2011年1月10日月曜日

お客様は神様。じゃあ貴様は一体なんだ!?

あなたはいま広大な砂漠で遭難してしまった。
水を39時間一滴も飲んでいない。
そこに、ふたこぶ駱駝に乗ったキャラバンが通りかかり、水2Lを売ってくれた。
あなたは命を永らえた。
この髭もじゃもじゃの集団が、あなたには神々しく、まさに神様のようであった。

「お客様は神様」であると会社勤めをするようになってから言われたことはないが、著名な経営者の口から聞かされることもあり、日本においては市民権を得ている言葉と言って差し支えなかろう。
この言葉は、つまるところ商売をするについて、お客様がいないとどうにもこうにもいかんぞということを言っている。当たり前の話で、買ってくれる人がいないものを売って利益を出すことなぞ不可能だ。
そういう意味では、このお客=神様というのは間違ってはいない。

だが俺はこの言葉が大嫌いだ。
その理由を述べよう。

客にとって絶対に必要なもの、客にとってそれがなければ生活が立ち行かないもの、そういう商品やサービスを提供する会社にとって、客は神様であるはずがない。 まさかGoogleが顧客を神様だなどとは言わんだろう。
もちろん顧客は大切な存在であるが(こんなことを言明する必要なぞない)、社会にとって必要な商品やサービスを提供する者や企業とそれに対価を支払って購入し使用したり消費したりする顧客の関係は、普通に考えれば対等であるはずだ。一方が他方を必要としているならば、顧客は天におわす神様で、売主は地上に暮らす下賎な人間であると考える必要など些かもない。
そもそも、もし顧客を神様だと考えるのならば、神様から代金をとるとはどういう了見だ。
昔は大切な家畜の生贄さえ献上していたのが神様なのだから、神様に物を売って儲けようとは笑止千万という他ない。

理想的には、「お客様は神様」であるような商売は即刻撤退すべきなのだ。
そこには真の需要、社会の要請がないと考えてよい。
顧客にとってそもそも必要がないものを、「買っていただいて、ありがたい。神様のような方だ」というのはあまりあるべき顧客と商売人の関係ではないだろう。なんじゃいその卑屈さは。
この卑屈さの裏返しが、たまに居酒屋で見かける、お店の従業員に対する横暴な態度だ。それも理の当然で、自分が商売人であるとき「お客様は神様」と思っている者が、ひとたび「お客様」になれば、自分は「神様」になれるわけで、そこで謙虚に振舞う必要などないと考えるだろう。

「これがなければあの人の生活は立ち行かない」
「これがあればあの会社はもっと効率的な調達ができる」
「この車があればあの人の週末はもっともっと愉しくなる」

そういう思いがあるから、商売人は顧客に向かってこれを買いませんか?と提案するのだ。ここにおいて、商売人と顧客の立場に天地の差などあるはずがない。

ふと思いついたのだが、消費者しか存在しなくなったこの国のデフレに、この「お客様は神様です」が与えた影響というのはないだろうか。
上に述べたように顧客が神様ならば、そもそもお供え物を献上すべきだ。だが、それでは利益が出ないから、スーパーも巨大モールも居酒屋もなにもかもが値切り値切り値切りの経済戦争を戦っている。そのとき、いつも聞かされる大儀名文は「お客様のために」なのだ。卸売業者や生産者のことなど無視である。
だが、考えてみて欲しい。
スーパーで100円の秋刀魚を買う「お客様」は、秋刀魚漁師かもしれないではないか。
ありふれた言い方だが、我々は、消費者としてのみ生きてはいない。我々は有閑階級の暇なマダムではないのだ。我々は戦闘者であり、経済人=生産者である。消費するだけの人間なぞ一人もいない。

俺は、どうしても「お客様は神様です」と、「お客様のために」という正当化によって国民皆が貧乏になりつつあるこの長期化したデフレ経済を、関連付けて考えざるを得ないように思う。
我々は、もっと自分が”傲慢”になれる仕事を作り出すべきだ。
という俺は作り出していないのだが。
”傲慢”になるためには、逆立ちして1500m走るほどの努力が必要だが、卑屈になって「お客様は神様だ」などというより遥かにましだ。
世には、この時代でも、高いけれども売れているものがある。三洋電機が開発した、「GOPAN」(http://jp.sanyo.com/gopan/)などは、5万円の米パン焼き機だが、注文に生産が追いつかず11月で予約を停止してしまっている。俺も買いたいのに。

ニーチェの名言。

「人が、私(ニーチェ)の本を手にとることは、その人の自分自身に対する一つの最大の敬意の表明である」

これぐらいの気概を持って商売をしたい。そのためには皆と違うことをリスクをとってやらねばならん。