2011年1月16日日曜日

独り言

小学生のころ、反省文をよく書かされた。
ドッヂボールをわざと敵の顔面にぶつけたとか(疑わしきは被害者の利益に...)、ウシ蛙を授業中に女子生徒の頭に乗っけたとか、よくあるクソガキのかわいい仕儀に対して、大学でセクト闘争をしてきたのか知らんが小学校の教師どもは俺に自己批判の反省文を書けというのだ。
まこと遺憾ながら、当時の俺は文章で格好つけるということを知らなかった。本を全然読んでいなかったためです。
だから、どこにでもありそうなことを書いて、終わらせていた。
「A君は痛かったと思います。ごめんなさい。もうしません。」
「Bさんは突然大きな蛙を乗せられて気持ち悪かったと思います。ごめんなさい。もうしません。」
今ならば、今ならばだ。
けっこうおもしろい反省文を書けるような気がする。
いや、分からんよ。
でも、15年前よりは、「あぁ、この子はそんな気持ちであの子の頭に蛙を乗せたのか」と読者を感動させるような反省文がかけるかもしれないと思う。


「いつが最も格好良い自分でありたいか?」と自問した。
回答は、「誰にも見られていない自分が最も格好良くなければいかん」。
人と一緒にいるときに格好良くあるべきであるのは当たり前。
そうではないとき、つまり誰も見ていない時に、俺は何をしているか。それが大切だ。
だって、人前では目茶苦茶格好つけるのに、一人の時は油断しているという男は、最前線にたって上官も部下もいなくなったら一人で白旗掲げた投降してそうではないか。
一人でいるときにも、格好良い格好悪いを決めるためには、他者ではなく自己のうちに「美醜」と絶対的基準を持っていなければならない。格好良いか悪いかは、俺が決めるのであって、俺以外の何者でもない。そうでなければ、一人でいるときに最も格好良く在ることはできない。


今朝の読売新聞によると、昨年12月の韓国海兵隊への入隊志願者は、募集977人に対して3488人。競争率3.6倍(昨年は2.6倍)。
北朝鮮との戦争の蓋然性がひとまず低まったとはいえ、高度の緊張状態にある今、真っ先に敵の銃弾の中に飛び込んでいく海兵隊への志願者が増えたことを、中央日報などは、「我が国の若者は素晴らしい」と湛えているようだ。
だが、ここには韓国の日本と同等かそれ以上の格差社会というものが背景にあるのではないか?と思える。具体的な数字を出さずすまんが、あの国は言うまでもなく世界一受験競争が激しい国で、「いい大学」から「いい会社」(ポスコ、現代自動車、サムスン)に入れば勝ち組だが、そうでなければ負け組という構図がある。そういう中で、社会の下層にいると自任している若者が、国家の危機に立ち上がる!という正義感に駆られるという心象はよく理解できる。


俺がプロ野球選手だったとしよう。
大事な試合で完封勝利をあげて、ヒーローインタビューの御立ち台に呼ばれた。
「最後にファンの皆様に一言!」と言われたときに、俺が言うのは次。(あぁ妄想癖)
「えーと。別に僕を応援してくれなくてもいいです。応援されなくても野球を必死にやります。
なんだけれども、そうやなぁ、今日みたいに、また皆で僕らの試合を見に来て下さい。で、じーっと見ててください。今日よりもっともっとワンダフルな試合を、プレーを絶対に見せるから。ハリウッド映画や歌舞伎なんかよりはるかに面白い野球を見せるから。だから、楽しみにしててください」
「また応援よろしくお願いしまぁあああす!」よりゃよっぽどいいような気がするのだが如何。