて誰かを救うという決断を行わねばならない。それは、半世紀の間日本の為政者が慣れ親しんでこなかった所業なのだが、これを行うために必要なものは小手先の技術や知識などではない。我々の指導者が必要とするものは、信仰にも似た信念、安西先生風に言えば、「もはや何が起きようと揺らぐことのない、断固たる決意」のほかにありはしない。

男たちよ、戦いの時は来たれり
我らが信ずるもののために戦う時は来たれり
踏みつぶされても、決してあきらめるな、従容として死につけ
貴様が還ったその土は、次の戦士を生むであろう
次の戦士は貴様の屍を喰らって夢を見る
立ち上がれ、何度でも立ち上がれ
子羊が、勇ましき獅子となるまで



2011年1月13日木曜日

借金を持つことの重要性

年末に倉敷で母と話をしていたとき、資産運用の話になった。
とはいえ、「株をやる?そんなん危ないからやめきなさい」と言うような母なので、別に資産の運用や投資について突っ込んだ話をしたのではない。

ふと思った。
「株を”やる”」という言葉。
「株(株式)」を目的語とすることができる動詞は、恐らく「買う」「売る」「持つ」などであって、名詞である「株式」を”やる”ことはできない。いつかこのブログで言ったと思うが、「腹筋をする」「大腿四頭筋をする」という言葉と同じようにおかしい。

ではなぜこの「株をやる」という言葉が人口に膾炙しているか?
この”やる”という動詞は、恐らく「競馬を”やる”」とか「賭けを”やる(する)”」という言葉と含意が同じだ。
つまり株式を資産として持ったり売買したりすることは、本質的に博打と同類とされてきたわけだ。

このことは必ずしも根拠のないことではない。
この狭い国土に1億以上の人口を抱える我が国では、土地神話は20年前まで有効だった。
土地の値段は絶対に下がらない。だから最終的に土地資産を保有しておけば安全である。そんな時代にわざわざ株式を購入しようという一般人は、リスク好きの金儲け主義者とでもみられたのだろう。
この土地信仰はすでに崩壊したのだが、これが日本人の投資心理に与えた影響は小さくない。

さて、母が株は危ないというから、「じゃあ資産をどうやって(不動産なのか預金なのか外貨預金なのか)?」と尋ねると、これまた非常に数年前までの日本人らしく、「銀行に預けておけばいい」と返ってきた。あぁ、だから国債って暴落しないんか。だから金利が急騰しないんか。

俺は、母のこの「円信仰」をとっちめてやろうと思った。
当然ながら、円(といわず通貨すべて)で資産を持つことに対する最大のリスクは、インフレである。
通貨が減価するのだから、その通貨を持っていていいはずがない。
とは言っても、世間知らずの母に簡単に「インフレになったらどうすんじゃい」と言っても通じるはずがない。俺は頭をぐわしとひねってこんな話をした。

「AさんとBさんの友人二人が、横須賀に海軍カレーを食べに行きました。Aさんは財布を忘れ、自分のカレーのお代1500円をBさんに払ってもらい、次回会う時に支払うことにしました。二人とも戦闘に忙しく、再会は二年後になりました。二年前に食べた海軍カレーが美味しかったので、二人はまたここに食べに行きました。今度はAさんも財布を持ってきていました。2年前のBさんへの借りの1500円を返さないといけないので、Aさんは、『今日は前回の借りがあるから俺が出さないとね』と言いました。ところが、折からの日本国債の急落のために物価が高騰していて、二年前と同じカレーが今は3000円になっていました。Aさんは、『悪いけど借りは1500円だけだから、俺は1500円だけ払うよ』と言いました。おさまらないのはBさん。『おいおい、俺はカレー一食分を貴様に貸したんだぞ。いま1500円返してもらってもカレー半分しか食べられないぢゃないか。ちゃんと同じ価値の金額を払えよ」

Aさんが借りた金額通りの1500円を払った場合、勝つのはAさん。
なぜならAさんは、1500円を借りたのに、返済のときには実質的にその借金は半額になっていたからだ。カレー1食分の金を借りて、返すときはカレー0.5食分しか返さなくてよいと言えば分かりやすいだろうと思う。
逆にBさんは負けだ。カレー一食分の金1500円を貸したと思っていたら、返ってきた金はカレー0.5食分になっていたのだから。

従って、インフレが来ると100%確実に予見できるなら、今の固定金利で借り入れをどんどん増やしておけばいいということになる。インフレが借金を減殺してくれるからだ。物価高騰分は、借主の益であり貸主の損である。
逆にデフレ局面では、通貨を保有していれば、通貨価値が上がる(そのため物価が下がる)ので、預金だけ持っておけば資産が膨らむことになる。

国を頼って会社を頼っていたら身ぐるみはがされる時代がきた。
本当なら金のことなど考えもせず暮らしたいが、残念ながら俺は王侯貴族ではないから下賤な金のことも考えざるを得ない。さもなくば人生で実現すべきことのなにも達成できなくなってしまうだろう。
これからは、個人すべてが自分で頭を使って、ある程度は事業主のように資産を運用することができないと、自分の生活を守れないことになる。別に”金転がし”で大儲けをするためではなくて、単純に資産をあるがままの資産として維持するためにも資産をどう運用するかを考えざるをえない。
経済的独立は確固たる経済的基盤の上にしかありえず、経済的独立なしに政治的独立も思想的独立もあり得ない。
残念ながら、一つの会社に定期昇給保証の終身雇用で勤め上げて60歳から年金がもらえるというのは、ほんの一握りの幸せな労働者だけなのだ。我々日本の労働者は、ほとんどの日本企業にとって資産というよりもコストでしかない。痛々しい話だが、そりゃそうだろう。
中国や韓国やインドの会社と血みどろの競争をしている会社に「大きくて安定しているから入れて~」と学生が来るのだが、この学生はこの会社と同様に中国や韓国やインドの学生と競争しているのだろうか。その意識があるのだろうか。しかも日本の労働者の賃金は安くないときた。

やっぱり話がそれた。

バブル崩壊以後の土地資産だけで、一体どれだけの富が吹き飛んだのだろう。
日本もアメリカも公共部門が大借金を抱えていて、特に日本は民間(家計)と企業に大量の資金が眠っているのだが、このアンバランスを解消するために、政府にとって最も都合のいい現代の「徳政令」はインフレだということをけっして忘れてはいけない。
メディアはデフレデフレ、不況不況というが、インフレの足音は少しづつ近付いているのだから。


2011年1月10日月曜日

劣化する日本人の遺伝子

動物としての人間である俺は、野生を忘れてなるものかといつも思いながらコンクリートで埋め尽くされ、夜も無闇(なんてぴったりな言葉だ!まさに闇が無いのだ)に明るい街を歩いている。
人間は本当に弱い動物だ。精神的な話ではない。生き物として、弱い。
テントがないと寝られない動物なんて人間だけだ。だから(?)こんな重たい脳みそを持っているわけだが。一度でいいから自分の足で90km/hで大草原を駆けてみたい。たぶん居酒屋で不味い酒を飲むよりははるかに楽しいだろう。

今日は、コルベットを乗り回す大和撫子に教えてもらった興味深い話を皆と共有したいと思う。

彼女は東京で産婦人科医として働いている。
その彼女と以前話した時に、突然「私は日本人の遺伝子は劣化していると思う」と仰るので、思わず身を乗り出してメモをとりながら話を聞いた。俺はこういう突拍子もないというか、なかなか聞けない話をしてくれる人が大好きだ。
彼女曰く、日本人の遺伝子が劣化しているのではないかと彼女が危惧する理由は二つ。

①不妊治療、より具体的には体外受精児の多さ(どれぐらいが体外受精で生まれているかは後ほど)
②島国日本の”近親相姦”(この過激な言葉は当然僕の言葉使い)

順に説明していこう。専門的な知見は彼女から頂いたものの、言葉は全て俺のものであり、したがって文責は俺に帰することは言うまでもない。

体外受精とは、母体から卵子を採取し、体外で精子と受精させて受精卵を子宮内に戻す不妊(=通常の性交渉がありながら二年間妊娠がないこと)治療である。
”自然”をどう定義するかは兎も角、高度な医療技術がなくては受精卵として胚が発生しえないのであるから、とりあえずこの体外受精は”不自然”な妊娠過程と言ってよい。
この体外受精を経て生まれた子供に、明らかに障害が多いという証拠はない。同時に、なんらの影響もないという証拠もまた存在しない。また、体外受精によって生まれた子供が不妊となる確率如何についてもまだ明らかではない。恐らくこれは、体外受精が比較的最近一般化した医療技術であるからだろう。

さはさりながら、女性が高齢であったり、男性の精子の数が少なかったりして、自然には妊娠しないはずの夫婦やカップルにも子どもができるようになったことの意味を考えてみるべきだろう。
俺や貴様が今生きているということ、生まれてきたということは、生物界の自然法則が支配するところの、「優勝劣敗」(優れるものが勝ち、劣るものは敗れる)の戦いを勝ち抜いてきた優秀で強い遺伝子を持っているということだ。そもそも、数億の精子が卵子に向かって「よーいドン!」で駆けっこをして一番になったもののみが人間として誕生している。

体外受精というものは、個人(=親)の欲望をよく実現する非常に便利な技術でありながら、この地球に暮らす一個の生命としての人間の遺伝子(日本人の遺伝子)を劣化させているかもしれない。
自然淘汰に勝ち残れない(=自然には妊娠できない)遺伝子が、残されるのだから。
そして、現在どれくらいの子どもが体外受精で生まれているかというと、50人に1人。クラスに一人いてもおかしくないレベルだ。

あぁ、もうどこからか聞こえてきた。
「お前はヒトラーか。優生思想を唱えるのか!」という声が。
批判はごもっとも、かもしれない。「強い遺伝子のみが国家のために生き残るべきだ」という軍国主義ウルトラナショナリズムだって、将来あり得ないとは言えない。
だが、忘れてはいけない。我々は、動物なのだ。
我々個人個人に死が待っているように、生物としての人間と惑星としての地球にも必ず”死”は訪れるのだ。そう考えたとき、子孫が強い生物であることはどうしても必要なことだ。別に億万年の話ではなくても、強い生物たる人間かならる軍隊でなければ、戦争に勝つことなぞできはしない。戦争に勝てない、戦争を抑止できない国に平和がないのは、最近お隣の大統領が年頭演説で正しくも言った通りだろう。

ただ、俺は親となった姉(体外受精ではない)の娘の溺愛(おぼれて死ぬんじゃないかと...)ぶりを見ながら思ったのだ。どんなことをしてでも子を産みたいというのも、これまた人間という動物の一つの強烈な衝動であるのだろうと。

次に、②島国日本の”近親相姦”について。

非常に過激な言葉を使ったのは、特に分かりやすい言葉が見当たらなかったからだ。
言いたいことは、日本人は四方を海で囲まれて、さまざまな人種の血が混じり合いにくい環境で数万年を生きてきたということ、そしてそれによって、相対的に大陸の人種混合が盛んな地域よりも、その遺伝子は弱く柔軟性に乏しい可能性があるのではないかということだ。
アレクザンダー大王の東征、十字軍の遠征、バイキングの跋扈。これらは、西洋の歴史だが、これによって人種の交配は格段に進んだだろう。日本は、歴史に於いて一度たりとも外国の軍隊とほの大和島根において戦闘をしたことがない国である。そんな国は、ほかにあるだろうか。ニュージーランドと豪州はないのだが、まぁこれらの国の歴史はあってないようなものである(二カ国の方、ごめんよ)。
そもそも、生物が両性を持つようになったのは、異なる遺伝子を持つ他の個体の遺伝子を捕まえて、謂わばHybridを作りだすことで、環境の変化に柔軟に適応するためだ。つまり、多様な遺伝子の混交が歴史的に相対的に少なかったであろうという事実からすると、日本人の遺伝子は、「優勝劣敗」「適者生存」という自然淘汰の大原則に直面したときに、やはり強くはないのではないかと考えられる。

上記は、なんら実証的に論証されたことではない。たぶん、こんな”Politically Incorrect"なことを言っても学者も政治家も著述家もなんの飯のタネにもなりはせんだろう。
だから、俺がこんな社会の隅っこでちょぼちょぼ書いとる。

恐らく、これからバイオテクノロジーが商売として盛り上がるだろう。
やがてES細胞によって自分の内臓などを再生して”オーバーホール”することができるようになったとき、我々人間は自分の子どもを”デザイン”するに違いない。
優秀な思考力と記憶力を備え、容姿にも優れ、運動能力も人一倍という子どもを欲しがるようになるだろう。それが確実に手にはいる選択肢となれば、必ずそうするに違いない。
受精卵の段階で、自分の子どもが将来どんな病気のリスクがあるのかを知りたいと思うのは、子どもの幸せを願う親としては、ごく自然なことだ。だが、それは突き詰めれば、いわゆるデザイナーベイビーの誕生への一里塚なのだ。
金がなければ、遺伝子のスクリーニングを受けられずに遺伝子に”問題”のある子どもを授かり、金があれば容姿端麗頭脳明晰の子どもを授かれる。
俺が上で述べたように、「強い遺伝子を残すべきだ」という意見からすれば、受精卵の時点での遺伝子のスクリーニングは当然行うべきであるという結論になっても全然おかしくはないのだ。

ここまで来ると、医学だけの問題ではもはやない。
「人とはなにか?受精卵は人か?」(倫理、道徳、哲学)という問題や、
「受精卵は法的主体か?」(法学)の問題になってくる。

そんな未来は、SFだけの話だといいな、と時代錯誤者は思う。
21世紀の専門家は、「僕の専門家はこれだけ」とはとても言っていられぬようになるのだろう。


お客様は神様。じゃあ貴様は一体なんだ!?

あなたはいま広大な砂漠で遭難してしまった。
水を39時間一滴も飲んでいない。
そこに、ふたこぶ駱駝に乗ったキャラバンが通りかかり、水2Lを売ってくれた。
あなたは命を永らえた。
この髭もじゃもじゃの集団が、あなたには神々しく、まさに神様のようであった。

「お客様は神様」であると会社勤めをするようになってから言われたことはないが、著名な経営者の口から聞かされることもあり、日本においては市民権を得ている言葉と言って差し支えなかろう。
この言葉は、つまるところ商売をするについて、お客様がいないとどうにもこうにもいかんぞということを言っている。当たり前の話で、買ってくれる人がいないものを売って利益を出すことなぞ不可能だ。
そういう意味では、このお客=神様というのは間違ってはいない。

だが俺はこの言葉が大嫌いだ。
その理由を述べよう。

客にとって絶対に必要なもの、客にとってそれがなければ生活が立ち行かないもの、そういう商品やサービスを提供する会社にとって、客は神様であるはずがない。 まさかGoogleが顧客を神様だなどとは言わんだろう。
もちろん顧客は大切な存在であるが(こんなことを言明する必要なぞない)、社会にとって必要な商品やサービスを提供する者や企業とそれに対価を支払って購入し使用したり消費したりする顧客の関係は、普通に考えれば対等であるはずだ。一方が他方を必要としているならば、顧客は天におわす神様で、売主は地上に暮らす下賎な人間であると考える必要など些かもない。
そもそも、もし顧客を神様だと考えるのならば、神様から代金をとるとはどういう了見だ。
昔は大切な家畜の生贄さえ献上していたのが神様なのだから、神様に物を売って儲けようとは笑止千万という他ない。

理想的には、「お客様は神様」であるような商売は即刻撤退すべきなのだ。
そこには真の需要、社会の要請がないと考えてよい。
顧客にとってそもそも必要がないものを、「買っていただいて、ありがたい。神様のような方だ」というのはあまりあるべき顧客と商売人の関係ではないだろう。なんじゃいその卑屈さは。
この卑屈さの裏返しが、たまに居酒屋で見かける、お店の従業員に対する横暴な態度だ。それも理の当然で、自分が商売人であるとき「お客様は神様」と思っている者が、ひとたび「お客様」になれば、自分は「神様」になれるわけで、そこで謙虚に振舞う必要などないと考えるだろう。

「これがなければあの人の生活は立ち行かない」
「これがあればあの会社はもっと効率的な調達ができる」
「この車があればあの人の週末はもっともっと愉しくなる」

そういう思いがあるから、商売人は顧客に向かってこれを買いませんか?と提案するのだ。ここにおいて、商売人と顧客の立場に天地の差などあるはずがない。

ふと思いついたのだが、消費者しか存在しなくなったこの国のデフレに、この「お客様は神様です」が与えた影響というのはないだろうか。
上に述べたように顧客が神様ならば、そもそもお供え物を献上すべきだ。だが、それでは利益が出ないから、スーパーも巨大モールも居酒屋もなにもかもが値切り値切り値切りの経済戦争を戦っている。そのとき、いつも聞かされる大儀名文は「お客様のために」なのだ。卸売業者や生産者のことなど無視である。
だが、考えてみて欲しい。
スーパーで100円の秋刀魚を買う「お客様」は、秋刀魚漁師かもしれないではないか。
ありふれた言い方だが、我々は、消費者としてのみ生きてはいない。我々は有閑階級の暇なマダムではないのだ。我々は戦闘者であり、経済人=生産者である。消費するだけの人間なぞ一人もいない。

俺は、どうしても「お客様は神様です」と、「お客様のために」という正当化によって国民皆が貧乏になりつつあるこの長期化したデフレ経済を、関連付けて考えざるを得ないように思う。
我々は、もっと自分が”傲慢”になれる仕事を作り出すべきだ。
という俺は作り出していないのだが。
”傲慢”になるためには、逆立ちして1500m走るほどの努力が必要だが、卑屈になって「お客様は神様だ」などというより遥かにましだ。
世には、この時代でも、高いけれども売れているものがある。三洋電機が開発した、「GOPAN」(http://jp.sanyo.com/gopan/)などは、5万円の米パン焼き機だが、注文に生産が追いつかず11月で予約を停止してしまっている。俺も買いたいのに。

ニーチェの名言。

「人が、私(ニーチェ)の本を手にとることは、その人の自分自身に対する一つの最大の敬意の表明である」

これぐらいの気概を持って商売をしたい。そのためには皆と違うことをリスクをとってやらねばならん。


2011年1月8日土曜日

笑い話なBS

今日、課の連結のBS(貸借対照表)をガチャガチャ作って経理チームに「ほれ」と送った。
経理の担当者から電話があって、

「三谷原くんの作ったBSがバランスしてるじゃないですか!(右と左の合計が一緒)どうしたんですか?ほかの人がやったんですか?」

この一事だけで俺がどれだけ給料を会社からくすねているかが分かろうというものだ。
うーん、仕事はまじめにやりましょう。
Balance SheetがBalanceしないというのは、「”車”のついていない自動車」ぐらいの語義矛盾だ。
つまり経理の担当者は、「三谷原の作るBSはバランスしないはず」と思っていたということだ。
「三谷原のアンバランス・シート」とさえ呼ばれていたそうな。

言っておいた。

「右翼と左翼でバランスしてますからね」

経理の人、「?????」

BSといえば、日本のBSをどげんかせんといかん。
支出が92兆円で税収が40兆円。「国債発行額を44兆円に抑えた。公約通りだ」と言っている政府は政府と呼ばれてごめんなさいと思え。年収400万円の人が毎年400万円を車や海外旅行に費やして、420万円を借り入れて生活費をやりくりしている、そういう塩梅だ。
やがて支出が70兆円になるときがあるだろう。そのとき、20兆円分の“痛み”が日本を襲うのだ。友人がいつか、「国債が暴落したら大手保険会社や金融機関が目茶苦茶になるから彼らは絶対に国債を買い支える」と言っていたが、買おうにも買う金(日本の貯蓄)がなくなったら、どうするのか。
中国人に金利5%の国債をギリシャのように販売する時、この国の支配者が変わるだろう。
地球温暖化によってツバルが消滅することと、日本の財政が、破綻とはいかずとも、国債を国内で消化できなくなってやがて長期金利がじりじり上昇して日本の借金が雪だるまのように膨らんでいくことは(現時点でも金利が1%上がれば利払いが一年で9兆円近く増える。防衛費の二倍)、どちらがより確実な未来だろうか。
誰もが、なんとなく感じているのだ。確実に日本は崖っぷちに向かってゆっくりと確実に向かっていることを。

日本のBSをジートみていると、分かることがある。
簡略化し過ぎかもしれんが。

○子ども手当
1.政府が国債を発行して財源創出、家計へお金を渡す
2.家計に入ったお金は、消費や投資には回されず、銀行口座にいれられる
3.銀行は、投資先もないし企業は異様に金余り状態だから、仕方なく国債を買う
4.国債購入分の金が政府に入る

めでたしめでたし。


2011年1月2日日曜日

草莽崛起

信じがたいほどに、美しい国。
鷲羽山から望む。

新年の到来に昂ぶりなどない。
目新しいこともない。
だが、なすべきことは腐るほどある。

テレビを捨てろ。
下らんおしゃべりをやめろ。
メモを取れ。
電車で寝るな。
「しょうがない」と言うな。
二本の足で大地を掴め。
四本脚で歩け、走れ。
笑顔で怒れ。
弱きに対しては仏であれ。
強く悪しきに対しては鬼であれ。

吉田松陰は29歳と2ヶ月で死んだ。
俺は今年29歳になる。
めでたい年にならずともよいが、暗く湿りきった陰鬱なトンネルに、我が国が勢いよく突入する最初の年になれば最高だ。

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

-吉田松陰