2012年12月25日火曜日

友への回答

イエスという人は、十字架にはり付けられて処刑される時でさえ、ほとんどの同時代人から理解されず、権力からは民衆を扇動していると罵られ、さらには信頼していた弟子達には裏切られた。こういう言い方をするとキリスト者に叱られそうだが、悲しかっただろう。堪らなく辛かっただろう。普通だったら、「なんで俺だけ死なないかんの?なんで???」と思うだろう。もしイエスが神ではなく人であったのならば(これについて人間は2000年も論争をし続けてきた)。
その事実だけを考えると、陽気に「メリークリスマス!」という気にならんのは、俺の性格が陰鬱過ぎるんだろうか。
少なくとも「クリスマスだし彼女のためにプレゼントを買ってちょっといいホテルを予約して」という思考回路にならんことだけは確かだ。
冗談は兎も角(ウサギもツノどういう意味なんだろう?)

イエス、法然、日蓮、ルター、ニーチェ、吉田松陰、マーチン・ルター・キング・ジュニア。その他の皆さん。

誰もが偉大過ぎる人間だが、その偉大さは彼ら個人の、我々が通常用いる言葉の意味での「幸福」とは全然関係がない。殺されたり、全く理解されなかったり、発狂したり、島流しにあったり。しかも凄まじいことに、彼らの多くは「かくすればかくなるものと知りながら」生きていた節が大いにある。
偉大さは、幸福を求めない。世界史は「最も幸福に生きた人間」ではなく「最も苦しい道をへこたれずに歩んだ人間」を尊敬し続けてきた。ここに人間が救われる可能性があるのではないかと思う。

「他の誰よりも苦しいとしか思えない道を歩いている」と思える人は幸運かもしれない(単なる被害妄想は措くとして)。苦しい道を歩めという天の意思は、あなたを試す。それは全く無意味にあなたを指名する。俺に明日降りかかってくるかもしれない。
突然に重い病と余命一年を宣告された30歳の父親は、その理由を知らされることは終にない。無意味に、理由もなく、なのに他の誰でもなく、あなたなのだ。畢竟、人生の厳しさとは、この無意味さにあるのではないかと思う。「余命一年」というのは、人生の厳しさの本質ではないだろう。
あなたが指名されたことの無意味さは、翻ってあなた自身を凡百の他者から整然と区別し、大衆産業社会のなかでぼやけていたあなたの輪郭は際立ったものとなる。ことここに至って、あなたは他の人間のように振る舞うことはもはや出来ない。あなたは、あなたの人生を初めて自身のものとして、自分だけのものとしてまじまじと見つめ、これを獲得する。あなたは、そこでこの苦しい道にへこたれるものかとたった独り奮闘する。天に「こんちくしょう」と言いながら。ここであなたが生きる時間は、過去から流れ来て未来に向かう直線的な時間のなかの「他にいくらでもある、重要ではないある一点」ではもはやなく、「その瞬間」そのものだ。過去もなく未来もない、ただあるがままのその刹那。その瞬間それ自体のなかにあなたの全ての意味が内在化される。というより、意味という言葉が失効する。それは十年後の投資のリターンのためにあるわけではない。
マーク・ローランヅの言う、「あなたが大切なもの全てを失った時(失おうとしている時)、あなたは最高である」というときのあなたは、この時に誕生するだろう。

別に今余命一年を宣告されずとも、我々は余命X年を宣告されている。母の子宮に宿ったあの瞬間に。
Xが一年であるか、五十年であるか、それは大きな宇宙の時間では一億年前と十億年前の違いのようなものなのだ(宇宙物理学者は「ずいぶん違うぞ!」と言いそうだな...)。
やがて「その時」は来る。誰もが、自分自身に対してたった独りで向き合わねばならないその時は来る。
その時になって初めて自分を発見するというのは、なんとも勿体ない生き方だと俺は思う。
あなたはあなたなのだ。あなたが死ぬまで最も長く付き合っていくのは、あなたの夫でも親でもなくあなたなのだ。
だから、ニーチェは、何よりも己を愛せよと、そこらのナルシストには想像もできない次元の自己愛を叫んだのだ。