2010年6月19日土曜日

禁欲は失われ、国家が登場?

マックス・ヴェーバーである。会社で二年働いて、ますます関心が向くのは二人のドイツ人だ。
カール・マルクス、マックス・ヴェーバー。今日はヴェーバーについて考えてみたいと思う。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」しかヴェーバーの著作は読んだことがないが、この本だけは色んな色での書き込みがなされている。何度となく手にとり読んできた大事な本である。
「ヴェーバーも勤勉な労働者の倫理観がなければ資本主義は生まれなかったといっている(だから労働者はしっかり働きなさい)」というようなことをある総合商社の前相談役がおっしゃっていたが、そんな言い方で引用していいものか???と不審に思ったので、昨日本棚から取り出した。

ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」における問題意識は一点だ。

”なぜ「世俗内禁欲」を個人に強要するような中世以降の欧州(オランダ、イギリス等)で近代資本主義が誕生したのか。なぜ、それ以外の場所では誕生しなかったのか”

ゾンバルトなどの資本主義の研究家と異なって、彼が独特なのは、上の問いにどうにもおかしな回答を導いたことだ。次を引用したい。

”近代資本主義の萌芽は、オリエントや古典古代とは違って、徹底的に資本に敵対的な経済学説が公然と支配してきた地域に求めねばならない”

反営利的な倫理のうちからのみ、近代資本主義を推進する「資本主義の精神」が生まれてきた。この命題が、ヴェーバーのこの名著の主題である。一見して、ものすごい矛盾である。
すなわち、アラビアの世界や中国は、古典古代より商業が広く認められていた。富を所有することも社会的に大きな批判を受けるわけではなかった。江戸時代の日本にしても、伊勢商人・近江商人が活躍し、大阪は世界的にも巨大な市場であった。よく言われるが、世界で初めての先物相場さえ供えられていた。しかるに、こういう場所では近代資本主義は誕生しなかった。穏やかな、商売活動が継続されただけであった。
近代資本主義は、オリエントやアラブではなく、営利活動を敵視さえした中世以降の欧州で誕生したのである。何ゆえに、世俗内禁欲という営利を否定する倫理が、巨大産業を生むことになる近代的な資本主義を誕生させたのか?
ヴェーバーによれば、世俗内禁欲と営利活動を矛盾なく結びつけたものは、「天職(べルーフ)」という概念である(この概念は、ルッターの聖書ドイツ語翻訳に由来する)。この言葉はおおいに宗教的な意味を含んでいる。ひとつに神の思召、ふたつに世俗における生活のための職業。われわれの世俗における職業そのものが、神の思召であるとすれば、人々は救済されるために(消費するためではなく)勤労に精を出すほかない。

”ピュウリタンは天職人たらんと欲した。---われわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただなかに移されて、世俗的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結び付けられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界(コスモス)を作り上げるのに力を貸すことになったからだ。そして、この秩序界は現在、圧倒的な力をもってその機構のなかに入り込んでくる一切の諸個人---直接経済的営利にたずさわる人々だけではなく---の生活スタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃え尽きるまで決定しつづけるだろう” (岩波文庫版、365-366貢)”


前置きが長くなった。
俺は何を言いたいのか。

ヴェーバーも指摘していることだが、禁欲的なプロテスタンティズムは、近代資本主義が機構として確立されれば、瞬く間に上に述べたような意味での役割を失う。つまり、営利が目的と化すのだ。「神は死んだ」時代でもあるし。
今われわれが暮らしている世界はどういう世界かというと、おそらく歴史上もっとも自由に営利活動が行える時であると思う。「金儲けは悪いことだ」などと言おうものなら完全に変人扱いをされるし、以前俺が同僚に「会社がなすことは常に社会の利益と一致せねばならん」と言ったら、「世間知らずのおぼっちゃん」と笑われた。つまり、「儲けがすべて」だと。実際のところ、「金で買えないものはない」とさえいわなければ、どれだけ金を稼いでも尊敬こそされ軽蔑はされないのが今日である。
俺が問題としたいのは、初期の近代資本主義の成立発展を支えたエートスというものをわれわれは完全に失っており、それは資本主義そのものを弱体化させているのではないか?ということだ。
(道徳的に「金儲けは悪いことだ」とここで言いたいのではない。)
実際のところ、世界を駆け巡る投資家の莫大な金が、最も利回りのよい投資対象を求めて徘徊し、経営者は短期的な株価を高く保つことに汲々とするというのでは、資本主義の発展は危ぶまれよう。
思うに、現在国家が資本主義の片棒をかつぎだしたのは、資本主義の基盤たるべき世俗内禁欲的なエートスが失われ、資本主義がそれ自体では発展していくモメンタムを失ったからではないだろうか。破綻したGMは、長期的に必要であったはずのハイブリッドや電気自動車の開発に資金を振り向けるのではなく、短期的に大きな利益を期待できる排気量が5L以上あるような大型SUVで1990年代から大儲けをしたが、それがゆえに21世紀の新しい自動車社会に対応する準備が全くできず、結果破綻して政府に所有された。近代資本主義の本質が、膨大な資本の蓄積により、それまでにはありえなかった莫大な産業設備や新規商品サービスの開発を可能にするものであるとすれば、アメリカにおいては、逆説的ではあるが、資本主義は弱体化している。そうであればこそ、アメリカの金融産業は、さらに短期的なリターンを求めて怪しい金融商品を世界にばらまいた揚句に多くが破綻した(米国金融業だけを悪者にするつもりは全くない)。

国家は、資本家とは異なり、長期的・戦略的な視点でもって所有する企業を成長させようとする。ここに、背景は全く異なるものの、「明日儲けられればいい」というような浅ましい今日的な資本主義との差異、プロテスタンティズム的な資本主義との共通性が見出される。つまり、現在は、「プロテスタンティズム」に変わって主権国家の経済戦略が資本主義を思想的にささえているのだ。

このことをわれわれはどう理解すべきだろうか。
まず、資本主義を当面の社会経済システムの柱として採用するならば、国家と資本の結びつきが決定的に重要なのではないか。最近ある商社の前相談役が中国大使に就任することが決まったが、日本の企業はこれからますます政府との連携を強めるべきだ。「官は官、民は民」などと言っていたら、一体どこの国が日立や東芝の原発を買ってくれるというのか!

整理しよう。
今、資本主義は世界中でその成立発展の基盤であったプロテスタンティズム的な禁欲の精神を失い、営利自体が目的となった。その結果、資本主義は弱体化している。しかし資本主義のシステムが破綻するとわれわれの生活や社会インフラが機能しなくなるので、世界的に、長期的視点にたって資本主義経済の発展を促すことができる国家が資本家になりつつある。(国家の資本家化)
この現状において、日本がとるべき対策は、①世俗内禁欲の確立(できるわけがない)、②国家資本主義の確立の二つがある。
俺は、②の道が日本の行く道だと思う。

以上の論考は、最近ぼんやりと考え始めていることだ。
論理自体も荒いし、論理の繋がりもあやふやな個所があると思う。
それらについても批判ご指摘は歓迎するし、自分としてより精緻なものにしていきたいと思う。

独り言:

「謀略とは、誠なり」
ー明石元次郎大佐

今や静寂と暗闇は高価なものになってしまった。都会にしか職がなく、ものがあふれる都会でもっとも欠けているものが静寂と暗闇だからだ。
なるほど、耳栓をして目をつぶればいいのか。いや、そういうものではござらんよ。

才能なんぞ運だ。イチローは野球については天才だが、その才能はたまたま野球というスポーツが行われている時代に生まれたから開花させられたし、かつ市場で金銭に化けた。
個人の才能も肝臓も、純粋な意味ではその人個人の所有物ではないと思う。そう言わなければ、臓器売買を否定できぬ。
俺は将来自分の電話に毎朝送られてくるニュースマガジンに、”今日の肝臓のスポット取引価格”が表示されていないことを願う!

アダム・スミスを「見えざる手」だけで引用するやつは卑怯だ。スミスは、恐るべき常識人である。彼が生きた時代の経済は、後にケインズが「ベッドから紅茶をインドに注文できますよ」と言ったような時代ではない。それなのに、全世界の経済に「見えざる手」の差配が及ぶなどというやつがいたら、物騒な話である。

日本の商社はいつまで5つも存在し続けるのだろうか。
日本に自動車会社がこんなに多く必要だろうか。
日本に電機会社がこんなに多く必要だろうか。
日本は会社というのは、それぞれが会津藩であり、薩摩藩であり、長州藩なのだ。
国内的には一藩でうまくやれば幕府軍と戦えるが、欧米の軍艦数隻に負ける。
痛みに耐えて構造改革ではないが、日本を出て世界で稼ぐというのなら、日本国内のポストを極端に減らしてでも力と富を集中させるべきだ。でも、これ以上すべてが東京に集中するのはだめだ。

GAPの店員さんのあいさつはすごい。笑顔もすごい。まねるべきだがなかなか難しい。
あの人たちは、バイトさんも多いだろうに、どうやってあそこまで徹底しているのだろう。
ほかの店(ユニク○)はなぜまねしないのだろうか。やっぱり高機能衣料で勝負しているから?

山桜