2010年6月30日水曜日

機能、そして美なるもの

戦闘機がそうであるように、フェラーリがそうであるように、そしてミニ
バンがそうではないように、機能こそが美の本質である。
これが真であるならば、人間ほど美から遠ざけられた存在もなかろう。
我々は、あまりになんでもかんでもできすぎる。それでいて、いざとなれ
ばなにもできぬ。

沖縄はちゅら海水族館の水槽のなかの巨大なマグロがカタパルトから放た
れるように急加速し、どんなスポーツカーよりも俊敏に旋回していくのを
見たとき、俺の胸に来たったのは確かにある種の羨望であった。それは、
機能と美をこの世で最も自然な形で結合しえたものの、強烈な生命の躍動
だった。
海中を猛烈な速度で巡航することのみに特化した巨大なこの魚は、水槽の
なかとは思えぬ圧倒的な存在感を放ち、目を釘付けにされてしまった俺は
しばらくその場を離れることができなかった。
マグロだけではない。トムソンガゼルを追うチーター、完璧な強度と粘着
性を持つ糸でトラップを作り上げる蜘蛛、、、世界がこうも豊かなのは、
狂人じみた一点豪華主義を生存競争の戦いにおいて採用した生物たちがい
るからだ。
俺は人間だから、限界を知っている。このひ弱で脆弱な頭でっかちの猿の
群が、たまに盛大に殺し合いをやりながらもここまで地球を完全に支配し
えているのは、巨大な共同体を形成し、かつ自然に工作を加え、自然を抑
圧し、克服してきたからだ。それを可能にする巨大な脳を獲得したから
だ。
だが、自然から乖離し、自然と我々を二元論的な対立の関係としてしかと
らえなくなったために、人間は何を失ったのだろうか?

「哲学者と狼」を書いた哲学者、マーク・ローランズは、「理由、証拠、
正当化、権限。真に卑猥な動物だけが必要とする概念である」とサラリと
言う。卑猥な動物だそうだ、我々は!

クソガキが大人の複雑な社会に疲弊し、ありもしない理想の自然をでっち
あげて悦に入っとるわ、そういう非難は可成正当だ。

だが、ローランズが言うように、「人間はどんな他の動物よりも優れてい
る」というとき、「具体的に如何なる
点で優れているのか?」を自問したいものだ。我々の多くは、川の水をそ
のまま飲むことも、夏の山でテントなしに眠ることも、山でタンパク質を
自ら得ることも下手くそな、あまりに不完全な、性欲ばかりやたら強い、
狂った猿である。これは実はかなり格好悪いことではないか?我々は山で
は一匹の百足にさえ勝てない。

俺の反ヒューマニズムはなかなかに長い歴史があるものだなぁとふと思い
出した。
相変わらずなんともまとまりのない文章である。

独り言:

まことに人の評価なんぞ人によって、場所によって、時によってあまりに
異なる。その一貫性のなさの一貫性ときたら、恐ろしいほどだ。だから、
人の評価なぞ徹底的に無視するがよい。ただし、自分の内なる声をけして
無視してはならぬ。
ー大マルクスの真似。

消費税を増税して得た金で米国債を買ってはならん。それをする奴を、売
国奴という。

一人の絶対平和主義者が恋人と街を歩いていたら、一人の戦闘的好戦主義
者が恋人を殴らんと突撃してきた。絶対平和主義者は、自身が定めた絶対
の道徳律を守ることを、恋人を守ることよりも優先するべきだろうか?
矢張り、全ての真の平和主義者は戦闘的平和主義者たらざるを得ぬ。なぜ
ならば、真の平和主義者は、平和を単に武力行使の不存在だけではなく、
「公正な」秩序を平和に不可欠の要件として愛するためだ。
いや、狼になればいいのだ。
群に襲いくる外部者は殲滅する、それだけのことだ。

自分の仕事にやりがいを感じることは、生き甲斐につながる。それは尊い
ことだ。だが、朧げな自分の存在を確かなものとするために、その仕事の
意義を勇気を持って問わぬことは、弱きもののすることである。
それは、厚化粧の妻の素顔を見ることを恐れて夜はいつも妻より早く眠り
朝はいつも妻より遅く起きる真面目だがどこか阿呆な亭主のようなもの
だ。

山桜

ちょっと話題の「哲学者と狼」を昨日手に入れた。
アラバマ大学の哲学講座のシラバスには、「狼に触らないでください」と
あったらしい。狼を大学に連れていく哲学者もすごいが、それを許す大学
というのもまた偉大だ。
読了次第読書メモを書きます。
シンリンオオカミはこんなに大きいんですね。
憧れの動物です。必ず、飼いたいと思う。
写真はこの本より。著者と愛狼?ブレニン。

2010年6月27日日曜日

「日本辺境論」読書メモ

内田樹氏の著作である。よく売れた。

メモ:
日本は主体なき国だ。
「自分は何者か」ではなく、「自分は何者ではないか」という論理でしか自己を規定出来ぬがゆえに、常に自己を確立するための「外部=中心」を必要とする。
そのため、中心を模倣し、それを学ぶことには抜群の能力を発揮する。
(フォードを真似て、やがてそれを超える経営モデルを構築してみせたトヨタ。しかしフォーディズムが日本で生まれたなかったように、IPhoneも日本では誕生しなかった)
しかし、宇宙論的な世界観を持たぬがゆえに、世界を理解するための統一的論理は生まれず、他国を侵略するにも「英米(中心)からの解放」というように、常に「中心」が措定されることになる。

華夷秩序のなかで「周辺」として数世紀を暮らした日本人にとって、「中心」は常に自明のものであったのかもしれぬ。
中心が失われた象徴的な事件が、「眠れる獅子」と言われた大国・清が英国に負けたアヘン戦争であったとすれば、幕末から大東亜戦争にかけての約80年間の日本の歴史は、「中心」としての中華帝国が失われたが故の狼狽であり、自国が「中心」たらんとするぼんやりとした覚悟とそのための一連の行動としてみることができるかもしれない。
なるほど、戦後に新たな「中心」=アメリカを発見し、これに沿い続けた半世紀は、さまざまな問題を抱えながらも、少なくとも物質的には日本人にとって歴史上まれにみる安全で幸福な時代であったのである。

21世紀、「周辺」=日本は、「中心」をいずこに求めるのか。
それとも「中心」=日本となるのか。

山桜

野菜

2010年6月26日土曜日

永劫回帰、或いは環境問題

Nietzscheが巷で人気のようだ。本屋でもやたらと多くの本が平積みされている。
ニーチェは、近代主義が世界を覆う時に人間たちが神との決別故に直面せざるを得ない冷たすぎる現実を、誰よりも早く、誰よりも鋭く見通した人物であった。

今年1月の僕の落書き帳に、「ニーチェの永劫回帰と日本人の現世肯定の優しい思想には親和性があるように思えてならない。日本の、とくに江戸時代にみられたような現世肯定的な生き方(それは、以前マックス・ヴェーバーについて書いたときに言及した、”来世のためにべルーフ(天職)を全うする”という生き方と正反対である、だからこそ日本に近代資本主義は誕生しなかった)と、ニーチェの永劫回帰の思想は、近代主義を超克するために必要ななにかを備えているように思える」と書いている。

どういうことか。
ニーチェの永劫回帰とは、端的に言えばこうなるだろう。
「すべてのものは終わりもなく始まりもない(”歴史の終わり”なんてものはない!というF.フクヤマへの批判になる)。すべては平等に無価値である。その始まりも終わりもない”永劫回帰”の虚無から、運命愛に至り、無から新たな価値を創造し、確立するもの、それが超人である」
この理屈でいえば、ヘーゲル的な近代主義の大前提=弁証法は無意味となる。というより、弁証法への批判・攻撃に至らざるを得ない。なぜなら、歴史を弁証法的世界観でふりかえるならば、マルクスだろうがF.フクヤマだろうが、「歴史は一定の法則に従って動いており、ひとつの単線的な経緯を辿っている」というふうに理解するからである。たとえば我々が、「先進国、途上国」というとき、すべての国は、「野蛮・未開⇒経済成長⇒先進国(&民主主義)」の順に時代を下るということが無意識的にではあっても想定されている。
近代というものは、基本的に歴史をそのようにのみ理解してきた時代だ。誰だったか忘れてしまったが、こんな言葉がある。「今の時代を、過去と区別して”近代”と呼び、過去を古代と呼ぶことほど、近代人の傲慢を示しているものはない」。
つまり、我々近代人は、世界は一直線に進むと考え、その線の先端に自分たちが生きており、その時代は過去より徐々に、社会に存在する矛盾を止揚するかたちで「進歩」してきた最終の形態にあると考えているのだ。

ニーチェは、そんなことを考えてはいない。
すべてはぐるぐる回り続ける無価値の時間の連続なのだ。今のこの瞬間と、100年前の瞬間に違いはない。
キリスト教の千年王国の思想や、個人の死後の救済を、頭ごなしに否定し、ついには「神は死んだ」と宣告したのが超・近代主義者、ニーチェであった。

では、なぜ今ニーチェが持て囃されるのだろうか。
思うに、それは環境問題に由来するように思う。
昨今の地球温暖化に象徴される環境問題全般は、近代主義の産業の方面における偉大な達成というものが、地球という有限のステージの限界のために、これ以上継続することができないのではないか?という疑問を知識人のみならず我々一般人にも投げかけていると思われる。
もちろん、資本主義の枠内で、例えば水素自動車や超高効率なソーラー発電等によって、我々は環境破壊の桎梏を乗り越えられるという楽観も一部にはある。しかし、それでも、これまでにないほど我々は「大量生産・大量消費」に駆動される”成長”に依存した経済社会モデルを、単純には信じられなくなっている。
現在の日本を覆う閉塞感も、部分的にはこれによって説明されよう。なぜなら、日本は明治維新以来、誰よりも忠実で熱心な、西欧が生んだ近代主義の生徒であった。この事実は、大東亜戦争の前後を問わない。いやむしろ、戦後の経済成長の時代のほうが、日本的なものをかなぐり捨てて必死に西欧に右倣えをしてきた。
「すべての国が、アメリカになり、日本になれば、みな豊かになる、世界は平和になる」という楽観主義は終わりつつあるのだ。

ニーチェは環境問題を見たわけではなかったが、やがて近代主義が到着するであろうこのボトルネックを知悉していたのだろう。それが、環境問題という形で顕在化したのだ。
そして、我々はいまこう自身に問うのだ。
「極限まで地理的にも規模的にも拡大した資本主義の時代のあとに我々が生きる時代はどんな時代なのだろうか」と。こうして、我々は初めて近代というものを相対化することができるようになる。つまり、「近代」はその絶対的な地位をはがれ、古代・中世と同列の、「ひとつの時代」として認識される。その時代とは、別のある時代と意味においてなんら異なることのない、のっぺりとした時代である。近代は、もはやぐるぐる回る観覧車につけられたひとつのゴンドラに過ぎない。つまり、我々の近代は、遂にニーチェの「永劫回帰」に到達してしまったのだ!!!

このように理解するならば、渋谷の本屋にニーチェが平積みされている理由がわかる。
時代は、ーーー不幸にもーーーニーチェを読まずして理解できないところまで来ているのだろう。
いや、単にニーチェの言葉がかっこういいから売れているのかもしれぬ。
だが、僕はこのように考えた。
日本のことについては、また後ほど書きたいと思う。だがなんとなく想像がつくだろう。

山桜

天の箱根

芦ノ湖の水面を駆ける筋雲のやがて天にも登り行く哉

対潜警戒ヲ厳トナセ!

好きな言葉2

「会話は理解を豊かにする。しかし孤独は天才の道場である」
ーエドワード・ギボン

「知性は疲れるが、意思は疲れない」
ーショーペンハウエル

「僕の生は、常に死に対立し、それを打ち砕かんとする意思にうちづけられ、生死の区別がつかぬ絶対的な気持ちのもとに打ち建てられている。それは、死を意識し、充実を求める、差し迫った生である」
ー林ただお

「自然とは、絵葉書のように誰しもが共有できる美しさである以上に、感受性の洗練と知性の洞察によって変えず発見されるべき隠された秩序の美にほかならない」
ー荻野弘之

「資本主義は、絶対的余剰価値の生産だけでなく、相対的余剰価値の生産によってその生産力の増進に将来の動機を与えられる」
ー宇野弘蔵

「古代、中世の諸社会が、商品経済をその補足的一部分としたのに対し、資本家的商品経済は、他の諸形態の経済をも自らの商品経済のうちに解消し同化する傾向を持つ」
ー宇野弘蔵

「将たるもの、自分の下した決断を神のごとくに信じられにゃあ兵は動かせん。しかし準備には何年、何十年とかかる。そこを考え抜くのがおはん(注:秋山真之のこと)の責務じゃ」
ー東郷平八郎

「生命は、おしなべて厳密な一回性を持っていなかった。殺人がその対象の一回性を滅ぼそうとするものであるならば、殺人は永遠の錯誤である」
ー三島由紀夫(金閣寺)

「言葉も感情も理解しない機械で、人の心まで動かしたい。装備の豪華さや安全性は当然のこと、すべてに完璧な機械のみが走ることを歓びへと変えられる。そう信じる私は、BMWです(コーン、コーン)」
ーBMWジャパン、テレビCM

山桜

丹羽氏、その他

不勉強が続いておる故、独り言だけを以下に備忘録として記す。

歓喜と、それが隣り合わせの絶望はそれが実現した際の量と質において正確に比例する。
彼らが日本にもたらした歓喜を目にするとき、彼らが背負って戦ったものの大きさに改めて驚く。
それを見事に克服し、最高の舞台で最高の戦いを見せた日の丸の選手達に、心から敬意を表したいと思う。
それにしても、あれだけの轟々たる批判を受けて一言の弁解も言い訳もしなかった岡田監督は、豪い男だ。
日本代表はよく走る。サッカーはよくわからないが、日本のフィールドプレーヤーの10人が明らかに敵より長い距離を、適切に走っていると思う。
ひとつ思ったのは、中田英寿がこのチームにいてくれたら、さらに魅力的なチームになんだろうなぁということ。いや、単にもう一度中田英寿のプレーを見たいだけかもしれぬが。
俺は、本当の戦いの場面で本当に戦えなかったから、それ以来強烈な自己不信を抱いて生きていた。
だがそれさえも、奮発し次の戦いへと進む駆動力となるならば、人間とは逞しき存在である。

歯医者にいった。40分ほどちらほら診てもらうと、2600円だった。「言い値だなぁ。。。ウランもこうやって売れたらなぁ。。。」と思った。不思議だ。スーツを買う時は、まさか買うと決めてから値段がわかるなんてことはない。相当裕福でなければ、スーツを買うときにデザインの次にまず値段をみるだろう。なのに、医者にかかるときには値段は二の次だ。だから彼らは大儲けだ。
と、思ったのだが、やっぱり上のようにお医者さんを批判するのはよくない。だって、どこかの私立の大学病院が、「今なら胃癌摘出手術が腫瘍の大きさにかかわらず定価の15%オフ!」なんて広告を出すのはやはりどこかおかしいと思う。医療は、八百屋ほどには経済や市場の論理に従うべきではない。教育もだ。
歯が痛い、腹が痛いときに、公式に認証され、経験を積んだお医者さんに、ただでもないにしても適切な金額で診てもらえる、治してもらえるというのは、この国が誇るべき美点である。先進国だからといってすべてこうではない。偏見だが、僕はイタリアのスポーツカーには乗りたいが、イタリアで盲腸の手術を受けるのはいやだ。(イタリアの医療事情にはまったくの頓珍漢である)

すべての好奇心の源泉は目的への意思であり、問題の認識である。
それを伴わぬ好奇心は、軽薄の誹りを免れぬ。単なる食い意地だ。男の人生は単純明快であらねばならん。
2050年の日本の独立と繁栄という大目標に、俺のすべての好奇心は発する。
これに資すことがない議論も情報も、さしあたってーーー趣味は別としてーーー無駄である。
だが、上の目標のためには、なんだって視野に入ってくると思う。

前伊藤忠商事相談役、中国特命全権大使である丹羽氏の話を昨日聞くことができた。
「日本には、小さな土地と人間(人材)以外になにもない。輸出以外に日本が稼ぐみち、生きるみちはない。日中間のFTAを早急に結び、三カ国が同時に豊かに発展できる。経済の論理が、哲学・思想の違いを蔽いつくすだろう」
というようなお話だった。
俺が納得できぬのは、「経済の論理が哲学・思想を。。。」という点だ。
本当にそうか。第一次世界大戦の前でさえ、何人もの著名な経済学者や歴史家が、「世界はすでに相互に密接につながっているから、もはや戦争などできなくなった」と言っていたのだ。それからの50年間で、世界は数千万の人間をたがいに殺し合った。
中国は、経済の理論では動いていないだろう。中国は、あくまで世界を制覇するという大目標(地理的にではない)に指向された、大戦略に基づいてすべての行動を決定している。中国の言動は、美しいほどの一貫性がある(日本には面白いほどに一貫性がない)。そういう国、権力にとって、今はただ強者(米国)の論理=自由主義経済にしたがって行動することが自国の力を増大させる最適な解なのだ。黒猫白猫だ。それ以上でも以下でもない。
Economyとは、ギリシャ語のOikosに由来する言葉だか、語源の意味は「家計・家政」である。つまり、個人の家における金のやりくりのことをOikosと言ったのだ。であるから、経済=家政の論理が、軍事・政治など、すべてを蔽いつくすことはあり得ない。そう見えることはあっても、だ。さらに言えば、経済の論理が戦争を導くことだってあることも銘記しておく必要がある(戦争による破壊は、需要が飽和した後期産業資本主義には最高の”公共事業”なのだ。だから、資本主義が最も高度に発達したアメリカは、最も戦争を必要とする国である)。
中国の対外行動の源泉を正しく理解するために、経済的利得のみに注目してはいけない。また、視野狭窄の近視眼に陥ってもいけない。
丹羽大使、あなたの企業人としてのご活躍は、まことの尊敬に値する。本もときどき面白い。願わくは、よもや日本の「家計(企業活動を当然含む)」のみの利益のために行動されぬことを。あなたのような人が、伊藤忠商事の利益のために行動するなどということはあり得ないのは知っている。策謀渦巻く北京で、「誰よりも誠実に国家のために嘘をつく」人として、頑張ってほしいと思う。
「謀略とは、誠である」。

消費税率のアップに俺は賛成する。まず、所得税の増加よりも勤労世代の不平感がないだろう。今の日本の民間貯蓄の大きな部分を占めているのは高齢者層なのだから。
話は違うが。よく言われることだが、高齢者層が現金資産を膨大に抱えたまま死んでいく(相続税が高いから)というのは、なんとか避けたい。翁には、フェラーリのハイブリッドに乗っていただこう。
ただ、思うのは、この国は幼稚なのだ。年を重ねた紳士淑女が「遊べる」場所というのは、都心にしかない。田舎だとせいぜいがゴルフくらいだ。そりゃ音楽ホールなどはどこにでもあるが。。。僕は、日本の自然(川!)が持つ天然の遊び場で(それは日本全国にある)で、高齢者さんがお孫さんと静かに、にぎやかに遊べるような、そんな場所がもっともっと必要だと思う。同時に、そういう遊びを忘れつつある日本人を危惧する。
日本の田舎は美しい。日本の美は都会にはない。すべて、山深い森の中にある。磐梯山の麓の見るものを圧倒する一面の田園。透明度15mをほこる本栖湖。川に入って魚をとり、火をおこして喰らう。少しのビールでも大いに酔っ払い、談論風発、なんでも語れる。かかる金はいくらだ?排出されるCO2はどれだけだ?
僕は、クソガキだから、小学生や中学生のときの遊びがいまだに好きだ。精神も肉体も都会で遊ぶようにはプログラムされていない。だから愛馬=愛機=愛車が必要となる。CO2を排出してごめんなさい。
川で遊ぶこと、山で焚き火をすることほど楽しいことはないと思う。こういう遊びが、死ぬまでできる国、そういう環境がある国は豊かな国だ。
そうやって自然に遊んでもらった経験なくば、真に自然への畏敬の念は生まれない。
真夏の高梁川で丸一日釣りをして、船穂の山に太陽が沈もうとしている日が暮れる直前、俺のルアーに凪ぎの水面を割って飛び出してきた一匹の黒鱒(ブラックバス)の魚体は神々しく、まことに神の使いとしか思えなかった。「あの少年は朝から晩まであきもせずよう頑張るのう。どれ、一回ぐらい遊んじゃろうか」と、神は思ったのだろう、俺は本気でそう思った。それは一つの決定的な感動だった。
今、故郷を自慢できる日本人は少ない。自慢できる故郷、それなくして、俺はPatriot達に戦えと命令を下せない。

米政府の、ドル安容認の発言に注意すべきだ。ワシントンは、ドル安に誘導する強烈な誘惑にかられている。


山桜

2010年6月22日火曜日

THE ERA OF TOUGH OIL

BPがメキシコ湾で起こした事故は、環境の問題だけを喚起するにあらずして、我々が"タフ・オイル"の時代に突入しようとしていることを示している。そう思う。

この事故によって世界は「石油はあるにはあるがもはやとんでもないところにしか豊富にはない」と気づく。すると、将来の需給の逼迫を見越した投資家が石油を買い、石油価格は上がる。

世界中に石油権益を保有するBPはこの恩恵を受けるのだ。

もちろん、すべての補償を支払ったあとで、だが。

http://m.smh.com.au/business/we-have-entered-the-era-of-tough-oil-20100621-ysc6.html



山桜

2010年6月21日月曜日

なぜオランダは豊かなのだろう。

「19世紀の大英帝国は、植民地南アフリカの金資源を独占し、その金でロンドン金融市場を世界の金融市場の中心に据え、世界の富をロンドンに集中させ、取引させた。銀本位制の植民地インドは、英国に対し貿易
黒字を稼ぎ帳簿上は対英債権国でありながら、債権は金建てにさせられていた。英国は、金の対銀相場を切り下げることで対インド債務を減らし、インドの富は英国に収奪された」

ー 田村秀男、"人民元が基軸通貨になる日"、16ページ、PHP研究所



「20世紀後半から21世紀前半の間、米国は、属国日本の金融資源を独占し、その金でニューヨーク金融市場を世界の金融市場の中心に据え、世界の富をニューヨークに集中させ、取引させた。円本位制の属国日
本は、米国に対し貿易黒字を稼ぎ帳簿上は対米債権国でありながら、債権はドル建てにさせられていた。米国は、ドルの対円相場を切り下げることで対日債務を減らし、日本の富は米国に収奪された」

山桜

2010年6月19日土曜日

禁欲は失われ、国家が登場?

マックス・ヴェーバーである。会社で二年働いて、ますます関心が向くのは二人のドイツ人だ。
カール・マルクス、マックス・ヴェーバー。今日はヴェーバーについて考えてみたいと思う。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」しかヴェーバーの著作は読んだことがないが、この本だけは色んな色での書き込みがなされている。何度となく手にとり読んできた大事な本である。
「ヴェーバーも勤勉な労働者の倫理観がなければ資本主義は生まれなかったといっている(だから労働者はしっかり働きなさい)」というようなことをある総合商社の前相談役がおっしゃっていたが、そんな言い方で引用していいものか???と不審に思ったので、昨日本棚から取り出した。

ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」における問題意識は一点だ。

”なぜ「世俗内禁欲」を個人に強要するような中世以降の欧州(オランダ、イギリス等)で近代資本主義が誕生したのか。なぜ、それ以外の場所では誕生しなかったのか”

ゾンバルトなどの資本主義の研究家と異なって、彼が独特なのは、上の問いにどうにもおかしな回答を導いたことだ。次を引用したい。

”近代資本主義の萌芽は、オリエントや古典古代とは違って、徹底的に資本に敵対的な経済学説が公然と支配してきた地域に求めねばならない”

反営利的な倫理のうちからのみ、近代資本主義を推進する「資本主義の精神」が生まれてきた。この命題が、ヴェーバーのこの名著の主題である。一見して、ものすごい矛盾である。
すなわち、アラビアの世界や中国は、古典古代より商業が広く認められていた。富を所有することも社会的に大きな批判を受けるわけではなかった。江戸時代の日本にしても、伊勢商人・近江商人が活躍し、大阪は世界的にも巨大な市場であった。よく言われるが、世界で初めての先物相場さえ供えられていた。しかるに、こういう場所では近代資本主義は誕生しなかった。穏やかな、商売活動が継続されただけであった。
近代資本主義は、オリエントやアラブではなく、営利活動を敵視さえした中世以降の欧州で誕生したのである。何ゆえに、世俗内禁欲という営利を否定する倫理が、巨大産業を生むことになる近代的な資本主義を誕生させたのか?
ヴェーバーによれば、世俗内禁欲と営利活動を矛盾なく結びつけたものは、「天職(べルーフ)」という概念である(この概念は、ルッターの聖書ドイツ語翻訳に由来する)。この言葉はおおいに宗教的な意味を含んでいる。ひとつに神の思召、ふたつに世俗における生活のための職業。われわれの世俗における職業そのものが、神の思召であるとすれば、人々は救済されるために(消費するためではなく)勤労に精を出すほかない。

”ピュウリタンは天職人たらんと欲した。---われわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただなかに移されて、世俗的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結び付けられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界(コスモス)を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、圧倒的な力をもってその機構のなかに入り込んでくる一切の諸個人---直接経済的営利にたずさわる人々だけではなく---の生活スタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃え尽きるまで決定しつづけるだろう” (岩波文庫版、365-366貢)”


前置きが長くなった。
俺は何を言いたいのか。

ヴェーバーも指摘していることだが、禁欲的なプロテスタンティズムは、近代資本主義が機構として確立されれば、瞬く間に上に述べたような意味での役割を失う。つまり、営利が目的と化すのだ。「神は死んだ」時代でもあるし。
今われわれが暮らしている世界はどういう世界かというと、おそらく歴史上もっとも自由に営利活動が行える時であると思う。「金儲けは悪いことだ」などと言おうものなら完全に変人扱いをされるし、以前俺が同僚に「会社がなすことは常に社会の利益と一致せねばならん」と言ったら、「世間知らずのおぼっちゃん」と笑われた。つまり、「儲けがすべて」だと。実際のところ、「金で買えないものはない」とさえいわなければ、どれだけ金を稼いでも尊敬こそされ軽蔑はされないのが今日である。
俺が問題としたいのは、初期の近代資本主義の成立発展を支えたエートスというものをわれわれは完全に失っており、それは資本主義そのものを弱体化させているのではないか?ということだ。
(道徳的に「金儲けは悪いことだ」とここで言いたいのではない。)
実際のところ、世界を駆け巡る投資家の莫大な金が、最も利回りのよい投資対象を求めて徘徊し、経営者は短期的な株価を高く保つことに汲々とするというのでは、資本主義の発展は危ぶまれよう。
思うに、現在国家が資本主義の片棒をかつぎだしたのは、資本主義の基盤たるべき世俗内禁欲的なエートスが失われ、資本主義がそれ自体では発展していくモメンタムを失ったからではないだろうか。破綻したGMは、長期的に必要であったはずのハイブリッドや電気自動車の開発に資金を振り向けるのではなく、短期的に大きな利益を期待できる排気量が5L以上あるような大型SUVで1990年代から大儲けをしたが、それがゆえに21世紀の新しい自動車社会に対応する準備が全くできず、結果破綻して政府に所有された。近代資本主義の本質が、膨大な資本の蓄積により、それまでにはありえなかった莫大な産業設備や新規商品サービスの開発を可能にするものであるとすれば、アメリカにおいては、逆説的ではあるが、資本主義は弱体化している。そうであればこそ、アメリカの金融産業は、さらに短期的なリターンを求めて怪しい金融商品を世界にばらまいた揚句に多くが破綻した(米国金融業だけを悪者にするつもりは全くない)。

国家は、資本家とは異なり、長期的・戦略的な視点でもって所有する企業を成長させようとする。ここに、背景は全く異なるものの、「明日儲けられればいい」というような浅ましい今日的な資本主義との差異、プロテスタンティズム的な資本主義との共通性が見出される。つまり、現在は、「プロテスタンティズム」に変わって主権国家の経済戦略が資本主義を思想的にささえているのだ。

このことをわれわれはどう理解すべきだろうか。
まず、資本主義を当面の社会経済システムの柱として採用するならば、国家と資本の結びつきが決定的に重要なのではないか。最近ある商社の前相談役が中国大使に就任することが決まったが、日本の企業はこれからますます政府との連携を強めるべきだ。「官は官、民は民」などと言っていたら、一体どこの国が日立や東芝の原発を買ってくれるというのか!

整理しよう。
今、資本主義は世界中でその成立発展の基盤であったプロテスタンティズム的な禁欲の精神を失い、営利自体が目的となった。その結果、資本主義は弱体化している。しかし資本主義のシステムが破綻するとわれわれの生活や社会インフラが機能しなくなるので、世界的に、長期的視点にたって資本主義経済の発展を促すことができる国家が資本家になりつつある。(国家の資本家化)
この現状において、日本がとるべき対策は、①世俗内禁欲の確立(できるわけがない)、②国家資本主義の確立の二つがある。
俺は、②の道が日本の行く道だと思う。

以上の論考は、最近ぼんやりと考え始めていることだ。
論理自体も荒いし、論理の繋がりもあやふやな個所があると思う。
それらについても批判ご指摘は歓迎するし、自分としてより精緻なものにしていきたいと思う。

独り言:

「謀略とは、誠なり」
ー明石元次郎大佐

今や静寂と暗闇は高価なものになってしまった。都会にしか職がなく、ものがあふれる都会でもっとも欠けているものが静寂と暗闇だからだ。
なるほど、耳栓をして目をつぶればいいのか。いや、そういうものではござらんよ。

才能なんぞ運だ。イチローは野球については天才だが、その才能はたまたま野球というスポーツが行われている時代に生まれたから開花させられたし、かつ市場で金銭に化けた。
個人の才能も肝臓も、純粋な意味ではその人個人の所有物ではないと思う。そう言わなければ、臓器売買を否定できぬ。
俺は将来自分の電話に毎朝送られてくるニュースマガジンに、”今日の肝臓のスポット取引価格”が表示されていないことを願う!

アダム・スミスを「見えざる手」だけで引用するやつは卑怯だ。スミスは、恐るべき常識人である。彼が生きた時代の経済は、後にケインズが「ベッドから紅茶をインドに注文できますよ」と言ったような時代ではない。それなのに、全世界の経済に「見えざる手」の差配が及ぶなどというやつがいたら、物騒な話である。

日本の商社はいつまで5つも存在し続けるのだろうか。
日本に自動車会社がこんなに多く必要だろうか。
日本に電機会社がこんなに多く必要だろうか。
日本は会社というのは、それぞれが会津藩であり、薩摩藩であり、長州藩なのだ。
国内的には一藩でうまくやれば幕府軍と戦えるが、欧米の軍艦数隻に負ける。
痛みに耐えて構造改革ではないが、日本を出て世界で稼ぐというのなら、日本国内のポストを極端に減らしてでも力と富を集中させるべきだ。でも、これ以上すべてが東京に集中するのはだめだ。

GAPの店員さんのあいさつはすごい。笑顔もすごい。まねるべきだがなかなか難しい。
あの人たちは、バイトさんも多いだろうに、どうやってあそこまで徹底しているのだろう。
ほかの店(ユニク○)はなぜまねしないのだろうか。やっぱり高機能衣料で勝負しているから?

山桜

勉強

僕は頭が悪い。
というよりも、恐ろしいほどに要領が悪い。合目的的な活動に僕ほど向いていない人間はいないだろうと確信している。
いや、過去には、夢中になって野球や勉強に取り組んだ時分もあった。しかし、そういう時は、冷静に目的を見据えてその日その日の行うべきをきちんと把握し、実施状況を把握しながらという場合では全然なかった。
子供のころ、朝から釣りを始めて気が付いたら太陽が西に沈んでいた、そういう経験は皆あると思う。
そういう風に野球や勉強をしたことはあるのだが、どうも僕という人間は、現代の時代に求められるような落ち着きや段取りの力を欠いているようだ。
今日も立ち読みをしていると、ある雑誌が「勉強力」という特集をしていた。
だいたいのところ、最近の巷にいう「勉強」とは、ある目的に対して行う合理的な方策を意味している。目的に対して最短路をとって走ることが最善とされている。
だから、勉強によって自分が得られるものがある一定程度まで判然としていなければならない、そういう大前提が存在する。つまり、それ以外は勉強には該当しない。ように感じるのは俺だけか。
もちろん、職務における自分の効用を増大させるために、簿記を勉強することは有意義だろう。
問題は、勉強がひどく浅薄なものに貶められていることだ。
何かを知りたい、真善美を究めたいという欲求こそが、勉強のそもそもの原動力だと思う。哲学だろうが物理学だろうが完全に同じと思う。
僕は、世界に自分が理解できないことがあることが許せない。何も知らぬという危機感がある。だから、本屋と図書館がとりあえず最も時を過ごすのによい場所だ(理解できないことだらけだと観念すると、山に行くのだが、山に行くと何故か全能感に襲われてまた書物が恋しくなる)。
答えのないもの、ありそうにもないことを問いたい。それに意味があるかなんてことは俺の知ったことではないし、知っているならそんなことは最早問わぬ。
俺にとって勉強とは、普遍的に適用して誤ることのない真善美の基準を、自らの経験と違和感のない形式において把握するための行動の総体であると一先ず定義したいと思う。
さはいえども、答えのある勉強もしたほうがいいような気はしている。


独り言:
最近、雨のなかを歩くのが好きである。
傘がないからと雨にぬれるのを嫌って走る男は二流だ。
雨にぬれることがなんだというのだ。
夜の雨にうたれるあの自由な感覚、あれはなんなのだろう。とても自由な感じがある。
雨=傘という方程式は、どこの誰が作ったのか知らぬが、出鱈目なものだ。
野生の動物は傘なぞ知らぬ。

思えば「腹筋をする」ということばは変な言葉だ。
「上腕二頭筋をする」といったら誰も理解しないのに。

通行人の目の前に路上で無遠慮にティッシュを差し出すのも迷惑だが、それを無視して目もあわせずに歩き去るのもどうなのか。僕はティッシュを配る人の目をみて「結構」と言うことにしている。

メキシコ湾が心配だ。
メキシコ湾周辺に暮らす方たちは本当に気の毒だ。故郷が油で汚染されるのは、辛いことだろう。
一刻も早い解決を望む。

EUROはもう少し下がるかもしれぬ。今問われているのはEUROの基礎となった、EUという共同体が存立する基盤が何であるのかということだ。この問題は、単なる金融・財政政策のことではない。後者をEUは持てぬのだが。ドルはどうか。オバマ大統領の2010年までに輸出を2倍にという掛け声にもかかわらず、米国の貿易赤字は拡大し続ける見込みだ。同時に財政赤字も。つまり、ドルが長期的に減価することも避けられないだろう。となると、円?ということにはならぬ。成長余力に欠ける脳は幼稚園児だが体は70歳のアジアの老人国の通貨で資産を持つ人はいないだろう。となると、どの通貨も下がるほかないのではないか?結果、コモディティーが流動性を吸収するということになり、石油をはじめとした資源・エネルギー価格を高騰させ維持するのだろう。
元は中央アジアでは域内決済に使用されだした。アメリカを見れば分かるのだが、日本人一般はもう少し基軸通貨国の特権について考えてみるべきだろう。中国は、真に大国たらんとしている。

2006年の夏、京都で同志社大学のゼミに出させてもらっていた。アメリカ外交がご専門の村田先生のゼミである。ある日のこと、議論をしているとある学生が、「中国が他国のロールモデルになることはない」と述べたので僕は噛み付いた。「フランスやオランダが中国をロールモデルにすることはありえない。しかしベネズエラはどうか?リビアはどうか?イランはどうか?ロシアはどうか?世界は先進国だけで構成されるのではない。中国の、強権的な政府が資源を重点分野に集中投資して安い労働力を武器に輸出を増やすという成長モデルも、独裁的ではあるが世襲というほどひどくもないエリート層による集団指導体制も、アメリカの急進的なやり方についていけない国の指導者には魅力的に映るはずだ」というようなことを述べた。今、その通りになったと思っている。短慮と不勉強は世界を見誤る。
中国は世界を見ている。やがて世界一になることを決めた国だ。日本は「とりあえず貧乏はいややから金持ちになろう!」と頑張ってきたのだが、それ以上のものはなかった。別に「世界帝国になる」という野望がよいものであるかどうかは別として、そこに確固たる意思があるかどうかが重要なのだ。個人だろうか国だろうが同じだ。

やるべきこと:
中国空軍の爆撃機の航続距離とベースロードを調べること。

ブログ開設より約3週間。
なぜにこうも何も考えていないのか、愕然とするばかりだ。

山桜

2010年6月13日日曜日

楽観主義あるいはポピュリズム

鳩山前首相は、普天間基地問題について、昨年の就任早々に「最低でも県外に」と発言し、今年五月までの自身の辞任に至る一大騒動を巻き起こし た。それ以外にも、子供手当、高速道路原則無料化等、鳩山政権の、国民に甘く響く政策の羅列ときたら錚々たるものだった。

危機の時代の政治家にとって、楽観主義は罪悪であり、国民に害悪をなす。明日の議席のために甘言を弄して国民を欺き、結果将来に大きな禍根
を残すことほどの政治家の汚辱はない。何が、どういう点で、なぜ、どれほど深刻な問題なのか。政権として、それらの問題への対応の優先順位をどう考えているのか。そう語る根拠たる
理想はいったいなんなのか。このことをしっかりと語った上で、国民に危機の到来を伝えねばならな
い。管新首相は、就任所信演説で、「わたしを信頼していただきたい」と言い、また、「経済成長、安定した社会保障、財政再建を同時に実現可能だ」と喝破したが、有権者は政治家が丁寧に問題の所在について語らなければ、信頼なぞできるはずがないではないか。「いろいろ問題はあります
が、日本は未だ製造業も盤石だし国債を消化するための民間の貯蓄もたっぷりある。新たな成長の方策もあります。同盟国は世界の帝国アメリカなのです!(イェイ!)」と言っている間に国の危機は修復不能
の極端まで行ってしまう。
オバマ米国大統領の、世界中の注目を集めたワシントンでの就任演説も、「アメリカは危機にある」という言葉に象徴されるように、可成り悲観色の強いものだった。しかし、であればこそ、国民に対して「ともに頑張ろう!」と叫ぶことができる。
大東亜戦争の際のいわゆる大本営発表をこの頃よく想起する。大本営発表と政治家の甘言は、虚偽を用いているか否かについては異なるが、国民に対して真の情報を伝え共有しようとする真摯な姿勢の欠如という意味では、両者は完全に同じ罪なのである。

他方で、いかなる形でも"法的な"責任を問われないという意味で、神聖不可侵の有権者(及びマスコミ)にも、政治家の甘言及び関連する愚作について責任はあるであろう。鮒を釣るのに餌にミミズを使うのは、鮒がミミズを喰うからであり、鮒を釣るのにザリガニを餌
にする人はいない。国民が主権を持つ民主主義であるならば、鳩山前首相の「最低でも」発言に対して、「そんなことが可能なのか?」と問う声があってしかるべきだった。「期待だけさせておいて嘘ついたな?!」と怒るのではあまりに幼稚である。騙されてはいけない。(注:ここでは、普天間基地問題についての僕の判断を表明しているものにはあらずして、単に鳩山前首相の発言について論じている点を了解された
い)。

世界の多くの、日本よりまだまともな国々が、危機に備えようと準戦時態勢に入るなかで、有権者と政治家の二人が馴れ合いの甘い戯言を弄しつつ痴話喧嘩を繰り返し時間を消費しているうちに、我国はどうなってしまうのだろう。政治家は、自国の輝かしい未来を確信しているべきであるが、それが無条件のものであるならば、それは単なる夢想である。太平洋を超えて迫り来る米国艦隊を、戦艦「大和」・「武蔵」を以って要所要所に要撃漸減し、有利な講話に持ち込めるだろうと希望的観測の上に立案された大戦略が、我国を灰燼にせしめたという事実を、我々は今一度銘記する必要があるよ
うに思う。

独り言:
1.一人の社会科学の学徒として、これから始まる真の世界史の時代は生き甲斐のあるものになるだろう。来るべき時のために、俺は今こそ大馬鹿になって真面目に勉強しないといけない。
2.今俺は幸運にも飯を食えている。車さえある。この境遇にあれば、誰だって電車でおばあちゃんに席をゆずれるし、また世界国家を語るだろう。将来俺が途轍もない逆境に遭遇して、しかる後に大学院の旧友に街で偶然に再会したとする。この時に俺がどんな目を彼に向けるか。茂みに潜むベンガル虎の目か。それとも死んだ魚の目か。何を語れるか。
人間の本質は、そこで始めて問われるのだと深く自覚して、安全で何の問
題もないようにさえ思える日々が精神を弛緩させぬよう注意すべきだ。

山桜

2010年6月10日木曜日

かお

男の顔はこういう感じがいい。
斬り殺されそうだが、雀が肩にとまって遊んでいそうでもある。
井上雄彦「バガボンド」より。

好きなことば

「我々にとって最も稀なことは生きることだ。ほとんどの者は、存在しているにすぎない。」
ー オスカー・ワイルド

「私の著書の空気を呼吸する術を心得ているものは、それが高山の空気であることを知っている。人はまずこの空気に合うように出来ていなければならぬ。さもないと、そのなかで風邪をひく危険はけして小さくはない。水は間近だ。孤独はぞっとするほどだ」
ー ニーチェ、"この人を見よ"

「弱きものは赦すことができない。赦すことは、強きものの性質である。」
ー ネルソン・マンデラ

「理性の最後の歩みは、理性をこえるものが無限にあるということを認めることにある。」
ー パスカル、"パンセ"

「狂人とは、理性を失った人ではない。狂人とは、理性以外の全てを失った人である。」
ー ギルバート・チェスタトン、"正統とはなにか"

「意見じゃないんだ、覚悟だよ、これは。官軍に抗して起つか起たぬか。起って箱根で死ぬ。箱根とは限らぬ、節義のために欣然屍を戦野に曝すかどうか、そういう覚悟の問題であり、それが決まってから政略、戦略が出てくる。政略や戦略は枝葉のことだ。覚悟だぜ。」
ー河井継乃介

「世の中になくてはならぬ人か、世の中にあってはならぬ人になれ」
ー河井継乃介

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し遂げら
れぬものなり。」
ー大西郷

2010年6月9日水曜日

デーモス・クレイジーとマニフェスト

昨晩、長妻厚生労働相は、2011年度の子供手当てについて「満額支給は財政上の制約があり難しい」と述べ、月額2万6千円の支給を断念することを明らかにした(9日朝日Web版)。もちろん、前言(昨年の衆院選でのマニフェスト)からの逸脱ではあるが、日本の財政事情はそれほど容易な状況にはないだろう。総額5.4兆円にもなる子供手当ての財源は、実に日本の防衛費の年間予算を優に上回る(防衛費はだいたい4兆4千億円)。財政赤字の対GDP比は2010年予算では9.3%に達している。南欧ハンガリーを馬鹿にしている余裕は全然ない。僕はこれは、至極真っ当な決断と思う。
下記は、マニフェストについてふと思ったことである。

僕はマニフェストはなくしたほうがいいと思う。露天商が「こんなんありまっせ」と安っぽいおもちゃを売っているようにしか見えない。
これまでマニフェストが遵守されて政策が履行されたことがろくにないのが問題なのではなく、そもそも首相公選制を採らぬわが国にあって、マニフェストを不磨の大典の如くに祭上げ、これをどれだけよく履行するかということのみが政権の上等下等を決定するものであるという悪しき大衆の誤解が蔓延していることが問題だと思う。

そもそも、国会議員を有権者が選び、その中から首相が選ばれるという体制は、①「有権者への不信」、②「政治家への不信」の真ん中で平衡(=バランス)をとろうというものだと思う。
政党が五つあったとして、それぞれが全く異なる外交戦略を持っていたとする。有権者は、昼飯を松屋かスキヤか吉野家かビックリドンキーかジョイフルかのどこで食べるかを選ぶかのように、政党のマニフェストを吟味して、一番「おいしそうな」政党に投票する。選挙の結果政権についた政党と、有権者の間には、「契約」(前首相・鳩山氏)が結ばれたものと措定され、従って「合意は拘束する」の原則に従い、政権はマニフェストを遵守することが義務となる。
これは変だ。平沼騏一郎ではないが、何時の時代にあっても国内政治だろうが外交だろうが、政治とはそもそも本質的に複雑怪奇なのだ。「天安撃沈」なんてのは複雑怪奇もいいところだ。そういう類の不確実性が充満する賭場のような世界が政治という場所であると理解すれば、そもそも政治の専門家でもなんでもない我々有権者が、政権のなすべき諸政策---社会保障・外交・安保・財政・その他...---を見通し得ると考えるのは"国民の皆様"の大いなる誤謬と傲慢と言うほかない。"国民の皆様"は、別に政府のお客様ではなく、アリストテレス風に言えば、責任を持って政治的な事柄に参画し議論する"市民"でなければならぬ。
つまり、間接民主制は、そもそも政治家に一定のフリーハンドを与えることを前提に確立されたものであって、そこに暗黙に認知されているのは、一つに有権者の無知と、二つに予見し得ぬ将来の不確実性である。ここから政治家への一部権限の白紙委任が必要となる。他方で、政治家の権力を抑制・監視するために、一定期間毎に政治家は選挙によって信を問うことが定められる。
現在は、"国民の皆様"の変な人たちの声(それは商業主義のマス・メディアにより増幅強化され、より扇動的でワイドショー的なものになる。なぜなら、そのほうが視聴者・読者をひきつけるからだ)ばかりが喧伝される。自然、国民は②政治家への不信のみに目を取られ、①有権者自身への不信の目は持たなくなる。
要するに、マニフェスト政治によるDemo-cracy(民衆政治)とは、Demos-crazy(お馬鹿な大衆)の政治なのである。

Friedrich List, "The National System of Political Economy”を読んでいる。
ベッドから滑り落ちて埃まみれになっていたのを引っ張り出してきた。
保護関税の理論家であり、"国民経済"が死滅しかけている時代にこの人の主著を読むことに意味があるのか?ある。少なくとも、"The World is Flat"辺りを読んで平らになった頭を刺激するには、素晴らしい著作である。国ごとに異なる経済の発展段階がある。故に、ある国が段階のどこにあるかによって、とるべき国家の戦略は当然異なる。なんとも、現在のEUを眺める時に、身に染み入る主張ではある。
ヨーロッパ中世の歴史の勉強が完全に抜けてしまっていることを痛感した。
12-15世紀欧州史を勉強し直そうと思う。

山桜

2010年6月7日月曜日

詩's

物喰らい起居繰り返し幾星霜我が人生に大義は有り哉

葉桜の清き息吹の箱根山駆ける愛機はBMW

過ぎ去りし大国日本の影追うて蛮夷の属となるか大和は

守るべき正義失い敷島の行く末は深き日本海溝

万人に愛でられ桜花が今はただ地面に落ちて足蹴にされあり

梓弓神州八島の行く末を担うは我ぞ人笑うとも

厭世と遁世の慾極まれど我が生くべきは救世の道

益荒男の命の理由を人問わば思想と武力と我は言うなり

糞餓鬼が不平不満を言い募り後にほざくは憂国の言


今年四月のものです。

山桜

この瞬間を

ある男が、交差点で信号が変わるのを待っているある男に尋ねた。

−貴様、今どういうつもりでそこに立っているのか。

男、答えて曰く、

−目の前で、10kt(キロトン)の原爆が炸裂しても吹き飛ばされぬという覚悟で立っている。

男が生きる全ての瞬間は、須らく彼の意思によって充満されてしかるべきである。
彼の意思こそが、彼の人生を彩る華である。
彼を支配するものは、彼自身の意思と覚悟のみであって、それ以外による支配を受け入れることは彼の敗北である。なるほど信号で待つという行為(殆どの人にはこれは行為としては認識されないだろう)にさえ、このように覚醒した意識で以って臨む者が生きる時間は、もはや単線的で退屈な「時間」ではなく、細切れではあるが意味によって連結された「瞬間の連続」となる。それは、骨盤後傾・片足重心、呆けた面で信号が変わるのを待つ者の時間より、遥かに豊かであるだろう。

山桜