2011年1月16日日曜日

民主主義の片思い

数十年間守り続けた「世界第2位の経済大国」という看板を、昨年我々は中国に譲り渡した。
中国の「改革開放」以来の年率10%以上での20年以上の急成長が我々に見せつけた、我々が認めたくない一つの事実がある。
それは、「経済成長のためには、必ずしも民主主義が必要ではない」ということだ。

冷戦というのは、とどのつまり、経済における集産主義と自由主義の対立、政治における民主主義と共産主義の対立であったと言える。「社会しか存在しない」という偏屈者と、「個人しか存在しない」という偏屈者同士が核ミサイルを喉元に突き付け合って睨み合うという異常な時代であった。
1989年に冷戦が崩壊してからというもの、楽観的な世界観がさまざまに語られたのだが、その基盤的な世界観というものはこうだ。

「歴史において、自由と民主主義が最終的に勝利した。悪しき共産主義はもはや過去のものとなり、これから世界は最終的な自由と民主主義に向かうことになる」

米国のブッシュ大統領が、イラクに侵攻した2003年以降、大量破壊兵器がそもそも存在しないことが判明してからもことさらに「自由と民主主義がイラクにもたらされた」(それやったら先にサウジを“解放”したらんかい)と言い続けたのも、冷戦崩壊後の楽観主義者ー経済における自由(市場)主義と政治における民主主義が両立することを疑わず、むしろそれをドグマ(教義)として崇めるものたち=いわゆるネオコンーにとっては「自由(経済)」と「民主主義」は、両立可能であるというよりも、密接不可分なものとして認識されたからだ。

だが、既にこの幻想は打ち砕かれた。
かつてのワシントン・コンセンサスは鳴りをひそめ、いまや世界の大多数を占める「非民主主義国(誰の基準で?)」の少なくない国々が、中国を経済発展のための戦略的パートナーとして認めるようにさえなってきた。金は出すが口は出さずの中国は、マフィアのような国々にとっては付き合いやすい国であるだろう。アフリカや中南米の、欧米が距離を置く諸国への北京の浸透の仕方は圧倒的である。
そんな時に、米国はと言えば、過少な需要を補うためにITバブル以降は金利を下げて住宅購入への融資を拡大し、銀行や証券会社などはそのローン債権を証券化してゴチャゴチャの高利回り債券として世界中に売りまくった。挙句に、主要銀行がバタバタ倒産するわGMが破綻するわというてんやわんやを演じ、最後には「アメリカは社会主義国になったのか?」と思われるほどの巨額の公的資金を銀行・自動車メーカーに注入した。

経済成長は、民主主義を忌み嫌ってはいない。
だが、民主主義を愛してはいないのだ。
必ず必要な伴侶というわけではけっしてない。

では、反対はどうか。
民主主義にとって、経済成長はどういうものであるか。
これを問うことには、重大な今日的意義があると思われる。

民主主義(Democrasyは、正しくは「民主政治」と訳されるべきだ。Aristocracyを「貴族主義」と訳す阿呆はいないだろう)は、いかなる基準においても近代の所産たる政治システムである。
為政者ではなく国民に主権があると擬制するこの政治システムは、強力な先進国が採用しているために不磨の大典のごとくに祭り上げられるが、現在にあっても全くもって一般的とは言い難い。
なぜか。
それは、それぞれの国の国力と密接に関わる。
欧米を中心とした「先進国」が、自由主義経済体制を採っていることと、多くの場合それらの国々がOECDに加盟し相当に豊かであることとの間には、強い関係がある。
豊かな社会・国にあっては、死活的な利益をめぐる諸利益団体間の争いは、相対的に穏やかなものであると考えられる。例えば、高度経済成長期以降の我が国にあっては、社会党が野党として存在したし、大学では「資本論」を携えた学生が沢山居たのだが、「日本経済はこれからさらに発展する」という展望を誰もが抱けたために、社会に存在する利益団体の利益の相克・対立は、抑制可能な範囲を出るものではなかった。もちろん、日本においては池田勇人の「所得倍増論」や田中角栄の「列島改造論」に象徴されるように、「全国民を豊かにしよう」という国家意思が存在したことは言うまでもない。
だが、それを行うだけの未来の経済成長があればこそ、この時期において我が国は、日米安保条約を巡って国会が紛糾するようなことがありながらも、概ね「民主主義」は機能していたと評価できる。たとえそれが自民党の年寄り達による密室政治であったとしても、である。

我々は、歴史において、一人立ちしたかに見えた民主主義が、それを作った国民の手で葬られるのを目撃してきた。
第一次世界大戦後の好景気のなかで迎えられた大正デモクラシーの時代のあとの、昭和恐慌・世界恐慌を経て、大日本帝国は軍部に強大な権力を与えて満州への進出によって資本主義的生産力のはけ口を見出そうとした。
ベルサイユ条約で天文学的な賠償金を課されてハイパーインフレに陥ったワイマール・ドイツでは、当時最も先進的と言われたそのワイマール体制そのもののなかから、ヒトラーという絶対権力者が登場したのだ。

富を配分することができない場合、すなわち、「このパンをAさんに渡せばBさんが餓死する」という極限のゼロサム状態に国家が陥った場合に、民主主義はその機能を停止する。
だがこのような場合であっても、未だ「パンをAさんかBさんかどちらかに渡す」かを決断して、実行する必要がある。この決断と実行をなすために、日本においては軍部に国民は大きな期待を抱き、ドイツにおいては国民は国家社会主義ドイツ労働者党を躍進させたのだ。

つまり、民主主義は、機能するための要件をそもそも抱えており、それがなくなれば機能しない。
しかもそれが、なかなか実現しえない全国民のある一定レベルでの平準化された豊かさを要求するがために、未だに民主主義国は世界的にはMinorityである。アメリカが世界の多くの国に「民主化して自由化しろ」と言っても簡単にはほとんどの国がうなづかないのはこの理由による。

民主主義という女は、経済成長という男に惚れて、「あなたのことが好き!」と言うのだが、経済成長という男は民主主義という女に対して最近どうもそっけない。
民主主義という女は、経済成長さんが側に元気でいてくれないと窒息してしまうので、必死に財政出動を行い金融を緩和して最近病弱な経済成長さんを励ましている。それなのに経済成長さんは別のタイプの彼女を見つけてきてしまったようだ。
これでは民主主義という女は、永遠に経済成長に片思いをするほかない。

くだらん擬人化にさしたる意味はないのだが、民主主義の危機はこれから本格化するであろう。
日本の過去10数年間の政治とは、畢竟、上に述べた政治におけるゼロサム状態のなかで、人気取りにしか芸のない低レベル政治家達が、必要な決断を先送りしながら小康状態を保ってきたというだけのものだ。
これから、日本における階層間の対立はさらに先鋭化するであろう。椅子取りゲームの椅子の数は、確実に減少している。
この時に求められる指導者とは、これまで日本には存在しなかったような巨大な人物でなければならぬ。
自分の命に僅かでも愛着がある者では、この文字通り命がけの政治を行うことはできはしないのだ。
これからの政治家に求められる力とは、価値について語る雄弁だ。このことは、マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」が非常によく売れたことと無関係ではない。
配分することができない場合には、誰かが、貴様でなければ誰かが、誰かを捨てて誰かを救うという決断を行わねばならない。それは、半世紀の間日本の為政者が慣れ親しんでこなかった所業なのだが、これを行うために必要なものは小手先の技術や知識などではない。我々の指導者が必要とするものは、信仰にも似た信念、安西先生風に言えば、「もはや何が起きようと揺らぐことのない、断固たる決意」のほかにありはしない。

男たちよ、戦いの時は来たれり
我らが信ずるもののために戦う時は来たれり
踏みつぶされても、決してあきらめるな、従容として死につけ
貴様が還ったその土は、次の戦士を生むであろう
次の戦士は貴様の屍を喰らって夢を見る
立ち上がれ、何度でも立ち上がれ
子羊が、勇ましき獅子となるまで