2010年6月9日水曜日

デーモス・クレイジーとマニフェスト

昨晩、長妻厚生労働相は、2011年度の子供手当てについて「満額支給は財政上の制約があり難しい」と述べ、月額2万6千円の支給を断念することを明らかにした(9日朝日Web版)。もちろん、前言(昨年の衆院選でのマニフェスト)からの逸脱ではあるが、日本の財政事情はそれほど容易な状況にはないだろう。総額5.4兆円にもなる子供手当ての財源は、実に日本の防衛費の年間予算を優に上回る(防衛費はだいたい4兆4千億円)。財政赤字の対GDP比は2010年予算では9.3%に達している。南欧ハンガリーを馬鹿にしている余裕は全然ない。僕はこれは、至極真っ当な決断と思う。
下記は、マニフェストについてふと思ったことである。

僕はマニフェストはなくしたほうがいいと思う。露天商が「こんなんありまっせ」と安っぽいおもちゃを売っているようにしか見えない。
これまでマニフェストが遵守されて政策が履行されたことがろくにないのが問題なのではなく、そもそも首相公選制を採らぬわが国にあって、マニフェストを不磨の大典の如くに祭上げ、これをどれだけよく履行するかということのみが政権の上等下等を決定するものであるという悪しき大衆の誤解が蔓延していることが問題だと思う。

そもそも、国会議員を有権者が選び、その中から首相が選ばれるという体制は、①「有権者への不信」、②「政治家への不信」の真ん中で平衡(=バランス)をとろうというものだと思う。
政党が五つあったとして、それぞれが全く異なる外交戦略を持っていたとする。有権者は、昼飯を松屋かスキヤか吉野家かビックリドンキーかジョイフルかのどこで食べるかを選ぶかのように、政党のマニフェストを吟味して、一番「おいしそうな」政党に投票する。選挙の結果政権についた政党と、有権者の間には、「契約」(前首相・鳩山氏)が結ばれたものと措定され、従って「合意は拘束する」の原則に従い、政権はマニフェストを遵守することが義務となる。
これは変だ。平沼騏一郎ではないが、何時の時代にあっても国内政治だろうが外交だろうが、政治とはそもそも本質的に複雑怪奇なのだ。「天安撃沈」なんてのは複雑怪奇もいいところだ。そういう類の不確実性が充満する賭場のような世界が政治という場所であると理解すれば、そもそも政治の専門家でもなんでもない我々有権者が、政権のなすべき諸政策---社会保障・外交・安保・財政・その他...---を見通し得ると考えるのは"国民の皆様"の大いなる誤謬と傲慢と言うほかない。"国民の皆様"は、別に政府のお客様ではなく、アリストテレス風に言えば、責任を持って政治的な事柄に参画し議論する"市民"でなければならぬ。
つまり、間接民主制は、そもそも政治家に一定のフリーハンドを与えることを前提に確立されたものであって、そこに暗黙に認知されているのは、一つに有権者の無知と、二つに予見し得ぬ将来の不確実性である。ここから政治家への一部権限の白紙委任が必要となる。他方で、政治家の権力を抑制・監視するために、一定期間毎に政治家は選挙によって信を問うことが定められる。
現在は、"国民の皆様"の変な人たちの声(それは商業主義のマス・メディアにより増幅強化され、より扇動的でワイドショー的なものになる。なぜなら、そのほうが視聴者・読者をひきつけるからだ)ばかりが喧伝される。自然、国民は②政治家への不信のみに目を取られ、①有権者自身への不信の目は持たなくなる。
要するに、マニフェスト政治によるDemo-cracy(民衆政治)とは、Demos-crazy(お馬鹿な大衆)の政治なのである。

Friedrich List, "The National System of Political Economy”を読んでいる。
ベッドから滑り落ちて埃まみれになっていたのを引っ張り出してきた。
保護関税の理論家であり、"国民経済"が死滅しかけている時代にこの人の主著を読むことに意味があるのか?ある。少なくとも、"The World is Flat"辺りを読んで平らになった頭を刺激するには、素晴らしい著作である。国ごとに異なる経済の発展段階がある。故に、ある国が段階のどこにあるかによって、とるべき国家の戦略は当然異なる。なんとも、現在のEUを眺める時に、身に染み入る主張ではある。
ヨーロッパ中世の歴史の勉強が完全に抜けてしまっていることを痛感した。
12-15世紀欧州史を勉強し直そうと思う。

山桜