2010年6月13日日曜日

楽観主義あるいはポピュリズム

鳩山前首相は、普天間基地問題について、昨年の就任早々に「最低でも県外に」と発言し、今年五月までの自身の辞任に至る一大騒動を巻き起こし た。それ以外にも、子供手当、高速道路原則無料化等、鳩山政権の、国民に甘く響く政策の羅列ときたら錚々たるものだった。

危機の時代の政治家にとって、楽観主義は罪悪であり、国民に害悪をなす。明日の議席のために甘言を弄して国民を欺き、結果将来に大きな禍根
を残すことほどの政治家の汚辱はない。何が、どういう点で、なぜ、どれほど深刻な問題なのか。政権として、それらの問題への対応の優先順位をどう考えているのか。そう語る根拠たる
理想はいったいなんなのか。このことをしっかりと語った上で、国民に危機の到来を伝えねばならな
い。管新首相は、就任所信演説で、「わたしを信頼していただきたい」と言い、また、「経済成長、安定した社会保障、財政再建を同時に実現可能だ」と喝破したが、有権者は政治家が丁寧に問題の所在について語らなければ、信頼なぞできるはずがないではないか。「いろいろ問題はあります
が、日本は未だ製造業も盤石だし国債を消化するための民間の貯蓄もたっぷりある。新たな成長の方策もあります。同盟国は世界の帝国アメリカなのです!(イェイ!)」と言っている間に国の危機は修復不能
の極端まで行ってしまう。
オバマ米国大統領の、世界中の注目を集めたワシントンでの就任演説も、「アメリカは危機にある」という言葉に象徴されるように、可成り悲観色の強いものだった。しかし、であればこそ、国民に対して「ともに頑張ろう!」と叫ぶことができる。
大東亜戦争の際のいわゆる大本営発表をこの頃よく想起する。大本営発表と政治家の甘言は、虚偽を用いているか否かについては異なるが、国民に対して真の情報を伝え共有しようとする真摯な姿勢の欠如という意味では、両者は完全に同じ罪なのである。

他方で、いかなる形でも"法的な"責任を問われないという意味で、神聖不可侵の有権者(及びマスコミ)にも、政治家の甘言及び関連する愚作について責任はあるであろう。鮒を釣るのに餌にミミズを使うのは、鮒がミミズを喰うからであり、鮒を釣るのにザリガニを餌
にする人はいない。国民が主権を持つ民主主義であるならば、鳩山前首相の「最低でも」発言に対して、「そんなことが可能なのか?」と問う声があってしかるべきだった。「期待だけさせておいて嘘ついたな?!」と怒るのではあまりに幼稚である。騙されてはいけない。(注:ここでは、普天間基地問題についての僕の判断を表明しているものにはあらずして、単に鳩山前首相の発言について論じている点を了解された
い)。

世界の多くの、日本よりまだまともな国々が、危機に備えようと準戦時態勢に入るなかで、有権者と政治家の二人が馴れ合いの甘い戯言を弄しつつ痴話喧嘩を繰り返し時間を消費しているうちに、我国はどうなってしまうのだろう。政治家は、自国の輝かしい未来を確信しているべきであるが、それが無条件のものであるならば、それは単なる夢想である。太平洋を超えて迫り来る米国艦隊を、戦艦「大和」・「武蔵」を以って要所要所に要撃漸減し、有利な講話に持ち込めるだろうと希望的観測の上に立案された大戦略が、我国を灰燼にせしめたという事実を、我々は今一度銘記する必要があるよ
うに思う。

独り言:
1.一人の社会科学の学徒として、これから始まる真の世界史の時代は生き甲斐のあるものになるだろう。来るべき時のために、俺は今こそ大馬鹿になって真面目に勉強しないといけない。
2.今俺は幸運にも飯を食えている。車さえある。この境遇にあれば、誰だって電車でおばあちゃんに席をゆずれるし、また世界国家を語るだろう。将来俺が途轍もない逆境に遭遇して、しかる後に大学院の旧友に街で偶然に再会したとする。この時に俺がどんな目を彼に向けるか。茂みに潜むベンガル虎の目か。それとも死んだ魚の目か。何を語れるか。
人間の本質は、そこで始めて問われるのだと深く自覚して、安全で何の問
題もないようにさえ思える日々が精神を弛緩させぬよう注意すべきだ。

山桜