2012年12月25日火曜日

友への回答

イエスという人は、十字架にはり付けられて処刑される時でさえ、ほとんどの同時代人から理解されず、権力からは民衆を扇動していると罵られ、さらには信頼していた弟子達には裏切られた。こういう言い方をするとキリスト者に叱られそうだが、悲しかっただろう。堪らなく辛かっただろう。普通だったら、「なんで俺だけ死なないかんの?なんで???」と思うだろう。もしイエスが神ではなく人であったのならば(これについて人間は2000年も論争をし続けてきた)。
その事実だけを考えると、陽気に「メリークリスマス!」という気にならんのは、俺の性格が陰鬱過ぎるんだろうか。
少なくとも「クリスマスだし彼女のためにプレゼントを買ってちょっといいホテルを予約して」という思考回路にならんことだけは確かだ。
冗談は兎も角(ウサギもツノどういう意味なんだろう?)

イエス、法然、日蓮、ルター、ニーチェ、吉田松陰、マーチン・ルター・キング・ジュニア。その他の皆さん。

誰もが偉大過ぎる人間だが、その偉大さは彼ら個人の、我々が通常用いる言葉の意味での「幸福」とは全然関係がない。殺されたり、全く理解されなかったり、発狂したり、島流しにあったり。しかも凄まじいことに、彼らの多くは「かくすればかくなるものと知りながら」生きていた節が大いにある。
偉大さは、幸福を求めない。世界史は「最も幸福に生きた人間」ではなく「最も苦しい道をへこたれずに歩んだ人間」を尊敬し続けてきた。ここに人間が救われる可能性があるのではないかと思う。

「他の誰よりも苦しいとしか思えない道を歩いている」と思える人は幸運かもしれない(単なる被害妄想は措くとして)。苦しい道を歩めという天の意思は、あなたを試す。それは全く無意味にあなたを指名する。俺に明日降りかかってくるかもしれない。
突然に重い病と余命一年を宣告された30歳の父親は、その理由を知らされることは終にない。無意味に、理由もなく、なのに他の誰でもなく、あなたなのだ。畢竟、人生の厳しさとは、この無意味さにあるのではないかと思う。「余命一年」というのは、人生の厳しさの本質ではないだろう。
あなたが指名されたことの無意味さは、翻ってあなた自身を凡百の他者から整然と区別し、大衆産業社会のなかでぼやけていたあなたの輪郭は際立ったものとなる。ことここに至って、あなたは他の人間のように振る舞うことはもはや出来ない。あなたは、あなたの人生を初めて自身のものとして、自分だけのものとしてまじまじと見つめ、これを獲得する。あなたは、そこでこの苦しい道にへこたれるものかとたった独り奮闘する。天に「こんちくしょう」と言いながら。ここであなたが生きる時間は、過去から流れ来て未来に向かう直線的な時間のなかの「他にいくらでもある、重要ではないある一点」ではもはやなく、「その瞬間」そのものだ。過去もなく未来もない、ただあるがままのその刹那。その瞬間それ自体のなかにあなたの全ての意味が内在化される。というより、意味という言葉が失効する。それは十年後の投資のリターンのためにあるわけではない。
マーク・ローランヅの言う、「あなたが大切なもの全てを失った時(失おうとしている時)、あなたは最高である」というときのあなたは、この時に誕生するだろう。

別に今余命一年を宣告されずとも、我々は余命X年を宣告されている。母の子宮に宿ったあの瞬間に。
Xが一年であるか、五十年であるか、それは大きな宇宙の時間では一億年前と十億年前の違いのようなものなのだ(宇宙物理学者は「ずいぶん違うぞ!」と言いそうだな...)。
やがて「その時」は来る。誰もが、自分自身に対してたった独りで向き合わねばならないその時は来る。
その時になって初めて自分を発見するというのは、なんとも勿体ない生き方だと俺は思う。
あなたはあなたなのだ。あなたが死ぬまで最も長く付き合っていくのは、あなたの夫でも親でもなくあなたなのだ。
だから、ニーチェは、何よりも己を愛せよと、そこらのナルシストには想像もできない次元の自己愛を叫んだのだ。

2012年12月23日日曜日

「和気富士」


今俺の手元に「歌集 和気富士」という小著がある。著者は三宅白光。本名を三宅筆野という。明治二十一年、かつて道鏡の皇位簒奪を防いだ陛下の忠臣・和気清麻呂生誕の地、岡山県和気郡の生まれである。岡山高等女学校(現在の岡山県立操山高校)を経て小学校教諭として身を起こし、文学殊に和歌に熱心であり、与謝野鉄幹に師事した片尾(白眼)章乃丞先生に師事して俳句・短歌の指導を受け、膨大な数の和歌を残し雑誌「スバル」などにも投稿している。
またそれのみならず、地区の民生委員や国防婦人会幹部などとして戦時中には東奔西走の忙しさであったらしい。
社会正義に対する感覚すこぶる強く、世相批判も女性とは思えないほどに鋭い。この歌集は単に日々の生活の悲喜交交(こもごも)を和歌にしたという、現代にいうブログのようなものではない。
ある歌には「ケネディ」あり、ある歌には「クーデター」あり、また終戦間際に詠んだと思われる歌ではこうも詠われる。


愚かさを知りつつ君と国おもふ心一つに執りし竹槍


今の俺の気分の歌をこの歌集から抜粋して読者御一同様の御高見に供したく存奉候


思わじとすれど浮世の塵あくた吹きよせかかる人生街道


愚かしきこの身この魂打ち砕き神よたまわれめぐし生命を


いささかのこだわりもなく咲く花の真紅美し碧空のもと


山峡の家居はたのし露草のしげみに立ちて鴬をきく


2012年12月22日土曜日

全米ライフル協会が会見 「全学校に武装警官を」

日経Web版12月22日付より
 
---引用---
 
NRAのラピエール副会長は「銃を持った悪者を止めることができるのは、銃を持った善人だけだ」と強調。
武装した警備員がいれば子供たちの命は救えたかもしれないと主張した。 
会見は厳重な警備の中で行われ、NRAを非難する活動家の抗議で2度中断した。副会長は記者団の質問を一切受け付けなかった。銃規制強化の法案を提出しているローテンバーグ上院議員(民主党)はNRAの会見について「悲劇の後、さらに銃を増やし、より多くの米国民を武装させようとは信じがたい」と批判する声明を発表した。
 
---引用終---
 
「一部の教師に銃撃の訓練を受けさせて常に学校で銃を携帯させる」と言うかと思っていたが、それよりはマイルドだが、やはりこれ。
呆れるしかない。
 
「銃を持った悪者を止めることができるのは、銃を持った善人だけだ」というのは、すなわち、
「核を持った悪者(イラン、その他)を止めることができるのは、核を持った善人(アメリカ)だけだ」ということでもある。
 
建国以前から銃を持った人々がネイティブ・アメリカンと戦い(虐殺し)、やがて宗主国のイギリスと戦った。
人によってはアメリカ憲法は革命権を人民の権利として認めているとも言う。
 
日本人は信長さんの兵農分離と秀吉さんの刀狩りに感謝せずにはいられんだろう。
 

2012年12月19日水曜日

日本は“働くママ”を冷遇?男女間給与格差が最大

テレビ朝日系(ANN) 12月18日(火)13時26分配信
 
 
「日本で子育てをしながら働く女性の給与と男性の給与との格差が、先進国のなかで最悪であることが分かりました。
OECD=経済協力開発機構によりますと、25歳から44歳の子どもがいる女性の給与が、同世代の男性よりも61%低かったということです。格差は欧米各国や韓国を含む30カ国のなかで最悪で、平均値も大きく下回りました。子どもの有無を問わない男女の給与格差でも29%と、韓国に次ぐワースト2位でした。原因については、「産後に職場復帰しても低賃金だったり、男性が育児休暇の取得に消極的なこと」などと指摘しています。」
 
何を今更、という向きもあろうが。

 

高まる沖縄の独立熱(新・帝国主義の時代)=佐藤優(中央公論)

佐藤優氏の警告。
 (その1)
(その2)

「差別が構造化されている場合、差別をする側は自らが差別者であるということを自覚しないのが通例だ。ソ連共産党中央委員会に勤務する民族問題を担当する幹部も、自らがリトアニア人、ラトビア人、エストニア人を差別しているなどという意識はまったく持っていなかった。民族紛争において、中央政府の政治エリートと異議申し立てをする民族の認識の非対称性は、よくあることだ。」
(その2より)

一般的に日本人は、日本という国家を所与のものとして思考する癖が他の国民より強いように思う。
一般的に日本人は、、ひとたび結婚すれば夫婦という単位は永続するものと思っている節がる(だから婚前契約を結ばない)
沖縄が「完全な」日本の施政下に入ってからまだ2世紀も経っていないのだ。しかもそのうちの一部の期間は他国の支配を受けた。

2012年12月18日火曜日

雑記

「長渕剛のファンです」とデブが言ってはいけない。
ハゲは言ってもよい。
もちろんデブが「AKB48のファンです」というのは非常に分かりやすい。
長渕剛のライブにデブは似つかわしくない。
長渕剛の言葉と曲を聴くのならば、まずトレーニングをせよ。
走れ。ダッシュせよ。心拍数を180まで上げろ。
ニーチェにとってのワーグナーが、俺にとっての長渕剛なのだ。
石原莞爾にとっての日蓮ではないとしてもね。
おぉ、ワーグネリアンなどというとすぐにナチス!という人がいるんだよな。あぁ怖い怖い。

Parisのフドウさんが良いこと言うた。
いみじくも台北のダイキも同じことを言うた。
なにかというと、仕事以外のことも夢中になって必死にやらないかんと。
フドウにとってはボクシングでありダイキにとってはラグビーだと。
それは、フロマートカが神学者でありながら俗世から絶対に離れずに現実のなかで神学を究明していったことや、チェコ共和国建国の父であるトマシュ・ガリック・マサリクが、卓越した哲学者であり思想家でありながら同時に平衡感覚に優れた大統領であったことと重なって見える。
ということは、だ。
俺がニーチェを読めるようになったのは、変な会社で仕事をしているからーというのはあり得そうなことだ。
であるならば、恐ろしいまでにザッハリッヒな世界にどっぷり身を浸しながら、そのなかで人間のあり方を見つめながら勉強を続けていくことが、やがて偉大な何かにつながるだろう。
行動はそこから自然に生まれ出ずるであろう。

2012年12月17日月曜日

そして再び自民党

田中角栄流の中央=東京から地方への富の分配によって、「社会主義的資本主義」を成功させ世界にもまれな平等で豊かな日本を築いた80年代までの自民党は、バブル崩壊以後もはや意味のない公共事業によって経済を刺激することしかできなかった。そして失敗した。
この自民党の長きにわたった経済政策は、「経済成長」を大前提としていたからだ。

21世紀になって首相となった小泉純一郎氏は、過去の自民党の経済政策から大転換を図り、経済成長を意図した改革を行った。そこでは緊縮財政が敷かれ、労働市場の規制は大幅に緩和され、その結果、日本の経済的格差は拡大した(90年代にすでに拡大していたという議論もあるが)。小泉氏があれだけの人気を博したのは、その政策が明らかにひとつのこれまでとは異なる方向への転進であったからだ。もちろんそれを政治ショーにする術に長けていたのは疑いないにせよ。
これに反対するために2009年に政権を奪取したのが鳩山-菅-野田の民主党政権であった。
民主党政権は、子供手当ての拡充などの政策によって経済成長ではなく分配を重視する政策に舵を切った。
この政党のなかには多くの元社会党員が含まれていることなどと考えれば当然のことであった。

そして、今、国民は、この民主党にも背を向けて消去法(だろう)によって再び自民党を政権に就けた。
安陪自民党政権は、二つの道しか原則的に手持ちのカードがない。
ひとつは安陪総裁が選挙前から主張したインフレ・ターゲットを導入し公共事業を全国規模で推し進めることであり、これは古い自民党への回帰といえよう。このインフレ政策は、世界経済のマクロ要因によってデフレ経済が恒常化しているいま、物価は年率5%上昇したが給料は2%しか上昇しないということになりはしないか。国民は、経済の見通しを楽観し金を使うようになるだろうか?
いまひとつは、小泉流の経済成長路線への回帰であるが、これはインフレ政策を採ることはない。この場合にはおそらく労働法の改革や法人税減税が政策課題として議論の遡上に乗ってくると思われる。

これまでの安陪総裁の発言を見聞する限り、安陪第二次政権の経済政策は、インフレ・ターゲットを導入し、無制限な金融緩和・量的緩和と公共事業の組み合わせによってデフレを脱却、税収増を目指すものとなる。
小泉政権の経済政策によって、経済が成長したにもかかわらず格差が拡大し民主党に政権を奪われたという経験を持つ自民党としては、再び同じことはできないのだろう。

だが、これは大いにギャンブルである。
日本の長期金利がひとたび急騰し始めれば、これを押しとどめるために日銀は国債を買いまくるという危険な状況に追い込まれる。
すでに世界最大規模の日本の財政赤字の上にさらに建設国債まで発行し、それを日銀が買い取る(ということも検討されるだろう)ことまでやってデフレ脱却を目指すということは、短期的には財政収支をとりあえず無視して目の前の経済を浮揚させようというものであり、国民に聞こえはよいが、永続するものではありえない。

にもかかわらず、民主政治においては、政治家は国会に登るためには国民に痛みを押し付けることを可能な限り回避しようとする。
上記の意味でいえば、この選挙は非常に成熟した民主主義国家での選挙というにふさわしいものだ。それはもちろん良い意味ではなく、どの政治家も国民に阿ることをまず第一として長期的戦略を説明し、目の前の痛みを引き受けさせることに失敗しているのである。
それは言うまでもなく有権者たる国民の責任でもあるのだが。
とは言え、俺はどちらが正しいのか未だによく分からない。その知識と知恵がない。
イギリスのキャメロン首相の思い切った財政改革をたたえる人がいるが、他方でボロクソに言う人も少ないない。
山田法谷先生であれば、どうせよと仰るだろうか。


NYに向かうAmtrackから東海岸の寂しい冬の街並を眺めつつ記す

2012年12月16日日曜日

女は家庭を守るべき??

という人が増えとるそうな。

ちょっと理解を越えているので思うことを少し。

日本人の被雇用者の平均年収が約430万円。上昇する見込みなし。二十代男性のそれは平均だと300万円に届かないだろう。東京や東京近郊に住めば、家賃だけで100万円はかかるから、シングルインカムで二人の男女が暮らす場合、多くの若い夫婦の生活水準は一気に下がる。親から仕送りをもらいつつバイトで月10万を稼ぎ遊んでいた大学生の頃のほうがはるかに金持ちだったという冗談のような事態が起こる。

そんな時代に「女は家庭を守るべき」というのは、結局「女は家庭を守るために仕事をするべきではない。が、それでは経済的にやっていけないので結婚はしない、あるいはまだしない。結婚しても子供は作らない」ということにならないだろうか???
結婚は、一部の高所得の男性とその彼女だけができるものであるべきだと考える人はいないだろう。結婚はディズニーランドで巨大ネズミと戯れるようなものではないし、たまにドブねずみに足をガリガリ齧られるようなものでもありえるから、結婚=メリットだというのは嘘だとしても。

俺がこの「女は家庭を守るべき」を嫌うのは、この古色蒼然たるドグマ(教義)は、多くの若者が子を生み育てることを不可能に、或いは困難にしているとしか思えないからだ。
27歳の独身女性が「結婚したいんです。相手の年収は最低800万円。年は30まで。」というとき、彼女はシングルインカムで生活していくことを想定しているわけだが(おそらく彼女が育った家庭のように)、現実としてこの言明は「私はとても運が良ければ結婚しますが、たぶんできないでしょうね」と言っているに等しい。
男は、「自分の稼ぎでは妻子を養えないから」と萎縮する。女は母と同じ暮らしを夢見て高所得の男を探す結婚活動すなわちコンカツに精を出す。
だがその母が若いころというのは、トウショウヘイがようやく改革開放を宣言した頃だったり、韓国が軍事独裁政権であったりしたころの話なのだ。サムスンの携帯電話もユニクロのセーターもハイアールの冷蔵庫もまだこの世になかったころの太古の昔の思い出を妄想していては、もはや生き残れない。

上のURLの読売新聞の記事にもあるのだが、「妻が家庭にいること」=「家族を大事にすること」というのは一体全体どういうことだ?俺はそんなことを全然聞いたことがない。
誰がどう考えても、ある夫婦が「これからの時代は最高の教育を受けた者だけが生き残れる。そのために妻も家の外で稼いで子供に最高の教育を与える」と考えることは、とても「家族を大事にしている」といえないだろうか。「家族みんな収入が少なくとも小さな家で仲良くこじんまりと幸せに暮らしていけたらいいね」という人生観・家族間は、もはやこの世界では通用しない。日本という国がなくなって会社がなくなっても家族を守って生きていくことができるか?
世界中で貧しい人たちが少しでも豊かになろうと頑張っているのだから。シャープやパナソニックやソニーの経営がここまで傾き、日本の自動車メーカーがその東南アジアで車を作り始めた時代に、夫だけの給料に生活の全てを依存することのリスクは計り知れない。

もちろん、政治と企業の責任は重い。
俺が勤める会社の女性の総合職も、たぶんいろいろなことを我慢しながら、例えばベルギーやノルウェーの女性よりもはるかにしんどい思いをしながら、この男社会・男会社で働いていることだろう。彼女たちが、「結婚したらやめようかな」と思うのはさもありなんというところだ。だが、それでは駄目だろう。人材は資源なのだ。資源を使い尽くして戦わねばならん。出し惜しみをしている余裕は今の日本にはない。
アメリカ軍の戦闘艦の艦長になった女性もいれば、爆弾を吊り下げてテロリストへの攻撃に向かうF15パイロットの女性もいるだろう。そんな時代に、「女性は家で家庭を守れ」などというのは、長期的には民族消滅につながるものと考えるべきだ。

俺はここに自分が愛国的・保守主義的フェミニストであることを宣言する。
女性は、「肉食系男子がいない」と嘆くのではなく、自身が肉食のプレデターになってか弱い男を打倒し、蹴散らし、蹂躙し、殲滅していかねばならない。

なんだか10年前の姉貴の言っていたようなことを言っとるなぁ。
その姉貴と言えば、今は専業主婦で幸せに暮らしているのだから、まぁ世の中そんなもんだよ。

2012年12月15日土曜日

「断固として日本と闘争する」 by中国外相

ある英雄の、小説のなかの一場面。
 
「継之助は、この戦争の意味について考え続けた。ーーー美にはなる。
と いうことであった。人間、成敗(成功不成功)の計算をかさね
つづけてついに行き詰ったとき、残された唯一の道として美へ昇華しなけ
ればならない。「美を済す」それが人間が神に迫りうる道である、と継之
助は思っている。
ー考えてもみよ。と継之助は思う。
いまこの大変動期にあたり、人間なるものがことごとく薩長の勝利者にお
もねり、打算に走り、あらそって新時代の側につき、旧恩を忘れ、男子の
道を忘れ、言うべきを言わなかったならば、後世はどうなるのであろう。
ーそれが日本男児か。
と、思うにちがいない。その程度のものが日本人かと思うであろう。知己
を後世に求めようとする継之助は、いまから行動はすべて「後世」という
観客の前で振る舞う行動でなければならないと思った。」
 
「おれの日々の目的は、日々いつでも犬死できる人間たろうとしている。
死を飾り、死を意義あらしめようとする人間は、単に虚栄の徒であり、い
ざとなれば死ねぬ。人間は朝に夕に犬死の覚悟を新たにしつつ、生きる意
義のみを考える者がえらい。」
 
-司馬「峠」より
 

2012年12月11日火曜日

[FT]日本の再軍備を支持するフィリピン、中国との均衡探る

 

http://www.nikkei.com/article/DGXNZO49419940R11C12A2FF1000/

 
 
Quoting...

フィリピンは軍事的な自己主張を強める中国と対抗させるために、平和憲法で武力を放棄している日本の再軍備を強く支持するかもしれない。
フィナンシャル・タイムズとのインタビューでデルロサリオ比外相は「我々は日本の再軍備を大いに歓迎するだろう。地域でのバランス要因を求めており、日本は重要な役割を果たすことができる」と語った。
 中国を刺激する危険を冒す際だった発言は、南シナ海の実質的な領有権主張という中国の挑発に対するフィリピンの警戒心を映し出している。外相の発言はまた、平和憲法の改正と軍備の強化を主張する安倍晋三元首相の返り咲きが有力視される日本の総選挙直前のタイミングで飛び出した。
 日本の自衛隊を一人前の軍隊に格上げする憲法改正は日本に作戦行動上の多大な自由を許し、アジアの軍事バランスを変える可能性がある。
 公式の平和主義にもかかわらず、大型水上艦の保有は中国海軍の70隻あまりに対し、海上自衛隊は約50隻を擁する。アジア諸国からの日本の再軍備への支持は、憲法改正に向けて安倍氏を勇気づけるだろう。
 中国は日本の軍国主義の復活に対する不安を長く提起してきた。日本に植民地化された過去がありながら、日本の再軍備を容認するフィリピンの態度は海洋進出に積極的な中国に対する恐怖が、過去の侵略被害の記憶を打ち消す始まりになるかもしれない。
 今月、フィリピンは中国海南省の公安当局が、中国領とみなす海域に入った船舶を取り締まるとの発表に反対を表明した。また、中国政府は、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、台湾、インドネシアがそれぞれ部分的に領有権を主張する南シナ海のほぼ全域を自国領とみなす地図を掲載したパスポートの発行を開始。フィリピン政府は抗議のためにスタンプを拒否。デルロサリオ外相は「度を越した主張は国際法に違反している」と語る。
 東南アジア諸国は中国の「平和的な台頭」外交の突然の変更を懸念しており、米国の関与の復活を歓迎している。デルロサリオ外相は比米は米艦船の寄港や共同訓練を増やすことで合意していると、語った。各国はまた日本が実効支配する尖閣諸島(中国名・釣魚島)を巡る、中日のにらみ合いを注意深く見守っている。7月、日比政府は今後5年間、防衛協力を強化する合意を取り交わした。

2012年12月10日月曜日

制度としての結婚


時差ボケの週末。独房のようなマンションの一室で一人結婚について考えた。

自由奔放な(自由奔放でなくとも)婚前のセックスの結果女が子を孕むことが問題とされてきた理由は、その父が確定されないということだ。
もちろん今は、確定できる(女がセックス依存症でもなければ)。しかし、人類の歴史でそんなことが科学的に可能になったのはほんの数十年前のことで、つい最近のことに過ぎない。

一人の子が、誰を母として生まれたのかは明らかに分かる。3000年前でも現在でもそれは変わらない。看護師が名札を間違えでもしない限りは。
しかし、その子供が誰を父として生まれたのかということは、自明のことではなかった(男の支配欲というのはたぶんここに淵源を持つ)。古いキリスト教文化やイスラム教文化や儒教文化のいずれにおいても、女の貞節が極めて重視されたのは、恐らくこれが故である。日本の地方では大昔、かなり自由奔放な性行動が見られたというが、その場合には生まれた子をムラの責任として育てるか、さもなくば間引くということが行われた。つまり、父を確定する科学技術が存在しない時代においては、強烈なまでの閉鎖的社会(村八分の社会、さもなくば「村の責任」なんぞない)か、人権意識のかけらもない社会でのみ可能であったのが、自由セックスである。

頭の固い保守主義オヤジは、そもそもセックスそのものが悪であるかのように言いつのることがあるが、子を生み育てる大本になるのが男女のセックスなのであってみれば、それ自体が悪であろうはずがない。飯を食うのが悪だとでも言う気か。もしセックスを本質的に悪であると断定する文明があるとしたら、それは生殖を否定し民族の自殺を希求する文明であるから、そんな文明はとうの昔に息絶えているだろう。民族を殺すような文明が、道徳的であるはずがない。
そうであってみれば、婚前の自由恋愛=自由セックスが数多の文明において禁忌とされてきたのは、男女に対する道徳的戒律としてではなく、むしろ子の命を守るためであったと理解するのが適当だろう。もちろん、それが時代を経てやがて道徳的戒律となったということは言えるにせよ。

上記の意味で、結婚とは、ある男女が性的関係に入ることを宣明することであり、かつこれを公的な第三者に確認されることである。タキシードとドレスを着て米粒を頭に投げつけられることが結婚なのではない。役所に結婚届けを出して夫婦として登録されることが、結婚の本質である。
不倫が不貞行為として民法上の不法行為に該当するのは、まさに結婚という制度が意図していることに対して真っ向から反逆するものが不倫だからだろう。一昔前の姦通罪などはそのあからさまな現われである。
こう考えると、結婚とは、男女の間の関係を規定するものという外見を持ちながら(少なくともこれまでの俺にはそう見えた)、その本質はその二人の間に生まれていく子の命が守られ、育てられることを社会的に保証しようとする制度であるということが分かる。そのために、男女二人(あるいは最近では男と男、女と女を)を特別な法的関係にある二人として認めるわけだ。
結婚とは、夫婦のものではなく、子供のものなのだ。
そうであればこそ、いつくかの文明では一夫多妻もあり得た(明治天皇も側室を持っていた)。子供の命が守られる限りにおいて、一人の男が妻を何人持つかということはさして重要なことではない。繰り返しだが、子が「誰を父とし、母として生まれたか」が公証されることが重要であったわけだ(念のため言っておくが、俺は一夫多妻を支持しているのではない)。

法=国家は、子を守ろうとしてきた。なぜなら、子を生み育てることが、国家・社会の最大の関心事項であり、国防も外交も教育も社会保障も全て究極的には「その国家・社会において人々が子を生み育てられることを保証すること」にこそ政治の目的があるから(だからと言って「国民の生活が第一」と叫んで短絡的に原発は廃止だーなどと叫ぶ人たちと混同しないで頂きたい。)。

忘れたころにいつもこんな記事を読んでは落胆する。「女子高生、駅のトイレで男児を分娩し、直後に絞殺、死体遺棄」。
この殺された子の命を守るのは、誰か。
この子は母親の所有物、「モノ」ではないと宣言し、独自の法的人格を与え、守られるべき一人の人間として存在せしめるものは、なんなのか。それが現在、国家であろうことはいうまでもない。昔は、教会であり、ムラだったのかもしれない。それは国際連合ではないし、NPO団体でもないし、マスメディアでも隣のおばちゃんでもない。

人は生まれながらに侵すべからざる人権を持つ、そう法学部での最初の憲法の授業でそう教えられた気がするが、そんなものは民法を実効的に施行することができる有能な主権が存在しないところでは、なんの意味もない言葉だ。それは、子が生まれても、届け出る役所が存在せず、その子が殺されても「ある赤ちゃんがある男に殺された」としか報道されない社会であり、そこでは、殺人の対象も主体も常に匿名である。
主権のない社会では、「私は誰なのかよく分からない」、つまり自分が誰であり、誰を父とし、母として生まれたのかを証明することができない子供が多く存在するだろう。そういう状態であっても、権力(=暴力機関)が存在せぬほうがいいというような無政府主義者は、単なる無責任者なのであって、そんな人とは俺は口を聞く気にもならんのである。

結婚という制度は、いくらでも変わってもいい。生まれてくる命を守ることができる制度であるならば、その形態はどんなものでもいいはずだ。硬直的な制度に固執し、若者が子を生み育てられないような社会こそが、真っ先に変革されなければいけない。保守主義者は、憲法改正や国防軍保有や靖国神社について論じるのもいいが、本当に保守すべきもの、すなわち子の命についてもっと考え論じるべきなのだと思う。俺も含めて。彼らが崇める「伝統」といい「歴史」といい、それは命をつなぎ子供たちが自分たちは何者なのかを知り彼らの力で未来を切り拓いていくために必要なものだろう。

勉強不足!

2012年12月4日火曜日

終わらない内燃機関の進化

MazdaのCX-5が2012 Japan Car of the Yearに選ばれた。順当な結果だと思う。

商売で一番愉快なのは、新しい市場を自ら作り出すことだと思う。スティーブ・ジョブスが、iPhoneを作る時に「市場調査をしましょう」と言ったあるApple社員に対して、「ベルが電話を発明したときに"電話が欲しいですか?"と市場調査をしたか?!」と言ったらしいが、全く新しい、これまでにない商品やサービスを生み出した企業は、当たり前だがいつも新しい市場を自ら作り出し急成長を実現してきた。
ジョブスが復帰してからのIpod以降のApple、アフターサービスに注力してパソコン通販のイメージを一新して価格破壊を起こしたDELL、「終わった」と思われていたアパレル業界で「機能的で手頃な値段の日常着」たるフリースやヒートテックを生み出したユニクロ、エトセトラ、エトセトラ。

いま日本国内で小売業を中心に血を流すような低価格競争が繰り広げられているのは、端的に人口減少時代に入り需要が飽和しているために、あらゆる企業が同じものを他社よりも安く販売しようとするからだ。
それは、100円で商品Aを売っている会社の顧客を、90円のほとんど同じ商品Bで奪うということであって、市場原理の最も分かりやすい現れではあるがけして新たな市場を作り出すものではない。
小さくなり続ける見込みのパイを奪い合う血みどろの戦いである。

この視点でMazdaのCX-5を眺めてみる。すると、この商品は、日本のミドルクラス乗用車市場に新しい価値、新しい選択肢を与えたものであることが分かる。

それは、「ディーゼルエンジンなのに環境負荷がガソリン車並みに低く、パワーは4LのV6エンジン車並みで、街中でもリッター当たり10kmを確実に走り、住宅ローンを持つサラリーマンでも手が届く価格帯のSUV」というものだ。

少なくとも日本市場にこれは競合がいなかった。
42kgものトルクのSUVといえば、まぁ誰もが街中での燃費は5~7km/Lで我慢していたんじゃなかろうか。むしろ大排気量と大パワーを誇るかのように「まったく燃費が悪くてねぇ」と言うような人にも会ったことがある。おまけにこういう過去のディーゼル車の出す排気と煤ときたら、今ではもはや信じられないほどだ。

5パーセントに全然足りぬ日本の乗用車市場でのディーゼル車の割合は、CX-5の登場が起点となって上昇していくに違いない。おそらく他の日本車メーカーも参入するだろうし、クリーンディーゼル技術では日本車より一世代先を走るドイツなどの自動車メーカーもこれから日本でのディーゼル車のラインアップを増やしていくだろう。最近、BMW Japanが基幹車種の3 Seriesに最新のディーゼルエンジンを積んだ320d Blue Efficientを追加したのはその一例である。

これから日本のドライバーは、燃費効率が良く、財布と環境への負荷が相対的に低い車を選ぶ際には、ハイブリッドと軽四自動車に加えて、より広い選択肢からディーゼルを選ぶことができるようになる。
それによって未だに高いハイブリッド車の価格が下がってくることも十分考えられるし、石炭を燃やして作った電気で走る電気自動車(どこがエコなんだろう?)のさらなる技術革新を生むかもしれない。

ディーゼル車の強力なトルクと高燃費=長大な航続距離は、明らかに長距離の高速巡行に最適だと思う。今はまだハイオク=高級車というイメージがあるが、将来にはディーゼル=高級車というイメージにとって代わられるかもしれない。
都会に暮らし都会で働くが、週末は数百kmを走って野山を子供と駆け回るという若い家族やカップルには、強力なパワーと高燃費のディーゼルSUVは最適解になるだろう。

が、一つ不満も言っておこう。
昨日義兄のCX-5 2.2L XDに乗ったが、やはりBMWにはまだまだ敵わない。CX-5は速く快適だが、それは馬車の速さであり快適さであって、馬の背に自ら跨がって野を疾駆する時の、生きた馬の鼓動を右の足の裏にピリリと感じるような「駆け抜ける喜び」は、やはりBMWのものだ。
広島のエンジニアさんは、「BMWとは競合しないから」などとは断じて言わないはずだ。競合するまでになって欲しい。会社の規模はフルラインアップメーカーはるかに小さく後輪駆動の高級車は作らぬが、しかしステアリングを握りアクセルを踏めば走ることそれだけに夢中になってしまうような車を作って欲しい。しかもそれを誰もが手にいれられる価格で。
Mazdaの株価もCX-5の好調な販売と円安もあって150円を目指そうかというところまできた。新たに登場した新型アテンザと来年登場する新型アクセラに期待をかけるなら、まだMazda株は買い時かもしれない。しかし、アクセラにも2.2LのTurbo?べらぼうに俊足のハッチバックになりそうだが。

腹が膨らめばさえすればいいというなら吉野家やファミレスに行けば良い。目的地までただ移動できればいいというならミニバンを買えばいい。燃費効率だけを求めるならシロモノ家電にタイヤをくっつけたようなハイブリッド車を買えばいい。
だが、これだけの巨大自動車生産大国となった日本に、「車は移動のために手段以上のものなんだ!」と主張するメーカーがなければ、やがて日本車メーカーは、今のシロモノ家電メーカーと同じ末路を辿るような気がしてならぬ。

だから、このCX-5が広島から生まれたことは、画期的なのだ。

トンネル崩落事故と国土強靭化

中央道のトンネルの天井落下事故。
経年劣化のせいだともいわれている。
戦後日本では初のこういう形式の事故だという。
 
折りしも衆議院総選挙が告示される2日前。
15年間で200兆円を土建に費やそうという国土強靭化法案をこの6月に提出した田中角栄の亡霊に違う理由でしがみつくかのような自民党は、選挙戦で「インフラの更新、強化が必要です!あんな事故はいやでしょう!」と言いまくるだろうな。建設国債をどかどか刷ってか。
京大の藤井さんという教授の「国土強靭化」なんちゃらという本を夏に読んだが、俺にはいまいちピンとこなかった。
国の借金で土建屋さんに200兆円を落として、それで経済が回転し初めてデフレを脱却できるということなのか?
自民党の一大票田たる地方の旧地主階層が地価の下落で困窮している今、これほどの手を打たねば地方に金は回っていかぬということの証左だな。
それってモルヒネでは痛みを消せぬ患者に純粋な麻薬を打っているように思えるのだが。
200兆円。一年13兆円である。税収が40兆円そこらの国で。
 
さっそく警察がネクスコ中日本に業務上過失致死容疑で捜索に入ったらしい。
この国では、警察が「犯人」をしばき上げるときほど、怪しい。
たとえば5000万人の年金納付記録が消えたあの大犯罪の責任は誰かとったか?
 
なんだかねぇ。
 

2012年12月2日日曜日

岡山フルーツ農園

城東野球部12期同期の高原の会社、「岡山フルーツ農園」。
岡山にお住まいのパパさんママさん、ちびちゃんをつれてイチゴ狩りに是非どうぞ!

高原曰く、

「ディズニーランドより楽しませるで」

http://www.okafuru.com/


平凡ね

平凡でいいと人はいう。

偉大なる平凡に対して、保守主義は常に敬意を払ってきた。
どんな出来事にも浮き足立つことなく着実に毎日を仕事を積み重ねていく、常識と伝統を備えた偉大なる平凡こそが、翻って非凡なる何かを蔵するのであると。
俺もそれはそうだと思う。
そういう地に足のついた人間たちが俺らの命をここまでつないできたのだと思う。

だがね。

頭から平凡に生きろと言われては腹が立つ。俺が夢見がちな糞餓鬼だからか。
平凡な人生をこれまで生きてきた俺が、残りの人生でいきなり平凡を脱していくことは考えにくい。
そりゃそうだろう。

それでもね。

歴史はけっして「自分は平凡な幸せだけが得られればいい」と考える人間だけによっては動いてこなかっただろう。

ふぅ。

何が自慢の息子だ。
笑止千万だ。
俺が何を成したというのか?
通信簿にオール5をとってきてママに褒められる優等生のようだな、貴様。
命を喰い散らかしてただ好き勝手に30年を生きた。それだけのことだ。
何のために???

頼むから俺を恥じてください。
この自堕落で人間嫌いで風呂で読書するつもりがいつも居眠りして本を水浸しにするばかりしているこの意志薄弱な糞野郎を。

昔俺は狼ではなくとも野犬ではあった。少なくとも野良犬ではあった。
それがいまやぬくぬくと、臭い人間どもに飼いならされたラブラドールレトリバーになってしまったように感じる。
ドッグフードを噛み砕くためだけの牙ならそんなものは捨ててしまえ。

何に苛苛しているのか分からんが。
まぁ、平凡に生きることも大変なのだというのだろう。
平凡に生きようとして平凡に生きられるほど安楽な世界はもはや俺の眼前にはない。
俺は俺を嫌う。その精神も肉体も木っ端微塵に切り刻んで産業廃棄物に混ぜて捨ててしまいたいほどだ。

「おめでとう」という言葉は、「おめでたいねぇ、あなたの頭の中は」というふうに理解するのが正解である。

東京八重洲の富士屋ホテルのロビーの100円PCにて記す

2012年11月24日土曜日

日本より

○四ヶ月ぶりの日本に向かうANAの座席から、アメリカ大陸の大地を眼下に見やりつつ、黄金に煌めくプレミアム・モルツをクピッと飲む。窓から流れては消えて行く五大湖周辺の山並、湖、河川を眺めては、様々なことを思いつつ、ボロボロの「ツァラトゥストラ」をまた開く。馬鹿の一つ覚えを馬鹿にしたら馬鹿をみるよ。
誰にも邪魔されず、しかし珈琲もスナックもうどんも頼めば持ってきてもらえて、読書と思索に耽ることができるこの雲上の空間は何物にも変え難い。
ANA頑張れ!JALなんかに負けるな!

○憲法に「国防軍」を記載するのはだめだ、平和憲法の否定だという公明党と民主党は、国防軍を保有する世界の全ての国をいちいち批判して回ってきたらよろしい。大変な旅ですな。
なんなら自衛隊よりもっと守り重視で、「専守防衛軍」とでもするか?そしたら名称の馬鹿らしさでは、よく侵略をする「人民解放軍」といいとこどっこいだな。

○テレビ事業でこけて興亡の危機にある日本の家電メーカーは、薄型テレビで人々をどう幸せにするか真面目に考えたんだろうか。
韓流ドラマを強い円で安く仕入れて右から左で電波に垂れ流すだけのテレビ局は、もはやテレビの将来になんの希望も持っていないんじゃないだろうか。
日本の薄型テレビに映る韓流ドラマをみるともなくみるとき、怠惰と惰性と現状追認が組織の将来にとっていかに危険なものであるかを痛感する。

○「元商社マン」などと自称してブログを書く人間は、「御國ノ山桜」と自称する阿保よりさらに救いようがない。
なんなんですか元商社マンって。
俺は元高校生だぜ、すげえだろ〜

2012年11月23日金曜日

アメリカの強さ

アメリカやイギリスに、たぶん差別はあるのだと思う。オフィスや街頭の清掃をしているのはいつもヒスパニックだし、ビルの警備員はほとんどの場合黒人だ。

しかし、それでもアメリカは(どれだけたくさんの短所を抱えているとしても)尊敬に値すると最近思う。

米国最大の原発事業者の燃料購買担当の部長級に、韓国からの移民二世がついていたり(関西電力の部長がインドネシアからの移民二世ーということがあり得ると考える人は、あまりに世間離れしている)、黒人の課長が白人女性の上司であることは当たり前だ。オバマさんが大統領になる国なのに何を今更と言われそうだが、これはすごい事だ。
日本などよりはるかに徹底した能力に依存した人事評価の在り方が、より優秀な人間をあるべき立場に押し上げることを可能にし、それが国力の源泉になっている。

ほんの50年前まで黒人は黒人だというだけで法律によって白人と同じバスに乗ることを禁じられていたのだ。
それが、ゆっくりかもしれぬし、高所得のホワイトカラーの仕事は未だに白人が圧倒的多数を占めているとはいえ、着実に変化しているように感じる(数字を出すべきですな)。

そこにあるのは、さらによい社会、国を自らの理想に従って作って行くのだという恥ずかしくなるほどの真っ直ぐな思いだ。
正しいことは何か?ということをこの国の民は問わずいられないのだ。そして、時には正しいと信じることを武力を用いてでも実現しようとしてきた。
これはシニカルな欧州人には、歴史知らずの馬鹿げた楽観主義として片付けられるのだが、それでもアメリカはこの善への止む事なき強い希求をやめない限り、強烈で多様な巨大国家であり続けるだろう。

オバマ大統領の選挙後の勝利演説での山場は、「アメリカの最高の時はこれからなのだ!」というシャウトだった。
数多の問題が山積しているのに、俺でさえ、そうかもねぇと思わされるのは、たぶんオバマさんの饒舌で情熱的な演説のせいだけではないだろう。
アメリカはまだ若い国だ。
初の黒人大統領を得てから4年、この国はいよいよ真の多民族国家になっていこうとしているように感じる。

ルターの名を与えられた革命家であったマーチン・ルーサー(ルター)・キング・ジュニアのような偉人の努力は、こういう形でアメリカの大地に結実しているのだと思う。

2012年11月22日木曜日

ガス喰い3.7L(V6) Mazda 6

夢を語る奴が地獄の扉を開く

いま核兵器廃絶は可能だ!と言っている法螺吹きは、時代が時代なら大東亜共栄圏を築くのだ!と叫んでいたに違いない。
核兵器のない世界が核兵器のある世界より断然安全で安定しているなどと考える根拠は一体全体なんなのだろう。
核兵器が誕生する前から人類はそれはそれは盛大に戦争をしてきた。

次のハイエクの言葉の国家を世界に変えて読んでみるといい。

「国家をこの世における地獄と絶えずしてきたのは、国家をこの世における天国にしようというあの努力以外のなにものでもない。」

フランスが持ち、中国が持ち、アメリカが持ち、イギリスが持ち、ロシアが持つ核を日本だけは、いや、日本は持つことについて議論することさえだめだという人間は、たぶん「日本人は危険な人種だから核兵器を持ったらすぐに北京に向けてミサイルを発射するだろう」とでも考えているんだろう。

核兵器は悪である。
だが、人間社会から悪を一掃してしまえば善だけが残るなどと考えられるのは、あまりに幼稚な議論だろう。
悪も受け入れるから大人なのであって、悪を受け入れても悪に染まらないから大人なのだ。

橋下大阪市長の「核兵器廃絶は無理」発言に対する長崎市長の「ご存知ないのではないか」発言に呆れて。

2012年11月19日月曜日

ニーチェの死生観 2

マーク・ローランヅは、「死が我々にとって悪いことであると考えられているのは、我々が死ぬことによって何かを失うと想定しているからだ」と言うのだが、ニーチェはかく言う。

「死ぬという行為は、一般に畏怖されていることが物語るほど意義あることではなく、また、死につつある者は、彼がここでまさに失おうとしているもの以上に重要なものを、生において多分に失ってきただろう。」

ー『曙光』

言わんとしていることはこうだ。

「死が目の前にやってくるその時までぐうたらしてきた人間が死んで何かを失うだと?気様の生を振り返ってみるがいい。いきなりここから先の人生が仮にあったら自分はもっともっと素晴らしい人間になれるのだーなどとはゆめゆめ夢想せぬことだ。妻がいきなり貴様が死んだ翌日に絶世の美女になることもなければ、貴様のその悲惨なほどたるみきった腹が明日へこむこともなく、上司はこれからも苛立ちの原因であり続けるだろう。これから先まだ余分に生き永らえたとしても、メインのステーキはもう既に残っておらんのだよ。あまりドタバタ騒がぬほうがよい。」

思うのだが、かつての日本の軍人が、「天皇陛下のために死ぬことが当然だと思っていた」というのは嘘ではないと思う。つまり、我々の時代の死への恐怖も、かつての大義のための死の礼賛も、実のところ珈琲と紅茶の違い程度の差異でしかない。我々の時代の死への構え方が正しいわけでもないし、過去は誤っていたわけでもない。死の恐怖も死の礼賛も、作られたものであるから。

キリスト教においては、アダムが神の言葉に背いたので、人間は永遠の生を失い神と離れて生きることになった。すなわち、人間が人間であるというそのことに由来する、あの、原罪。
この原罪の思想は、生を貶めることになった。死後の世界と生の二元論、そして前者を賛美し、後者を蔑み、両者をつなぐ接続点として死を認識するのがニーチェがひたすら批判したキリスト教の基本的な死生観である。この死生観からすれば、死後の魂をありがたがり、生における肉体を軽蔑することは自然なことだ。

マーク・ローランヅは言う。
「狼にとって、死は本当にすべての終わりである。そうであるから、死は狼を支配しない。」

だが、ニーチェは、「人間は死ねば土に還っておしまいよ」という世間でよく耳にする唯物論的な死生観をとるわけでもない。つまり、生きている時は死んでいないし、死ぬときにはもう生きていないから問題なしとはニーチェは言わぬ。
(だから、ニーチェはたまらなく魅力的だ)

ニーチェはここから、死を何か別の異世界への連結点とみなす見方も、死を生から完全に排除して無視を決め込むことも拒否することになる。

そして、登場するのが、そう。
生即死の絶対肯定へ至らんとする、永劫回帰の一側面である運命愛である。

ニーチェが次のように死を瞬間ごとに「死に切る」ことを、語る時、ニーチェは完全に山本常朝(「葉隠」)とほとんど同じ場所に立っている。

「誇らしく生きることがもはや不可能ならば、誇らしく死ぬこと。自発的に選択される死、明るく、喜ばしく、子供たちや立会人の真ん中で遂げられる、時宜を得た死。」

ー『偶像の黄昏』

自殺推奨でないので、ニーチェはこうも言う。俺はこれを読んで一人大笑いした!

「自殺の評判を悪くしているのは自殺者である。ー逆ではない!」

「あらゆる生の瞬間が、同時にまた、死を死に切る決断の場だということ」(新田)というのは、まさに、かつて武家の子供たちが親や教師より叩き込まれた「生死一如」という存在の在り方である。

以上は、新田「ヨーロッパの仏陀ーニーチェの問いー」二章の読書メモです。

独り言

○かつてのモーニング娘もそうだが、アイドルとしての『賞味期限』がくると、「もう君は若くないからさようなら」という代わりに「卒業」という偽善の言葉が使われる。今年プロ野球から解雇された選手にも「プロ野球を卒業」って言ってやったらどうだい。プロ野球のほうがよっぽど健全だな。
アイドルの世界が健全であるはずがないんだが。

○沖縄で今度は女性宅に米海兵隊兵士が住居侵入で現行犯逮捕(11月18日)。北京が若い兵士に金を握らせているといぶかってしまうんだよなぁ。じゃないと、そこまで阿呆じゃないでしょう。アメリケンの軍人さんも。
ともあれ、北朝鮮の強制収容所みたいなものに米軍基地を造り変えてしまえたら、いいのにねぇ。
おぉ、俺が政治家ならけっこうこれ問題発言ですな。
だけど、「自国に他国の軍隊があるのは異常な事態(必ず駄目というわけではなく)」という意識は忘れちゃだめだよ。
ところで沖縄の平和主義者のみなさん!そろそろ自主防衛のことを考えてくれてもいいのでは?これだけ米兵の「侵略」に晒されているのだから!

○アメリカの生活は、たぶんほとんどの日本人にとって快適である。倉敷に暮らし、イオン倉敷で映画を観て、イオン倉敷で本を買い、イオン倉敷で子供服を買い、イオン倉敷のスターバックスで珈琲を飲み。。。という最近の日本の田舎のどこにでもある郊外型巨大モールのある暮らしになれた人にとっては、恐らくなんの違和感もなく住みつけるだろう。必要な英語なんぞほんのわずか。
俺がトックヴィルのように「アメリカって違うなぁ」と思えないのは、単に俺の鈍感の罪の故だけではないと願いたい。

○民主党に投票するのは従来からのコテコテの民主党びいきの人だけだろう。さりとて、かつていかにも弱そうな顔をして首相の座を降りた安倍氏を再び首相に就かせたいと思う人も多くないんじゃないか。俺はそう思う。この選挙は、自民vs民主vs維新というよりも、恐らく自民・民主vs維新という構図になるだろう。実際にはうまく配分されるのかもしれぬが。

○メキシコに今月上旬に行った。チワワが野良犬になって歩いていたので、「さすがメキシコ!」と思った。チワワはメキシコの街。メキシコがこれから成長していくことができるかは、中央=メキシコシティの利権を如何に地方に分配していくことができるかにかかっているように思える。そういう意味では、田中角栄的な利権政治も、確かに戦後の高度成長にとって重要な一里塚だったのだ。今現在有効であるかどうかは兎も角。その意味じゃ、利益誘導政治、マンセー。

○亀田氏曰く、不倫騒動の渦中になる元CIA長官のぺトレイアス氏は、不倫相手とのコミュニケーションを面白いやり方(最新のテロリストの交信方法)で行っていたそうな。
それは、アウトルックの下書きフォルダに伝えるべきメールを残し、それを二人だけの秘密のコードによって互いに閲覧できるようにしていたのだと。メールは送信してしまうと必ず外部のサーバーに残るから。
まぁしかし。ケネディ、クリントンは言うに及ばず沢山の政府高官(というより大統領...)が不倫をしまくっているのがワシントンDCという街だ。ホワイトハウスでの不倫は、ちょっと冒険的過ぎるんじゃないかと思いますよ。

○首相官邸前での脱原発デモでアジ演説もやり民主党首脳部から白い目で見られていた鳩山氏に、安住幹事長代行は、「民主党の公認が欲しいなら党の公約を守れ」と言ったそうな。
もうこうなったら鳩山氏は管氏と組んで「脱原発党」を結成して脱原発デモのなかから候補者を擁立して戦えばいいじゃないか。福島でなら、勝てるかも???

○京大である先生が言っていたことを最近思いだした。
「日本は、百万人に一人の馬鹿が130人いる国です。ところが中国には、1百万人に一人の馬鹿が1300人もいるんですよ!」
博愛主義者と平和主義者も同じ数だけいることを祈り祈り...

○これから法然の研究を始める。

○来週京都に行く。鴨川→賀茂川を散歩してグリル長谷川ででかいハンバーグを食べて、205系統(バス)で四条河原町のBALで買わないといかん日本語の本を買い込む。優子さんが認めてくれればですが!紅葉はどうだろかね。

○人と会うとこういうくだらんことを順不同でバーっと話したくなって、やがて酒も入ると支離滅裂になる。あまりよろしくない悪癖。だからここに書いておこうっと。さて、走ろかね。

フォークランドと尖閣


俺が生まれた年に1982年は、国際政治上の出来事で言うならばフォークランド戦争の年である。アルゼンチン東方の海上に浮かぶ英領フォークランド諸島(アルゼンチン名:マルビナス諸島)にアルゼンチン軍が上陸したことをきっかけとして、「鉄の女」サッチャーは、英国より攻撃型原潜と空母を含む艦隊を南大西洋に派遣した。ミサイル時代の西側対西側、先進国対先進国の戦争ということで、戦術的にも非常な注目を集めた戦争であった。勝利した英国側も600名以上の兵士を失い、アルゼンチンはそれをはるかに超える犠牲者を出した。

この紛争は、尖閣諸島をめぐる日中の対立と一見似ている。
尖閣では未だ戦争が起こっていないことを除けば。

だが、本質的な違いがある。
英国とアルゼンチンの対立は、アルゼンチン側の国内政治上の要因があったにせよ、それはかなりの部分が旧来的な領土紛争がエスカレートしたものとして説明しうる。だからこそ、この戦争の後特に両国関係が悪化してもいない(別にバラ色の関係でもないが)し、再び戦争が起きてもいない。

他方、尖閣は、純粋な意味での領土問題を超え出たものを含んでいる。それゆえに、性質が悪いのだ。

では領土問題を超え出たものとは何か。

人口13億人、兵士だけで数100万人を擁し、15年近く年率10%の経済成長を遂げてきた新興大国中国は、当然のように海洋覇権を求める(これを「当然」と考えるかどうかは、その人の世界観、歴史哲学に大きく依存するもものであることは認めよう)。例えばアメリカが、メキシコ湾やカリフォルニア沖やニューヨークのハドソン川の河口に中国の軍艦が遊弋することを看過できぬように、成長し自信を得た中国にとっては、東シナの海に自衛隊や米海軍の艦船にうろちょろされることはどうしても認められない脅威なのだ。
そうであるから北京は、近代的な外洋艦隊を作り上げようとこの10年間にわたって必死に頑張ってきた。
(海軍というのはだいたいどの国でも持っているのだが、長期間にわたって外洋で大規模な作戦任務を行うことができる海軍を持つ国は多くない。米国、日本、英国はまず間違いなく、次いで仏国、露国。それ以外の国は、自国から遠く離れた海洋において数カ月にわたって艦船を運用する経験やノウハウを保有していない。韓国海軍にしてもその経験はほとんどない。中国海軍は、今まさにこの外洋海軍=Blue Ocean Navyに生まれ変わろうとしている。)

尖閣諸島を日本から奪うことは、中国にとっては、西太平洋の米海軍+自衛隊の圧倒的な海上優勢に対する挑戦という野望にとって避けられぬ道程なのだ。そして、尖閣の次には沖縄が控える。
卓越した海軍軍略家であり、秋山真之がワシントンで師事したかのアルフレッド・セイヤー・マハンが言ったように(「海上権力史論」)、通商国家にとっては海上の支配権は絶対的に必要なものだ。海外からの資源・エネルギーにますます依存し、欧州・日本・米国との貿易により富を得る北京が、その物資の運搬ルートを他国、しかも北京が仮想的とみなす米国の手のうちにあるままでいいと考えるだろうと想定することは、中国人にとってのこの100年の屈辱の歴史を十分に理解しないナイーブな議論である。
仮に尖閣を強奪したとしても中国の西太平洋への勢力伸長は絶対に終わらない。それは終わり得ないのだ。それはあたかも水が高きから低きへ流れるかのごとく、力が外部に膨張し張り出してくる国際政治上の不可避の過程である。

やがて中国と日本・米国はさらに厳しく対立することになるだろう。
国際政治秩序の変更は、多くの場合戦争によって行われてきた。かつて日本が東アジアの地域覇権国として台頭した時には、日清・日露の二つの戦争が地域の国際政治秩序の変更・更新のために戦われた。普仏戦争は勃興するプロシアが分裂していたドイツ諸侯をプロイセン主導によって統一し大陸欧州最強の国家であることを宣明したし、第一次世界大戦は英国の世界覇権に終止符を打ち米国に新帝国としての地位を与えた(アメリカは当初全然やる気がなかったが)。
こういう歴史の意味を我々は十分に理解した上で、尖閣について中国に対しなければならないし、また「尖閣以後」についても戦略・戦術・軍備を備えねばならない。

30日連続で中国の政府監視船が尖閣諸島の接続水域を航行している。
この船は、ペリーの後150年の時代を経てやってきた新たな「黒船」である。それが意味するものは、日本人に「戦ってでも生き残る意思があるのか」という問題、日本人が戦後ひたすら放り投げ無視し続けてきた重大なこの問題を我々に投げかけている。
単に「ある領土問題を如何に解決するか」という次元に還元することはできない。

正しいことを求めても始まらんよ


真理、確かなるもの。
人間はそういうものがないと一日たりとて生きていけぬ動物であるらしい。
かつて人間はそういうものを神に求めた。だからこそ、神、司祭の膝元に屈した。
今は、ファッション雑誌とインターネットとテレビ番組のなかに求めている。
ファッション雑誌に登場するモデルが神の子供のように若い女性に崇められ、インターネット・インフラを提供する会社が急成長し、テレビ会社の社員の給料が最も高給なのはこういうそのことの反映である。人間は教会に行く代わりに携帯電話とテレビから世の「情報」を得て、それに従い、それに適うように振る舞う術を覚えていく。それができぬ人間は、「空気が読めない」だの「変人」だのと言われることになる。昔風に言えば、「異端」というわけだ。
世の中に真なる理、それ以外のものを誤謬としてしまうような唯一の真理があるとか、普遍の確かなるものがあるなどというのは弱さの兆しである。
確かなものなど何一つない。真実など、国家の数だけ、人の数だけ存在する。
そして、だからこそ、革命がこれからも必要であるし、革命は今も可能なのだ。

かつて法然は、比叡の山を降り、「ひたすらに阿弥陀仏を唱えさえすれば、全ての人間は極楽往生できる」と唱えた。1175年のことだ。
当時、中世温暖期を前半と後半に区切る気候悪化の時代だった。それによって洪水、干ばつ、長雨によって各地で飢饉に見舞われ、さらに大地震によって都が大損害を受けた。隆盛を誇った平家も没落し、都では強盗が横行し、世は乱れに乱れた。
そんな時に、革命家・法然は、それまでは貴族・武士などの特権階級に限られていた仏教の極楽への門を民衆に開放することによって弱者を救済し、女性を救済する新たな宗教革命を行ったのだ。この法然の革命は、その後親鸞へと引き継がれ、偉大なる鎌倉仏教の盛華へと繋がっていった。佐々木中氏に倣って言うと、彼は「革命戦争」を行ったのではない。法然は、書き、語った。そして、革命はなされた。
革命は、人が生きるために、人が命を繋いでいくためになされる。それは、なされてきたし、これからも社会が、国が危機に陥るたびになされるだろうし、なされねばならない。

2012年11月12日月曜日

早や11月か


さっきBethesda界隈を散歩していてふと思ったのだが、織田信長をニーチェが知っていたとしたら、ニーチェは信長を彼のいう「超人」だと礼賛したのではないか。ニーチェはキリストの「神は死んだ」と喝破したが、信長は叡山の僧侶を皆殺しにした。
馬に乗りポルトガルのマントを羽織る信長をヘーゲルが見れば、ナポレオンを彼が見た時と同じように「世界精神が目の前を通る」と言ったに違いない。
ところでニーチェの「超人」とは、彼の想像した究極の人間存在の謂いであるが、これは英語だとスーパーマンとなる。なんだか青と赤のあのスーパーマンの姿が想像されて、ちょっと滑稽。


アメリカで本屋は軒並み苦境にあるそうな。理由はもちろんAmazonKindle
そのせいで、減少中の本屋に行ってみるともうすさまじい光景である。
ある大学生らしき20代前半の女性は、専門分野の分厚い本を10冊ほど二人掛けのテーブルに積み上げ、隣のスターバックで買ってきた巨大なカフェラテを机に置き、ノートパソコンを開いて椅子の上で胡坐を書いて熱心にレポートを書いている。
ここは図書館ではなく、普通の本屋である。そして、たまに店員がやってきて、「この本は棚に返してもいいか?」と尋ねると、使い終わった本だけ「はい、これだけ返しておいて。どうも。」という具合で数冊本を手渡す。これを何時間でも机を占拠してやるわけである。
彼女は全然特別ではない。同じことをしている人が周囲にいくらでもいる。当然WIFIが飛んでいる。
つまり、本屋は本を買うところではすでになく、立ち読みするところですらなくなっている。それは、すでに「本を借りられないけど無料でWIFIが使えてそばにカフェもある図書館」になっている。この状況で本屋が必要とする売上を上げることは困難と言うほかない。
まぁ考えれば当たり前の話で、アイフォンを使えばAmazon30秒で本を注文して2日後には送料格安で自宅まで本が届く時代に、わざわざ本屋に行く必要は全然ない。多くの場合、人件費や店舗賃貸料が上乗せされるために本屋のほうが割高なのだから。
とはいえ、それでも俺は本屋ならではの武器があると思う。それは、背表紙をこちらに向けてずらっと陳列することができるあの一覧性と網羅性である。Amazonは確かに俺が過去に購入した本の履歴から俺が興味のありそうな本をいつも推薦してくるのだが、間違ってもマルクスについての新著を紹介してくることはない。Amazonのコンピュータが分析するより俺は幅広いのだよ。俺は丸の内の丸善では、哲学・政治思想関連の本棚は保守主義からマルクス主義まで舐め回すようにチェックするのである。ついでに言えば、近代建築の写真集を30分も眺めていることもあるし、合気道の入門書を一生懸命立ち読みしていることもある。ヘラブナ釣りの雑誌やヤクザ専門雑誌(実話時代)も読む。さらに本屋は図書館とは違って、タブロイド雑誌も含めてありとあらゆる雑誌や新書を雑然と陳列することによって、世相を見事に反映してもいるから、浦島太郎はまず大型の書店に行けば時代錯誤をいくらかは解消できるだろう。
だから、俺は本屋が適正利益を上げ続けられるように、小さな努力でしかないが本屋である程度は本を購入し続けようと思う。レストランがない街や居酒屋がない街に暮らすことはなんともないが、本屋がない街に暮らすことだけはできないと思うから。
物があふれる時代には、本の有難さは忘却される。誰も「本が手に入らない時代」があったことなど想像しない。だが、ほんの500年前、人々は権力に対抗したり教会からの迫害を避けながら、たった一冊の本を全て手で書き写し、読めぬ人に語り聞かせるということをやってきたのだ。そういう「読書」に比べて、我々の「読書」のなんと貧相なことか。
「趣味は読書です。」という人間は阿呆だと思う。物好きで本を読む人間は、娯楽としてしか本を認識できない。自分の人格の外部に本を置いてそれを搾取するかのように漁る。浅ましいことだ。そうして得た情報について知ったかのように振る舞い始めたら、これはもう情報への隷属である。隷属を強いるかのように書店に並ぶあのファッション雑誌。誰に命令されているのか。


生活に思想を与える。俺の一分一秒全てに思想を持たせ、思索の上の断固たる決意の上に生きる。それが意味のある人間の在り方だ。どこに所属しているかなど知ったことか。
何をするか、ではなく。如何に在るか。問題はこれなのだ。


自由が尊いものであるとして、それは何故か。
それは、意思が外部に顕現する場として自由があるからだ。
つまり、自由そのものには価値はない。
サッカー場は素晴らしいプレーを見るために必要であるが、サッカー場だけを見に来るサッカーファンがいないことと同様に。


ニーチェ、狼、永劫回帰、革命。
このあたりがここ18カ月ほどのキーワードなのだが、ニーチェは人間のなかで最も狼的な人間である(マーク・ローランヅ風に言うと)。ニーチェは、商売人にはなれなかっただろうし、詐欺師にもなれなかっただろうし、教師にもなれなかっただろうし(どんな講義になるのか考えただけでワクワクするが)、政治家にもなれなかっただろうと思う。もちろんいい夫や父にもなれなかっただろう(宗教家にはなれただろう)。ニーチェはサルではなかった。
端的に言えば、ニーチェは「ニーチェ以外ではあり得なかった」のだ。狼が、狼以外ではあり得ないのと同じように。存在せるものの本質的な美しさはここにしか生まれない。「私は一個の爆弾である」。いやー、よう分かりますよ。毎日炸裂してますよ。


人間は、醜い。外見が、美しくない。狡賢さが表情に表れているような人間は、特に醜い。
そう思うことが最近とみに多い。
イルカやシャチが高速で海洋を疾駆する姿、南極海をペンギンが滑空するように泳ぐ姿、大空をイヌワシが羽ばたく姿。
他方、ホモサピエンスが机の前に猫背になって神経質そうにカタカタとなにやら叩いている姿、ホモサピエンスが酒を飲みながら酔っぱらってフラフラになっている姿。
野生動物だから動物園の檻に入れられてもまだ見るに耐えるのだが、反対に人間が動物園で檻に入れられたら、見るに堪えない光景になりそうだ(別にヒューマニズム的な意味でこう言うのではない。俺はそれほど人間愛に溢れる男ではない)。
しかし、さりとてゴキブリは美しいとは思えぬ。


妻と子供の関係は特別で、そこに父や夫の入り込む場所はないような気もする。が、それでいいのだと思う。男の役目は安全保障。軍と同じ。軍は、平和が維持されているからといって、「俺のおかげだぜ!すげぇだろ!」なんて言ってはいけない。
妻子と男の間には距離があるし、またあってしかるべきなのだ。いつも妻と子と仲良しの「パパ」になってしまっては男に生まれた甲斐がない。
男はただただ精神と肉体を鍛え続け大人の男になるための訓練を、ひとりで地道に淡々と毎日続けていくのだ。家庭を持ち自己をそこに埋没させていくーしかも自ら進んでそれをやるー男ほど、実は家庭をぶち壊しがちなのだと思う。
時代錯誤の男性優位主義だって?はっはっは。冗談はよしこさん。




2012年10月22日月曜日

独り言

◯新しいLexus LSが発表された。ほほぅ。どらどら。AUDI A8とBMW 7シリーズのアマルガムにしか見えぬ。
敢えてドイツ御三家ではなくこのドイツ車コンプレックス丸出しの車を買うひとはいるんだろうか。保守的な会社の社長さんはあのスピンドルグリルを受け入れてくれるだろうか。結局センチュリーに戻ってしまいはしないか。
日本車を模倣した韓国車と同じ穴の貉じゃないか。

◯アメリカのスターバックスは全店無料WIFIが飛んでいる。たまになにも頼まずに店の端っこに目立たぬように座りiPhoneやiPadでメールを取り込んだりWebを見たりしている人をたまに見かける。とはいえ、こういう「無賃乗車」がいたとしても、フリーWIFIがあるスターバックスは人気である。なくてもそうだが。
恐らく5年以内に日常生活の全域がオンライン化され、能動的にオフラインにしない限り常にオンラインの状態になるだろう。学校もレストランも家も飛行機も船も野球場も。iPadやiPhoneに詰め込める情報量は格段に増加し、クラウドも本格的な使用されているだろう。それがあなたの生存戦略にどんな影響を持つだろう。

◯二週間前、DCのホロコースト記念博物館にいった。
まぁ、想像される通りの展示内容なんだが、一番驚いたのはナチスドイツからの移民先を求めたユダヤ人に対して、アメリカを含むほぼ全ての国が極めて少数の数のユダヤ人を受け入れただけだったということだ(ユダヤ人がガス室に送られてしまう前のこと)。実際のところ、1943年の中頃まではナチスはユダヤ人の国外脱出を禁じていたわけではない。世界は、ユダヤ人の絶滅を意図したあの国家犯罪を知っている今から1942年にタイムマシンで戻れたならば、こぞってユダヤ人を受け入れるかもしれない。
ナチスの前代未聞の国家犯罪を、他国の不寛容のせいにしたいわけではない。だが、日本もあのユダヤ人の悲劇について責任の一端を担っていることは間違いない。
ちなみに、同性愛者や心身に障害を持った人たちもナチスの優生思想に従って片っ端から殺された。
だが、くれぐれも忘れたくないことは、「独裁がヒトラーを生んだ」のではなく、世界で最も民主的な憲法を戴いたワイマール共和国の選挙を通じて独裁者ヒトラーとナチスが生まれたということだ。ヒトラーを批判するのは容易いが、それは論理必然的に民主政治に対する懐疑に繋がる。

◯ヘーゲルは難解である。名前からして難解な感じ。ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル。
それでも丹念に一行一行を線を引きながら読んでいくと、ぼんやりとしているが段々とヘーゲル思想の骨格が浮かび上がってくる。しかもそれが結構どこかで聞いたことがあるような気がするとは、たぶん近現代の哲学における彼の圧倒的な存在感によるものなんだろう。

◯アメリカにも高級寿司店はあるが、寿司はどちらかというとファーストフードになっているという印象だ。
アボガドを寿司飯で包み海苔で巻けばカリフォルニアロールができてしまう簡単さと健康志向から、完全にアメリカの食文化の一部になっている。
だが、本当に美味い寿司というのはほとんどのアメリカ人が食べたことがないものだと思う。高けりゃよいというものではないが、寿司を握ること、ただそれだけのために50年の年月を費やした職人が握る寿司は、やはり迫力が違う。
寿司と日本文化の面白いところは、寿司は料理の単純差で言えば例えばサンドイッチと同じように見えるのだが(だからアメリカの田舎の道路脇にも店がある)、その単純な料理が世界で最も有名な日本料理であり、数多の職人を擁しているという事実。
高級で贅沢な食材を使ったサンドイッチは沢山あるが、まさかサンドイッチ職人というのはいないだろう。
単純で全く手が込んでいないように見え、素材そのままのようなのに、その実計算されつくした匠の技が満載の寿司は、日本の食文化の至宝であります。

◯アメリカのメジャーリーグのシーズンの決勝戦を、ワールドシリーズという。松井秀喜選手が、「世界チャンピオンになれて幸せです」と言うのを聞いて、「世界じゃのうてアメリカのチャンピオンやろ」と呟いたのを思い出す。
だが、この巨大な国の民がそういうアメリカ=世界という思考に陥る理由も分かるような気がしてきた。
東海岸のワシントンDCから西海岸のサンフランシスコに飛べば時差は三時間(日本ーカザフスタンと同じ時差)、既に雪が舞うアラスカからサンディエゴに飛べばまだ平気でビーチでの馬鹿げたパーティごっこができるだろう。
ありとあらゆる人種が街を闊歩し、アメリカ料理はないが世界中の料理が食べられる。算出されるエネルギー・資源は豊富で、穀物生産量でも世界第一位。おまけに国語はリンガフランカ(世界共通語)の英語ときている。こやつらが、アメリカ=世界と勘違いする罪の重さは、他の国の民が自国=世界と勘違いする罪よりは少し軽いと言えるだろう。
残念ながら、アメリカ人の狭小な「大陸根性」は、カリフォルニアよりも小さな日本列島に暮らす我々の「島国根性」とはかなり質において同じでも、量に規模においてだいぶ違うようだ。

◯198cmで115kgはありそうなアメフトか総合格闘技の選手かと見違えるほどにジムで鍛えあげた男とすれ違った直後に、180cmで180kgはありそうな病的なほどの肥満体型の男と出くわす。
カリフォルニアでは男と男が手を繋い歩き結婚しているのに、中部の共和党の牙城では「進化論を子供に教えるべきか」とか「妊娠中絶は認められるべきか」とか議論されている。
総じてアメリカは他国より極端な国だ。中庸という言葉がこれほど似合わぬ国もなかろう。子供じみた国とも言える。かつてイラク戦争の前に、ラムズフェルド国防長官が、戦争に反対する独仏を「古い欧州」と言ったが、そりゃアメリカから見ればそうでしょうよ。

◯米海軍下士官により強姦事件。これを日本の法で裁けぬ日米地位協定は、祖国がアメリカの属国であることに揺るぎなき証左である。自国領土内で若い女性(日本人だろうが外国人だろうが)をレイプした糞のような人間を(外国人だろうが日本人だろうが民間人だろうが軍人だろうが)とっ捕まえて裁くことができぬ権力は、果たして主権と言えるのか?何人かの人達が俺のこの憤怒に共感してくれることを願う。アメリカ様にはたてつけませぬから、という商売人の遜りを俺は蔑む。
不平等条約改正のために大隈を爆弾で襲撃し、直様自決した来島常喜は、やはり凄い。

◯シリア内戦がイランとサウジのシーアvsスンニの代理戦争であるとしたら、アメリカが最重要外交課題と位置づけるのは当たり前。北京はシリア情勢を眺め、アメリカの足元を見ながら尖閣のそばまで海軍の艦艇を出してきている。

嫉妬ですな。完全に。

こういう顔付("Wolves -Capturing the Natural Spilit of These Incredible Animals")

深夜27時のBethesdaで

歓喜はいつも迫り来る絶望の足音を静かに、だが確かに響かせる。
絶望はいつもこれが地獄の底だという希望の曙光を見え隠れさせる。
大人の男が一喜一憂していけないのは、歓喜に咽び泣き絶望に伏しているような暇なぞ彼にはないからだ。いちいち昂ぶっている余裕はない。狼は鹿を逃しても絶望などせず、眈々とまた次の獲物を追う。それを狼達の知能が人間ほどに十分発達していないからだと大抵の者は考えがちだが、それは生き物全てを人間と同じ定規で測るが故の錯誤に違いない。

今日の客観的な幸福なぞ明日のなにものかが静かに奪っていくだろう。
また今日の主観的な絶望が永遠に継続されうるほどには我々は強くない。

やがて時間が彼から全てを奪っていくだろう。家族、本、仲間、思索、記憶、怒り。すべて。
今、自分にとって大切だと思っているもの、命を懸けて守りたいと思っているもののすべてを最終的には失ってしまうのだとすれば、我々の人生は、9回裏2アウトまで無安打に抑えてきた投手がそこから一気に逆転サヨナラ負けを喰らうような、そんな不細工なものなのだろうか。人生とは逆転サヨナラ負けを宿命付けられた一つの笑えない喜劇でしかないのだろうか。

否、否、三度迄も否。
人生において大切なことは、愛する妻がいるとか可愛い娘がいるとかそういうこととは関係がない。彼らがいるから俺の人生が幸福なのではないし、いないから不幸になるわけでもない。少なくとも俺にとってはそうである。
確固たる強烈な精神の基盤は、自分の存在理由を自己の精神の外部に求めるような生き方によっては獲得されえないだろう。
それが人間同士の繋がりなのだなどと、ニーチェはそんなことは一言も言っていない。ニーチェが批判し続けたキリスト教(新約聖書)はそんなことを沢山言っているが。

では何が大切であるか。
たぶん、それはあなたがあなたの家族や仲間に対して、天が命ずるところの「なすべきこと」をどんな代償を払ってでもなそうとする断固たる意思なのだ。その意思を持って生きたその瞬間なのだ。
家族や恋人の存在という客観的事実そのもののなかに、人生において最も大切なものが見つけられるのではない。それ=家族は、意思と社会を繋ぐ誰にも分かりやすい一つの媒介に過ぎない。だから、幸せな家庭生活そのものには意味はない。
やがてそんなものはなくなってしまうのだから。

こう考えると、人生はとことんまで唯我独尊の道であると分かる。全ては自分の意思のままなのだ。
そして意思は常に自己の内部に発するものであるが故に、それは必ず外部に向かう。
我々は、「自己に対して意思する」ことはできないのだから。そしてその意思は、それ自体我々にとって華である。意思が達せられようが達せられまいが、存在する者にとってはそれより大切なことがある。

あぁ、思考の無駄か。
こんな時間に。車の音さえしやしない。いやな夜だ。でも夜が無ければ俺の暮らしは真っ暗闇だ。

2012年10月19日金曜日

ヘーゲル「精神現象学」より其の弐

「実体の性質や状態として偶有的なもの、他のものと結合された連関においてのみ現実的であるものが、それだけで周囲から切り離され、自分に固有の現存在と独自の自由とを得るということは、否定的なものの巨大な威力である。これは思考の、すなわち純粋自我のエネルギーに他ならない。分割された諸規定のあの非現実性を死とよぶとして、死こそもっとも恐るべきものであり、死せるものをしっかりと捉えることは、最大の力を必要とする。無力なる美は悟性を嫌悪する。美がなしえないことを、悟性は要求するからである。しかし、死を忌避し、破壊から逃れてあろうとする生ではなく、死に耐え、死のなかで自分を維持する生が、精神の生である。」

「精神は、自分自身がまったく引き裂かれたなかにあってこそ、自分の真理を獲得する。...精神の威力は、否定的なものに面と向かってそれを直視し、そのもとに身を置くという、まさにこのことに存する。否定的なもののもとに身を置くことが、それを存在へと転ずる魔法の力なのである。」

ここで想起すべきは、「もっとも大切なあなたは、あなたの大切な全てを失ったあとに残るあなただ」ーマーク・ローランヅ。
ここでヘーゲルが、「存在へと転ずる」と言っていることは重要だ。けっして「幸福へと転ずる」ために、否定的なもののなかでそれを直視せよと言っているのではない。「狼にとって大切なことは、存在することだ」。

俺が勤める会社の先輩に、「DCのどんなところに住んでんの?」と訊かれたので、「街中のマンションです」と答えると、別の先輩が、「こいつの部屋、テレビもソファもベッドもテーブルもなにもない部屋なんだよ」と言った。まぁそこまではどこにでもある話。解せんのは次。
これを聞いた最初の質問をした先輩がこう言ったのだ。
「そんなになにも持たずに暮らしてて、明日死ぬことになって後悔しないの?」
「こ、こ、航海?パードゥン???」
幸いなことに俺にとっては、死ぬ前にテレビやソファなどを所有していることは、死ぬ前に全然問題にならない。なぜ死ぬというのに所有していないといけないのか?
常に我々にとっての問題は、存在の在り方であって、具体的には精神の在り方だ。その肉体が、何を所有しているか、或いは所有していたかなど、笑止の議論だ。黄泉の国でソファに座ってお笑い番組でも観るつもりか。
あーびっくりした。

2012年10月18日木曜日

ヘーゲル「精神現象学」より

「教養とは、精神が、実体的な生活の直接性から脱し、形成されていくことである」

「精神の力の大きさは、その力が外へ現れ出る大きさにのみ比例しているのであり、精神の深さは、精神が自分の身をさらして展開し、自分を失うことに耐えうる度合いに、正確に比例する」

「新たな精神のはじまり、それは、教養のさまざまな形式のあいだに変転をかさねてきた広大な過程の所産であり、幾重もの紆余曲折と、たび重なる努力や苦労とを経て得られた報酬である。」

「胎児は、即自的には人間であるにしても、対自的にそうであるわけではない」

ニーチェの精神を持って、いやニーチェの精神を以て、如何に我は商売の道を歩むべきや?

最終的には自分の利益になるからと考えてなす全ての一見利他的なサルの行為を、さも人間性に溢れた美しい行為であるかのように言う馬鹿。

身を滅ぼす覚悟。
恐ろしい道の始まり。
愉快なる絶対安心の格闘と不安。

「凛々と泣きながら」、蕎麦を食べましょう。

2012年9月28日金曜日

絶対的瞬間

今自分がなしていることについて、自ら客観的な視点など持つことなく、ただその瞬間がそれだけのためにあって、それ以外のどんな未来や過去のためにも存在しないとき、我々は最も幸福である。

反対は、例えば、次のような親や教師の言い付けをよく守って他の意思もなく生きる人の危険すぎる生き方だ。

「小学校や中学校ではしっかり勉強しないといけません。そうしないとよい高校には行けません。高校ではしっかり勉強しないといけません。そうしないとよい大学に入れません。よい大学に入れないと、よい会社に入れません。」

今時分にこんなステレオタイプもないか。

この人が、例えば高校生として過ごす三年間は、将来よい会社に入る(よい会社?)ためにあって、その三年間そのものには内在的で独立した価値がないとすれば、彼の高校生活の価値は彼の将来によってしか定められない。そのため、高校生として「この瞬間、どう在るべきか」は全然問題にならない。数字だけがついてきていればよろしい。
彼の高校時代は社会人としてやがて生きる時代のためにあるのであって、その瞬間そのものには価値がない。
もし時代をタイムマシンでワープできるならば、この小学生は23歳くらいまで人生をすっ飛ばして「東京大学法学部卒業」の肩書きとともにどこぞの上場企業にでも入ればよいということになる。お勉強なんて大学の卒業証書を得るための面倒な方策なんだから。

今思えば、高校の時にあれほど「勉強」が嫌いだったのにはこういう理由も少しあった。
大人から、「君らが遊びで野球をやるのも元気いっぱいでいいことだが、勉強しておかないと将来困るよ」と言われる度に俺が舌打ちしつつ上の空で聞きながら感じていたのは、この大人が持っていた、それ自体では無価値と彼らが考えていた「高校生の時間」に対する軽蔑だ。「俺の生き方」に対する侮辱ともいえる。
俺は自分の高校生活が、それ以外のなにか他のもののためにあるなどと考えたことはなかったし、実際それはそうだった。そうでなければあれだけ自信満々で赤点を三年間取り続けられる訳がない。

脱線した。戻る。

今という瞬間が、将来のためにしか存在しないならば、我々にとって将来は絶対に失われてはならないものになる。
今を生きる理由を未来に投射しながら瞬間を意味付けるこの生き方は、この人にとって今この瞬間の死を、恐ろしいもの、絶対に避けなくてはならぬものにする。なぜなら、未来のためだけに過去にこれまで在って、現在在る我々の時間は、未来によってしか意味付けられぬが故に、死は想定されている彼の未来を奪い去ることによって、彼の過去と現在から意味を奪い去ってしまうからだ。空虚な人生が空虚なまま終わっていいと思える人は多くないだろう。

しかし。
そんなものかね。

家族や仲間と囲むテーブルでの食事と会話は、それだけで絶対の価値を持つものだと俺は確信できるし、それは他の何かのためにあるものではない。大学での勉強は、世界の歴史を学び理解し、日本の行く末を考え抜くという大学生一般の「今の」義務のためにあった。それはそれだけで、いくばくかの価値があることと俺には思われた。図書館の地下で独り読書をしている時に「将来のためにバイトもしないと」と阿呆に言われても彼の言葉が最早日本語には聞こえなかったのは当然だ。
そういう瞬間を持てた、持っている人間こそが、言葉の真の意味で幸福な人なのだと思う。

ここでは、マーク・ローランズが言うように(「哲学者と狼」)で言うように、彼のその瞬間の感情はほとんど意味を持たない。家族や仲間との食事は多くの場合、「快」や「喜」の感情をもたらすだろうが、アスリートが緊迫した場面で舞台に立ち、失敗し、期待に答えられず多くの人を失望させたとしても、それでも幸福はここに確かに存在する。それは現代の世俗的な意味での幸福とは質的に異なるものだ。過去も未来も侵入しえぬ現在の瞬間のなかで、一心不乱になって敵と戦うという経験は、実のところ最も愉快で儚い、仲間との語らいとさほど違うところはない。
どちらも刹那的で、それが故にとてつもなく愛しいものだ。我々は、社会を率いるにはまだ若いのかも知れぬが、人生のなかでそんな時間があまり多くないということを理解できる程度には歳を重ねてきた。

そして、そういう瞬間が多いか少ないかは、人生全体の価値に対してあまり関係がないように思える。
ニーチェが言っているが、たった一度だけでも、魂が奥底から揺さぶられるような体験があれば、あなたはどんなありふれた毎日であっても強く生きていけるだろう。腹の底から愉快になってしまう、あの記憶、今を生きる自信。

そうであるならば、つまり人生の価値にとって、上のような絶対的瞬間の数が問題でないとすれば、恐らく人生の長さも人生の価値を決定することはできないということになりはしないか。
俺が特攻隊員や英霊を敬いこそすれ、可哀想な人達だとどうしても思えないのは、まさにこの理由による。
仮に俺が2000年8月に野球をやめた後交通事故で死んでしまっていたとしたら、それはそれで一人の信号を無視したバカタレの、それなりに真っ当な一生と総括できたんじゃないかと思う。

繰り返して言うが、この瞬間に意味はないという人にとって本当にこの瞬間に意味はない。無意味なのだ。なのに生きている我慢強さには敬服するが。
自分が今まさに、有難くも生きているまさにこの刹那に価値があると思えぬ者は、何をどうやってもこの瞬間に価値を与えられるような強い生き方はできないだろう。
それは自らの人生を毎日毎日朝っぱらから諦めた慰み者の言い訳だ。

こう考えてみると、人生の価値にとって最も大切なものがはっきりと姿を表してくる。
それは意思だ。腐り切った雑誌やテレビが吐く「幸福」が最重要なわけではない。
循環論法というか禅問答というべきか知らぬが、何かを信じて一日一日を丁寧に、根気強く、仏像を少しづつ彫っていくように、刀を鍛えるような生き方にこそ、明るい価値が宿る。
だからこそ、信仰は偉大なのだと思う。
「最も大切なあなたは、すべてを失った後に残るあなただ」(マーク・ローランヅ)

もう寝よ。
長過ぎて誰も読んじゃくれないだろうな。別に長くなけりゃ誰かがーなんて甘えたことは考えておらぬが。
まぁ、誰か、たった一人でも。10年後でも、50年後でも。
たった一人で書いたんだから。
いや、それはちょっと違う気がするな。