2011年1月29日土曜日

日本代表と日本ー希望と幻想ー

たまプラーザのスターバックスでレッツノートを叩いている。
Ipadを買おうかと思ったが、京都時代に毎日メッセンジャーバッグに入っていた”let us note”はまだまだ使えるから大事にしようと思う。無線ルーターを部屋に忘れてしまったのでEvernoteに書き残して帰宅してから投稿することにしよう。

26日の深夜、寮の食堂でサッカー日本代表の試合をみていた。
アジアカップ準決勝、対韓国戦である。
いつも通りの「死闘」だとか「運命の~」だとかいう言葉があまり多くなかったのがよかった。
試合は皆さんご存じの通りで、韓国をPK戦で降した日本は今日か明日か忘れたがアジアカップをかけて洪水で大変なオーストラリアと戦う。

サッカーをよく知らない。生でろくに観戦したこともないし、自分でプレーすることは全くない。
にもかかわらず、この試合は面白かった。
日本はボールをもったいぶって最後列のラインで横に回すということをせずに、どんどん前へ、つまり敵のゴールに向かってまっすぐにボールを運び、そして駆けた。献身的に走り回る選手たちのチームでないとできない、観ているほうが走りだしたくなるようなプレーが随所にみられた。
ゴールを奪いにいく、そのための攻撃。その意思が明確であり、その方法論が共有されている軍ほど強力な戦闘組織はない。
最短距離で目標に攻撃力を指向し、スペースを見つけて敵よりも迅速に機動する。軍隊における戦術論のシンプルさとサッカーにおけるそれは同じだ。
個々の選手で言うと、左サイドを素晴らしいスピードで駆けあがって後半同点に追いつく一点目を演出した長友などは、彼を観るためだけにスタジアムに足を運ぶ価値があると思った。

今回アジアカップを獲得しようがしまいが、アジアのサッカーにおける日本の地位は変わらない。
すでにアジアにおける日本代表というのは、韓国と並んで頭一つ抜け出ている地位にある(もっとも今大会での何度かの苦戦が示すように、実力は伯仲しているが)。
で、アジアを超えて世界に出た時、日本の実力はせいぜい昨年の南アフリカW杯での結果の通りなのだろうと思う。
つまり、世界の16位~25位程度ということだ。
経済において第三位の日本のサッカーは、世界経済で言えば韓国のはるか下、恐らくイランとかタイとかベネズエラと同じくらいだろう。
だが、だからこそ、日本代表のサッカーは、既に日本が失ったなにかを感じさせる。

それは、希望だ。

村上龍は、かつて「希望の国のエクソダス」のなかで、主人公であるポンちゃんに、国会でこう言わせた。
あまりにも有名なセリフなので、恐らく皆知っているだろう。

「この国にはなんでもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない。」

作家、物書きの才とは、いつの時代も現象を分析することではなくて、そこから意味を汲み取り表現する力のことだが、この平易な小学一年生にもすぐに理解できる日本語で、やがて来る(もう来た)日本の将来を言い当てた村上龍は、矢張り異才である。
(俺のようにいつも冗長にあーだこーだと言っている話が長い奴はだいたいたいしたことない、かもね)

日本代表の各選手たちは、日の丸を背負い、国を代表して戦うという栄誉に浴している。
だが、彼らの生活は、日本という国に依存しているわけではけっしてない。
彼らはあくまで個として自らの肉体と技術だけを頼りに、日本で、また多くは世界に出て強力な敵と戦っている。
生まれた場所や国籍や名前や肌の色が全く(であってほしい)考慮されない、平等だが果てしなく厳しい大自然の生存競争のなかに身を置いているのが彼らだ。
彼らの多くは、例えば本田圭佑がよく言うように、強い上昇志向を持っている。彼は今モスクワでプレーしているが、やがてはマドリッドの世界最大のクラブチームで数十億円を稼いでみせる、そういう野心を持っている。それは、「世界に自己を認知させる」という、マズロウの馬鹿げた五段階欲求説を無視した、人間だけが持つ、形而上の意思だ(自ら死闘に挑むものは、生命の安全よりも名誉と誇りを重んじていると言うことに一体なんの誤りがあろうか?そしてそういう人間が存在したことを以て我々は自らの歴史の栄華としたのではなかったか?神風特攻隊を想起せよ)。
もっと上手くなりたい、もっと強くなりたい、もっとたくさん稼ぎたい、もっと強い奴を打ち倒したい。
本田圭佑に、どこぞの頭のなかまで真っ白な政治家のように「一番じゃなきゃだめですか?」と尋ねようものなら無回転のブレ玉が120kmで飛んで来て炸裂しそうだ。

人間の幸福にとって、恐らく「いまどうあるか」ということよりも「未来において自分はこうある」という希望、それへの意思のほうが決定的に重要なのだ。どれだけ「この瞬間のみを生きる」と禅者が言ったとしても、彼は恐らく明日の自分の存在を予想しているだろう。

日本代表のサッカーには、希望がある。
世界のトップ5位のブラジル、スペイン、オランダなどの一等国を、やがて打ち倒すのだという意思であり、希望だ。W杯に出ることが普通のこととなり、欧州リーグで多くの選手が活躍するようになった今、これはもはや単なる願望ではない。
それは、大日本帝国も、平和主義日本もかつて持っていて、今は失い、今度は中国やベトナムの民に譲り渡したものだ。
我々日本人はーかつて日露戦役を日本人が文字通り国を挙げて応援し、その勝利に酔いしれたようにー、自分たちの国のサッカー代表に、かつて持っていた希望という幻想を重ね合わせているのかもしれない。もはや、サッカーというゲームのほかに、日本人が一体となりえるような「大きな物語」は存在しない。

現在の日本にあって、これを読んでくれているほとんどの人が、恐らくある程度まで生活の保障がされた場所において生活の糧を得ているはずだ。それが悪いことだとは言わぬが、それが我々にもたらす悪影響は銘記されるべきだろう。
それは、我々から生物本来の強さを奪う。いや、生物本来というの正しくない。生き残り、子孫を残すべき強い個体の強さだ。
幸せを目指して、豊かさを目指して、日本は頑張った。だが、豊かになったが、幸せはどこかへ飛んで行った(今豊かさも飛んで行こうとしている)。
甲子園に行くことよりも、甲子園での勝利のために夜な夜な今井ワールド(御免、城東野球部にしか分からない)で血管を浮き上がらせて70kgのジャンピング・スクワットをしていた時のほうが、実は人間が生きるべき豊穣なる時間であったのかもしれない。

マーク・ローランズも「哲学者と狼」でたびたび言っているのだが、幸せを軽視する勇気を持とう。
それは幸せな今を放棄することではななくして、ただ俺に現在の安定と安寧に充足せず、人生においてなすべきことへの挑戦の可能性の道を啓(ひら)くものだ。
そして、幸せであろうがなかろうが、ひたすら戦い続けるという意思を以て、自らの生命と人格の華としよう。恐怖から逃げずに敢然と戦い、記憶されることもなく散った幾千万の英霊のことを俺は絶対に忘れない。祖国から遠く離れたジャングルで、どれだけ無残に死んだとしても、その死に(生に)自らの意思が凝縮しているならば、また他者の期待が芳醇な香りを放っているならば、その死は「死にゆく者」の祝祭としての死であるだろう。
200年の後世において、俺や貴様を評価する人は、俺が幸せであったかどうかを判断の基準にするだろうか?
否、そうではなく、俺や貴様の意思と生きざまと行動のみで判断してくれるはずだ。
世界は、俺の幸せなど求めていないし、俺は世界にそんなもんをよこせとは言わぬ。
ただ、俺は欲する
狭く険しい茨の道であるが、最も正しく、どこまでも未来へと続く悠久の道を。
その道を俺は、仲間と共に血反吐を吐きながら団子虫のように進むであろう。

人生に必要なもの、それは幸福でも金でもなく、壮烈な物語ただ一つである。