2013年10月13日日曜日

雑記、本当に雑な記

100円均一ショップという業態が世に現れてから久しい。なぜ1000円均一や10000円均一の店は登場しないのだろうか。いや、しているかもしれぬが、少なくとも大衆の耳目に触れるような形では現在存在していない。

仮説①:日用品や小物類を含めて、100円近傍で販売可能な商品は多々あるが(実際品揃えには驚かされる)、単価がその10倍、100倍となると商品数が少なり、「均一ショップ」が対象に出来る市場が極端に小さくなるため。

仮説②:そもそも『100均』という業態は、「なんでも100円で買える」という謳い文句でもって客にアピールしているのであって、現在の物価においてそれが1000円や10000円になれば消費者への訴求力は減少するため。つまり、「100円」という価格に絶対的な重要性がある。

仮説③:安価な商品であれば、より高価な商品に比べて海外への生産工程のアウトソースが容易であり、減価低減が図りやすく、より確実。三菱自動車がインドネシアで車を生産する時代に何を?と言われるかもしれぬが、例えば1000円のTシャツをバングラデシュで製造することと、100万円の自動車をバングラデシュで製造することを考慮すれば、Tシャツという安価な製品のほうがより安い労働力を使いやすいということは明らかだ。


②が正しいとすれば、我々消費者は、「150円のタワシと50円のペンを買うよりも、100円のタワシと100円のペンを買うほうがいい」と考えているということになる。
また、②からは、インフレの時代には、100円均一ショップという業態が存在しがたくなるということが分かる。例えばブラジルのように金利が10%以上もあるような国では、今日の100円の価値の商品の価額は1年後には110円になっているのであり、1年毎に「100円ショップ」は「110円ショップ」になり、「121円ショップ」になっていかないといけない。デフレの時代にこの業態が誕生したのは、自然なことだ。
①の仮説からも、同じことが言えるだろう。
しかし、「なぜ1000円均一ショップがないのか?」の説明にはなっていない。「均一ショップがなぜこの20年で急成長したのか」の説明にはなっているけど。

③については言ってはみたものの、あまり確信なし。もう少し研究が必要と認む。


なんなんだろう、この無意味な考察は。


ふと窓の外を見ると、道路の向こうにセブンイレブンがある。
夜通し煌々t電気を付けてても無駄だよねぇ。ここ(横浜市)だからまだいいけど、田舎の夜中なんて人は来ないところも多いだろう。
ところで、ブルーカラーの仕事をしている人たちも真面目に夜勤の導入を検討するべきだと俺は思う。
俺のように欧米の市場が相手という人は、オフィスを出てからも電話だのメールだのに追われているはずだ。それなら、あっちが寝ている間(つまりこっちの朝ー昼)はこっちも寝て、ロンドンが開く夕方から仕事をすればいいのだ。そんな仕事ではなくても、例えば「真夏は夜のほうがはかどる」という人はいくらでもいるはずだ。例えば16時から12時まで勤務するとかね。
そうすれば、少しでも朝夕のあのクレイジーな満員電車は少なくなるだろうし、昼間に使う電気量も減る。昼と夜の電力需要の高低によって、過大な設備容量が必要となっているがこれも少しは減る。
なんというのかなー。いまの日本社会(日本だけじゃないが)の組織の在り方って、江戸時代が終わってから全国民をひとまとめにして頑張って「国民」を作り上げたあの150年前の時代からメンタリティとしては全く変わっちゃおらん。戦争を皆でやって負けて、そのあとは皆で商売をしたということであって、生活スタイルも何もかも、休暇までみーんな一緒だ(なんでこんなに祝日ばっかり必要なんだろう)。
皆で一緒に。仲良く皆で。
そういうMind-setに25年前から明確な嫌悪の情を抱き続けてきた。
はっきり言っておくが、キャンプとドライブは一人で行くもんである。それが最も素晴らしいものだ。


さっき妻が娘に、「優ちゃん、そんなことだれもしてないよ。やめなさい。」と注意していた。
これ、間違いである。
誰もしていないからダメなのではなく、会津十戒が言うように、「ダメなものはダメ」なのである。
善悪というものが断固としてあるということを教えてやって、その善悪をそれでも乗り越えようという意思を持つ人間に育ってもらいたいのである。おぉ、なんかニーチェっぽいな。
教育者(そんな存在がまだあり得るとして)一番やってはいかんことは、教育を受けるほうに対して自分以外の者の言動や自分以外のものの権威を持ち出して話すことだ。それは簡単で安易なやり方なのだが、すぐさま自分の教育者としての立場はなくなるだろう。あの戦争の時代に、天皇陛下の権威が神のごときに高められたのは、国家権力の幹部達が、維新の元勲たちのような権威をもはや失ったがために、天皇陛下の権威にすがったからではないかと俺は思う。
だからこそ(?)、俺の親父は、俺がドラゴンボールをテレビで見ているときに帰宅して、何も言わずにNHKのニュースにチャンネルを変えて、「なんでそんなことするん?」と尋ねる幼い俺に対して「7時からはNHKのニュースを見るもんじゃ」と意味不明な理屈を述べたのだろう。あれは、親父自身の、他の誰もものでもない、断固たる意見の表明だった。
親は子供に嫌われることを恐れてはいけない。少なくとも、親父がそれを回避しようとしたら、子どもはフニャフニャ人間になってしまうだろう。あの時俺の要求を受け入れてドラゴンボールを見させてはくれなかった親父に、俺が今少し感謝しているというのは、俺が31歳になったからなのか、それとも人間らしくなってきた娘を持ったからなのか知らん。

冗長過ぎだな。
夜風が気持ちいいもんだから。
宝塚でも下賀茂でも、こうやって誰も目にもとまらぬ文章を朝4時まで本を何冊も開いては書いたもんです。
明日は休み、明後日も休み。
だが誰かに与えられた休みを喜ぶようでは俺は奴隷だ。
休みだからと休んでいるうちは、イチローにはなれぬ。
明日何をするか。明後日何をするか。
どうせ死んだら死ぬほど休めるんである。